〜たどりついた場所〜

      




「ただいまイルカ先生」
 真夜中の任務受付所。補助灯のオレンジ色の電球が小さく灯っているそこに、カカシは音もなく入室した。いつもなら、イルカはすぐに顔を上げる。立ち上がって、カカシの元にやってくる。だが今夜は違った。頬杖ついてぼんやりと机に視線を向けている。小さな吐息。カカシはゆっくりと近づいて、報告書をすっと差しだした。
「カカシ、先生……」
 顔を上げたイルカはまたたきを繰り返してカカシを見つめる。まるでここにカカシがいることがあり得ないことのように、不思議そうなあどけない顔で。だからカカシは苦笑しつつ、もう一度口にした。
「ただいま。イルカ」
「あ、はい……。お帰り、なさい、カカシ先生、カカシ、さん」
「はいただいま」
 カカシは無言で手甲をとって、額当てをはずして、口布をずらした。そしてそっと手を差し伸べる。惹かれるように立ちあがったイルカ。机を間にはさんだまま、二人は抱擁する。互いの存在を確かめる。
「よかった。また、無事に帰ってきてくれた。よかった、本当に」
 噛みしめるように口にしたイルカ。きっと、イルカの心配性は治らないだろう。里の中忍としてアカデミーと受け付け業務をこなすようになって、あれからもう7年も経っているのに。
「無事に帰ってくるなんてあったり前でしょうが。里には、イルカがいるんだから」
 この時間、ここには誰もいない。きっとイルカはカカシの為に深夜の受け付けをしていたのだろう。それも毎回のことで、業務に支障をきたさない限りは火影も大目に見てくれていた。
 しばらくの間互いのぬくみを確かめるように抱擁して、二人は受付所を後にした。





 しばらく留守にしていたカカシの家ではなくイルカの家に向かう。イルカに脱げと言われる前にカカシは自ら裸になる。
 長期任務からカカシが戻ってきた時の儀式のようなものだ。写輪眼の移植がカカシの戦闘中の体力を奪うというハンデを知ってからのイルカは必要以上にカカシの体を心配する。最初、無言で服を脱がされた時はカカシも慌てたものだ。慌てながらも、イルカもカカシに飢えるくらいに待っていたくれたのかと嬉しく思ったりもしたが。
 だがイルカの意図はそれではなくて、もっと真面目な、カカシの体を思ってのことだった。カカシが怪我をしていないか、外傷はなくとも術者に死の術をかけられていないか。医療技術者として長い間生きてきたイルカの見立ては正確だった。
 はじめの頃はカカシだけが全裸になりイルカは服を着たままだった。さすがにそれにはなんとなく気恥ずかしさを覚え、せめて上くらい脱いで欲しいというカカシの意見がとりあげられ、今夜も全裸のカカシをベッドに横たえ、上半身裸のイルカがその体に覆い被さるようにして真剣に検分していた。
 気持ち欲を感じないわけではないが、あまりに真剣なイルカにからかいの言葉をかけることもためらわれ、カカシは大人しく横たわっていた。
 そのうちに、イルカがほっと溜息をついて、カカシに被さってくる。そして耳元で噛みしめるように囁くのだ。
「よかった。カカシさん、無事だ」
 離すまいとするかのように強く抱きしめられ、カカシの心もふわりと高揚し、そして暖まる。
 時計の針の音が優しく刻まれる部屋。常よりきつくカカシにすがるイルカに、カカシはそっと問いかけた。
「俺がいない間に、何かあったの?」
 正直なイルカの肩がぴくりと揺れる。のろのろと顔を起こしたイルカは、黒い目に愁いをたたえ、カカシを見つめた。
「ジンさんに、会ったんです。長期の任務にでる前に」
 カカシは目を見開いた。
 ジンとは、カカシもずっと会っていない。
「あいつが、会いに来たのか?」
「ええ。もしかしたら10年くらいは里に戻らないかもしれないからって」
 イルカは、ジンに呼び出されて、とるものもとらずに大急ぎで約束の飲み屋に向かった。ずっと謝りたくて、感謝したくて、様々なものが心に渦まいて溢れる思いのままジンと向かい合えば。
「ジンさんの左目、なかったんです。代わりの目を、入れてなかったんです」
「え……」
 驚きにカカシも身を起こした。イルカはそっと目を伏せる。
「ジンさんに、どうしてですかって、これからでも入れてから、いくさ場に行って下さいってお願いしたんです。でも、いらないって。まがい物の目はいらないって、言ったんです」
「まがい、もの……?」
 こくりと頷いたイルカはゆるゆると首を振った。
「俺は、ジンさんがどうしてそんなこと言うのかわかりません。欠損したものを埋めることができるのなら、そうしたほうがいいでしょう? その為に医療があるんですよ? なのに、それはまがい物だって」
 医療から手を引いたとはいえ、イルカにとってそれは血肉となっていることだ。ふとカカシは懐かしい光景を思い出す。写輪眼にすがったカカシとつくりモノの完璧な目で代用しようとしたイルカ。ためらうことなくつくりモノの目を握りつぶしたイルカ。
「なあイルカ。確かに、なくしたものを代わりのもで埋めることができるなら、そうしたほうがいい。でも、代わりがきかない、それじゃなきゃ駄目なんだってものもあるんだよ」
「でも、目は、代わりがききます。カカシさんの目だって」
 イルカはカカシの前髪に優しく触れて、写輪眼をのぞき込む。
「そうだな。でも、ジンは、代わりを選べなかったんだ。失った自分の目が、何よりも大切なんだって、わかったんだ」
 カカシは、オビトを生かしたかった。その為に必要なのがカカシの体という入れ物だったのだから選ぶ余地などなかった。
 ジンは違う。イルカに傷つけられて失った目はきっと、ジンにとってはイルカとの繋がりを意識できるものなのだろう。
 イルカはジンのことを心のどこかで傷みとして死ぬまで持って行く。それでいい。失ったものを糧にしてそれでも生きていくのが人なのだから。
「それでジンは、笑っていたんだろ?」
「あの里にいた頃よりも、明るくて、笑ってました」
「ならそれでいいんだ。イルカはジンの選択を認めてやらないと」
 頷けずに目を逸らすイルカをカカシは体の下に抱き込んだ。
「そんなに他の奴のこと考えていると、俺、妬けるんだけど」
 ゆるく立ち上がっている己を茶化してすり寄せれば、イルカの頬はかあっと赤くなる。
「あ、あの、俺。手か、口で、しましょうか……?」
 いつまでもウブなイルカの消え入りそうな言葉にカカシは吹きだした。
「なんですかカカシさんっ。し、失礼な!」
「ごめんごめん。ほぐしもしないでいきなり俺の上にまたがったイルカがさ、そんなこと言うなんて、なんか、おかしくて」
「もうっ。知りません」
 拗ねるイルカを抱きしめて、囁いた。
「このまま、眠ろう」と。







