涯を鎮む 6











「サスケは?」
「この間、中忍試験の巻物奪還の試験管やらされた時だ」
「サクラちゃんは?」
「あたしはも最近アカデミーに用があって行ったとき、久しぶりに教室に行って、その時」
「そういうお前はどうなんだ?」
「俺は、春に長い任務があって、火の国の大名のとこで護衛してたんだけどさ、そこで知り合ったガキの鼻のとこに傷があって、『イルカ先生みたいだってばよ』って思った時かな」
「春? すごいわナルト。さすがね。きっと一番にイルカ先生のこと思い出したんじゃない? あたしなんてずっとお世話してたのに、なっさけないなー」
 サクラはしゅんと項垂れる。
 季節は秋。9月も半ばになろうかという。リミットの10月10日までひと月を切ろうとしていた。
 ナルト、サスケ、サクラの3人はアカデミーに付属する施設のテラスで横並びで座っていた。初めてカカシに会ったあの日にここでカカシを前に自己紹介と将来の夢を語った。あれからさまざまなことがあった。変わったことがある。変わらないものもある。イルカはその中でも変わらない場所で変わらない笑顔で迎えてくれるものだと頭から信じて疑っていなかった。
 イルカのことを知っていた里の人間は、今では皆イルカの存在を思い出している。眠りについたままの六代目火影がうみのイルカだと認識している。
 一人、カカシを抜かして。
 カカシはまだイルカを思い出していない。なのに、イルカをそばに置いて、愛しい者を見る時の優しい目をして、見つめている。
「なあ、カカシ先生ってば、本当はイルカ先生のこと思い出しているんだけど、思い出していないフリしているだけなんじゃないのかなー」
「なんの為に?」
「いや、なんとなく……」
「ウスラトンカチ」
「サスケェ〜!」
 久しぶりに聞いた言葉にナルトの頭は沸騰するが、そこをすかさずサクラの拳骨がコンクリを叩く。たたき付けた場所から放射状にはいった亀裂にナルトはすごすごと引き下がった。
「喧嘩している場合じゃないでしょ。カカシ先生に思い出してもらわないと、イルカ先生……」
 そこから先は言葉にできない。
 火影の呪いを解く為の賭けに負けたのなら、イルカはどうなってしまうのだろう……。
「ああもうっ! ここで俺たちが話してたって始まらないってばよっ。俺、行って来る!」
 勢いよく起きあがったナルトに続いてサスケも立ち上がった。
「そうだな。俺たちが話してても始まらねえしな」
「……そうね」
 二人から数歩遅れてついてくるサクラに、ナルトとサスケは立ち止まる。
「どうしたってばよサクラちゃん」
「行くぞサクラ」
 二人の間にはサクラの為の空間。そこが空いていることが、空けてもらえることがどんなにサクラにとって幸せなことか、きっと二人はわかっていないのだろう。
 サクラは大きく頷いてそこに飛び込んだ。







「で、イルカ先生の好物は一楽のみそラーメンなんだよな」
「なんだよカカシ先生、思い出したのか?」
「ば〜か。覚えたんだよ。お前がしつこいから。だからこれは知識。思い出じゃないよ」
 カカシは一楽から出前で頼んだみそラーメンをすすりつつ気のない返事を返してきた。
 勢い込んでアカデミーの食堂に乗り込んできたナルトの肩が落ちる。サスケとサクラは予想していたのか軽く肩を竦めただけだった。
 カカシはいたって平然と日常をこなしているのだが、あまりの焦りのなさに三人は、特にナルトは気が気ではない。
 ナルトは思い出してからは暇さえあればカカシの元を訪れてイルカの話を聞かせてきた。それをいつもカカシは人ごとのように聞く。
「カカシ先生、みんなイルカ先生のこと思い出しているんですよ? どうしてカカシ先生だけ思い出さないんですか」
「どうしてって言われてもさ〜、思い出せないものは思い出せないんだから仕方ないでしょ。サクラだって六代目の世話していた時は全然思い出さなかったんだろ?」
「それはそうですけど……」
「だいたいさ、俺が思い出したとして、それで六代目は目を覚ますわけ? 呪いが解けるのか? どうやって?」
「あたしに聞かれても、困ります」
「だろ? 俺だって思い出せって言われても困るよ」
 カカシはドンブリからつゆをすすると席を立った。
「どこ行くんだよカカシ先生」
「明日火の国の大名の接待があ〜るの。ご意見番たちとその打ち合わせ」
「ちょっと待てよカカシ先生!」
 廊下に出たカカシをナルトが追う。カカシは振り向きもせずに行ってしまおうとする。
 ナルトはイルカのことを思い出してから、何度も何度もカカシに話してきた。二人がどうやって知り合って、どれくらい親しかったかを。ナルトの知る限りを伝えてきた。それをいつの間にかカカシは覚えた。
 知識として……。
 そこには胸の底から沸き上がる感情はない。
 ナルトはぎりぎりと歯を食いしばる。去っていく猫背の背からは感情が読み取れずに、悔しくて、拳を耐えるように握って声を張り上げていた。
「カカシ先生とイルカ先生恋人同士だったんじゃねーのかよっ!」
 その声に止まったのはカカシだけではなかった。
 ナルトを追って戸口に佇んでいたサスケもサクラも、廊下を行き来していた数人のアカデミー職員も、生徒たちも、止まった。
 そこに流れていた時自体が止まったのかもしれない。







