Nostalgia Y
じめじめとした梅雨時。天からの水滴は木の葉を囲む緑を潤してくれるが、例年にない雨の多さに皆が辟易としていた頃、からりと晴れた日があった。
近づく夏を思わせる高く濃い色をした空の青さと、質感のある雲。
イルカもふと足を止めて空を仰いだ。
飛び込んできた光に目を細める。少し汗ばむ肌。夏が近い。
ひやりと頬に触れた冷たさに、没頭していた作業から顔を上げれば、ペットボトルを持ったカカシが立っていた。
「陣中見舞い。休憩しましょうよ、イルカ先生」
カカシは二本の飲み物と水ようかんを持っていた。
イルカが何か口にする前に書見台から修繕中の巻物をどけて折りたたみ椅子をだし、イルカの向かいに座った。
じめじめするねと言って口布を下げてさっさとようかんに手をだす。
そこまでの一連の動作が実に滑らかで、イルカはぼうっとしたまま両手に、修繕用の紙やらのりやらを持ったままだった。
「イルカ先生、甘いの嫌いじゃないよね。ナルトから聞いたんだけど」
「あ、ええ。好きですよ。いただきます」
よかったと微笑むカカシがあまりに自然体で、イルカもつられるように口元を綻ばせた。肩の力を抜けばこっていることがわかり、確かに休憩が必要だったなと思う。
半地下にある書庫は空調はきちんとしてるが、イルカはしめきる必要のない時はできる限り自然の風を入れて作業をしていた。
「イルカ先生一人でここの巻物全部見るつもりなんですか?」
「いえ。そういうわけではないんですが、つい。性分なんでしょうね」
「最近受け付けにもアカデミーの職員室にもあまりいないし、ここでしかイルカ先生に会えませんね」
カカシは少し寂しそうに苦笑した。
カカシから弟の形見を受け取ったその数日後、イルカはそれをまたカカシに戻しに行った。あいつの本当の心は今となってはわからないが、カカシが弟を好いていたことは確かなのだから、カカシにこそそれを持っていてほしかった。しかしカカシは固持して、結局イルカが持ってる。
イルカは職員住宅に住んでおり、仏壇やら両親の思い出を偲ぶものなどひとつもない。いや、敢えて、おく気がなかった。生まれ育った家はすでにさら地になっており、形見の置き場に困ったイルカは机の引き出しに入れるしかなかった。
自分で考えていたよりも弟に対して嫌悪の情を持ってはいなかったことは痛感したが、だからと言って、好きだったかと問われても頷くことはできない。憎しみでも好意でもなく、うみのの家に殉じた者に対する憐れみといった感情が一番近いものかもしれない。弟はイルカのことを好きだったのだとカカシは思っているようだが、それは少し違うと思う。あいつは、自分自身のことこそ愛しかったのだろう。その器としてイルカがいたに過ぎないと思っている。
カカシは弟の形見を持っている資格が自分にはないと言ったが、イルカのほうこそ、手にしていいのかと悩むところだ。あいつと向き合うことができずに逃げただけだったのに。だから形見は机の引き出しの奥にしか居場所がない。
ちらりとカカシを見れば目があう。けぶるような青灰色の目は穏やかだ。
カカシは、時間を見つけてはイルカのもとを訪れる。
あれから弟のことは口にしない。ただ日常の話や子供たちのことを語り、イルカが相づちを打つという構図。イルカからカカシに会いに行くことはなく、話すことも特にないのだが、あまりにカカシが穏やかだがら、イルカの心も少しづつうち解けていっているのだろう。
なんてことのない日々の出来事を自然と語るようにはなっていた。
「カカシ先生、クナイ、まだ入り用ですか」
根を詰めすぎたかと思い、片付けを始めたイルカはカカシに聞いてみた。
カカシはいつも眠そうな半眼をまたたかせた。
「クナイなら、いつも入りますよ? 商売道具ですからね」
イルカの言いたいことがわからないのか、カカシは的はずれなことを返してきた。なんとなくイルカも言葉を続けられなくなって曖昧に応対して、カカシに続いて書庫を出ようとした。
「え? ええ? もしかして・・・」
部屋の鍵を閉めたところで、カカシの幾分興奮気味な声があがる。
「あの、ひょっとして、俺に、クナイ研いでくれるってことですか?」
あせって喋るカカシがおかしくて、イルカは鼻の傷を指先でかきながら頷いた。
「まあ、そうです。本当に俺でよければ、研がせていただきます。確かに忍にとって商売道具ですから、いくつあっても足りないくらいですからね」
「ほんとにほんとですか!? 確か一本100万両ですよね? あー、どうしよう。正直言ってそんなにお金持ってないんですよね〜。安くなりません? あ、でも有り金は全部出します。明日朝いちで届けますから、それまで待ってください。お願いします」
早口でまくしたてたカカシは懸命に顔の前で両手を合わせる。子供のようなその様子にイルカは吹き出していた。
「勿論、タダですよ。あの時は、その、カカシ先生のこと、嫌いでしたから、意地悪したんです。100万両なんて、そんなわけないじゃないですか。確かに俺は研ぎ師の跡目を継ぐ予定でしたけど、今は一介の忍です。研ぎのプロではありません。そんな人間が人から技術として金をいただくなんて、滅相もないです。あ、でも俺薄給なんで、材料費がでたら請求していいですかね」
