涯を鎮む 9











 “イルカ先生”と自然に呼んでいた。今までとは違う。なんて馴染みのあるものなのかと心がじんわりと熱くなる。
「カカシ先生……。思い出したのか?」
 ナルトがおそるおそるかけてきた声。だが今何か応えたら掴めそうなものが一気に遠のいてしまいそうで、カカシは無言でその場を飛ぶ。
 イルカを置いてきた木を目指す。
 後方から、三人が追い駆けてきている。大木の元に辿りつくと、カカシは駆け上る。
 幹にもたれて、イルカは変わらず目を閉じていた。
 膝を折ったカカシは火影の執務室を出る前に着せた四代目のマントを脱がして、里の支給服のままのイルカと向かいあう。
「イルカ先生」
 小さく、かすかな声で呼びかける。
 見つめたまま、じっと待つ。少しでも溢れ出すものはないか。思い出と呼べるものが、記憶が、よみがえってこないかを。
 しんと沈めた心の中。感じるのは己の心臓の音。とくんとくんとゆるやかに刻んでいる。
「イルカ先生」
 どんなに待っても浮かんでこない記憶。
 この半年の間、カカシはただひたすらに待っているだけだった。
 だから、今は意識して思い返してみる。
 実感が伴うわけではないが、きっとカカシはイルカに言われて煙草をやめたのだろう。カカシの左目が痛んだときに、子供にするように痛いの痛いの飛んでいけ、なんて呪文を唱えたのもイルカだ。絶対にイルカだ。そしてイルカの肌に触れた時に馴染みのある感じがしたのは、それはようするに……。
 そうか、と。
 とっくに分かりきっていたことにあらためて頷いた。
 春からずっとイルカの面倒を看てきた。誰に強制されたわけでもない。自分がイルカの面倒を看たいから、看てきた。
 火影代行としてそれなりに忙しい日々。イルカの面倒はサクラはもとより医療班が看るのだから、カカシが忙しい合間をぬって看てやる必要なんてない。もともとカカシはそんなにまめな人間ではないのだ。友人、恋人、大切な人間ならいくらでも気にかけるが、なんの関わりもない人間に対して、深く関わろうとは思わない。
 それが、イルカのことはずっとそばに置きたかった。手の届く場所でその存在を感じたかった。
 サスケの言った通りだ。思い出せなくて、焦って、苛立って、けれどそれ以外の道を模索していなかった。
 どうして思い出すことばかりにこだわっていたのだろう。
 思い出なんて、記憶なんて、戻らなくても、わかる。
 ここにいるのは、イルカだ。
 それがわかれば、それだけでいい。失ったものを悔やんでも仕方がない。イルカは死んでしまったわけではない。眠ってはいるが間違いなく生きているのだから。だからいくらでもやり直せるし、取り戻せる。思い出や記憶なんてそんなもの、また新しく築いていけばそれでいい。
 そう心から思えたから、カカシは体の奥から深く息をついて、イルカに手を伸ばした。
 なんて清々しい。体の中に凝り固まっていたものがすべて吐き出されたような気持ちだ。
 口元が、どうしてもゆるむ。
「イルカ先生」
 大切な人間を取り戻したと、そう思える。
「俺、あんたのこと、思い出してないけど、でも、あんたがわかるよ。あんたなんだよ。俺の記憶は、あんただ。俺の中には、イルカ先生がいるよ」
 抱き寄せて、耳元で囁く。
「ね、だからさ、もう起きなよ。イルカ先生……」
 イルカの耳の奥、脳に刻むような声で、囁いた。







