少年上忍中年中忍 E





 カカシに手込めにされそうになった翌日、イルカは一睡もできずに家を出た。
 よろよろと階段を下りたところで、安アパートの亀裂の入った壁のところにちょこんとしゃがみこむカカシを目にして、情けなくも階段の残り数段を滑り落ちた。
「イルカ先生」
 近づいてきたカカシに対して、ひいっと喉の奥で悲鳴をあげたイルカは大袈裟にとびあがった。
「悪霊退散悪霊退散! ナマンダブナマンダブ……」
 先日テレビでやっていた怖い番組で、このような言葉を唱えたところ悪霊が苦しみだしたシーンがあった。きっとカカシもこれで息を詰まらせるに違いない。
「イルカ先生……」
 カカシは心配げに表情をくもらせて寄ってくる。
 殺される! と思ったイルカは、くさっても忍者。あわあわしながらもクナイをかまえようとしたが、いきなりカカシが土下座した。
「ごめんなさい。昨日は本当にごめんなさい!」
 意表を突かれてイルカはぱちぱちと目を瞬かせる。
 顔を上げたカカシののぞいている片目はうるうると涙をたたえていた。
「俺、昨日はどうかしてました。あんなことするつもりじゃなかったんだけど、イルカ先生があんまりかわいい人だから、つい、暴走して……。本当にごめんなさい。もう絶対あんなことしません。亡くなった父に誓います」
 両手を胸の前で組んで、イルカに対して許しを乞うカカシ。一見いたいけな風情の美少年が泣いて許しを乞う姿ははたから見ればさぞかし絵になるような構図だろう。そしてイルカは悪逆非道な人間に見えることだろう。現に、人の行き来が激しいアパートの前の通りを過ぎる人々はイルカとカカシに必ず一瞥をくれていく。
 気のせいでなければイルカにぷすりとささる視線はとげとげしかった。
「カカシ先生、あの、ちょっと俺、混乱してまして。すいませんいくつになっても未熟なもので」
 たどたどしく告げたイルカにカカシは再び頭を下げた。
「ごめんなさい。俺が悪いんです。いきなりあんなこと言うからイルカ先生びっくりしたんですよね。でも嘘はひとっつも言ってません。だって俺、昨日もやっぱりイルカ先生のこと思い出してしちゃったし」
「カカシ先生!」
 イルカはカカシに飛びつくと口を押さえつけた。
「なななな、なにを言ってるんですか天下の往来で!」
 きょろきょろと辺りを見回してカカシに視線を戻せば、カカシはぼうっとした顔でイルカのことをじっと見ていた。
 カカシのことを抱え込むようなかたちになっていたことに気づき、イルカははっと身を離す。カカシは真っ赤な顔をして、頬をそっとおさえた。
「イルカ先生ったら。もう、こんなところで……」
 カカシはくねくねと身もだえる。これが普通の男がやる仕草なら気持ち悪いだけなのだが、すれ違う人間を振り向かせる美貌のカカシがやるのだからさまになる。
 カカシは一人で何かを妄想して喜んでいるが、イルカは一気に年老いたような気分だった。それでなくても昨晩からの出来事で眠れずに疲れ切っているのに。
 もうこのまま家に戻りたいくらいの疲れを覚えた。
「えーと、カカシ先生。とりあえず俺、仕事があるんで、行きますね」
「あ、俺も行きます。任務もらわなくっちゃ」
 ふらふらと歩くイルカのあとを幸せいっぱいのカカシが着いてきた。
「俺ね、イルカ先生に告白できてすっきりしました。やっぱりちゃんと思いを伝えないとダメですよね」
「はあ、そうですか」
 俯いてとぼとぼと歩きながらイルカは適当に相づちを打つ。
