涯を鎮む 3











 はっきりと自覚しているわけではないが、何かが足りないと得体の知れない焦燥感に追い立てられる。それは明確な形を取らないからなおさら厄介で、ぼんやりと煙るものが心を覆う。そのもやは気づかぬうちに重さを増し、そして、押しつぶそうとするのだ。
 心を――。




「カカシ先生、どういうつもりですか」
 火影の執務室に駆け込んできたのはサクラだった。外は新緑がまぶしいうららかな気候なのに、部屋にこもって火の国に提出しなければならない書面と格闘していたカカシは、これを機に、と一休みすることにした。
「どうしたサクラ。かわいい顔が強ばってるぞー」
 机から立ち上がってソファのほうにサクラを促す。最近は客をもてなすのも手慣れたもので、棚から茶菓子を出してお茶の用意をする。
「最近緑茶に凝ってるんだよね。これわざわざ火の国の老舗から取り寄せたんだ。うまいよ〜」
 ずず、とカカシが茶をすする前でサクラは茶器も茶菓子も横にのけて、身を乗り出してきた。
「わたしはお茶を飲みにきたんじゃないです。火影様をどうするつもりかって聞きに来たんです」
「どうするもこうするもないよ。火影としての責務を果たしてもらうだけ」
「責務って、火影様は眠っているんですよ? 何もできないじゃないですか」
 サクラは必死だ。イルカを批判的な目でみる者が多いなかで、親身に面倒をみてきただけはある。
 だが、サクラのような少数派がかばっているだけでは駄目なのだ。
 ここしばらくの間、カカシは火影に対する皆の心情を量ってきた。なにげない会話のなかでさりげなく確認したところ、どうやら予測通り、眠る火影はどうでもいいと思われている。それはそうだ。実質的なことはカカシが行っているのだから、何もできない火影などいてもいなくても関係ないだろう。
 もしもそのままほおって置けば、約束の期限が来たときにイルカはどうなってしまうのだろう? 命に危険があるような状況だとしたら、イルカをかばおうとする者はほとんどいないだろう。
 このままではイルカは一年という期限を待たずに排斥されてしまうかもしれない。
 だからカカシは決めたのだ。火影の執務室にイルカを置くことを。近日中に業者を入れて部屋を改造して火影の机の後ろに部屋を作り、イルカのベッドを置く。もちろん衝立で隠すから直接イルカを目にすることはないのだが、そこにいるというだけで誰が火影なのか、ここを訪れる者はいやでも認識するだろう。
 カカシが真意を告げると、サクラはやっと肩の力を抜く。
「そういうことなら、わかりました。わたしてっきり火影様にひどいことするんじゃないかって思っちゃって。ごめんね、カカシ先生」
「ひどいなあサクラ。俺ってそんな奴? むかーしから優しかったでしょ」
 サクラは笑ってやっと茶菓子の最中に手を出した。
「でも、カカシ先生。どうしてそんなに火影様のことかばってくれるんですか? だって、火影様と仲が良かったわけでもなかったんですよね?」
 サクラのもっともな疑問に、カカシはお茶をすする手を止める。
 なぜ、必死になって火影をかばう必要があるのか。
 いささか逆説的だが、そのわけを知りたいからイルカを手元に置くのだ。
 たった一度邂逅しただけのイルカがなぜこうも心に強く刻まれているのか。目覚めて欲しいと願うのか。その理由をカカシこそが知りたかった。
「インスピレーションって言うのかな〜。ぶっ倒れる前にちょっとしか話すことできなかったけど、いい人だったんだよね、六代目って。それだけなんだけど、ほら、勘って大事デショ?」
 カカシがわざと茶化して言えば、サクラは小さく吹き出した。
「やだカカシ先生。なんだかそれって一目惚れみたいね」