「こいびとどうし、だ〜って。まさかあいつの口からそんな言葉を聞く日がくるとはねえ」
 カカシのくぐもった笑いは水音に紛れる。
「で、続きが傑作。ナルトの奴泣きそうな顔してたからついからかいたくなって、近づいて聞いてみたんですよ。恋人なら体の関係はあったのかって。ま、それで俺のおっとこ前な顔がこの通り。殴ったのはサスケですけどね」
 カカシは少し腫れた左の頬をさする。
 さすると泡がしみる。濡れる。そこでカカシは憑かれたように喋り続けていた自分にやっと気づいた。
 ご意見番との打ち合わせは夕刻まで続いた。きちんと集中していたはずだが、さすがにご意見番は年の功とでも言うのか、帰る間際カカシに休養はとっているのかと尋ねてきた。
 馬鹿なことを。火影に休養なんてものはない。心静かにいられる時間が休養だというのならそんな日はもうずっとカカシにはない。
 暗がりのバスルーム。
 イルカのことを恭しく湯船に座らせて、頭上からシャワーを注ぐ、まるで人形遊びのようにカカシはイルカの体を洗っていた。イルカのことを世話をするようになってから自宅の風呂場に大の男を座らせて足を伸ばせることができるくらいのバスタブを据えた。イルカには必要のないことだが、カカシは気が向くとイルカを運んで体に触れていた。
「髪、伸びましたね」
 イルカの質感のあるゆったりとした黒髪。背の半分ほどを覆う。それを梳いて口に含んでみる。
 イルカの体はなぜ甘いのか。その理由。イルカが恋人? そんなことはきっとナルトに聞かされるまでもなかった。
 カカシはシャツをはおったまま濡れることも厭わずに、イルカの背に体を滑り込ませて共に湯船に浸かるとぎゅっと抱きしめた。もしもイルカに意識があったのなら痛いと言ってもおかしくない力をこめて。
「俺さ、ヘンタイかよ、って実は少し心配だったんだよね。意識のないあんた相手に毎日むらむらしちゃって、あんたの体に触れるとすげえ気持ちよくてさ……」
 カカシの手は自然な動きでイルカの局部に向かう。今まで何度触れても反応を返さない場所。柔らかく柔らかく揉んで、そうするとカカシはまるで自分の体をいじっているように快感がゆるく体の隅々に広がるのだ。
「……っ、イルカ…」
 窮屈なズボンから下肢を取り出す。イルカの尻の間に固くなった己をあてがい、欲に逆らわずに放つ。
 くらりとくるほどの一瞬の酩酊。次に訪れる虚しさ……。
 イルカの下肢に舌をはわしてみた時も同じだった。馬鹿な、止めろ、と制止する気持ちを振り切り口に含んでみたら、馬鹿じゃないかと思うくらいに胸が高鳴った。けれど口が疲れるくらいに奉仕しても、イルカは何も返してくれなかった。
 カカシはイルカの濡れた髪に顔を埋めて嗚咽を殺す。
「つまんないよ、イルカ先生……」
 カカシは現実から目をそむけるようにきつく目を閉じる。
「俺には、あんたとの思い出、一個もないよ」







