Nostalgia [






 持ち直した飲み会はその後それなりに盛り上がり、一部の人間は二次会だと騒いでいた。
 イルカは店を出るとすぐに皆から背を向けた。かといって家に帰る気にもなれず、足の向くままに歩いていたら、思いもかけない場所にたどり着いた。
 更地であったはずの土地は小さな公園に生まれ変わろうとしていた。
 里の中心からかなり離れたこの土地はおもに忍以外の職に従事する人々が暮らす場所だった。父は兄弟をアカデミーに通わせてはいたが、他の生徒たちと親しく交わることを嫌っていた。だからあえてアカデミーから遠いところに住まいを定めた。
 公園はちっぽけだった。猫の額のような砂場がなんとか出来上がり、脇にはトラックがとまったまま荷台には鉄材が積まれていた。ジャングルジム、ブランコを作ることで限界だろう。砂場の傍らには木のベンチがあり、イルカはそこに腰を落とした。
 その瞬間に溜息が重く口をついてでた。
 今夜の飲み会は散々だった。あんな痴話喧嘩のようなことが自分を中心にしておこってしまうなど、考えたこともなかった。
 カカシもカガミも上忍だからあからさまにあの場でイルカを揶揄する声は上がらなかったが、明日から中忍同士の世界では何を言われるかわかったものじゃない。
 そっとしておいて欲しいのに。何もかもがイルカを置いて流れていく。
 空は今にも泣き出しそうな重い黒灰色の雲に覆われ、夏だというのに鳥肌がたちそうな風が時折吹く。
 額宛てを外したイルカはそれを砂場に放り投げた。ウエストポーチ、ベストと投げ捨て、大腿部から手裏剣ホルスターを巻く包帯を引きちぎるようにとって、全てを投げ捨てた。
 身軽になったイルカは、こみ上げてくるものに逆らわずに笑い出した。最初はひそやかだった笑いが、だんだんと堪えきれずに最後は腹を抱えてベンチの上に横になった。
 笑いすぎて涙が浮かんでくる。
 何もかもが滑稽だ。
 カカシのいいなりになっていた弟。里に殉じた両親。上忍のくせにイルカをはさんで喧嘩をしようとしたカカシとカガミ。もちろん、一番滑稽なのはイルカ自身だが。
 ベンチの上で仰向けになったイルカの笑いすぎた目尻から涙が伝った。
 自分の意志とは関係なく、里のために忍に戻されたのだから、そこから産まれる全ては自分に責任はなく忍という因果な生き様が悪いのだと、思いこんでいたことこそ滑稽だ。
 若葉は別れの時になんと言った?
 忍だから、イルカとは行けないと、手を取ってはくれなかった。
 けれど結果はどうだ?
 若葉の手に引かれていた子供は、傍らに寄り添っていたのは。
「・・・ックショー」
 イルカは両手を目の上に当てて呟いた。
 近づいてくる気配に気づきたくないのに、相手は気配を絶ったりせずに歩いてくる。
 このまま里を抜けてしまえと本気で考えていたのに、きっとこの男は自分の勝手な理屈でイルカを抜け忍にはしてくれないだろう。
「俺、一人でいたいんですけど・・・」
 カカシは、無言のまま砂場に散らばったイルカの忍具を集めているようだ。わざわざ砂を払っている音がする。それをベンチの背にかけた。
「謝りに来たんです。今日は、本当にすいませんでした」
 指の隙間から伺えば、カカシは深く頭を下げている。高名な上忍がたかが酒の場での出来事で謝罪してくるなどおかしなことだ。カカシは弟とイルカを重ねているから。
「カカシ先生。俺は、あいつじゃないんですよ?」
「わかってます」
「じゃあどうして謝るんですか? 飲み会で、ちょっとふざけただけでしょう」
「イルカ先生、傷ついていたから」
「俺は、傷ついてなんていません。あなたの目は節穴ですか」
「あなたに対して、節穴になんてなれませんよ」
「弟に対しては随分と節穴だったのに」
 意地の悪い気持ちを込めて言った言葉にカカシはふるふると首を振った。
