兄のように慕っていた存在に過ちとはいえ刃を向けてしまった。裂かれた左目。もみあってよろけた拍子に突き飛ばしてしまった。運が悪いことに壁に頭を打ちそのまま静かに目を閉じてしまう。
 とろりと流れる血が、イルカの視界も染める。声の出ない叫びで顔が歪む。伸ばした手。けれどその手が届く前に体が竦んだ。
 血濡れた兄弟子の顔と、人差し指を千切った自らの手と、ベッドの上で眠る男を見る。
 ぎゅっと、手を握る。爪が皮膚に食い込むほどにバカみたいに力を入れて握る。
 罪をおかしたこの手。誰にも触れる資格はないのだと自らを戒める。
 小さく謝罪の言葉を口に乗せて、イルカはその部屋をあとにした。
 きしきしと痛む体を引きずるようにして地下の部屋から石段を登り外に出る。
 今は静けさに包まれた場所。近いうちに里からの応援の部隊がやって来て、この区域を襲撃した者たちの追跡に向かう。その時はきっとカカシも万全の体調で共に行くことだろう。
 大切な、写輪眼とともに。
 か細い霧雨を身に受けて白い靄の立ちこめた世界を歩む。体が重いのは心が重いからだ。カカシに施したことに後悔はないが、辛い。
 心も、体も、辛い。もうどこにも自分の居場所がない。世界はイルカを置いて遠くに行ってしまった。
 朝になったのか未だ夜なのか不透明な世界を呆然と進んでいたら、目の端に光るものがあった。
 目を細める。
 まぶしさを感じるそれは、彼方から射す、ひかりだった。




   

  

  ] 最終話

        

  




 生まれてからずっとここにいた。
 特殊な医療技術者としての生を受けて、生きてきた。仲間とともに里に行ったことはあるがそれ以外の場所に行ったことはなく、それを不幸だとか、自由にどこかに行きたいとか思ったことはなかった。
 医療の道で、里に貢献して、生きていく。物心ついて学び始めた医の道は厳しいが興味深くもあり、一生かけるには申し分ない仕事だった。
 隠れ里には治療を必要とする木の葉の忍が訪れては去っていく。外の空気を運んでくれる彼ら彼女らに惹かれなかったといえば嘘になる。だがあくまでも客であることに変わりなく、穏やかな無風地帯にたまに吹いて過ぎ去っていく風だった。
 黙々と、医療の道で静かに生きていくのがイルカの望むことで、何も不満に思うこともなく、問題もなく、それでよかった。
 そんなイルカにとってカカシは、初めて治療に携わった人間だった。
 師匠から治療のアシスタントにつくように命じられて近くで接したカカシは、ぴりぴりと尖った空気をまとってイルカたちのことを敵意さえ感じる目で見ていた。なまじ整った顔だけに冷たい視線には容赦がなかった。
 写輪眼という血継限界の希有の瞳が通常体のカカシに移植されていた。その為に目と体が不適合を起こし、定期的な治療の為にカカシはここにやって来ることになったという。
 師匠たち大人は写輪眼に多大なる興味を示し治療に精を尽くしたが、イルカはカカシ本来のけぶる青の瞳のほうが好きだった。写輪眼が治療の為に持って行かれると不安そうに揺れて、すがるような眼差しになるその目が、好きだった。
 カカシは自分と年が近いということも聞いて、勝手に親密感を募らせて、別れの日、勇気を出して話しかけてみた。
「うるせえんだよチビ」
 イルカが今更ながら自己紹介をして、日常のことやら正直どうでもいいことをべらべらと喋ると、カカシはすげない一瞥で切って捨てるように言ったのだ。
 言われたことの意味がわからずに目を見開いて固まったままのイルカに追い打ちをかけるように「うざいんだよ、話しかけんなばーか」と言って去っていったのだ。
 足音高く去っていく姿を呆然と見送ったことはかなり強烈な記憶になった。
 それがカカシにまとわりつくきっかけになったのだろう。
 それからはカカシが訪れるたびに、暇さえあればあとをついてまわった。自分という人間を認識させてやる、相手をさせてやる、と。
 根負けしたのかカカシがイルカに対して呆れたように笑ったのは、カカシを追いかけてうっかり仕掛けにかかり宙ぶらりんで木にぶらさがった時だった。
 ぶらんぶらんと右に左に揺れて、カカシに助けを求めたイルカを見て、カカシは吹きだしたのだ。
「おっまえ、どんくせー。忍者じゃねえだろ本当は」
 逆さまに見たカカシの笑顔。どきりとイルカの心は高鳴った。
 笑うと、年相応の顔になる。
 イルカが思うような、願うようなことではないのだが、その時に浮かんだ思いは祈りになった。
 カカシに笑って欲しい。笑っていて欲しいと。
 だから里の意向にさからって写輪眼をカカシの目におさめたことに微塵の後悔もない。
 自分がしでかしたことの責任は自分でとる。逃げる場所などないし、逃げる気などもうとうなかった。
 ただ、ひかりが見えたから。
 いつだってもやがかる里の景色の中、顔をあげた木立の向こうからひかりが射して、まるでイルカを招いているように、見えたのだ。





