涯を鎮む 5











 部屋の中から見える庭は照りつける熱にゆらゆらと陽炎を立ち上らせていた。
 その向こうにこんもりと繁る緑が網膜の奥に滲んでいく。
 暑気にあてられて久しぶりに寝込んだツナデは眠りから覚めると病床から半身を起こしてぼんやりと風景を目に写していた。
 あの日。
 木の葉病院のベッドで、若い姿を保つこともできなくなった衰弱したツナデの元にイルカはやって来た。





 火影に就任してわずか6年目のことだった。
 倒れた当初、ツナデは周りの心配を一笑に付し、過剰に気を遣う周囲を怒鳴りつけていた。医療忍術の第一人者である自分に対しての心配など十年どころではなく百年早い、と。
 しかしそんなことを言っていられたのは束の間だった。
 みるみるうちにやせ衰えて、ついには病床についてしまう。それでも病院のベッドから指示を与え、里の為に働いていたのだが。
 そんなツナデの元に、梅雨の曇天の空の下、イルカがやって来たのだ。
 ツナデの付き人であったシズネに案内されたイルカは病室の入り口で一度立ち止まってぐるりを見回した。大きめの個室のベッドのそばの壁一面には本棚が設えられ、さまざまな書物、おもに医療系が並べてあった。
 休むベッドには天蓋が設置され、その素顔を隠すようになっている。額にチャクラを集めることも叶わなくなった今、老いた本来の姿をさらすことになる。そのことをツナデよりもシズネが気に掛け、何も命令したわけではないが天蓋を設置した。
 シズネが出て行ったあと、イルカはゆっくりとツナデの元に近づいてきた。三代目の信任の厚かったイルカには、ツナデもほんの少しだが他の忍、同じ中忍たちよりは目をかけていた。
 ベッドの傍らの椅子に腰掛けたイルカに、半身を起きあがらせたツナデのほうから先に声をかけた。
「どうした? 思いつめた顔をしているな」
 幸いなことに声は若々しいままだ。皮肉めいた色ものせることができる。気力もある。何も問題はないはずなのに、情けないことに体だけが顕著に衰えて言うことをきかない。
 俯いたままのイルカは体を外側に向けて出来る限りツナデの姿を目に映さないようにと気を配っているようだ。
 気のまわしすぎだ、と少し呆れながらもそれがうみのイルカという人間なのだろう。ツナデはふと自らの手をじっと見る。その手は年相応の皺の多い節くれた手をしている。もう五十年以上生きてきた。忍という生き方を選び、その中でも最上まで登り詰めてこんなに長く生きたことは幸いなのかもしれないが、実際は、どうなのだろう。愛する人間を失っても生き長らえた強さは幸の部類に入るのか不幸の部類に入るのか、正直今でもわからなかった。
「ツナデ様。今日は、どうしてもお願いしたいことがあります」
 しばらく逡巡していたイルカは背筋を伸ばすと、ためらいを断ち切るように口にした。



「火影の呪いを俺に解かせてください」と。



 正直、イルカレベルの中忍が言い出したことに驚きを禁じ得なかった。
 イルカがどこでどうやって知ったのかはわからないが、火影が呪われている、そんなことは里の中枢にいる者ならたいがい知っている。知ってはいるが、その呪いを解こうといい出す者は今まで誰もいなかった。なぜなら解くまでもなく、歴代の火影は不自然でないくらいの状況、もしくは年齢で亡くなっていたから。それに加えて、そんなことを悠長に解明している時間はなかった。
 ここでツナデが亡くなったとしても、それは不審感を抱くほどのことではない。少し早い寿命が訪れただけだと、天寿を全うしたと思われることだろう。
「どうやって、解く? そもそも呪われたのには理由がある。初代であったあたしのじいさんは少し無理をして木の葉の里に入ったからね。ここに元々住んでいた敵方の一族を殺した。その呪いなら、受けて当然のものだろう?」
「ツナデ様は本当にそんな馬鹿げたことを認めているのですか?」
 イルカは乾いた口調で言うと、伸ばした手でツナデのかさついた手に触れてきた。
「呪いなんてものがなければ、ツナデ様はこんな姿になってはいなかった。あなたは若い姿のままで里の皆を導いていたはずですよ」
「馬鹿を言うな。あたしは元々いい年なんだよ。これが自然な姿さ。それに、認めるもなにも、ただの事実さ」
 なんとなくささくれた気持ちで言い返したツナデの手をイルカはきつく掴んだ。痛いくらいの力に、ツナデは思わず眉をひそめる。
「呪いなんてもの、火影には必要ないんです。そんなもの、いらない。初代様は正々堂々と闘ってこの地を手に入れたんです。呪いなんてただの逆恨みです。こんな、くだらないこと、終わらせなければ駄目です」
 断固たる決意をもって言い切ったイルカ。
 その勢いに飲まれるかたちで、ツナデはイルカの話に引き込まれていった。








