Nostalgia Z






 庭から届く鹿おどしの音が静寂に落ちていく。規則的に響く音に目を閉じたイルカは懐かしさにしばし心が陶然となる。
 十畳ほどの和室。今日のイルカは商談に来た里からの客人とのことでここにいた。だがなんとなくこそばゆい気がして、座布団は脇にずらして畳の上に直に正座していた。
 この部屋で師と向き合ったのは別れを告げた5年前。せっかく認めてもらい、跡取りとして未来にすすもうと思っていたのに、ここで平服したのは里に戻る言葉を告げるためだった。
 上座に座った師が深く嘆息して、イルカの腕を、イルカ自身を惜しんでくれたことがあの時何より嬉しかった。
 流れてきた微風が、前栽から緑の香を運ぶ。目を開けて箱庭のように整然としたその景色を映せば、そこで師の趣味である剪定を手伝ったり、供に腕を競った男と修行の合間に語り合った思い出が巡る。かすかな痛みを伴う気持ちが浮かんでくるから、まだ自分は解き放たれてはいないのだなと自嘲気味に思う。
 カカシは、解放されつつあるように思う。
 弟との過去はカカシにとっては複雑な色合いで沈殿してしまっていたようだが、それが塗り替えられ、最後には透明になりそうだ。
 火影の使いで匠の里にしばらくの間向かうと告げた日、なかば強引にカカシに飲みに誘われた。買い付け、注文などが主な仕事だが、イルカを休ませる火影の心遣いもある。火影にはこの先のことを前から相談しているからそれを考える時間も与えられたようなものだ。
 戻る日は未定だと告げれば、カカシは落胆した。イルカが思わず慰めなければと思うくらいに落ちこんだ。
 夏休みの間にはもちろん戻りますから、そうしたらカカシさんのクナイにとりかかります。少し腕を磨いてきますよ。
 いいわけのようにイルカが口早に告げれば、酒をあおったカカシが少し酒臭い息でイルカに顔を近づけた。
 個室の中で額宛てをとっていたカカシの左目の写輪眼のほむらが見えるような距離。好ましくない距離に身を引きかけたイルカの右手にカカシの手が触れた。そのままにこりと微笑まれて、イルカはそこにとどまった。
「イルカ先生。すぐに帰ってきてね。イルカ先生のいない里なんて意味ないから」
 瞳が揺れていた。イルカに何かを訴えかけるような目の色だった。
 気のせい、と片付けてしまうことができない程度には、カカシはイルカの姿を目で追うようになっていた。気配。視線。感じて顔を上げれば必ずカカシと目が合う。そこに含まれているものがわからない。今更、弟への後悔をイルカで昇華させようとでもいうつもりなのだろうか・・・。
 視線の意味がわからないまでも、カカシとは距離を置いたほうがいいのだと、漠然と感じ始めていた。
「待たせたな」
 イルカの思考を断ち切るような凛とした声と供に師が部屋に入ってきた。



 5年ぶりに見る姿だ。
 当時すでに薄かった頭部は今はきれいに剃られており、厳しさしか感じ取れなかった目元は皺を深くして、イルカを見つめる目の色は穏やかで優しかった。
「お久しぶりです。お元気そうでなによりです」
「お前も、息災のようだな」
 5年の歳月を経ているとは思えないほどに自然な空気が流れる。持参した茶器で手ずからお茶をいれてもらい、イルカはひたすら恐縮した。
「なに、今日お前は客人として、里の火影様の使いとしてここにいるのだからな。これくらい当然だ」
 渋めの緑茶ひとつで単純なくらいに気持ちが満たされる。ゆっくりと味わうイルカを頷いて見ていた師は、まずは、と仕事の話をすすめた。
 自らの仕事とするクナイのみでなく他の忍具についても匠の里を統括する役割を担う師は、里からの要望、注文について折り合いのつけられる部分とそうでない部分を明確に分けてイルカに告げた。
 イルカはそれをただ諾として受け入れるのではなく、里の現状、無理をしてでも受注してもらいたいところを説いて、交渉をすすめた。
 師であった人が相手とのことで気負うことはなく、順序よく筋道だてて、急がず無理のない交渉をした。
 互いの要求に折り合いがつき、双方納得して話合いが終わった時には夕刻にさしかかろうとしていた。



