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 左目の具合は加速して悪くなっていった。
 やむことなく鈍い痛みが常時左目のあたりを包んでいた。イルカのチャクラが練り込まれた眼帯を当てている時はそれでもまだマシなほうだが、丸一日ももたずにあまり用をなさなくなっていた。
 イルカは頼んだわけでもないのにカカシの元を訪れる時間を早くしていた。あの日から1週間ほど。イルカは何も言わない。カカシも何も言わない。何か言ってしまったらそれだけで崩れてしまいそうな緊張感が漂っていた。
 それでも一度カカシはイルカに触れた。
 あの日カカシが押しのけた時に傷ついた頭部を隠すようにイルカは髪を下ろしたままカカシの元を訪れて治療していたが、さらりと揺れた髪の隙間に肉が盛り上がった傷跡を見て、カカシの手はイルカの側頭部に触れていた。
「傷……。跡が、残ったな」
「たいしたことないですよ。それに俺男だから跡が残るくらいなんでもないです」
 見上げるイルカはひっそりと笑んでゆるゆると首を振る。カカシはイルカの髪を何度かかき上げて、心が望むままに、枕から顔を上げてその傷に口を寄せていた。
「ごめん」と聞こえるか聞こえないかの声で小さく呟く。少し熱を持っている傷跡。なのにその周囲の肌は冷たくて、そのことがとてもとても、不思議だった。
 くすぐったいとイルカの手がカカシをのけようとする。右手の、クナイで傷めた傷も白い跡を手のひらに残していた。透明な人差し指だけがあの日のことなど何も知らぬげにそこにある。浮かぶ気泡がぼんやりと視界を閉める。カカシはイルカの指をくわえていた。人工物にしか見えないのに、温かい。きゅっと口をすぼめて吸い付けば、イルカは笑った。
「カカシさん、赤ちゃんみたいだ」
 イルカの口元から白い歯がこぼれる。カカシはイルカの頭部を両手ではさむようにして引き寄せると、そっと、唇を合わせていた。
 額を合わせたまま目を逸らす。イルカの視線を感じる。息づかいが優しい。ふっとイルカから吐息が漏れる。
「どうしたんですか? カカシさん、変ですよ」
「ごめん」
「……何も、何も謝る必要なんかないです。何を、謝るんです?」
「ごめん」
「だから、カカシさん……」
「ごめん」
 馬鹿みたいに繰り返す言葉。きつく目を閉じて、イルカを抱き寄せた。








