涯を鎮む 2
しがない中忍でしかないこの男がどうして火影になったのか。
あの日、うみのイルカが6代目火影として紹介され、その補佐をする役割をカカシは言いつかった。火影という任に求められるものはおそらくその時代時代で違うのだろう。いくらか落ち着いた今の木の葉はこれから熟成させる時期に入る。だからこんな穏やかな男が適しているのだろうとカカシはぼんやり思ったものだ。
受け付けで見た記憶はおぼろにあった。だがほとんど初対面だ。紹介され、邂逅して、言葉を交わし、これからの木の葉を背負って行こうと心を一つにした。誠実そうな男だと思った。あまり人付き合いが得意でなはいが、イルカとならうまくやっていけそうだとカカシは思ったのだ。
だが、たった一日。
翌日にはイルカは原因不明の病に倒れてしまった。
ツナデでさえも判断が付きかねる病。イルカはそのまま眠りについた。
緊急の会議で、カカシが補佐ではなく代行として火影を襲名した。だがイルカがもしこのまま目を覚まさなければいずれはカカシが火影となる。
イルカに許された期間は1年だった。
パイプ椅子を取りだして、イルカの枕元でカカシは腰掛けた。
青白い顔。黒髪だけはやけに艶めいて、半年前から生きている証のようにちゃんと伸びている。時たま看護士がカットしているらしいが。
結構作り自体は整っている顔をじっと見つめた。
半年前、初めて会ったこの男の屈託のない笑顔がやけに頭に残っている。
「ご迷惑かけることばかりだと思いますが、どうぞよろしくお願いします」
九十度近く頭を下げられて、その折り目の正しさにカカシは思わず吹き出していた。
笑うカカシにつられて、イルカも照れたように笑ったっけ。
「……あんたとなら、うまくやっていけそうだと思ったんだけどね」
イルカの頬にそっと指先で触れてみた。
柔らかくぬくみがあった。それはとてもしっくりと馴染んで、カカシはしばしの間、そのまま動けずにいた。
「カカシ先生?」
そんな時、病室に入ってきたのはサクラだった。
「ごめんなさい。何回かノックしたんだけど、カカシ先生全然気づかないから」
花瓶に色鮮やかな花が生けてある。
サクラはばつが悪いカカシを気にしたふうもなく、眠るイルカの枕元に花瓶を置いた。
ツナデの元で修行を積んだサクラは今では医療忍者として、イルカの全面的な治療にあたる役目をツナデから任されていた。カカシの元にいた頃はまだまだ子供でいつもサスケにまとわりつき、ナルトには言い寄られていた。そんなサクラも今ではすっかり成長して、柔らかな桃色の髪に包まれた顔にははっとするくらいの華やぎがあった。
何となく子供の成長をかいま見てしまった親の心境で、カカシは目を逸らしていた。
「サクラがこーんな美人になるとは思わなかったよなあ。ガキの頃に将来の約束とかしておけば俺の嫁さんになってたかもな」
「何言ってるのよカカシ先生たら。相変わらず冗談ばっかり」
声をたてて笑うサクラの笑顔は昔と変わらない。そんなことになんとなしに安堵した。
「6代目の調子はどうなんだ?」
イルカの脈を取り、術の状態を確認しているサクラの背後に声をかける。サクラは何も答えずにもくもくと仕事をしている。案の定というべきか、何も変わりはないらしい。
この半年の間、カカシは数える程度しかこの病室には訪れていない。正直忙しかった。忙しさに紛れて、6代目の存在を忘れることもあった。まあ里の者にとっては正しく里を導いてくれれば誰が火影でも関係ないはずだ。そしてそうあることが正しいことなのだろう。
だが、あからさまではないが、うみのイルカを煙たがる人間がではじめている。特にこれといった実績もないままに火影に選ばれ、そして何もなさないうちに倒れてしまった。このまま火影の立場を廃して、実質を行っていながら立場上は代行であるカカシを正式に火影に、という考えがではじめているのだ。
そんなこと、どうでもいいのに。どんな立場であろうと、自分のやるべきことをやればそれでいいではないか。だが火影の名を継いだばかりにこの男が皆に排斥されるのなら、自由な立場にしてやりたいと思わないでもない。そのことは一度ツナデに打診したことがあるが、許可はおりなかった。
カカシは食いさがったが、ツナデはがんとして首を縦に振らずに、ぼそりと呟いた。
「意味があるから火影になった」と。
意味。
確かにそうだろう。意味がなければ凡庸な中忍が火影に選ばれるはずはない。だがそれ以上何も言ってくれないツナデがその意味を知っているのか疑問が残るところだ。
「カカシ先生、疲れてるんですか?」
ぼんやりと心を飛ばしていたカカシの前に中腰のサクラがいた。
心配そうなくもった表情にカカシは瞬きを繰り返した。
「いや……、あ、でも、そうだな、ちょっと疲れているのかもな」
「やっぱり30超えてガタがきましたか?」
「生意気言うね〜」
カカシが額を小突くと、サクラは小さく舌を出した。
窓際に寄ったサクラは、背中で窓に寄りかかった。
「6代目の体は相変わらずです。機能的なことに問題はなくて、ただ、眠っているだけです。まあそれが一番の問題なんですけど」
「起きるのか」
ごめんなさい、とサクラは小さく謝った。
「いつか、いつかは起きると思います。でもそれがいつかわからない。ツナデ様の施した術が続く限りは大丈夫だと思います。でもそれが効果をなくしたら、死んでしまうかもしれない。あたしには、よくわからないんです……」