「立派になったな、イルカ」
 久しぶりに夕食でも、ということになって、連れだって部屋をでた師と弟子だが、不意に立ち止まった師は、イルカを振り向いた。和服の紬の袖の中に腕を隠すようにして組んだままぴんと通った姿勢のままで振り向いた。
 イルカよりも背が低いはずが、昔から大きく見える存在だった。
「正直、5年前に里に戻ると告げたお前は絶望しきった目をしていた。すぐに忍を辞めるか、続けることができたとしても投げやりに日々を過ごすだけのつまらない人間になるのではないかと危惧していた。だが、それはわたしの思い違いだったようだ。お前は立派な人間になった。運命というくだらないものに負けなかった。わたしはお前を誇りに思う」
「先生・・・」
 師のあけすけな賛辞に、イルカはぽかんとなる。
 滅多なことで褒めてくれる人ではなかった、だからほんの時たま静かに褒めてくれる時の一言は心の奥底に染み通り力を与えてくれた。
 どう反応していいかわからないイルカが馬鹿みたいに口を開閉させていると、柔らかく笑った師の手が伸びてきて、イルカの肩をぽんと叩いてくれた。
 その手のぬくみにいっそう笑みを深くしたイルカは、照れ隠しに鼻の傷をかいた。



 仕事が終わり、あとは旧交を暖めるだけの時間になった。
 居間に入るとすでに膳が二つ用意されていた。
 夏に合わせた刺身を中心にした和食は木々に囲まれた木の葉の人間にとって何よりのご馳走だった。辛みが喉に心地いい冷酒をさしすさされつで師の老いた顔にも赤みがさし、いくらか酔いもまわったころ、ずっと聞きたくて聞けなかったことをイルカはやっと口にした。
「先生。若葉さんは、今どうされているんですか」
 結構な量を過ごしているがイルカはちっとも酔っていなかった。青春と呼べる時期を過ごした懐かしい家の匂いに包まれていながらも、どうしても嗅ぎ取れない香り、師の孫娘である若葉のことがずっと気になっていた。
 若葉は、イルカにとって特別な女性だ。
 この家に弟子としてはいってからずっと面倒を見てくれた5つ年上の、気さくな女性。いつからか若葉を女性として意識して、もしイルカが師の跡目を継ぐことになっていれば結ばれていた。
 イルカが真剣な顔で師の答えを待っていると、杯を置いた師は姿勢を正してイルカの視線を受け止めた。
「実はな・・・」


□□□



 差し伸べた手。
 それをじっと見て、あの人は首を振った。
 行けない。忍に戻るあなたとは行けない。
 そう言われたら、柔らかなその手を掴むことはできなかった。
 何故って。
 あの人の両親はともに忍で、忍であるがゆえに幼い彼女を置いて命を散らしたから。
 忍とだけは一緒になれない、供に行けない。わたしはもう誰にも置いて行かれたくないの。
 イルカが里へ向けて旅立つ夜、あの人は決然と告げた。



□□□




 里に帰り着いた日はあいにくの曇天。冷夏である今年の夏。その中でも最たると言っていいほどの肌寒い日だった。火影の家に赴き、クナイ、そのほかの忍具を届けて報告し自宅に帰る道すがら、夕方の空を見上げたイルカはひと雨来るかなとぼんやりと考えた。
「イルカ先生」
 前方から届く声に顔を向ければ、カガミが手を振っていた。その後ろには見知った忍たちが上忍中忍もまじえて集団でいた。ぱっと見ただけでもアカデミーでよく目にするメンバーで、もちろんカカシの姿もあった。
「今日戻られたんですか? 俺たち今から暑気払いに行くんですよ。と言ってもこの気候なんでただの飲み会ですけどね」
 カガミは屈託なく笑う。
 一時期イルカを熱心に口説いてきたが、最近ではなりをひそめて普通の同僚として接していた。
「イルカ先生も行きましょうよ」
 イルカの返事を待たずにカガミは腕をとって歩きだす。うやむやのまま集団に取り込まれたイルカの横に、カカシが並んできた。
「お久しぶりですね、イルカ先生。少し、痩せました?」
 右目を細めたカカシはイルカを伺うようにして優しく微笑む。匠の里に滞在したのはひと月ほど。たったひと月だがカカシを懐かしいと感じた。
「少し、根を詰めたので、痩せたかもしれませんね。カカシ先生は元気でしたか」
「いえ、あまり」
 カカシには確かに覇気がない。しかしイルカが問いただすより先にカカシがその理由を口にした。
「イルカ先生がずっといなかったから、元気じゃなかったんですよ」
 あけすけに好意を口にされ、イルカは顔を逸らした。そのままカガミのほうに身を寄せる。カカシの追いすがるような気配はあえて無視した。



