Nostalgia X






 母からもらった鏡は、最初の頃素直に首にかけていた。それから半年はたっていたと思う。自然な感覚でいつも首にあったから、その存在自体を忘れていたそんな頃。いきなりあいつが、イルカの持っているほうの色がいいから交換したいと言い出した。別にあげてしまってもよかったが、弟への不快感からイルカは頑なに拒み、拒んだくせにぱったり身につけることは止めてしまい、適当な場所にしまいこんだのだ。



 イルカは震えている指先で鏡の横に走る線をなぞる。
「あいつね、戦場では敵を殺すか俺とするかその鏡を見ているかの行動しかしていなかったよ。俺としている時よりも鏡を見ている時のほうが気持ちよさそうな顔していた」
 カカシは馬鹿にした声で語ろうと思うがうまくいかない。あいつはいつもこの鏡を見ていた。鏡としての用はなさないのに、魅入られたように見つめていた。
 まだイルカと体の関係を持つ前、編成されたチームで仕事をした時に、戦闘の合間に鏡で己の顔をじっと見つめるイルカをからかったことがあった。
 イルカはうっとりとした眼差しでその時答えた。
 大切な人を見ていると。
 それはきっと・・・。
「あいつはいつもイルカ先生を思っていたよ。俺のこと好きだって言ってたけど、あいつの中はイルカ先生でいっぱいだった。俺は、多分、あいつのことを・・・・・・」

 イルカは貧血を起こしたように目の前がちかちかして、くらりと脳の中が揺れるような気がしていた。カカシが何か喋っているが耳鳴りで聞こえない。
 馬鹿な弟、馬鹿な弟、馬鹿な弟!
 鏡の中。明らかにわざと入れられた歪んだ線は、イルカが鼻に刻まれたものを思ってのことだというのか。
 こんなものを持って、いつもいつもイルカのことを思って・・・・・・?


「俺、イルカのこと大好きなんだ」


 イルカと同じだけれど、イルカよりも少し低くて、優しく響く声をしていた。
 いつだってイルカに手放しの愛情を向けていた。
 そんなことはわかっていた。わかっていたけれど、重くて仕方なくて。
 逃げた。
 わかっていたが認めていなかったことが体の奥底から体中を駆けめぐる。わーっと押し寄せるもので破裂しそうな気持ちのまま、イルカは握りしめんばかりの力で鏡を手の中にいれて、その場にしゃがみこんだ。
 握った拳を額に当てて、目をかたく閉じて歯を食いしばる。そうしないと狂ったように泣き叫んでしまいそうだ。
 それでも堪えきれない嗚咽が、口から漏れ、眼球はじわじわと溢れてくる涙で溶け出してしまいそうだ。
 弟の顔が思い出せない。一体あいつはどんな顔をして笑っていたのだろう。
 思い出せないことが悲しかった。





 まったく時間の感覚がなかった。
 しゃがみっぱなしで体もしびれ顔中ぐしゃぐしゃだ。立とうとして力が入らずその場に尻餅をついてしまい、すっかり暗闇となってしまった書庫を見渡せば、窓のそばに佇む人影があった。漏れてくる灯りに銀の髪がさらりと揺れている。
「カカ・・・・・さん・・・」
 喉の奥が枯れて声がうまくでない。
 近づいてきたカカシは同じようにしゃがんで、膝の上に両肘をついてほおづえをついた。覗く片目は穏やかだ。
「落ち着いた?」
 カカシは、ずっとそばにいたのだろうか。
 よくよく書庫の中を見れば、書見台の上はきれいに片づいており、床に広げていた巻物もなかった。
「ああ。片付けて、火影様には報告しておきましたよ」
 余計なお世話だったかな、とカカシは肩を竦める。カカシの控えめな心遣いに嫌悪を催すことはなく、イルカは濡れて乾いてかさついた顔をこすった。
「赤くなっちゃいますよ」
 カカシは楽しそうに笑って、手甲を脱いだ右手でイルカの片側の頬を包む。体温の低い手が気持ちいい。
「カカシ先生は、本当に、あいつのこと、嫌いだったんですか」
 それはどうしても確認しておきたいことだった。
 カカシは口では弟のことを侮蔑していたが、結局はイルカの心を試すようにして奥底の本音を引き出した。それは結局あいつのことを愛しく思っていた証でないのだろうか。
 イルカから手を引いたカカシは再びほおづえついて、首を傾けた。
「カガミから俺がイルカにした悪行は聞いてない?」
「それは、聞きました」
「それなら俺があいつのことをどう思っていたかなんて聞くまでもないんじゃないかな」
「でもそれならどうして、あいつの形見を俺に渡したりするんですか」
「鬱陶しいから。嫌いな人間のモノをいつまでも持っていたくないじゃない」
「ならさっさと捨ててしまえばよかった」
「俺も人の子だからね、命の恩人に対してそこまで鬼のような仕打ちはできなかっただけ」
「カカシ先生。それこそ、嫌いな人間にそこまで思いやる必要な全くないでしょう」
 どうしてもカカシの本音が聞き出したいイルカがなじるように言葉を投げると、カカシは両手を髪の中に差し入れて大袈裟なくらいの溜息をついた。
「イルカ先生勘違いしてるみたいだから教えてあげるよ。さすがにあまり気分のいい話ではないうと思うけどね」
 カカシが語り出した内容のえげつなさに、イルカは視界が真っ赤に染まるのを感じた。

