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 夜中になんとなく目が覚めて喉の渇きに水場に立てば、細く開いた窓越しに雨の匂いがした。霧を掃いたような雨が灰色の景色に重さを加えている。
 朝も昼も夜も色のないこの場所。ここはまるで別世界。同じ火の国の木の葉の里の一部であるはずなのに、なんて遠いのだろう。景色も、人も……。
 昼間、あの男は言った。違う、世界、と。
 それは人から言われずとも、昔からカカシ自身が誰よりも感じていたことだった。
 幼い頃から現れた異能の才。
 忍者としてはたぐいまれな力も人として見れば異質なもの。物心ついた時にはひとより早く走れて、ひとより高く飛べた。自分は皆とは違う。それはただの事実でしかなかったのに、本当は少し寂しいことなのだと思わせたのは、スリーマンセルの仲間。心が通い合ったと思った矢先に失うことになってしまったが、繋がったあの一瞬を信じているし、何にも代え難いものだと今でも心に深く刻まれている。
 違う世界などどこにもない。手を差しだせば伸ばされてくる手があること。
 それをずっと忘れていた。
 上忍にあがりいくつか任務をこなした。里は九尾の災厄に遭い、復興のために遮二無二働いた。少しして暗部に入隊。息つく間もない日々に、心はまるで、簡素な、この灰色の世界のようになっていた。
 別にそれでもいいだろう。このままでも、生きていくことに支障はない。
 だが、イルカと話がしたいと思うのだ。
 この目の治療をするのはイルカがいい。
 きっとあのまっさらな赤子のような黒い目と、透明な指。それがカカシを引きつける。
 眼帯の奥でまたつきつきと左目が痛む。喉の渇きも最近の治療の影響だ。あおるように水を飲んだカカシは、シンクの淵で両手をつく。ふと、グラスの横にある陶器の器の中の色が目についた。
 カラフルな、キャンディー。イルカが置いておいたのだろう。
 ずっと気にも留めなかったそれを手にとり、一つつまむ。途端、口の中に広がるとろけそうな甘さ。強ばっていた顎のあたりが自然と緩む。
 会いたい、と、ここに来て初めてカカシは思った。
 イルカに、会いたいと。