 数秒はそうしていただろうか。
 そのかすかな音が届いた時は気のせいだと思った。
 だが間違いなく抱きしめたイルカから発せられた音に、慌ててイルカの身を離す。
 人形だったイルカ。
 そのくちびるが、細い隙間を開けている。
「イルカ先生!」
 カカシは思わず声をあげた。
 その声に反応した三人が木の上に駆け上がってくる。
 四人が見守る中で、イルカは呼気のような、声にはならない音を発した。
「!」
 忍者としての耳が、とらえる。皆で顔を見合わせる。
「先に、進めって、言ったよな……?」
「ああ。ここじゃあない」
「カカシ先生、行きましょう!」
 三人にせかされるまでもない。カカシはイルカを抱きかかえると、立ち上がる。四代目のマントは、ナルトに渡した。
「これはナルトが持っててくれ」
 懐かしい人の面影を濃く宿し始めた教え子はたのもしく頷いた。その姿にカカシはそう言えばと思い出す。
「ナルト、お前の夢は変わってないか?」
 カカシの問いかけに、ナルトは一瞬のためらいもなく片方の拳をかかげた。
「あったり前だってばよ。俺の夢は火影だかんな。火影になって火影を越す! 絶対そうなる。イルカ先生とも、約束したってばよ!」
「そうか。そうだな……」
 ゆるぎないナルトの言葉を聞いて、カカシは久しぶりにとても優しい気持ちで笑むことができた。両目を細めて、ナルトを見つめる。
「じゃあナルトが火影になった時には俺とイルカ先生の老後、まとめて面倒看てくれな」
 ナルトは目を見開いて、なぜかくしゃりと顔を歪ませて、大きく頷いた。








 山裾から、更に深く山の中に分け入る。
 逸る気持ちを抑えて、人が踏み入れないような獣道をひた走る。奥に進めば進むほど昼のはずなのに視界は暗くなる。いったいどこまで進めばいいのかと、目的地の定かでない前進に不安はあるが、辿り着く場所を信じて目指すしかない。
 道なき道をの先には何があるのだろう。
 腕の中のイルカは今はまたぴたりと口を閉ざし、人形に戻ってしまった。だがこころなしイルカの鼓動が強くなってきたような気がするのだ。生きているのか死んでいるのかわからない、生命活動を停止させたと錯覚させるようなそれではなく、体中に力強く血液を循環させるような鼓動。早合点は禁物だが、明るい予感にどうしてもカカシは期待してしまう。
 きっとこれで終わらせられると。イルカを取り戻せると。
「カカシ先生、待って」
 後方にいたサクラに呼び止められる。その声に三人は足を止めてサクラがいる位置まで戻ってきた。
「サクラちゃん、どうかしたのか?」
「うん。多分、ここよ」
 サクラは自分の背の高さほどで上部をなぎ倒された太い木のうろのところで印を結んだ。
 解! と鋭く命じれば、何の変哲もないうろが見る間に木の一面いっぱいに大きく広がり人一人通れるくらいの大きさになる。それは硝子のように透明だった。向こう側には闇色の空間がある。目をこらせば、大木が見える。暗闇の中に、ぽつんと木が立っている。
「これは、幻術なのか……?」
 用心しつつサスケは面に手をあてる。だが手を押し出すことができない。こちら側とあちら側は断絶されている。
「サスケくん、ちょっと、どいてくれるかな」
 サクラは両手の手首を何回かまわしたあと、深呼吸を数回繰り返し、かっと目を見開き、重い拳を面に打ちつけた。
 サクラの打ちつけたところから亀裂が走るはずだが、音もしなかった。まるで弾力のあるものに当たったようにぐにゃりとたわむ。
 サクラの拳を中心にして蛇行する線がじわりじわりと進むのだが、そこから面を破ることができない。サクラは仕方なしに拳を引いた。
「サクラ、今度は俺がやってみる」
「待ってサスケくん。違うの、チャクラの問題じゃないの。この幻術を解くには……」
 サクラが答えを告げるよりも先に、伸ばされてきた手。
 カカシの腕の中にいるイルカが、目を開けていた。両手の平を木のうろだった面にかかげる。操り人形のようにぎこちなく伸びた手。イルカの手は、体は何の障害もなく面の中に吸い込まれていく。
 驚いている間もなかった。
 イルカを抱えたカカシ、続いて三人も中に吸い込まれていった。





 

 

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