涯を鎮む 10











 通り抜ける一瞬だけ、ぞわりと総毛だった。
 異質な空間に入り込んだのだと意識する。
 そこに降り立った途端、イルカはカカシの腕の中から擦り抜ける。
 自らの足で、立っていた。
 一人で立つイルカの後ろ姿を見つめるカカシは、知らずかすかに体が震えていた。
 イルカが一人で立っているということは、普通に考えれば意識が戻ったと考えていいのかもしれないが、この空間に通り抜ける時のイルカは尋常ではなかった。確かに体は動いたが開かれた目はまるで硝子玉。何もそこには映っていないかのようだった。
 声をかけるのもためらわれ、カカシとナルト、サスケ、サクラはイルカの後ろ姿を見つめていた。
 イルカの前には黒くごつごつとした幹を持つ大きな木。大人が数人がかりで手を広げてその周囲を囲むことができるくらいの太さだ。
 この暗い場所に存在するのはこの木だけ。こんもりと広がる枝葉は真っ黒で、ふと上空を見上げれば煙が。煙が吸い込まれているではないか。
 ごくりと喉が鳴る。
 この幻術めいた空間とあちら側はつながっているということか。
 カカシはあれを里から追いかけてきた。その辿り着く先がここだというのか。人々の祈りを飲み込んで、ここで鎮められるというのだろうか。
「イルカ先生!」
 ナルトの声にカカシは慌てて正面を向く。
 イルカが、歩き出していた。真っ直ぐ、木に向かって。
 ナルトはイルカを捕まえようとするが、カカシはなぜかそれを制す。イルカを進ませないといけないと、直感めいた気持ちで思った。
 進まないと。立ち止まっていては、何も解決しない。
「カカシ先生、離せよ。イルカ先生が……!」
「いいから、黙ってろ」
 カカシが後ろから羽交い締めにすると、ナルトは渋々だが大人しくなる。サスケとサクラも固唾をのんで見守っていた。
 4人の目の前でイルカは何かをさぐるようにゆっくりと木の周囲をぐるりと回り、ある地点でぴたりと止まる。丁度4人からイルカの横顔が見える位置だった。
 背筋を真っ直ぐに伸ばして木と向き合う。
 イルカの両手が動く。何かをすくい取るように下から手のひらを木に向けると、そこに集約されていくものがある。
 木から流れ出る煙が、イルカの手の中に集まってそして渦を巻く。木の輪郭は崩れ、黒い炎のように揺らめく。
 イルカはそっと口を開けた。
 そこに吸い込まれていく煙。手のひらからイルカの中にとりこまれていく。正体不明のものがイルカを浸食する。さすがにその光景にはカカシもおののく。ナルトを引き留めている腕に力がこもってしまう。
 カカシの片方の写輪眼にはイルカの中に取り込まれていく煙から何も読み取ることはできない。カカシは傍らのサスケに声をかけた。
「サスケ、何か見えるか?」
「何も。けど、禍々しくもない」
 見るからに不安を駆り立てるものだというのに、サスケはそうではないという。カカシより性能のいい生粋のうちはの一族の目がそういうのだからイルカに悪いことはおこらないと、そう信じたい気持ちを信じて、カカシは微動だにせずに見守った。
 イルカの中に途切れることなく入っていく煙。木の輪郭は目に見える速度で薄れていき、それが全く形をなさなくなった時、黒い煙はすべてイルカの中におさまった。
 木があった場所にはただ、闇ばかり。
 イルカは膝をつく。そのままゆっくりと、くずおれた。背を丸めて、咳き込んだ時、イルカは激しく吐血していた。
「イルカ先生!」
 誰よりも先に飛び出したのはカカシだった。
 イルカを抱えた。青白い顔。口元がけが生々しく赤く汚れた顔に必至に声をかれば、ぱちりとイルカの目が開いたではないか。
 カカシは咄嗟に言葉もでない。
 この半年の間どんなに声をかけても願っても目覚めなかったイルカが、あっさりと目を開けて、しかもその黒い目は真っ直ぐにカカシのことを射抜き、意志を持って睨み付けているではないか。
 口が喘ぐように動く。
 何か言おうとしているが声帯が思うように動かないのか苦しげな呼気しか届かない。カカシは耳をイルカの汚れた口元に当てた。
 血生臭いが、柔らかな息がかかる。どんな言葉が紡がれるのかとカカシの心臓は急に速度を増す。
「ぉ……そ……――」
 イルカの声をとらえようと懸命だったからカカシは気付かなかった。ゆっくりと持ち上がったイルカの手に。カカシの横面を叩いたのは、まぎれもなくイルカの手のひら。
「お、そ、いっ……! あんた、思い出すの、遅いんだよっ。なま、え、名前だけで――!」
 喉の奥に引っかかるものがあったのかイルカの声が詰まる。
 カカシは呆然と腕の中のイルカに目を奪われていた。
 人形だったイルカが、カカシを叩いて、口をきいた。
 涙目になったイルカはそのまま震える両手をカカシに伸ばした。
 カカシの耳元で、イルカはかすかな声で呟いた。