 眠りは浅く、ここしばらく熟睡したことなどなかった。だから気配にはすぐに気付いた。開け放しの窓から漂ってくる血の匂い。それはかすかなものだが靄に紛れて入り込んでくる。ベッドから起きあがったカカシはドアを開けて普段以上に真っ白な視界に右目を細める。冷気にぶるりと体が震える。耳を傾ければ、クナイや手裏剣の交わされる金属的な音も届く。
 間違いない。闘いが、行われている。
 どんな敵かは知らないが、この区域に住む者たちだけで闘えるのだろうか。里の忍には違いないが、どちらかと言えば後方支援のような医術を主とする者たちなのだから。
 イルカは、と考えた時、靄の向こうから駆けてくる足音と、声が聞こえた。
「カカシさんっ」
 血相かえたイルカは中忍以上に許される支給服を着ていた。その姿に少なからず驚いたカカシだがそれ以上に、イルカが片足を引きずるようにしていることと、むっとするほどの鉄さびの匂いに顔がひきつった。イルカは白い頬を赤く汚していた。
「イルカ、何があった」
「敵です。どこの里かはわからないんですが、10人以上はいます。今皆で応戦しているんですが、手強くて」
 息を荒げたイルカは歪んだ顔で知らず溢れた涙を乱暴に拭った。その右手には、あのカプセルが握られていた。
 固まったカカシの視線に気付いたのか、イルカがはっとなり顔を上げた。
 すがりついてくる手の力は怖いくらいに強かった。
「俺のこと、信じて下さい」
 いきなりの言葉にカカシは面食らう。
「何を……、イルカ……」
「このままでは、皆死んでしまう。俺たちじゃ勝てない。だから、カカシさんに助けて欲しいんです」
「あ、ああ。わかった。俺が、行く」
 準備をしようと部屋に戻りかけたカカシの腕をイルカが掴んだ。普段のイルカからは想像もつかない強い力にカカシは戻りかけた足を止める。
 イルカはぎらぎらとする目で見上げてきた。
「今のままのカカシさんが行っても、駄目です。その写輪眼で、何ができるんですか」
「俺は、写輪眼なしでも闘っている」
 イルカは激しくかぶりを振る。
「今のカカシさんは、その目のせいで衰弱してるじゃないですか。普段の実力なんて出せるわけがない!」
「じゃあどうしろっていうんだ。お前、俺に助けを求めに来たんじゃないのか」
「だから! 俺のこと、信じて下さい……っ」
 叫んだイルカはカプセルをカカシの眼前に突きつけた。
「今だけ、この闘いの為だけ、この目を入れて闘ってください。終わったら、必ず、写輪眼を戻します。約束します。だから」
 イルカの声は泣き声に近かった。
 カプセルの中、浮かぶ目。にせものの、写輪眼。
 ごくりとカカシは唾を飲み込む。無意識に左目を押さえていた。
「駄目だ、駄目だ……。この目は、とるな。俺は、このまま、闘う」
 唇が震える。ぎゅっと拳を作らないと、足もとから消えてなくなりそうな焦燥がはいあがる。
「カカシさん。俺、絶対に約束を守ります」
 駄目だ駄目だ、とぶつぶつと繰り返すカカシにイルカはすがりつく。
「俺、俺が、あなたを裏切るわけないでしょう? カカシさんが大切だって言うなら、俺だってそれを認めます。認められます! ねえ、カカシさん! 俺のことは、信じてよ。ねえ!」
 カプセルを掴んだままの拳で、イルカはカカシの胸に打ちつけた。思わずよろめくほどの力にふらりとカカシが下がると、急に開けた二人の距離。白い靄の中に、イルカが血を流していた。血を流し、涙を流し、健気に、立っていた。
「イルカ……」
 喘ぐように名を呼べば、イルカは唇を結んで、すっと手を差しだしてきた。
「もう一度言います。信じて、下さい。俺は、絶対に、カカシさんを裏切らない」
 強く、一言一言を区切るように、決然とイルカは言いはなった。
 信じろなんて言葉、いくらでも言える。所詮言葉の上でのことだ。それが果たされなくても、裏切られても、最初からある程度の覚悟をしておけば傷つかない。そんなことで傷つく必要もない。約束なんて、果たされなくても仕方のないことだと、そんなこと、知っている。死なないと言ったのに、皆、カカシを置いていったではないか。果たされない約束のなんと多いことか。
 けれどもしも。
 もしもイルカに裏切られたなら、それはとてもとても、悲しいことに思えるだろう……。
 カカシは大きく息を吸い、心の中のもやもやとしたものと一緒に吐き出した。
「……俺、もし約束破られたら、泣くぞ」
 口の端をきゅっと吊り上げることができた。イルカが潤んだ目を見開く。
 眼帯をはずして、カカシは手を伸ばす。イルカの指に自らの指を絡める。
「わかった。お前のこと、信じるから」