  

□□□□□


  

 ぞろりと左目を縦に走った感覚にカカシの目は覚めた。
 視界に飛び込んできたのは焦点のあわない白い顔。
 昨夜の戦闘のあと、高ぶる気持ちのままイルカと何度か交わったあと、疲れていたせいもあって、最近では珍しいことだが供に眠りについた。
 勿論、今ここにいるのはイルカだ。
 イルカの白い顔に、赤い舌。むずがゆく走った感覚がなんなのかすぐに気づいた。瞬間かっとなったカカシはイルカを殴り飛ばしていた。
「おまえ・・・、 何度言えばわかるんだ。気持ち悪いことするな!」
 赤く腫れた頬に頓着することなく、イルカは小さく首を振って悲しそうにカカシを見る黒い目を潤ませた。
「だって、血がでそうで、痛そうだから、かわいそうで・・・・・・」
 いいわけにもならないことを紡ぐイルカの頬をもう一度張った。
「ごめ・・・・・。ごめんね、カカシ。俺のこと嫌いにならないで・・・」
 今までにないほどのカカシの怒りを察知したイルカはすがりついてきた。
 戦いの場ではカカシとて舌を巻くほどの技術と残忍さで敵を仕留めるというのに、カカシの前でのイルカは小娘のように無力な様相を呈した。庇護を求めるか弱い者を演じているようでカカシの苛立ちはいや増した。
 イルカを邪険に払い素早く身支度を調えたカカシはしゃがみ込んだままのイルカを感情のない目で見下ろした。
「変化しろ」
 カカシの冷たい声にイルカは瞬きを繰り返した。



 イルカのことをふたなりの姿に変化させた。
 夜明けまではまだ少し間がある暗がりの森を裸のままのイルカを引きずるようにして連れてきたのは、昨夜の戦闘で捕らえ、今日処刑される予定の敵方の忍5人がいる牢。
 荒んだ空気をまとってはいるが己の運命を悟っている者独特の落ち着きで前に出てきたリーダーの男にイルカを差しだした。
「この世の最後の手みやげだ。こいつ、スキモノの淫乱野郎だから、お前らにご奉仕したいんだとよ」
 イルカは弾かれたように振り向いて、目を見開いた。そこには絶望も恐怖もなく、ただ空虚だけがあるようだった。
 何か言え。俺をなじって、ふざけるなと殴り飛ばせ。
 カカシは訴えかけるような目でイルカを見つめたのに、イルカは、かすかに笑んで、頷いたのだ。
 カカシは自分の力がふっと抜けた気がした。
 リーダーの男は少し考えたようだが、素直にイルカを引き入れて仲間の輪の中に転がした。
 たとえイルカを人質にとっても無駄なことはよくわかっているだろうから、楽しむことにしたようだ。豊満な女の胸と男としての器官を具した淫らな体に男たちは舌なめずりする。
 それから夜明けまでの一刻ほど、イルカが5人の男たちに嬲られるさまをカカシは近くの木に寄りかかってじっと見ていた。
 最初は押さえつけて犯していたが、イルカが無抵抗で感じやすい体であることを悟ってからは獣のように突き上げて、イルカの体をぼろぼろにしていった。
 もしもイルカが一言でも喘ぎ以外の声を上げて助けを求めてくれたならカカシはすぐにでも5人を殺す気でいたのに、最後までイルカは黙したまま男たちの言いなりに犯され、体の奥からは血を流し、胸の飾りの片方は食いちぎられた。