「イルカ先生が俺のこと好きになってくれて、お付き合いしてくれるまで、待とうって、決めたんです」
 その瞬間、イルカはぴたりと足を止めた。
「今、なんとおっしゃいました?」
「え? だから、イルカ先生がお付き合いしてくれるまで」
「んなわけないでしょーがっ」
 イルカは思わず声を荒げていた。カカシは罪のない顔をして、首をかしげる。
「どうして?」
 イルカは髪をかきむしった。
「いいですかカカシ先生。何度も何度も何度も何度も口がすっぱくなるくらい言ってますが、俺とカカシ先生は親子ほど年の差があって、しかも男同士です。どう逆立ちしたって付き合うわけないでしょうが」
「そんなのわからないよ。愛があれば年の差なんて関係ないよ」
 なんてことをカカシは夢見るように語ってくれるが、イルカはそんな夢見がちな心とっくにどこかに捨ててきた。というより最初から持っていない。
「まかり間違ってあなたと付き合ったりしたら俺は変態呼ばわりされます」
「やだ。またあなたって言ってくれた。わーい」
 イルカの脳の血管が音をたててぶちぶちと切れた。
「わーいじゃねえよくそガキ!」
 と言えば、驚いたことにカカシはむっとして反論してきた。
「俺はガキじゃない」
「ガキだろうが。15なんてなあ、ケツの青いガキなんだよ」
「そんなことない。昨日だってイルカ先生が帰ったあと、イルカ先生と初エッチの時のためにいろいろ考えてオナニーしてたし、先生との初体験のために日頃からいろいろとやってるんだから!」
 往来で、カカシは、叫んだ。
 歩いていた人々が、立ち止まる。
 のしかかる視線の重さと、カカシの思いの重さに、イルカはその場にぺちゃんこに押しつぶされそうだった。しかしその圧力を気力ではねのけ、力を込めて印を結ぶ。
 くるりとカカシに背を向けたイルカは、どろんと忍術で消えた。



 アカデミーについてまずイルカがしたことは火影の執務室に向かうことだった。
「火影さま。どうにかしてください!」
 執務室の中で朝の体操をしていた火影に詰め寄る。
「カカシ先生、あの人ヘンタイです。厚生施設にでも放り込んだ方が世のため人のため木の葉のためです」
「失礼だな〜。俺はいたってまともですぅ」
「!」
 声もなく、イルカは飛び上がった。
 窓辺に飛び退いて振り返れば、カカシが口布の上からもわかるくらいに口を尖らせていた。
「でも、イルカ先生だから許してあげます。他の奴らなら瞬殺ですけどね」
 あはは、と明るく告げるがイルカはぞっとする。もうなりふり構わずに火影に涙目で訴えた。
「俺にこれ以上カカシ先生を近づけないでください。耐えられません」
「何を言うておる。カカシのようなびしょーねんに好かれるなどよいではないか」
「よくありません。俺はそんな趣味ないんです」
「のわりにはおぬしの彼女いない歴とやらはそろそろ10年になるのではないか?」
 にやりと笑う火影にもイルカはぞっとした。
「こ、個人情報です! 俺に長年彼女がいないのは別に変な方向に向かっているからではなくて、ただ単に、もてないだけです!」
 息を切らして言い切ったが、言った途端に虚しくなる。
 なぜこんな情けないことを大きな声で言わねばならないのだ。しかししゅんとなったイルカをよそに、きらきらの瞳からなにやらまぶしい光線をだしたカカシが告げた。
「じゃあ、イルカ先生、ずっとやってないってことだよね? 10年もやらなかったら、童貞みたいなものだよね?」
 ぱかーんとイルカの口が阿呆のように開く。
 童貞……!