 名前を呼べ、と。


 それだけで。それだけが……。










     

 今夜もまた月が美しい。
 思い起こしてみれば慰霊祭が営まれる10月10日はあまり天気が悪くなることはない。イルカが覚えている限りにおいても、どしゃぶりになったとか、そんなことはなかった。
 それもひとつの天の配慮なのかもしれないと、流れゆく煙を目で追いながら考えた。
「イルカ先生は、果てに向かっていくことを知っていたんですね」
 隣に並んだのはカカシ。二人で柵にもたれかかる。火影岩を臨めるテラスから煙の行方を追う。
 1年前に目を覚ましたイルカはその後結局は長期入院するはめになった。
 カカシの腕の中で大きくむせたイルカは血のかたまりを吐き出して気絶したのだ。サクラが応急処置を施し急いで里に戻っての治療。イルカの胃はその体の中からほとんど消失していた。
 1年の間植物人間のようだったのだから体のリハビリをしなければならないことはもちろんだが、それ以上にイルカの体は蝕まれていたのだ。呪い、とやらに。
「その後、体の調子はどうですか?」
 イルカが忍医から通院もしなくていいと申し渡されたのはわずか数日前。食事も普通に摂っていいと許可がおりた。
「そうですね。前線に出ることはもう無理だと言われましたが、それ以外はいたって普通です。逆に以前より健康になったかもしれません」
 イルカは屈託なく笑う。カカシはよかったと頷くが、沈黙が降りる。
 カカシが何か言いたいのだと察して、イルカはじっと見つめたまま待った。
 しばしの間を空けて、観念したようにカカシは喋りだした。
「俺、結局、イルカ先生との記憶思い出せません。残念なことに」
 肩を竦めたカカシ。口調は軽いが落胆している様子はうかがえた。やはりそのことか、とイルカはほっと息をついた。
「カカシ先生が思い出せないのはカカシ先生のせいではないですよ」
 カカシがずっと悩んでいたのは知っていた。任務の合間をぬって見舞いに来てくれるとき、カカシは過去の話を一切しなかった。できなかった。ただ、何故火影の呪いを解くなんてことを考えたのか、それは聞いてきた。ナルトの為に、と口にすれば、至極納得したのか、イルカ先生らしいと、頷いてくれた。
 イルカはカカシに伝えなければならないことがあったが、この日まで待った。始まったこの日に、伝えたかった。
「そもそも、俺が火影になったのは、呪いを浄化したかったからだって言いましたよね。俺がその器でないことは承知でしたが、呪いは火影という立場に憑いてしまうものだから俺は火影になりました。俺の体の中で呪いを鎮める為に1年間、飼ったんです。飼うってことは変な言い方ですがエサがいります。呪いに差しだしたのは、カカシ先生です。あなたとの思い出です。だから俺の中も、からっぽです。あなたとの思い出は何もありません」
 カカシが目を見張る。
「最初から、カカシ先生が俺との思い出を思い出すことは絶対になかったんです。だからただ名前だけなんです。それだけで……」
 実際イルカは目覚めた当初、カカシの名前を思い出せなかった。教えられて知った名前。だがその名を呼んだとき、胸が熱くなった。
 イルカは急にカカシに手を引かれた。その胸の中に抱きしめられる。知らないけれど知っているぬくもりに、胸が高鳴る。何度でも高鳴る。
「ひどいなあイルカ先生。俺との思い出がエサなの?」
「エサで悪ければ食料ならいかがでしょう?」
「そうだね、そのほうがいいかな」
 カカシの腕に力がこもる。
 その力強さに心地良いものを感じることをイルカはどこかひとごとのように不思議に感じていた。自分と同じ30男の体。普通なら抱きしめられるなど承知できることではない。イルカより数段優れた上忍で、左目には移植された写輪眼を持つ。卒業後のナルトたちの担当教官でもあった忍。そのつながりでカカシとイルカは知り合ったとナルトから聞いた。そこから沸き上がる思い出はないのだが、抱きしめられることに嫌悪が湧かないことに記憶を感じたい。
