涯を鎮む 4











「あ、この部屋禁煙ね」
 外の暑さに涼みにきたという。旧知の仲の猿飛アスマが煙草を取りだしたのをカカシは目敏く見つけた。アスマは銜えた煙草に火はつけずにソファにのけぞる。

「禁煙? お前も吸っていただろう」
「前はね。今は完全に禁煙。アスマもガキがいるんだから禁煙すれば〜」
 アスマはだから家じゃあ吸ってねえんだ、と顔をしかめる。
 カカシはにこりと笑って自分の後方をたてた右の親指で指した。アスマは衝立をちらりと伺い煙草を口からはなした。
「カカシよぉ、やっぱり噂は本当なのか?」
「俺が火影に懸想してるってやつ? それとも俺が不能だから片っ端から見合い断ってるってやつ? それとも」
「火影に懸想説だ」
 アスマは呆れたように見返してきた。カカシは機械的に書類に捺印していたが、その手を止めてぬるくなったお茶をすすった。
「懸想っていうか、とにかく火影様のことは好きだ〜よ。てか、みんな、火影様のことは好きなんじゃないの? 里の長だよ?」
 カカシはとぼけて口にした。言外に、皮肉をこめて。カカシがそばに置くことでイルカのことは皆の脳裏に存在するようになったが、それだけだ。誰もイルカのことを火影だなんて思っていないだろう。極端に言えば、里の厄介者だと思っている連中もいる。
「何言ってやがる、実質の火影はカカシだろうが。お前のことは確かにみんな好きだろうぜ。ビンゴブックに載ってる写輪眼様だからな」
 にやりと口元を歪めてアスマも嫌味で切り返してきた。カカシの顔に不快な気持ちが表れたのかもしれない。アスマは溜息を落とした。
「何かりかりしてんだ? 事務官の中忍どもがびびってんのわかってんだろ? 最近の火影様はこわ……」
「代行だっ。火影じゃない。火影は…」
「カカシ!」
 のそりと起きあがったアスマは机の前に来るとカカシのことを見下ろした。
「だからそれがかりかりしてるってんだよ。お前が何吠えようと勝手だがな、部下にまで当たるんじゃねえ。火影が実質お前だってのは周知の事実だろうが」
「だからそれは、あくまでも代行だから」
「うるせーよごちゃごちゃ」
 アスマは指先でもてあそんでいた煙草に結局は火をつけた。言葉につまったカカシに向かって、煙を吹きかける。
「俺に言わせりゃあな、火影なんて誰だっていいんだよ。正しく里を導いてくれりゃあ誰がなったっていい。みんな多かれ少なかれそう思ってんじゃねえか?」
 アスマにしては柔らかい声音。まるでカカシのことを諭そうとしているようだ。アスマの言っていることは正しい。正しいが、それは今のカカシにとってなんの慰めにもならない言葉だ。
 アスマを睨み付けてみても始まらない。ふいと視線を逸らしてカカシはふて腐れたように口にした。
「六代目は一年たっても目を覚まさなかったら、多分、死ぬ。特別な延命措置はしないとツナデ様は言っていた。けどさ、火影になった途端倒れて眠り続けて死ぬなら、うみのイルカはなんで火影になったんだ……? なんのために……」
 アスマに応えてもらいたかったわけではない。八つ当たりめいた気持ちで口にしただけだ。だがアスマはなんでもないことのようにさらりと応えた。
「意味なんてどうでもいいだろうが」
 それは正しく事実なのかもしれない。