 何という懐かしい響きのある言葉。まさに青春の輝きを放つ言葉! ああ、そんなすばらしくなつかしくも気恥ずかしい輝きがイルカを包む。
 そう言えば、その輝きを失ったのはいつだったっけ? 思い出せない。もしかしたらまだまだウブな頃に任務中のどさくさでくの一のお姉さんに持ってかれたのかもしれない。俺の青春。どこにいった俺の青春……。
「イルカ先生?」
「うおっ!」
 カカシがイルカの前で手を振っている。
 なんというか、意識があるのに、脳裏が真っ白になる瞬間というのがあるのだなあと初めて知った。いっそこのまま倒れてしまいたい気もするが、意識をなくしたあと、カカシに何をされるかと想像すると、恐怖に身も凍る。
「ねえイルカ先生」
 輝きが増したなカカシが石となったイルカの前で興奮して手を広げる。
「怒らないでくださいね。でも俺すっごく嬉しい。イルカ先生がずーーーーっと一人でいてよかったって思います。もうみんな見る目がないですよね、イルカ先生はとっても素敵なのに。あ、でも、みんなが見る目がないおかげでイルカ先生はもてなかったわけだし、そうなると感謝しないとね」
 早口でまくしたてられた言葉のなかにとても失礼な部分があったような気がするが、なにやらどうでもいいような気にもなってきた。
 目の前のカカシはつるりんとした肌を桃色にして、ふわふわと宙に舞い上がらんばかりにはしゃいでいる。とても同じ人間とは思えない。20も年の隔たりがあると別の生き物になってしまうのだろう。そうに違いない。
 イルカの脳みそは飽和状態になっていた。
「カカシ先生……」
「なんですか〜」
「どうして」
「はい」
「どうして……」
 イルカは見開いた目で穴が開きそうなくらいにカカシを凝視する。何を勘違いしたのかカカシは両手で頬を包んできゃーなどと言って喜んでいる。
「なんですか? そんな、見つめられると、俺、あそこが、あっつくなっちゃいます」
 イルカのに告白してしまったからなのか、あけすけだ。怖いものなどないというところか。そんな得体の知れないカカシがイルカは怖い。
「なんですか〜? 愛の告白ですかあ〜?」
 カカシは右手の人差し指をうりうりとイルカの胸のあたりに付けてこねくり回している。その指先も白くて、長くて、爪までもつやりとしている。
「どうして、そんなに、ぴかぴかなんですか?」
 どうでもいいことが口からでた。怒濤のようにどうでもいいことが押し寄せる。
「だって! カカシ先生上忍でしょ? 手入れする暇もないでしょ? ガキの頃から戦場を駆け回っていたんでしょ。ストレスだってあるだろうし、やさぐれることだってあるし、なのになんでストレスなんてひとっつもありませーんなんてつやつやの顔をしてるんですか。おかしい。絶対おかしい。俺なんてかさかさで、火影さまなんてしわしわで……」
「若いから」
 錯乱したイルカの言葉は、最強の一言で切って捨てられた。それを言われたらイルカのような中年はひれ伏すしかない。
「……そっすね」
「もうそんなこといいじゃないですか。俺が若くてイルカ先生がおっさんだってことはただの事実にすぎないんですし」
「…………そっすね」
 表情がひきつってこわばったままのイルカと違ってカカシは身軽に振り返って火影の手をとった。
「ねえ火影さま。俺ねえ、俺も、受け付けの任務やりたい。ちゃんと上忍師もやるし、普通に任務もこなすから、イルカ先生と一緒に受け付けやりたい。ねえいいでしょ」
 カカシが首をかしげてかわいらしくおねだりすると、火影はしわくちゃの顔を更にしわしわにして頷く。
「おお、そうかそうか。カカシは働きものじゃな。よしよし、早速シフトを組んでやるからの」
「もちろんイルカ先生と一緒だよ。絶対だよ」
「わかっておるわかっておる」
 猫撫で声の火影があまりに不気味で、イルカはそろりと手を挙げた。
「あの〜つかぬことを伺いますが〜どうして〜火影さまは〜そんなに〜カカシ先生に甘いんですか〜」
「カカシは不憫な奴なのじゃ」
 くっと火影は目をつむって天を仰ぐ。
「カカシの父はな、木の葉の白い牙と呼ばれたそれはもう、優秀な忍であった。四代目と同等の力があったほどじゃ」
「ええ! 俺、白い牙のファンだったんです!」
「ほんと!? 俺、父上そっくりなんだよ」
 しまった、と思ったが遅い。カカシは顔の前で手を組んで、運命ですね、とのたまっている。
「サクモは、不幸な出来事が重なって、自ら命を絶ってしまったのじゃ。カカシはわずかななつでててなし子になり……」
「俺も、12で両親亡くしてます。つーかそういう忍いっぱいいます」
「だまらっしゃい!」
 イルカの小さな反論は一喝された。
「とにかくじゃ! カカシはそれから健気に生きてきたのじゃ。それが今ちょっとくらいわがままを言っても許されるであろう」
「でも、そんな」
「明日からイルカのシフトにはカカシも共に入るからな。これは命令じゃ!」
「火影さま〜。大好き〜」
「わしもじゃ〜カカシよ〜」
 盛り上がる二人をよそに、イルカはがっくりと膝をついた。
 所詮中間管理職。
 権威のある人間にさからえるわけなどないのだから。








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