 愛しい存在だったのだと。記憶の迷路のどこかにいる思い出の愛しい人だと。
「五代目が言ってましたけど、呪いは愛しい者を差しだせって言って、だからイルカ先生は俺にしたって。それは本当?」
「だから、カカシ先生。それは」
「そっか、覚えていないんだっけ」
 うーんと唸っていたカカシだが、イルカの両肩を掴むと正面から向かいあった。カカシは片目を細めて目尻に皺を寄せて優しく笑った。
「俺たちのこと知っている奴ら、みんな口をそろえて言いますよ。俺たち仲良かったって。もっと知っている奴らは、俺たち恋人同士だったって」
 ブランクはあったみたいですけどね、とカカシは口布を下ろした。
「俺たちが思い出せないなら、回りの言葉を信じればいいと思うんです。付き合ってたうんぬんは置いておいても、俺たちが仲良かったってことは誰も否定しない。だから、そうなんですよ。それでいいと思いませんか」
 カカシの指先はけっしてすべらかではないはずのイルカの頬を繊細な仕草で何度も往復する。そっと近づいた唇はイルカの口の端に触れた。
「もしもイルカ先生が愛しい人間じゃなかったのなら俺はこんなふうに触れたいと思うかな」
 笑いながらカカシは深く口づけてきた。貪るような、奪い尽くすような熱さで。イルカは思わずカカシの忍服にすがりつく。
「イルカ先生が、眠っている間、俺ね……っ、あんたに触れて、あそこ、しゃぶったりしちゃったんだよね。すっげぇ、興奮した」
 キスの合間にカカシはかすれた声で囁く。ヘンタイ、とイルカは小さく告げるが、カカシの低い声に背筋はぞくぞくとなる。宣言するように言われなくても、もしも愛しい人間でなければ、同性にこんなことをされれば死にものぐるいで抵抗する。
「カカシ、先生、俺も、そう、思います。あなたでなければ、こんなこと」
 カカシの不埒な手はイルカの下肢を布地の上からさする。イルカの喉からは吐息が漏れる。
「ねえ、俺これでもずっと我慢してたんだよ……」
「イールカ先生ー! カーカシ先生ー!」
 いきなり降ってきたのは元気いっぱいのナルトの声。その瞬間甘い空気は霧散して、イルカもカカシも反発する磁石のように体を離していた。
「快気祝い快気祝い〜」
 ナルトはスーパーのビニール袋を両手に持ってテラスに顔を出した。その後ろからサスケとサクラも続く。
「今日は朝まで飲むぞー」
 ナルトは二人の空気に気付かずにはしゃいでいるが、なんとなく、サスケとサクラは視線を逸らしているのが気になった。
 だが思い切って声を出そうとしたイルカよりも先にカカシが準備するナルトに近づき力をこめてナルトの髪をかき乱した。
「ナ〜ル〜ト〜。お前はいい加減親離れしないとな〜」
「なんだよなんだってばよ! 俺はイルカ先生から離れないってばよ!」
 カカシが親と言った一言で、ナルトはイルカの名を口にした。そんな簡単なことで、イルカの心は温かくなる。
 カカシとのことは思い出せないが、ナルトの為にイルカは呪いを鎮めたかったのだから。
 きっとこの先イルカが自分の子を持つことはない。だからイルカにとってナルトは未来だ。子供だ。
 そのナルトの未来の為に、勝ち取ったもの。
 カカシに賭けた時の気持ちをイルカはもう思い出すことはできない。だがナルトの未来に繋がることを、信じられない人間に託すわけがない。それだけでも、イルカにとってのカカシの重要性がわかる。
 思い出がなくとも、愛しい気持ちはこの体の中にこそ刻まれている。
 今、火影は五代目が再任している。六代目は空位となり、おそらくその先はナルトが継ぐことだろう。
 その時には誰よりも幸あれと、願う。




 

 





←:◇番外
 
読み物 TOP