死ぬ、と口にされ、カカシの体はびくりと揺れる。思わず振り向いて、眠る男を見た。
青白い顔。呼吸しているのかいないのかよくわからない。実はもう死んでしまっているのではないか? そんな気持ちから口元に手を持って行く。かすかに呼気は感じるが唇は冷たくて、暖めてやりたいと思う。きっと口を寄せてやれば一番ぬくもりが伝えられるだろうに…。
「この男が火影になった意味はなんだ?」
呟いていた。
どうしてうみのイルカはここで眠るのか。間違いなく火影なのに、里の者から忘れられようとしている。
サクラが窓を開け放つ。夕暮れの春の風は質感を伴い部屋に吹き込んだ。
「意味か……。意味もなく、じゃ駄目ですかね、カカシ先生」
長い髪に隠れてサクラの横顔が見えない。だが声のトーンが低く強ばっていることはわかる。
「サクラ?」
「いのが、この間任務から戻ったんです。任務は成功で、隊は皆無事だったのにいのの奴元気なくて、問いつめたんです。そしたら、今回の任務は、くの一としての仕事だったって」
サクラの語尾が小さくなる。男であるカカシにはどう返せばいいのか咄嗟にわからない。忍者なのだから、それはくの一なら当たり前とも言えることだが、だがそんなことはサクラもわかってはいるはずだから。
「最初からそういう任務ではなかったけれど、色々あって結局そういうことになったそうです。隊のなかに女がいて任務だったら必然的にその役目を担うことになるって、頭ではわかっているんですけどね」
髪をかき上げたサクラは目を伏せた。
「忍になった意味ってあるのかなーなんてらしくもないこと言うから、ガツンと言ってやったんですよ。意味なんかどうでもいいって。今あんたがここにこうしていることだけで充分だって。言いながらあたしわけわかんないこと言ってるなあって内心つっこんでたんですけどね」
小さく笑うサクラが寂しげで、カカシは昔のようにその頭を撫でてやりたいような気持ちになる。
「あたしはツナデ様の元で医療忍術を学ぶことができた。そのおかげでくの一的な役割の任務からは遠ざかっていられる。でももし任務だからってことで感情を殺してセックスしなければならないなんて、無理。いののほうがよっぽどきちんとした忍者ですよね」
深く息をついたサクラはそっと近づいてきて、イルカの枕元に再び立った。
「女ってつまんないなあって思うことあるんです。あたしがもし男だったら、サスケくんとナルトよりも強い絆を作れたのにって、悔しいんです」
「サスケは、お前ら二人に優越なんかつけていないよ。あいつにとってはお前らだけが大切な仲間なんだ。今までも、これからも」
「でもあたしはあの時サスケくんを引き留めたかった。それができないなら一緒に連れて行って欲しかった」
突然声を荒げたサクラは次には眠るイルカを気遣うように口元を塞ぐ。
俯くサクラは心なし呆然としていた。
「サスケくんに必要な人間が誰なのかってわかっているんです。でもそれと同じくらいに、あたしにとって必要な人間が誰なのかってことも、わかってるから」
かがんだサクラは、そっとイルカの髪を梳いた。
「…たまに、6代目みたいに、眠っていられたらいいのにって思います。嫌な思いに捕らわれないで、何も考えずに」
「それは違うサクラ」
カカシは咄嗟にあがった自分の声に自分で驚いたが、止められずに思うままを言葉にしていた。
「こんな、生きているんだが死んでいるんだかわからない状態がいいわけないだろ。サクラはきちんと生きているから、サスケのことを考えることができるしナルトを妬んだりできるんだろ? それの何が悪いんだ。それが生きてるってことだろう。六代目だってきっと、眠っていたくなんてない。里の為に、自分のなすべきことをしたいって、思っているはずだ!」
「カカシ、先生…?」
カカシの剣幕にサクラはぎこちなく体を強ばらせる。
一瞬の激高にカカシ自身がとまどい、気落ちする。
「ごめんサクラ。やっぱり俺疲れてるんだわ。ほんとごめん」
カカシは頭をかいてサクラから目を逸らしてイルカを見た。見つめていても、どんなに怒鳴り散らしても目を覚まさないイルカを。
「6代目、目を覚ますといいですね、カカシ先生」
取りなすように励ますように優しくサクラは呟いた。
サクラが去り、また二人きりになった病室で、カカシ後ろ向きに座ったパイプ椅子の背もたれに両手を載せて、微動だにせずに向かい側の壁を見ていた。
そこには、火影のマント、四代目が愛用していた遺品が掛けられている。あのマントがここにある限り、この男は6代目火影だ。勝手に、そんなふうに思っている。
いつしか日は落ち、窓から届いた春の夜の冷たい風にカカシはやっと動く。
窓を閉めて、カーテンを閉じ、闇になった室内で、するするとイルカに近づく。
顔の両側に手をついて、イルカのことを囲う。
「あんたさ、いい加減、起きなよ。半年寝れば、もういいだろ?」
耳元で囁いてみたが、もちろんイルカは身じろぎ一つしない。
溜息を落としたカカシは、そういえば、とさっきちらりと思ったことを実行してみた。
冷たい唇。
暖めたいから、触れた。
唇で、触れた。
高ぶる胸の鼓動がなぜなのかわからないまま、カカシは6代目火影の口を長い間むさぼった。
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