 カカシがどんなに思い出したいと願っても、心の底から希求していても、欠片も思い出が湧かないまま、じりじりと日は過ぎて、気づけば10月10日まであと数日という日になった。
 風の強い日だった。
 雲が引きちぎられるように空を飛んでいく。陽光は力無く注ぐ。
 カカシは屋上に出て、火影岩をじっと見ていた。
 初代から五代目ツナデまでが刻まれた里の歴史。だがここにイルカの顔が刻まれることはきっとないだろう。
「カカシ」
 後ろから近づいてきたツナデが隣に並んだ。
「慰霊祭が終わって、それでもイルカが目を覚まさなければ、術を解くよ」
「目を覚まさなければじゃなくて、俺が思い出さなければ、ですよね」
「思い出すのかい?」
「い〜え。多分思い出さないでしょうね」
 カカシは風になぶられて視界を塞ぐ銀の髪を片手でおさえた。そういえばカカシの髪も随分伸びた。現場を飛び回っていた頃は爆発したような髪をしていたが、今は大人しく肩につくくらいの長さにおさまっている。
「ツナデ様、どうして六代目は俺を選んだんですかね」
 今回の事の顛末はすでにツナデから聞いていた。
 初代から続く火影に対する呪いを解く為にイルカは呪いと契約を交わした、と。
 眠るイルカはその体の中に呪いをおさえこんでいると。
「こう言っちゃあなんですが、一介の中忍に過ぎない六代目が、呪いを解くなんてこと自体がおこがましい。でも結局は俺に委ねてるんですからまあひとまかせみたいなもんですかね」
 ツナデはあまり多くを語らない。イルカのたくらみに乗るだけ乗ってどこか傍観者のような立場にいる。
「ツナデ様は、契約の時にその場にいたんですよね。どうして六代目を止めなかったんですか。寄りによって俺にする必要はなかったでしょう。俺とうみのイルカはその頃は恋人でもなんでもなくて、ただ昔付き合ってったってだけだったんでしょう」
「らしいな」
 ツナデに苦笑されて、カカシは脳天が焼けるような気分を瞬時にして味わった。
 手すりに、がん、と拳を打ちつけた。
「俺は! 確かにうみのイルカのことをまだ思い出せない。でも、あの男が愛しいんですよ。理由なんてわからないし、思い出なんてない。でも、イルカを、失いたくないんですよ、俺は……」
 あんな人形でも、日々愛しさは募る。触れて、語りかけて、もう手放せなくなっている。
「だったら思い出せ。あと数日あるだろう」
 カカシの激高をツナデは軽くいなして去ってしまおうとする。
「ツナデ様! 俺は、術を解くこと認めませんよ? なんなら、火影の代行として命令してもいい。このまま、六代目を生かせって」
「カカシ。どうしてイルカがお前にしたか教えてやろうか?」
 風に逆らうようにして、澄んだよく通るツナデの声が屋上に響く。ツナデは人を食ったような質の悪い笑みを浮かべていた。
「呪いがつきつけた条件さ。愛しい者を差し出せって言ったんだよ。だからイルカはお前にしたんだろ。文句あるかい?」
 ツナデの声があやまたずカカシの胸に飛びこむ。強い風に飛ばされることなく、カカシの胸を打ち抜いた。







 あっけないほどに訪れた10月10日。
 日が落ちて里は徐々に闇へと包まれる。気の早い連中が松明を灯して、里の通りは橙の帯で飾られはじめる。
 火影の執務室のイルカの寝所の窓からカカシはその光景を目に写していた。
 その腕には四代目火影の形見のマントを着せたイルカを抱いていた。
 彼のトレードマークだったらしい頭部のてっぺんで黒髪を結わえ、長さも整えた。カカシも久しぶりにきちんと忍服を着て忍としてのフル装備をした。
 もうすぐツナデが医療班を連れてここに来る。イルカを渡すことになる。
 カカシは横抱きにしたイルカの顔にそっと唇を寄せて、ちゅっと音をたてたキスを頬に落とした。
 じっと静かにイルカを見つめる。
 心の奥から溢れる温かなもの。これが愛しさでなければなんだと言うのだ。結局イルカの記憶を思い出せなかったが、何気ない日常に、ふとした瞬間にその断片は確かにちりばめられている。それは間違いなくカカシを包んでいる。
「ね。あんたのこと、手放せるわけないよね」
 もしここに他の人間がいたのなら、カカシの幸せに溢れた顔に目を見張ったことだろう。なんて満ち足りた、穏やかな顔だ、と。
 カカシはイルカを抱いたまま、火影の執務室を後にした。





 

 

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