 アカデミーは夏休みに入り、カカシは少し寂しいような、喧噪から逃れてほっとするような、複雑な気持ちでいた。
 カカシはいつもイルカのそばにいた。イルカの周りはなんとなく涼しく澄んだ空気に囲まれているようであり、事実、イルカは汗もかかずに眠り続けていた。
 匂いもしない、排泄もしない、息もしない、喋りもしない……。
 ある時カカシはその不思議にせかされてイルカの肌に触れてみた。
 寝間着代わりの浴衣の合わせから手を差し入れてみると、滑らかな肌触りに気持ちが高揚する。ベッドに座り、イルカのことを背中から抱えるようにしてそっと肩から布を落とす。やせ細っているわけでもなく、健康的な肉付きをしている。白く艶めいた肌の胸の中心にある突起は薄く色づき、カカシの喉はごくりと鳴る。震える指先で触れる。柔らかくそこに触れていると、いつの間にか固く尖り、そんな些細なことにカカシは歓喜した。これはイルカが生きているということだ。もっと確かめたくて、駄目だとセーブする心を振り払い、とうとう浴衣の帯を解いてしまった。
 下着は着けていない。加速する心にはもうためらいはない。柔らかな下生え。そこに指を絡めながら項垂れている急所を握りこんだ。「あぁ…」と吐息が零れる。こんな、同姓の性器を触るなど初めてのはずなのに、何故か手の中にしっくりと馴染み、かあっと脳裏が焼ける。途端カカシの片方の腕はイルカを体の中に閉じこめるようにかき抱き黒髪に顔を埋める。握りこんだ手は自慰をする時のように官能を呼び覚まそうと動かし出す。
 ほどなくして、ぬるぬるとした液体が滑りをよくして、そこは固く勃起する。
 はずなのに……。
 全く、これっぽっちも反応しない。
 熱い息が零れることをどこかで期待していたのだ。イルカの息をかげると思ったのに。興奮して、下肢を熱くしているのはカカシのほう。
 性器は項垂れたまま、イルカは安らかに眠っている。眠り続ける……。
 けれど胸に手をあてると鼓動は間違いなく刻まれている。
 カカシはたまらなくなって両腕でイルカの骨も折れよとばかりに抱きしめた。
「火影様! あんた目覚ました方がいいよ。そうしないと、殺されちゃうよ」
 アスマもサクラも意味なんてどうでもいいと言った。
 けれどイルカはここに存在して、触れることもできる。これが意味のないことなら、意味のあることとはなんなのだろう。
 カカシにはわからなかった。







 久しぶりに任務に駆り出された。
 写輪眼が必要な任務で、あいにくサスケは不在だった。
 そこでカカシは久しぶりに血を浴びた。追いつめられた敵が自爆して、肉片と血が飛び散った。仲間もカカシも軽傷ですんだが、木々の合間の暗い空から降ってきた血は嫌な匂いをさせてまとわりついた。
 ぶるりと頭を振ると、視界に赤が見える。闇の中なのに、赤が、カカシの目に映る。
 嫌悪感に鳥肌がたった。
 叫びだしたい衝動をなんとか堪えた。ただ脳裏を巡るのはイルカの穏やかな顔。無性に会いたくて、カカシは心の内でひたすらにイルカの名を唱える。
 どうしてこんなにイルカが心を覆うのだろう。
 ツナデが言っていたように、カカシはイルカのことを知っていたとでもいうのか。だがそれなら忘れるわけがない。こんなにも求める人間を、忘れるわけがない。
 闇の中、カカシはひた走る。
 イルカに会いたくて、仲間へのねぎらいもそこそこに火影の部屋に向かった。







 変わらぬ姿。
 丁度射してきた外からの月明かりにほの白く浮かぶイルカの人形めいた顔。清らかな姿。イルカは遠く彼岸にいる。
 顧みて血濡れたままの自身の姿との対比に、カカシは眩暈にも似た嫌悪を覚えた。イルカに、嫌悪を覚えた。
「!」
 もやもやとする心をぶつけるように、カカシはイルカの体にかけてある薄手の布を矧いだ。イルカの胸の合わせを乱暴に開ける。白い布にも、イルカの浴衣にも、半乾きだった赤黒い血がつく。
 白に浮かぶどす黒さがなぜか卑猥に映り、カカシの心臓は波打つ。はだけたイルカの胸元に手をはわせる。胸の飾りをそっと摘んでみた。だがもちろん反応は返らない。震える口を寄せて舌で突起を転がし、苛立ちのまま、下肢にも手を伸ばして、柔らかく揉んで、擦って、ぐっと急所を掴んだが、イルカの顔は眉をひそめもしない。ぴくりともしない。


 あんなに、恥ずかしいほどに反応したのに!