「あったりまえじゃないですか。じゃあ、手持ちのクナイ根こそぎ持って行きます。今から家に帰ってイルカ先生の家に持って行っていいですか?」
「ちょ、ちょっと待ってくださいよカカシ先生。すぐにってわけじゃないんです。夏の長期休暇の時にでもと思っているんですが」
慌てたイルカが勢いづくカカシを制すと、カカシは目に見えてがっくりと落胆した。
「なんだ〜。夏までおあずけですか〜」
しゅんとなるカカシが本当に子供のようで、イルカはまた笑った。
「あまり期待しないでくださいよ。所詮趣味の領域なんですから、いきなり切れ味がおそろしいほど鋭くなるなんてないんですから」
「でも、イルカ先生は、どんな研ぎ師より心をこめて研いでくれるでしょ」
「かいかぶりですよ。普通です」
歩き出したイルカの横に並んだカカシはご機嫌で、鼻歌など口ずさむ。
無邪気とも言っていいカカシは、端正な大人なのにかわいらしいかんじだ。もしも弟がカカシと恋人としての関係を築けたのなら、優秀な忍としてだけではないカカシを見ることができただろうに。きっとカカシは弟と築くことができなかった、築きたかった関係をなぞりたいだけだ。それも次へと踏み出す気持ちの整理がつくまでのことだ。だからイルカは今の関係を受け入れていた。
「カカシ先生、俺、職員室にまだ仕事があるんで」
階段を上りだしたイルカは、ついてこようとしたカカシを振り向いた。すると思いがけないほどの間近にカカシの顔があり、慌てたイルカは階段の段差に足を取られてカカシに二の腕をとられて支えられた。
「イルカ先生」
ぐっとカカシの手に力が入る。先ほどまでの無邪気さはないが、真っ直ぐな視線だった。
「イルカ先生、今でもまだ、俺のこと嫌いですか?」
カカシの強い視線に飲まれるようにイルカは絡みとられた視線がはずせない。
「・・・嫌いじゃ、ないですよ」
「じゃあ・・・」
言葉は途切れてカカシの瞳は揺れる。
手を離したカカシは、普段通りの気さくな笑顔になった。息が詰まりそうな一瞬の緊張が払拭される。
「じゃあね、イルカ先生。クナイの件は約束ですよ」
背を丸めて去っていくカカシの気が途絶えると、イルカは知らず肩の力を抜いていた。
思い詰めた目の色が残る。
じゃあ、と言ったカカシがどんな言葉を続けようとしたのだろう・・・。
じゃあ、俺のこと、好き?
喉の先まででかかった言葉。口にすることができなかったのは何故なのだろう。
冗談のように軽い口調にのせて言ってしまえばよかった。躊躇ったから、もう何も言えなかった。
廊下の壁に背を預けて、そっと息をつく。口布が苦しくて下げていた。
あいつの形見をイルカに渡すことだできた。あいつへの罪悪感も徐々に昇華させている。だからここでカカシがすべきことはもう終わったのに、気づけばイルカの姿を目で追っている。イルカと会って話すと心が軽くなり、がんじがらめに縛られていたものから解き放たれていく気がする。
自分から訪ねなければイルカと顔を合わせること、話すことができない。イルカは用もないのにカカシを訪ねないし、最近では書庫にこもる仕事ばかりを率先して受けて、一人の世界に没頭しているから。
任務がたてこんでいて、今日は久しぶりにイルカの顔を見た。
カカシがペットボトルを頬に当てるまでカカシの存在に全く気づかずに巻物に目を向けていた。きりりと引き締まった横顔が、研ぎ澄まされた美しさを醸し、カカシはほんの少し目を奪われた。
いつものようにカカシが勝手に喋ることのほうが多い会話。だが今日、イルカはカカシ自身忘れていたクナイの話を持ち出してくれた。本当に、イルカが研いでくれるのなら金なんていくらでも渡すと思ったが、好意で、研いでくれるという。本当に嬉しくて、いつになくはしゃいでしまったら、イルカが、笑った。
今までカカシに向けていた幾分ぎこちないものとは違って、心からと思える笑顔に見とれた。そんなイルカが、前はカカシのことが嫌いだったと言ったことが胸にちくりと引っかかって、つい、腕を掴んでしまった。
間近で見たイルカの顔。健康的な肌の色。驚きに見開かれた目は黒々としていた。掴んだ腕の太さもあいつとは違う。違うと思ったから、言葉が続かなかった。
なんだ。
嫌いだなんていくらでもあいつにぶつけたのに、もしもイルカにそう言われたら、カカシは傷つく。
アカデミーにいるイルカのことが、好きだから。
なんだ・・・。そういうことだ・・・。
あいつに散々ひどいことをしたのに、あいつの兄であるイルカのことが好きだなどと、笑ってしまう。けれど口から漏れたのはかすかな吐息だけだった。もしもイルカに嫌われたらと考えるだけで体が震える。
カカシにすがっていたあいつの気持ちが今なら少しわかる気がした。わかるから、本当に自分はあいつにたいしてひどいことをしたのだと、今更ながら自覚した。
X Z
NOVEL TOP