 

□□□□




 

「見つけた。強姦魔」
 頬に触れる指先が震えている。
 枯れ葉やら腐葉土に埋もれたイルカは夢とうつつの間を漂っていた。体は石のように固まり、ぴくりとも動かない。ゆっくりと脈打つ心臓はかろうじて動いているかのよう。自分が生きているか死んでいるかよくわからないが、触れる指は温かい。生きている者のぬくみがあった。
 ゆっくりと、覚醒を促すように触れられていると、重い目蓋を震わせて目を開けた。
 ぼんやりとした目の焦点が、いくばくかの後に目の前の人物に結ばれる。その人物がイルカの視界の中で体の力をぬくのがわかった。
 瞳に映るのはカカシ。ぎこちなく、それでもうっそりとカカシは笑った。
「ああー本当にマイッタ。もしイルカに追いつけなかったら俺自信なくすとこだった。ひ弱な中忍にまかれたなんていったら暗部の名折れでしょ。俺たちみんなして暗部の面返すとこだったよ」
 イルカの傍らにカカシはどさりと腰を下ろす。
 その衝撃でイルカにしつこくまとわりついていた小さな虫たちが逃げる。
「でもイルカってばこんなとこに落ちてんだもんな。盲点だったよ。いくら先に進んだっているわけない」
 カカシはまくしたてておかしそうに笑っているが、イルカは思考がまともに追いつかない。脳裏はかすみがかったようで一体いつからここにこうしていたのかもわからない。
 何か言いたいのに、声はでない。口を開けるのさえ億劫だ。だが、そもそも何が、何を言いたいのだろう。今更、カカシに何を言いたいのだろう。イルカがなすべき事は終わった。イルカの見下ろすカカシの左目には写輪眼がおさまっている。イルカがおさめた写輪眼が。
「やっぱイルカは天才かもな。俺を強姦しながら手術したのに、完璧に俺の目になっている。もうこのおかげで絶好調」
 色違いの目を細めてカカシは笑っている。屈託なく、ついぞ見たことがない顔をして。何も言えないから、ただひたすらにカカシを見つめる。
「で〜もあの時はびっくりしたな。いきなりフェラして、騎乗位だろ。ひょっとして俺のイチャパラで学んだのか? イルカは優秀だよな。経験なかったにしちゃあうまかったし」
 瞬きさえ忘れてカカシを見る。
 何をカカシがムキになって話しているか、話している内容もよくわからない。こんなに饒舌なカカシは知らない。いつだって喋るのはイルカのほうで、カカシはうんざりした顔で聞いているのかいないのか、気が向いた時に相づちを打って本を読んでいた。
 そもそもイルカは自分の今の状況がつかめない。
 ひかりに導かれて、そのひかりだけに目を据えて歩いていたら、いきなり地面から固い感触が消え、宙に放り出された。
 突然の落下。そのまま意識を失い、気付けばどこかの穴蔵に落ちていた。空には遠く星がある。起きあがろうと思うのに、なぜか体はしびれたように動かない。しかも穴はかなり深いようで、ゆうにイルカの身長の三倍はあった。
 腹の底から力が抜けていくのがわかった。土と草の臭いと枯れ草の寝床が生物としての安心感をもたらす。ここで朽ちていくのもいいかもしれない。ふと頭に浮かんだ考えは妙案に思えてイルカはひっそりと笑う。
 カカシの願いは叶えた。ちっぽけな自分がたったひとつカカシに残せたのだから、それで充分だ。もろもろの細かな後悔はもういい。そう思って目を閉じたのに、なぜか、カカシが目の前にいるのだ。
 暗部のタイトな衣装が鍛えられたカカシの体によく似合う。だがその体は汚れて、よくよく見れば顔も衰弱していた。