 一瞬脳裏を巡った思いにカカシは息をつめて顔を上げた。
 何を、思った? 何を、思い出した?
 動揺する気持ちのまま、白く細い首筋に、片手を置いて、くっと力を入れてみた。息をしていないのだからなんの意味もないことなのかもしれないが、イルカを苦しめたくて、青ざめる顔を見たくて、力を込める。だが、イルカの顔は静かなままで、なんの反応も返さない。
 カカシは髪をかきむしった。
「あんたっ……! いい加減にしろよっ!」
 掠れた声で、怒鳴りつける。
「このまま眠り続けてどうするんだよ。あんたが起きなきゃ、俺は、何のために代行なんてやってるんだよ。こんな、馬鹿らしい、くっだらない……」
 言葉につまって、カカシは口元がわななく。
「起き、ろよ! 起きてくれよ! 頼むから!」
 歪む視界の向こうにいるイルカは応えない。
 そんな薄情な人形を、カカシは抱きしめた。荒々しく口を吸った。







 日々募るイルカへの焦燥はカカシを落ち着かなくさせた。
 確かに何かを忘れているような気がする。何か、イルカに関する何か。
 火影として紹介されたこの男とどこかで知り合っていたというのだろうか。それを見極める方法が何かわからぬまま、それでも中毒のようにイルカに触れるようになった。
 暑いから、という理由づけで、毎日イルカの裸の体を丹念に清めた。外は暑さにとろけそうな日でも、その部屋だけはゆったりと時が止まったように静かに流れていた。
 その日もカカシはイルカの体を丁寧に拭いたあと、ベッドの上、イルカの傍らに添い寝をするように横たわっていた。時たまイルカの顔に口づけて、昼のまどろみに身をまかせようとしていた。
 そこをいきなり衝立のカーテンが音をたてて開いた。
 半眼のまま振り返れば、ナルトが立っていた。
 三ヶ月ぶりくらいだろうか。日に焼けた顔からは明らかな怒りが見えた。
「ナルト〜。いきなり入るのはよせ。無礼だぞ」
 欠伸をしながらカカシは告げたが、つかつかと近づいてきたナルトはカカシの肩を掴んで無理に振り向かせた。
「イルカ先生のこと、思い出したのかよカカシ先生」
「イルカ先生?」
「そうだよ。イルカ先生だよ」
「誰それ?」
 途端、ナルトの形相はすさまじいものになった。
「今そこでカカシ先生の隣に寝ているのがイルカ先生だってばよ。思い出したから、病院から連れ出したんだろ!?」
 ナルトはカカシの肩をがくがくと揺する、力任せといってもいい勢いにカカシの視界は揺れる。
 イルカ。六代目火影。イルカ先生。
 三つの符号。どれも重ならない。すべて独立してカカシの脳裏にある、いやあえて言うなら、知っているのは六代目火影としてのうみのイルカ。
 イルカ先生? 誰のことだそれは。
「ナルト、落ち着け。俺は、六代目とは、」
 カカシの言葉を奪い取るようにナルトは激しく首を振った。
「イルカ先生は俺のアカデミーの時の先生だ。カカシ先生一緒に一楽行ったり、飲みに行ったりとか、してただろ!? 先生たち仲良かったじゃんかよ。なんで忘れるんだよ。思い出さないんだよ。薄情もん!」
 ナルトから唾を飛ばさんばかりにして罵倒され、話の内容がよくわからないながらもカカシもさすがにむっとなる。
 ナルトの手を払うと起きあがった。
「知らないものは知らないんだよ。いきなりなんだ。もし六代目がナルトの先生だったってんならどうして今までそのことを黙っていたんだ。サスケやサクラも何も言ってない、いやそれ以外のアカデミー勤務の連中も誰も」
 ナルトは悲しげな歪んだ顔で頑是無い子供のようにわめいた。
「だから俺もやっと思い出したんだってばよ。カカシ先生も思い出せよ」
 思い出した?
 カカシはその言葉にくらりと揺れる。心が、揺れる。
 思い出したならナルトも忘れていたということだ。カカシだけではなく、ナルトもうみのイルカのことを忘れていた?・・・
「俺は……」
「カカシ先生が思い出してくれないと駄目なんだってばよ。頼むよ、カカシ先生……!」
 ナルトはカカシの両肩に手を置いて、そのまま項垂れた。
 ナルトの体の震えがカカシにも伝わってくる。そしてカカシも震える。
 うみのイルカを知っているかと、里中を走り回ってすべての人間に問い質したいような気持ちがした。





 

 

←/→
 
読み物 TOP