 イルカを火影の執務室に移すことにもちろん周りはいい顔をしなかったが、ツナデの賛成で皆押し黙った。
 サクラからイルカの世話に関してはレクチャーを受けてカカシが基本的はことをすることになる。
 イルカの移送が完了して一息ついた夜、カカシはベッドの傍らに立った。
 相変わらずイルカは生きているのか死んでいるのか判断がつきかねる静けさで眠っている。
 照明を落とした部屋で、まるで人形のように眠るイルカ。じっと見つめていると不意にサクラの言葉がよみがえる。
 一目惚れみたいだと。
 あの瞬間、動揺した自分をうまく隠せただろうか。
 病院を訪れて、思いがけずイルカの唇に触れてしまったあの夜から自分は少しおかしい。半年の間たいして気に掛けることもなかったイルカ。だが触れてしまってからは常に頭の中にイルカがいる。思い浮かべるような表情などたいしてあるわけではないが、その存在がカカシの真ん中に居座りだした。
 イルカのことを半ば強引に病院から連れ出したのも本当は、カカシがそばに置いておきたいと思ったからだ。仕事をしていても、常にイルカのことが浮かぶ。イルカに会いたくてたまらなくなる。
 こうしてイルカのことを見ているとせり上がってくるもやもやとした気持ちの正体を見極めたい。
 そっと手を伸ばして、イルカの額に触れた。
 ぬくみがあることに安堵する。
「あんたは、なんなの。なんで、火影になったわけ? 目ぇ覚まして、俺に教えてよ……」
 心臓が高鳴る。
 ゆっくりと顔と近づける。
 イルカの額にそっと口づけを落とした。




 イルカとともに仕事を始めたカカシの機嫌は毎日すこぶるよかった。
 カカシの気持ちが六代目としてのイルカにきちんと向いているから、自然と周りも火影が誰なのかを徐々に認識するようになってきた。
 カカシは常にイルカと共に過ごしている。
 仕事の合間、食事をとる時、なぜか引き寄せられるようにして眠るイルカの傍らに居場所を見つけた。
 そして、日々の他愛ないことが自然と口をついて、まるでイルカが向き合っているように話しかけた。
 穏やかな、けれど何も発展がない日々。カカシはそれなりに満足を覚えてはいた。
 もしもイルカが目覚めなければ、そうしたら1年経過した後は個人的に面倒を見てやればそれでいいではないか。その為にはツナデの許可と、術がどうしても必要になる。カカシは本気でそのことを考えて、梅雨が木の葉を覆いはじめた頃にツナデの元を訪れた。