 何かあったのか、と聞きたい。けれど声帯からはかすれた唸りさえでない。かろうじて口を開閉すると、カカシが竹筒から水を含み、イルカの頭をそっと支えて直接水を与えてくれた。乾いた喉には一口の水を嚥下するのも大変なことだったが、辛抱強いカカシの舌に促されて喉を通過させることができた。
 染み通っていった水の力で、やっと、名を紡ぐ。
「カカ、シ、さ……」
 声ともいえないような音。その途端、視界が回る。
 カカシの、胸の中にいた。苦しいくらいに抱きしめられていた。
「……っかヤロー。ふっざけんなよ、イルカ」
 ダイレクトに触れたカカシの体は、震えていた。心臓は怖いくらいに、破裂しそうな鼓動を刻んでいた。
 苦しい。カカシの力はイルカの骨を軋ませるほどの力だ。けれどその苦しさが、カカシの傷みを伝えてくる。カカシはどうしてか傷ついている。慰めたいのに、力が入らずあがらない手がもどかしい。
 この思いをどうやって伝えたらいいのかとイルカが考えているうちに、カカシはゆっくりとイルカの体を離した。
 しばしの間、カカシはイルカのことを見つめた。カカシの目には膜が張り、それが色違いの目を包んで、言葉にできないほどに、きれいだった。
「逃げたかったのか?」
 口を引き結ぶ。決して逃げようとしたわけではない。カカシはかすかに首をかしげる。
「じゃあ、どうして・・・」
 揺れるカカシの瞳がきれいに光る。
 そう、ひかりだ。
 ひかりを目指しただけだ。あのぼんやりと静止した空間に届くひかりに惹かれた。それを伝えたくて、必死になって口を動かすが、言葉にすることはできずひたすらに見つめていると、カカシは胸元からチェーンをとりだした。
 かすかに震えるカカシの手に載っていたのは、イルカの右の人差し指だった。自ら捨てた指。カカシが好きだと言ってくれた指。人工物のそれは細い鎖に絡めとられていた。
「これ、は、こんなのは、いらない」
 カカシはその言葉のまま、ロケットを穴蔵の奥に放り投げる。
 その手でイルカの右手を掴むと。人差し指の欠損したかさついた手をうやうやしく押し頂いて、無様にちぎれた右の第二関節のあたりにそっと口づけた。
 なぜだろう。何も感じないはずの指に温かさが灯る。伏せていた目を上げたカカシの目は強い光を湛えていた。
「イルカが俺にくれるのは、あんなものか。あんなものしか俺に与えられないのか?」
 責めるように言われてイルカは途方に暮れる。元々イルカは何も持っていない。最初からカカシにもらってもらうようなもの、ひとつも持っていないのだ。だからせめて、医療技術者としての技術を。それがイルカの精一杯だったというのに。
 イルカは頭の重さに引きずられるようにけだるく右に左に顔を振る。泣きたい気分だというのに、乾いた体からは一滴も涙は流れない。
「お・・・・・・れ・・・、なに、も・・・・な、い・・・」
 イルカの答えに呆れたような溜息をついたカカシは、とん、と、イルカの胸を押した。
「この命が、あるだろ? 俺がもらってやるから、だから、どこにも行くんじゃないよ。お前ばかだから、俺がずっとついていてやるから」
 照れたように笑ったカカシの顔は泣き顔のように見えた。その端正な顔に、穴蔵の上空からひかりが射す。
 再び伸びてきたカカシの腕。抱擁が温かい。
「俺と生きろ」
 輝くもの。彼方のひかり。
 それは最初からイルカのそばにあったのだ。








 

 

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その後
 



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