 そうして二人は穏やかに時を渡る。
 カカシにはその夜イルカに言ったことの意味が本当にはわかっていなかった。







 年を経るごとに、あの時に傷めた背中の古傷のせいか、イルカは病に伏せることが多くなり、里外の任務は一切こなせなくなっていった。
 二人が隠れ里を出て共に生きるようになってから、十五年ほどの時が過ぎた。
 半年くらいの長期任務から戻ってきたカカシは、イルカが入院している病院に報告もそこそこに向かった。
 秋の日が窓から斜めに差し込んで、白いイルカの顔にかかる。光に浮かぶほこりがきらきらとして、不思議と綺麗だった。
 そっとパイプ椅子を出してイルカの傍らに座る。
「ただいま、イルカ」
 起こさないように声をかけたのに、イルカはカカシの声に呼応するようにぱちりと目を開けた。
 真っ黒な生まれたての赤子のような目がカカシを認めてとろけるように笑む。
「お帰りなさいカカシさん。無事で、よかったです」
「今回はイルカのほうこそ俺が検分しないとな。こら、元気にならないと脱がせて検分するぞ」
 からかうように告げればイルカが笑う。儚く、笑う。イルカの命の火はきっと他の人間よりも早い速度で燃えようとしているのだろう。それでもイルカは精一杯生きるはずだ。だからカカシも共に懸命に生きるのだ。
 カカシがそんなことを思っていると、イルカは鼻をうごめかせて、眉をしかめる。
「血の、臭いがします。カカシさん、怪我してませんか?」
「わかる? やっぱり聡いね」
 さっさと報告したほうがいいと、カカシは左目に巻いた額宛てをとる。その瞬間、イルカが、息を飲む。
 カカシの閉じられた左目には縦に数本の傷が走り、左目をふさぐように縫われていた。生々しい血の匂いがたつような傷跡だった。
「カカシ、さん……」
 起きあがったイルカはカカシの胸倉を強い力で掴んで俯いてしまう。
 荒い息を必死で整えて、顔を上げた時にはぎこちなく、歪んだ笑顔を見せた。
「俺、どうしたら、いいですか? 代わりになるものをカカシさんにあげたいけど、でもそれはまがい物だし、今の俺にはそんな技術もない」
「そうだな」
 カカシが相づちを打つとそのままイルカはカカシの胸にすがりついたまま静かに泣き出してしまった。
 泣かれるとは思っていなかった。イルカはカカシに傷ついてほしくないと言うが、カカシはイルカに泣いて欲しくなかった。
「泣きやんでよイルカ。あんまり泣かれると、俺も痛い」
 ぐずるイルカの頬を拭い子供にするようにあやしてやる。イルカは潤む目のままカカシを見上げ、何か言おうとするのだが、口がわなないて声にならない。
 カカシはかみしめるように語り出した。
「俺今回死にそうになったんだよね。で、自分の命と写輪眼をはかりにかけたら当たり前なくらい命が大事だった。俺のこの命は、イルカのものだから」
「・・・に、が?」
 カカシの言葉の意味がわからないのか泣き濡れて赤い鼻をしたイルカが腕の中にいる。いくつになっても出会った頃と変わらない、無垢な子供のようなイルカ。胸の鼓動が穏やかに脈打ち、体中にその優しい鼓動が、巡る血のように満ちていく。
 カカシは笑ったが、残った片目から、なぜかするりと涙が伝った。
「この目に、もう代わりはいらない。俺は、俺だけの存在に戻れた。これで残さず、俺はイルカのものだ」
 胸の中のイルカを、カカシというだけの完全な、ただの男が抱きしめた。
 それは初めての抱擁だった。

 

 

 

はなつひかり











読み物 TOP