 ツナデは、若いままの姿で羽織をはおって居間に現れた。
「待たせたねカカシ。代行の仕事は順調かい?」
 いささか痩せたかもしれないが、常と変わらぬ姿で顔色もいい。
「火影の仕事は結構楽ですね〜。それともそれだけ平和だってことですかね」
「お前は悪運が強いからね。あたしが襲名した時はそりゃあ大変だった」
「そうでしたね」
 ツナデが火影になったあの頃は九尾以来、また木の葉が存亡の危機を迎えた時だった。それを立て直したのだからさすがは三忍というべきか。
「カカシ、六代目の調子はどうなんだ?」
 今日の本題であるイルカのことを先に触れられ、カカシは衣を正す。
「元気ですよ。ツナデ様の術のおかげで、ただ眠っているだけです」
 そう。穏やかに、眠っている。
「あんたが六代目に懸想してるって噂を耳にしたけど、本当なのか?」
 いきなりの言葉にカカシは間抜けにも口を開けてしまった。
 ツナデはにやにやとからかうようにカカシを見ている。
「火影を執務室に移してからは四六時中そばを離れないってね」
「それは、ですから、うみのが六代目だから。俺は、代行に過ぎないので」
「なんだそのいいわけは。もっと気の利いたこと言えないのかお前は」
 確かに。ツナデが呆れるのも当然だ。
 しかしいいわけも何も、ただ、イルカのそばにいたいからいるだけで、それに何か理由がいるというならひねり出すが、何も出てこない。
「よく、わからないんですけどね、ただ、六代目の、そばにいたいって思うんですよ。俺やばいですかね」
 今では日課のように、帰宅する前にはイルカの唇に触れていく。
「やばいねえそりゃあ。あんたいい年して特定の相手とかいないのかい?」
「そんなの、今は特に……」
 そう、今はいない。だが以前はいたはずだ。大切な人間が。顔さえ浮かばないその人間はどこでどうしているのだろう。
 カカシは眩暈に似たものを感じて額をおさえる。なんとなく、つきつきと頭の奥が痛む。
「ツナデ様、今日は他でもない六代目のことでお願いがあってきました」
「ああ。期限の前に火影の任を解くっていうのはこの間も言ったけど受けられないからな」
「いえ。そうではなくて、もしも、六代目が期限になっても目覚めなければ、俺に、引きとらせてもらえませんか?」
「……」
 カカシのいきなりの申し出にツナデは息を飲む。カカシは反対される前にたたみかけるように言葉を続けた。
「俺が正式に六代目になれば、基本的にはいつも里にいるし、面倒見てやれると思うんですよ。でもその為にはツナデ様の術が必要なので、そのお願いにあがりました」
「カカシ……お前、自分が何言ってるかわかってるのか?」
「もちろんです。うみののこと、放っておけないんです」
 カカシが強い口調で返すと、ツナデは座椅子に深々と体を預けて羽織りの袖口に両手を入れて俯いたが、上目遣いにカカシのことを睨み付けてきた。
「それは駄目だ」
「どうしてですか。俺。責任持って面倒見ますよ」
 ツナデは首を横に振った。
「お前が信用できないとかそんなことじゃない。もしうみのがこのまま目を覚まさなければ、術は解く。うみのに施した術は禁術のたぐいなんでね、意味のないことに使うことはできないよ」
 ツナデの容赦ない言い方にカカシは鼻白む。
「意味があるから火影になったと言ったじゃないですか。じゃあ六代目は、どうなるんですか」
「まずは入院して、徹底的に検査だろうね。それで機械の力で存命できるならいいけど、それが無理なら、」
 カカシは、思わず凶悪なチャクラを膨らませていた。ここにいるのがツナデでなければ怯むような危険な怒りをたち上らせた。
「カカシ……」
 ツナデはなぜか痛ましそうに表情を曇らせる。
 何か考えるように視線を逸らした瞳を細めたまま、ツナデは静かにカカシに問いかけてきた。
「カカシ、なぜそんなにムキになる。六代目とは、火影の発表があった時に初めて顔を合わせたんだろう? その翌日には倒れた。いわば、あんたとは面識のない他人だ。それをなぜそこまでムキになって、かばう?」
 改まって聞かれれば返答に困ってしまう。だからカカシはせわしなく視線を彷徨わせる。
「俺は、ただ、うみのを死なせたくないんです。あの男のことが、気に入っているんです……」
 一目惚れみたいね、とサクラの声がする。
 頭が、痛い。
「カカシ、あんたは、うみののこと知ってたんじゃないのかい?」
 ツナデの薄い青色の目が真っ直ぐに見つめてくる。ごくりとカカシの喉が鳴った。鼓動がぐんぐんと加速する。
「いえ、俺は、うみののことは、あの時に初めて知ったんです。それまでは、知らない、人間でした」
「……本当かい?」
 ツナデは探るようにカカシを見ている。ぼんやりと視界がかすむような錯覚。それでもカカシは答えた。
 首を振る。
 知らない、人間だと。




 帰っていく猫背の姿を二階の窓からツナデは追っていた。
 雨の匂いが交じる空気。夜間には間違いなく降り出すことだろう。
 灰色の夜空を見上げて、小さく呟いた。
「……あれぐらいは言ってもかまわないだろう? イルカ――」





 

 

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