 行きつけの飲み屋の大部屋を借り切っての大騒ぎが始まった。
 日頃の憂さを晴らせとばかりに最初から皆がハイピッチで、生ビールを運んでもらうのももどかしく、結局はサーバーごと借りて、瓶ビールは一度にケースごと運んでもらった。
 座敷のテーブルに用意されていた大皿料理は瞬く間になくなり、仕事がおっつかない店員は大あわてで、運び人に店の子供までもが借り出された。
「イッルカ先生〜飲んでますかー?」
 馴染みの同僚と端のほうで静かに飲んでいたイルカは後ろからカガミにぶつかられた。カガミはイルカに有無を言わせず持ってきた生ビールをイルカの口に押しつけた。
「カガミ先生、もう飲み過ぎですか」
「そんなことありませんっ! 飲め! イルカ!」
 宴会が始まってまだ1時間ほどしかたっていない。しかしカガミの様子はすでにかなりの量を過ごしたもののそれだった。つるんとした肌を赤くして、目は半分くらい据わっている。
 仕方ないな、とイルカはジョッキを受けとり、ぐいと飲みほした。歓声をあげてカガミはご機嫌だがこの場にとどまったままなため、イルカは隣の同僚に場を詰めてもらった。
「ねえイルカ先生。俺があなたのことどう思っていると思います?」
「さあ。俺はカガミ先生ではないのでわかりません」
「つれないね〜、イルカ先生。そんなつれないところがたまりません」
 くずれるように笑ったカガミはイルカの肩にもたれかかってきた。
「あのねー、俺、イルカのこと好きだったじゃないですか。でも片思いだったから、イルカと同じ顔したイルカ先生にアタックしたでしょ? でもね、イルカ先生違うんだもん」
 カガミは唇を尖らせる。
「顔はそりゃあ同じだけど、全然違うんだもん。正直ね、顔が同じならいいやーって思ってたんだけど、でもやっぱり違うんだよね。俺が好きなのはやっぱりイルカなんだって改めて思ってね。だからもうイルカ先生にアタックはしません! イルカ先生は素敵な同僚です」
 酔っぱらいのカガミはイルカに抱きついてきた。その体をぼんやりと受けとめていたイルカだったが、目の前に影が落ち、顔を上げた時にはカガミの首根っこを掴んだカカシが立っていた。
「ごめんねイルカ先生。こいつ酒癖悪くて」
 影になってカカシの表情がわからないが、苛立っている気がした。首を無造作に掴まれたカガミは暴れた。
「なんだよ、はなせよ、イルカ先生と楽しんでるんだよ俺はあ」
「イルカ先生に迷惑だろ」
「迷惑なんかじゃねえよ。親交深めてんの。ね、イルカ先生」
 再びイルカに抱きつこうとしたカガミをカカシは力任せに引っ張っり、勢い余って壁に打ち付けてしまった。
 たいした音ではなかった、場は盛り上がっていたしそこら中で音がしていたから気に留める人間なんていないと思ったのに、カカシの隠さない殺気が注目を集めてしまった。
 イルカを間に挟んでカカシとカガミが睨み合う。
 近くに居た中忍たちはただならぬ様子に青ざめているのに、カガミはさすがに元暗部でもあり上忍でもあるから負けていなかった。
「なんだよ、カカシさん。あんた、関係ないだろ。イルカ先生はイルカじゃないんだ。あんたが口だす権利ないだろ」
「そんなことを言ってるんじゃない。酔っぱらいが絡んでイルカ先生が迷惑してるって言ってるんだ」
「はっ! 何言ってるんだか。あんたの様子はね、まるで嫉妬に駆られた男だよ。まさかさあ、イルカにあれだけ酷い仕打ちしといて、今更イルカ先生のこと好きだとか言わないよね? それは調子良すぎるでしょ。イルカだって許せないよ」
 カカシが息を詰める気配がする。のぞく右目が剣呑だ。
 カカシが言葉に詰まったのをいいことにカガミは調子づいた。
「ね、イルカ先生。カカシさんはホントに酷かったんですよ。イルカのことなんて奴隷ぐらいに思ってたっていうか実際そう扱ってましたよ。イルカがいいなりになるのをいいことに・・・」
 カカシの体が動く。カガミも立ち上がろうとする。その隙間にイルカの声が割って入った。
「カカシ先生、カガミ先生」
 平坦なイルカの声。だが二人の動きを止めるに十分な力を持っていた。静かで落ち着いた声音。ゆっくりと立ち上がったイルカは二人にむけて笑ってみせた。
「お酒がまずくなりますよ。楽しく飲んで下さい」
 その笑顔は場を和ませるというよりどちらかと言えば威圧感があった。
 二人はさすがに大人げないと気づいたのか視線を逸らした。
 なんとなくしらけた空気になってしまっていたが、場をとりもたせることが得意な何人かが声を上げて明るい空気が少しずつ戻ってきた。カガミは結局その場を出て行ってしまい、頭を下げたカカシも別の場所に移動していった。
 イルカを中心にした一瞬の騒動。だが当事者であるはずのイルカは何も変わらずに談笑を続けた。
 感情の読めない横顔を、一人て酒をあおっていたカカシは遠目にずっと見ていた。

 

 

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