「ばあちゃん! ツナデのばあちゃん!」
 荒々しく廊下を踏み歩く音が近づいてくる。
 物思いを中断されたツナデは小さく舌打ちして、戸が開けられる直前に厳しく制止した。
「入るんじゃないよナルト」
 ツナデの声に開く寸前だった戸がぴたりと止まる。
「今日のあたしは寝込んでいるからねえ、本当にばあさんの姿になっちまっているんだ。話があるならそこからしな」
 それは嘘だが、今はなんとなくナルトの顔を見るまでに時間が欲しかった。
 素直に聞き分けたナルトは、戸の向こうでどかりと腰を下ろしたようだ。
「お前は相変わらず騒がしいね。用件は想像つくけど、言ってみな」
「イルカ先生のこと病院から火影の部屋に移すのなんで許したんだってばよ。イルカ先生あんな状態なのに、何かあったらどうするんだよ」
「何もないさ、あたしの術は完璧だよ。それに、カカシが面倒見ているから大丈夫さ」
「大丈夫じゃねえってばよ! カカシ先生、いつまでたっても思い出さないじゃん!」
 ナルトはたたき付けるように口にした。
 そうなのだ。カカシは、思い出そうとしない。愛しい人間であったはずのイルカのことを未だ思い出せずにいる。
 あの日、契約が行われた日。
 呪いの具現化した姿、あの闇がカカシを指名したのは意味があったのだろう。ナルトでは駄目だと言った。ナルトとイルカの繋がりは、血が見える、と。血の繋がりに理屈はない、理由もいらない。ナルトを選んだのならツナデたちが勝つに決まっている。そんな賭けなら何も勝ち取ることはできない、と。
 カカシがイルカを思い出せたなら、それだけで、呪いは解ける。
 たった、それだけのこと。
 現にナルトは思い出した。
 きちんと思い出したのに、カカシには、まだ見えない。
「ツナデのばあちゃん……」
「なんだい?」
「俺さ、俺さ……、イルカ先生とカカシ先生が、特別だって、知ってんだ」
 いきなりのナルトの告白にツナデは少なからず驚いた。思わず窓に向いていた顔を障子の方、ナルトがいるほうに向ける。
「去年のさ、あの日に、俺イルカ先生と二人だけでお祝いしてもらったんだ。俺の、十八才の日に。俺いつのまにか眠っちゃって、起きたらカカシ先生がいて、も一回飲み会して、それで、なんとなくだけど、なんか、わかったんだ……」
 ナルトの声が少し寂しそうなのは無理ないことだろう。イルカに特別な人間がいたこと、それがカカシだったこと。それは何も不思議なことではない。理性ではわかっているが感情がついていかないたぐいのことだ。
「すげえ仲良さそうで、だから俺、いっかって思ったのに、それなのに、なんで、カカシ先生忘れたまま、思い出してくれないんだよ。イルカ先生、かわいそうじゃん」
 カカシには特別の呪いがかけられているから。
 愛しさなんて吹き飛ばす強固な呪いが。
「俺にしてくれたら、思い出して、とっくにイルカ先生目ぇ覚ましていたのに」
「ナルト……」
 床から起きあがったツナデは静かに戸に近づいた。
「ナルト、だからだよ。だからおまえじゃあ駄目だったんだ」
「どういう意味だってばよ」
 そっと戸を開けて、ツナデはナルトの横に顔を出した。
 唇を尖らせながらも不安そうなナルトにツナデは笑いかけた。
「愛しい者や大切な者を大事にしたい、守りたいって気持ちにはあまり理屈はいらないんだ。ましてそれが肉親ならね」
「にく、しん……?」
「ああ。イルカにとって、ナルトは肉親みたいなものだ。だから、お前じゃあ駄目だったんだよ」
 噛んで含めるように口にしたツナデの言葉をナルトは口の中で密かに反芻する。
 肉親。
 ナルトの心の琴線を刺激する言葉だ。
 その呪文がナルトの心を満たしたのか、不満気な顔は赤みが差し、いつものナルトらしい、照れ笑いを浮かべた。だが打開されない現状をすぐに思い出したのか、口元を引き締めて腕を組む。
「でも、カカシ先生、どうにかしなきゃならないってばよ…」
「そうだな。カカシに思い出してもらわないとな」
 ツナデがナルトの頭に優しく手を置くと、ナルトはくるりと振り向いた。
「ツナデのばあちゃん」
「ん?」
 若いままのいつものツナデのことをナルトの青い目はじっと見つめた。
「俺、もしばあちゃんのホントの姿見ても、別に、驚かないってばよ。……いや、驚くかな?」
「どっちなんだよお前は」
 ツナデはナルトの頭に置いた手に力を込めた。
 痛い痛いとわめきつつも、ナルトは告げた。
「そりゃあ、驚くかもしれないけど! でも、別に気にならない。ばあちゃんはばあちゃんだろ? だから俺の前で見栄張るなよ」
 少し大人びたナルトのもの言いにツナデは小さく吹き出していた。
「なんだよ、俺真剣なのに」
「悪い悪い。けどね、ナルト」
 ツナデはナルトの頭を抱えるように抱きしめた。
「どんな時でもいい女ってのは綺麗な姿でいたいんだよ。ましてそれがいい男の前ならね」
 立派に真っ直ぐに成長した里の宝をツナデは誇りに思う。
 だからイルカも、自らを犠牲にすることになっても呪いを解きたかったのだろう。
 将来里の長となるであろう狐仔の為に、イルカはその身を差しだした。
「呪いなんてくだらないことに、ナルトの将来を邪魔させません」
 きっぱりと言い切ったイルカは厳しい顔をしていた。そう、まるで子を守ろうとする親のような…。
 あの時はその表情がよくわからなかった。だが今ならわかる。
 イルカは、挑もうと決めていたのだろう。
 それは人の身では抗いがたい定めとやらに対しての宣戦布告だったのかもれない。





 

 

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