「イルカ先生。もう今更取り繕っても仕方ないよね。もし今ここにいるのがあいつだったら、俺は謝りになんか来ませんよ。あいつのことは愛しかったんだとは思います。優しくしたかったとも思います。でも、もしまたあいつと出会って最初からやり直してみても、同じことを繰り返してしまうと思う。俺とあいつのあり方は結局あれ以上でも以下でもないものなんだ。やり直しなんてきかない過去なんです」
 やり直しのきかない過去。
 その言葉がイルカの琴線に触れた。
 乱暴に目元を拭ったイルカはむくりと起きあがって項垂れた。
「やり直せるものならって思ってたんですよね、心のどっかで」
 顔を上げることもできずに、広げた手のひらに目を落とす。大人の男として標準の大きさの無骨な手。役立たずな手。
「5年前は俺は忍に戻るしかなかったから、いろんなものを諦めるしかなかった。でも今はもうある程度自由だから忍だってやめることもできる。忍じゃない俺なら、受け入れてもらえるかもしれないって調子いいこと考えていたんですよ」
 口元がかすかに震えてうまく笑うことができない。こんな時こそ自分を嗤いたいのに。
「若葉さんは結婚して、子供も二人いました。当然ですよね、5年も経っているし約束した仲でもないわけですし。その相手っていうのが、俺と師の跡目を競っていた忍の男で、今でも忍として任務に赴くこともあるそうです。まあ近いうちに研ぎ師いっぽんになるとは思いますけどね」
 なんとか素っ気ない口調で言うことができた。
 視線の先にカカシの足が見える。このまま見下ろされているのも癪に障るから、思い切って顔を上げた。
 その瞬間ぽつりと雨滴が落ちてくる。遠くでは稲光。
 目の前のカカシは口布を下ろした姿でいつものように猫背な姿勢で立っていた。表情もなく、ただ真っ直ぐにイルカを見ている。
「イルカ先生はその人と付き合っていたの?」
「片思いですよ。でも俺があのまま跡目を継いでいれば俺と結婚していた人です」
「どうして、どうして里に戻る時に、連れてこなかったんですか?」
 カカシはなにげない声で訊いてきた。目は怖いくらいに真剣だった。イルカの中にある本当を全部見つけ出そうとするような色。カカシを睨みつけていたイルカはいつの間にか両手を握りしめていた。
 どうして連れてこなかったかだって? 勿論、付いてきた欲しかった。誰よりもそばに居て欲しかった。でもあの人はイルカの手を掴んでくれなかった。それだけだ。それだけのことだ・・・!
 吐き捨ててしまいたいのに、顔にあたる雨が痛いから、結局また力無く頭を落とした。
「何で、諦めたんでしょうね。里のせいだとか、親のせいだとか。本当にどうすることもできなかったんですかね。5年前は九尾の封印はまだ不安定だったかもしれない。だけど俺が戻って来ても来なくても事態に大きな変化はなかったかもしれない。きちんと確かめもせずに、どうして俺は戻ったんでしょうね」
 ぼつぼつとあたっていた粒が徐々に大きくなり、間断ないものになりつつある。イルカは目を眇める。かすむ視界に浮かび上がって見えてくる真実がある。目を背けていたかったものが今、はっきりと見える。
「結局俺は、勇気のなかった自分を棚上げしていただけなんですよ」
 イルカは結論づけた。
 その時、後ろから冷たい風が吹きつけてきた。その風が、イルカの心をかたくなに守って堰き止めていたものを押してきた。
「若葉さんは、俺のこと傷つけたくなかったって・・・。俺が跡目を継ぐことが決まる前にもうあいつの子供が腹の中にいたんだ。忍であるとかないとか、そんなことは関係なかった。
 傷つけたくなかったって、どんな理屈なんですかね。跡目を継いだ時には俺と結婚するような様子を見せてもし本当に俺があのまま跡目を継いでいたら、どうする気だったんですかね。どうして最初から、本当のことを言ってくれなかったんですかね・・・」
 声が平坦に台詞を読んでいるようになってきた。
 二人の体を打ち付けるような雨が降ってくる。
 イルカは顔をもう一度あげてみた。目の前のカカシがかすむのは激しい雨のせいだと思った。瞳を熱くして奥底から盛り上がってくるもののせいじゃない。