 早朝に起き出したカカシは家をあとにした。
 雨はあがっているが、質感のある白い闇が体を包み込む。朝靄と、霧雨の影響なのだろう。肌寒さにぶるりと震える。上着をはおらなかったことを悔やんだが、今はとにかく進みたかった。
 イルカたち居住者たちの区域はほどなくしてカカシの眼前に現れた。
 枝振りの悪い立ち枯れの木々に囲まれて小さな石造りの家が点在している。カカシにあてがわれている家となんら変わることはない。だが、家の煙突のそこそこから立ち上る煙が生活を感じさせて、それが何故か硬質な世界にあることが不思議な気がした。
 さてここでどうやってイルカの家を探せばいいのかと考える。
 イルカもそうだが、ここには明確な匂いというものがない。個々についてまわる気配がないのだ。皆統一されたような薬品の匂い。それはイルカも例外ではなかった。
 せめて口寄せした忍犬でも使えたなら探すことはたやすいが、さすがにこんなところで私事のために呼び出すことなどできるわけがない。
 窓越し、もしくは気配をひとつひとつに家で確かめていくしかないかと思ったが、イルカの言葉を思い出す。
 小さな庭。
 そこには野菜を植えた。窓辺にはプランター。黄色い花。緑。そんなことを覚えていた。
 気配を絶ったカカシはそこから飛んだ。
 音もたてずに木々を渡って、素早く視線を走らせる。濃いもやの中でも黄色い花や緑なら目につく。そして比較的小さめの家。
 いくつかの木を渡ったところで観音開きの小さな窓の棚に、色があった。
 地面に降りて足を踏み出そうとしたところで、窓が静かに開いた。
 タイミングがいいのか悪いのか、イルカが、顔を出した。
 寝起きなのか、欠伸をしながら伸びをする。日常くくられている髪が肩のあたりまで落ちて、外側にはねている。くしゃりと笑顔になった顔はプランターの花に向けられて、丸い花弁をつつきながら、何事か話しかけている。馴染んでいたイルカの顔。だがしばらくの不在で、イルカの鼻梁にはそこを横切る傷ができていた。まだ肉が盛り上がったばかりのような生々しい傷。体調を崩しているとあの男は言った。それが鼻の傷に関係することなのかと考えた途端、動揺したカカシはかさりと地面の葉っぱで音をたてていた。
 弾かれたように顔を上げたイルカは、木立の横に佇むカカシを目に留めるとめいっぱい目を見開いて、それと同じように口もぽかんと開いた。
 無防備な顔が照れくさくて、カカシは静かに近づいた。
「なに、間抜けな顔してんだよ」
「え? あ、でも、カカシさん、どうして……」
 窓越しに、向かいあう。いつもは下に見ていたイルカを軽く見上げれば、久しぶりに間近にした柔らかな気配に体中から力が抜ける。
 自然と動いていた手が、指先がそっとイルカの顎に触れた。
「その傷、どうしたんだ?」
「え、あ、その、ちょっと、作業中に、ヘマしちゃって。俺、とろいとこあるから」
 照れたようにしどろもどろになるイルカ。
「それは、盛大なヘマだな」
 くすりとカカシが小さく笑むと、イルカはむっと頬を膨らませた。
「どうせね。それより、カカシさんはこんな朝早くにどうしたんですか」
 ストレートに聞かれて、カカシはすぐに答えられない。なんとなく、イルカに会いたくて来たとはとても言えるようなことではなかった。
 無言でいるカカシに勝手に思いを巡らせたのか、イルカの顔が曇る。
「もしかして、写輪眼の調子が悪いんですか?」
 イルカは右手の人差し指のサックをはずして眼帯のほうへと伸ばしてきた。
 透明な、幻想の指。けれどぬくみがきちんとある、肉の指。青と赤の血管も、白い骨も鮮烈でカカシはイルカの手をとった。
「あの男の指は、お前みたいに綺麗じゃなかった」
「あの男? ……ジンさんのことですか?」
「知らない。名前なんて」
「ジンさんは、すっごいベテランなんですよ。子供の頃から優秀な方で、確か10才くらいでこの指も与えられたんです。だから、もう指の同化が少しずつ始まっているんですよ」
「指の同化?」
 頷いたイルカは言葉を続けようとしたが、ふと遠くに視線を投げる。カカシも回りを見れば、あがっていたはずの雨が細く紗で覆うように風景ににじみはじめていた。
「カカシさん、あがりませんか? お茶くらい出しますよ」
 促されてあがったイルカの家は、長方形の箱のような一間の部屋だった。
 小さなあがり口で履き物の泥を落とす。あがり口と向かい合って炊事場。床には絨毯がしかれている。ベッドが壁際に置かれ、その近くには小さなテーブルがあり、ごちゃごちゃとした器具のようなものが積み重ねられていた。
 座るところがないと言われてベッドに腰掛ける。先ほどまでイルカが休んでいたぬくみが残っていた。
「さっきの続きですけどね」
 湯をわかしながらイルカが話し出す。
「俺たちのこの指は年数がたつと、外からは全くわからいなくらいの人としての指に戻るんです。それが個人個人の熟練度にもなるんです」
「じゃあ、お前の指もいずれ、あんなふうに濁って、最後にはただのひとの指に戻るのか?」
「そうですね。でも俺はこれをもらったばかりだから、そうなるのはいつのことやら」
 苦笑したイルカは暖かな湯気をたてるカップを運んできた。
 カカシの隣には座らずに、たててあった折りたたみの椅子を開いて腰掛ける。向かいあう距離が遠いと感じてしまうのは何故なのか、わからないままにカップに口をつける。
 ハーブの香りが心地いいお茶だった。胃のなかが温かくなり、それがじわじわと体をぬくませる。
 同じようにカップをつまむイルカの指を見て、ぽろりとカカシは口にしていた。
「お前の指は、そのままがいい」
 顔を上げたイルカは瞬きを繰り返す。
「俺、その指、好きなんだ」
 思ったままを告げれば、動きを止めたイルカの白い顔が少しずつ、朱を掃く。鼻の傷が鮮やかに紅くなるさまには艶があった。
 唇を尖らせたイルカはもごもごと呟く。
「な、なんですか、いきなり。ずっとこのままだったら、俺、半人前のままじゃないですか。そんなの、無理ですよ」
「無理でも、そのままが、いい」
 重ねて言えば、イルカはぐいーっとお茶を飲み干して、床にカップを置く。そして自らの指を顔の前に持ってくると、ためつすがめつする。
 上目遣いでカカシのことをちらちらと伺いながら、そっと呟いた。
「このままでも、一人前になれる方法、探そうかな……」
「ああ。お前ならできそうだ」
 けっして世辞ではない。カカシはイルカの勤勉さと才能があれば無理な話ではないと思ったのだ。
 イルカは何度も頷いて、指を曲げたり伸ばしたりと嬉しそうだ。そんな様子にカカシの口もほころぶ。
 くつろいだ気持ちが体にも伝わったのか、お茶を飲み干すと、じんわりとした眠気が訪れてきた。そういえば寝不足だったのだと思いだし、そのままごろりと横になった。
「カカシさん? 具合でも?」
 驚いてのぞき込んできたイルカの手を引いて、一緒に横になる。シングルのベッドは二人では狭かった。
「カ、カカシさん!?」
 大慌てのイルカは起きあがろうとするが、指先をとらえて、じっと見つめる。そうしているとじわりじわりとイルカの体の熱があがっていく。
「あの、カカシさん、もう、離してください……」
 どうやら唇を尖らせるのがくせなのか、イルカはうつむいたまま、声を震わせる。
「イルカ」
 その名を口にしてみれば、びくりと震える体。
 目の前で見つめ返してくる目はやはり膜が張った幼児の目のようだった。じっとカカシを見つめて、思いがけないことを言った。
「カカシさん、俺の名前ちゃんと知ってたんですね」
「はあ? あったりまえだろーが」
「だって、初めて、呼んでくれたから……」
 そうだったかとカカシは思い返すが、イルカがそう言うのならそうなのだろう。
 あからさまにカカシに対して好意を示すイルカのほうが何倍もカカシのことを記憶していることだろう。
 温かなイルカの気配に眠気が加速する。きゅっと指先を握ったまま、うとうとしだす。
「カカシさん、寝るんですか?」
「ん。俺、昨日あまり寝てない」
「またあの本読んで夜更かしですか?」
 仕方ないな、と言外に滲ませたイルカを驚かせたくて、眠りに落ちる直前にそっと告げておいた。
「ちが、う。イルカのこと、考えていて、寝れな、かった……」
 そして落ちる目蓋。
 その直前に見たイルカの顔は穏やかな満ち足りたものだった。
 目蓋にそっと触れた柔らかな感触がイルカの唇だったらいいと、心の隅で思った。





 

 

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