 半死状態のイルカを受け取り、無造作に肩に担いで連れ戻る途中、背中からイルカの小さな声が聞こえた。
 許してくれる、嫌いにならない? と懇願する声。
 立ち止まったカカシは、イルカを下ろすと草むらのなかで向き合い、男たちの精液と自らの血で汚れてしまったイルカの顔の汚れをごしごしと服の袖で拭った。うっとりとされるがままになっているイルカが悲しくて・・・・・・・。
 愛しかった。
 無垢な瞳が少しでも本当にカカシを映してくれたなら、それだけで・・・・・・。

  

□□□□□


  

 イルカの力まかせの拳が頬に飛んだ時、カカシの心をがんじがらめにしていた何かが力を緩めた気がした。
 大きな音をたてて書見台が動く。ぶつかった棚の上から書物がいくつか落ちてくる。
 カカシに馬乗りになったイルカは激情のまま何度も何度も拳を振るった。殴られるたびにカカシの心は軽くなっていくようだった。このまま気絶するまで続けてほしいくらいだった。
 しかし悲しいかな、内勤のイルカの力任せがそう長く続くはずがなく、戦忍のカカシにとっては序の口の程度で、イルカの力は尽きたようだ。口の中が切れているが、歯が折れたわけでもなくたいしたことではない。
 こんな程度であいつは許してくれるのだろうか。
 ぼんやりと考えていると、胸倉を掴まれてぐいと引かれた。普段より開けている視界から、額宛てがはずれていることに気づいた。
 憤怒の形相のイルカは、泣いていた。真っ赤になった目と、頬。
「あんたはっ! サイテーだ! 恥を知れっ!」
 食いしばった歯の奥から、イルカはなんとか声をしぼりだしたようだ。
 鬱陶しい嫌いなイルカをふたなりに変化させて敵の忍に犯させた。
 その事実だけを端的に語った。
 最低だ。確かに、人間の屑だ。
 でもねイルカ先生・・・・・・。
 その最低なことを甘受された俺もみじめだったんだよ。
 あいつは俺を好きだと言った。好きだから、嫌われたくないからって理由で、俺の言うことをなんでも聞くなんて、おかしいだろ? あいつは俺と決して向き合おうとしなかった。ただひたすら俺に嫌われたくないっていうあいつ自身の気持ちとしか向き合っていなかった。俺はあいつに対等でいてほしかったのに。あいつに糾弾してほしかったのに。
 カカシの胸倉を掴んだまま息を整えていたイルカの怒りの目の色がふっと薄れる。
 カカシから手を離して体をどかすと、正座した両膝をきつく握ったまま、頭を垂れた。
「・・・・・・あなたは、最低なことをしたけど、でも、弟も、よくない。カガミ先生が言ってました。あいつ、あなたに嫌われたくなくて、何でも言うことを聞いたって。それは、人を馬鹿にしている。あなたのことが本当に好きなら、してはいけない、納得できないことには逆らわないといけない。伝えなければ駄目なのに、なんでも言うことをきくなんて、カカシ先生のこと、馬鹿にしている」
 吐き捨てるように言ったイルカをカカシは唖然として見返した。
 まさかイルカがここでカカシの心を斟酌してくれるとは思わなかった。
 好きな人の言うことは何でもきく。嫌われたくないから言いなりになる。それは決して特異な構図ではなく当たり前のようにあることなのに、それが耐えられないカカシの気持ちをイルカはわかってくれた。
 一度顔を上げたイルカは、かすかに笑った。
「今度は、俺を殴ってください。あいつはもういないから、仕方ないから、殴られてあげますよ。言いたかったこと、ぶつけていいですよ」
 イルカの言葉が終わらないうちに、カカシはイルカの手を引いて、胸の中に抱きしめていた。
「ごめん、イルカ先生・・・。少しでいいから、このままでいて・・・」
 カカシの声はかすれていた。こみあげてくるものに震えそうになる。
 あいつのことを穏やかな気持ちで優しく抱きしめたことがはたしてあっただろうか。苛立ちのままにいつも乱暴に扱って後悔して、それを繰り返してばかりいた。
 本当はずっと、あいつにこうしたかったのかもしれない。
 素直に力をぬいてくれたイルカはカカシのしたいようにさせてくれた。
 カカシはイルカの頭に頬を載せて、優しくイルカの頭を撫でながら、目を閉じた。
 目蓋の奥ではあいつが笑った。
 カカシさん、とはにかみながらも小さく呼ぶ声が聞こえた気がした。

 

 

W   Y
 
NOVEL TOP