 師から事の顛末を聞いた数日後、師の家から少しの距離にたつ若葉の家を訪れた時に幸せな親子4人に会った。立派になったと屈託なく笑う二人を前にしたら、イルカも笑うしかないではないか。
 イルカにまとわりついてきた小さな子供の邪気のない目が正直憎かった。頭を撫でるフリで、首の後ろに置いた手に力をこめたくなった。
「俺はどうしたら良かったんですかね。火影様に逆らって、あのまま研ぎ師になっていればよかったんですか? それでもし九尾の封印が弱まって何かが起こっていたら、自分のせいだって一生悔やむことになったんですよ。里中の誰も罪悪感なんて感じないのに、俺だけが、悔やんだんですよ。どうして俺だけが、そんな目にあうんだって思うんですよ! 俺なんかが里を左右するわけないのに、俺のせいだって思わずにはいられない。だから、だから俺は・・・・・」
 とうとう、堪えきらないものが頬を伝っていった。
  「もしもの可能性が怖くて、自分のために里に戻った。でも本当は戻りたくなんかなかった」
 カカシの姿がどんどんかすんでいく。雨とは違うぬるいものが頬で混ざり合う。
 嗚咽を堪えて口元に力を入れたイルカは、カカシが集めた忍具をまた砂場に投げつけた。あっという間に砂場にできていた水たまりに浸かったみじめな忍具。まるでイルカ自身のようではないか。
 耳をおおう土砂降りの雨の響き。体中を雨の刃がさしていく。
 夏とは思えない冷気にイルカの体がぶるりと震える。カカシの立ち姿からは寒さを感じているかわからないが、いつにもまして白い顔のなかで唇は青白く、薄く結ばれていた。
 口を開けようとしたカカシは暫時ためらい、結局もう一度砂場にしゃがむと、イルカが投げつけたものを拾い集めた。自分の手が汚れるのをためらうことなくできる限り汚れを落とし、それを差しだしてきた。
「とって、イルカ先生」
 雨に打たれて、イルカは顔をあげる気力もない。
「とるんですよ、イルカ先生」
 イルカは首を振る。頭上からはカカシの溜息が聞こえる。俯いたイルカのことをしゃがんだカカシが見上げてきた。
 銀の髪が濡れて灰色になり、青の目もけぶっていた。まつげに載るしずくが清らかで、とてもきれいなものに見える。両の目の、温かないろあい。
「イルカ先生は忍であることを選んだんですよ。だから、これを受けとらなければいけない。捨てちゃ駄目だ」
「・・・逃げただけなんです」
「違うよ」
 イルカは激しく首を振った。
「違わないんです。火影様は俺に命令なんかしなかった。俺は拒否することだってできた。なのに、俺は」
「だから、イルカ先生は、忍として生きることを自分できちんと選んだから」
 訴えかけるようにカカシは告げた。差しだしてきた忍具をイルカの膝に載せた。ぐっしょりと水を吸った重み。イルカが忍として生きてきた重み。
「俺なんかがイルカ先生に何か言えた立場じゃないのはわかっている。でも、選ぶことの難しさは知っている。イルカ先生は逃げてないよ。絶対に逃げてなんかいない。ちゃんと、この手で」
 カカシはイルカのこわばった手を強く、掴んだ。
「この手で、選んで、掴みとったんだ」
 雨が。
 容赦なく打ち付けていた激しさが、洗い流すような滑らかさに変わりつつある。
 カカシが掴んだ手を奪い返すと、イルカは目の前にじっと掲げた。薄い傷跡が縦横無尽に走っている。研ぎ師の修行が慣れない頃は不用意に切って血を流していた。研ぎ師となるために歩んだ日々がこの手にはこめられている。
「カカシ先生・・・」
 カカシはイルカの声をじっと待っている。
「カカシ先生、この手を、掴んでみてもらえますか」
 震える手をカカシに差しだした。黙ったままカカシは、手甲を脱いだ手でイルカの手を掴んだ。互いの冷たい手が触れあう。ぬくもりを分け合う。
 イルカは口の端を吊り上げて笑みの形を刻むと泣きながら何度も何度も頷いた。雨が降っていてよかった。涙を雨だとごまかすこともできるから。
 カカシはずっと、優しい顔をしていた。
 いつしか雨は柔らかな音に変わり、濡れそぼる二人を優しく包んでいた。

 

 

Z   \
 
NOVEL TOP