 それからのイルカの行動は早かった。部屋の中、椅子の上にカカシを座らせると両手をカカシの左目の上でかざして練り込んだチャクラで目を引っ張り出す。ぐうっと繋がっていたものから引きずられて、ぷつっと切れる何か。痛みはない。左の視界が消えて、イルカの両手の間にはさまれてオビトの目が浮いていた。清浄なチャクラの中で皮肉にも写輪眼が生き生きとしているように見えた。
「カカシさん、手を貸して下さい」
 言われるまま広げた手の中にイルカはチャクラの膜で包まれた目を寄越した。カカシがそこに目を奪われている余裕はなかった。くっとカカシの顎を持ち上げたイルカは素早く印を切ると、右の人差し指でカカシの落ちた左の眼窩を撫でる。眼窩は開き、目を迎え入れる準備をする。そのまま固定されたところに、イルカはカプセルから目を取りだして、あっという間にカカシの左目にはめてしまった。
 一度目を閉じて、覚悟を決めて、開けた視界。
 目の前にはイルカがいた。信じられないくらいのクリアな視界の中、最近では当たり前のようになっていた痛みは欠片もなかった。
 イルカはそこを動くなと言い置いて、地を蹴った。
 結界で守られているはずの区域の中にまで敵は侵入していた。
 いくつか倒れている忍の中には木の葉の者もいて、息をしていない者もいる。イルカの作業はものの5分とかからないくらいだったが、敵は待っていてくれるわけではない。
 敵は5人。素早い動きで飛び道具をよく使う。だがイルカの作った目はまるで全方位対応のように後ろの敵の動きまでよく見えて、反応速度も申し分なかった。
 チャクラの動き、強さ、弱い部分も見抜けた。敵の繰り出す技に錬られたチャクラの量、咄嗟の返しかたがわかる。それは左目だけのことではなく、右目が呼応するように、見えるのだ。そして、敵の動きの残像が目に刻まれる。写輪眼のように瞬時にコピーすることは叶わないが、センスがよければすぐにでも敵の技を取り入れることができる。
 敵を屠りながら、カカシは内心舌を巻いた。この目をイルカが作ったというのなら、ものすごい技術だ。イルカの力があれば、本当に、血継限界の目でさえも人工に作りだすことができるのではと。
 そう、思った。と同時に、怖いと、思った。








「カカシさん」
 小一時間ほどして、一人を残してすべての敵を倒したカカシは戻ってきた。尋問はまかせて、息を整えつつイルカの元に戻れば、イルカは家の前でたたずんでいた。動けるイルカはけが人の手当てに行かなければならないだろうから、そんなに時間がない。
「カカシさん、怪我は、ないですか? 大丈夫ですか?」
 駆け寄ってきたイルカに対してカカシは呻いた。
「怪我は、ない。それより、早く……」
 イルカの手をとって、左目に導く。
「早く、この目を、とってくれ。早く……っ!」
 余裕なく告げたカカシの言葉をイルカはどう思ったのか。何度か瞬きを繰り返したが、無言で頷いて、立ったままさっきとは逆の作業を行った。
 イルカの作った目が出て行く時になんとも言えない喪失感を感じ、カカシは歯を食いしばる。
 そんなもの、感じてはいけない。カカシにとっての左目はオビトの写輪眼しかないのだから、どんなに素晴らしい性能でも、怖いくらいに合うとしても、カカシは拒絶しなければならない。
 そんな、とってつけたようなことをいいわけのように考える事自体が、もうすでにオビトに対する裏切りだ。それはわかっている。わかっているから、カカシは頑なに拒絶する。
 写輪眼が戻ると、あんなにもクリアだった視界にこの区域のような靄がかかる。そして戻ってくる痛み。取ってしまう前よりもひどい。まるで責められているようだ。せっかくまがい物の体から自由になったのに、何故また戻すのか、と。
 イルカは眼帯ではなく、チャクラを強力に錬りこんだという包帯を丁寧に巻いてくれた。不思議と鎮まる写輪眼の気配。まるでイルカの優しさが子守歌のように浸透していくようだ。
 自らが作った目を両手の平にチャクラで浮かべたイルカはじっと、静かにその目を見つめていた。さきほどまでの戦闘が嘘のような静寂。イルカはひっそりと笑った。
「カカシさん、俺が作った目は、どうでした?」
 真剣に問いかけてくるイルカの瞳が真っ直ぐすぎて、カカシは見ていられなかった。目線を下に向けて、一番ふさわしいと思うことを口にした。
「その目は、俺にはもったいない。俺なんかには」
「そんなことを聞きたいんじゃないです。この目は、カカシさんの役に立ちましたか?」
 イルカの思いつめたような声音に、カカシはぴくりと体を揺らす。
 目を逸らしてはいけないのだなと、考え直してひたとイルカを見つめる。濁りのない、黒い目を。
「イルカはすごい。その目は、写輪眼を、凌ぐかもしれない」
 カカシが強く言い切った言葉に、イルカは目を見開き、次には幸せそうに、目を細めた。
「そう、ですか。嬉しいです。本当に、嬉しい。ありがとう、カカシさん」
 噛みしめるように口にしたイルカは、そして。
 カカシの見つめる先で、手のひらに載った目を握りつぶした。





 

 

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