Nostalgia ]






 窓から入ってくる街灯の明かりのおかげで、カカシの姿は寝ぼけた目でもよく見ることができた。
 ベッドで眠るイルカの横にかがみ込んで、震える手でイルカの熱を確かめている。
 血の匂いはしない。銀の髪の上のほうに動物の面をかけ、額宛てもなく口布も下げている。青い目と、赤い写輪眼。線の細い鼻筋にうすい唇。両肩がむき出しになる独特の暗部の装束。左肩には入れ墨。弟も同じものを持っていたのだろう。
 カカシはなにも言わずに瞬きさえ忘れてイルカをくいいるように見ている。何か口にしたら今イルカに触れている、イルカの目が開いていることが幻のように消えてしまうとでも思っているのだろうか。仕方ないな、とイルカは布団のなかから手を出して、カカシの手首を掴んだ。
「せっかく助かったのに、心臓が止まりそうなことしないでくださいよ」
 イルカの憎まれ口にカカシは無反応だ。手首も掴まれたまま、もぞもぞと動き出すイルカを見ている。
「カカシ先生。惚けてないでくださいよ。用がないなら帰ってください。夜中に不法侵入なんて、俺はそういう礼儀知らずは許しません」
「許さなくてもいいから死なないで」
 いきなり、カカシはイルカの手を掴み返した。そのまま引き寄せて、息がかかるほどの距離で色違いの目の中にイルカを写す。
 きれいな色合いだ。血なまぐさいことなどひとつも知らないかのように澄んでいる。
「だから、さっき言ったじゃないですか。心臓が止まりそうなことするなって。そんな俺が死にたいわけないでしょう」
「死なないで」
「死にません」
「お願いだから死なないで」
「・・・お願いされなくても死にません」
「お願い・・・! イルカ先生!」
 とうとうカカシはイルカの頭を腕の中に抱え込んだ。
「ちょっ・・・カカシ先生」
 抜糸したばかりの首筋の傷にあたって痛いのに、カカシは頓着せず力を込める。もがいて逃れるほどの力は今のイルカにはなく、大人しく力を抜いた。すると、カカシが震えていることが伝わってきた。小さく、弱き者のように震えている。イルカの言葉を聞かずに、自らの内でカカシの心は渦巻いている。
 血まみれのイルカを見つけたカカシ。きっと、イルカが想像する以上の衝撃を与えてしまったのだろう。半狂乱になったカカシは火影の活で正気を取り戻し、カカシの手が必要な任務に向かわせたとのこと。生死の境をさまようイルカをおいていくことは、カカシにとって身を裂かれるほどに辛いことだったのだろうか。こんな、正気を失わせるほどに・・・。
 身じろぎするのが難しいしめつけのなかからなんとか片手を動かしたイルカは、慰撫するようにそっとカカシの柔らかな髪に触れた。カカシが気づくまで待とうと、静かに触れた。

 弟もきっとカカシに触れて、触れられたかったのだろう。
 見舞いに来てくれたカガミが言っていた。
 あんなに動揺するカカシを初めて見たと。あいつが死んだときも涙を見せなかったカカシが、イルカの酷い状態に我を忘れるほど取り乱したと。だからカカシはきっと本当に、イルカのことが好きなのだと、カガミは言った。
 今更になって弟への思い、後悔がイルカに対しての気持ちにすり替わったのかもしれない。そうじゃないのかもしれない。どちらでもいい。ただ、イルカの不注意でカカシを傷つけたことを申し訳なく思う。

 暖かさにうとうとして、カカシの髪に触れていたイルカの手が落ちたその瞬間、いきなりカカシが身を離した。
 イルカの両肩に手を置いて、まじまじと見つめるその目。正気を取り戻した光が見えて、イルカは安堵に息を吐き出していた。
「大丈夫ですか、カカシ先生」
「大丈夫って・・・。あなたこそ、傷は、もういいんですか・・・?」
「ええ。抜糸も済みまして、リハビリしつつ、アカデミーの仕事も始めてますよ」
 頷くイルカに、カカシは口元をわななかせる。
「どうして・・・自殺なんか・・・」
「だから自殺なんかしようとしてませんって」
「でも、イルカ先生、クナイで首を切ってたじゃないですか!」
「確かに自分で切りましたが、自殺したんじゃありません。自殺しなきゃならない理由なんてないですよ」
「でも・・・!」
「あー、でもじゃなくて、それよりカカシ先生。クナイ、戻して下さい。勝手に持っていったやつ、完成品じゃないんですよ」
 カカシはよりによってイルカが首を切ったクナイを持っていったのだ。
 むすっとした顔で手を差しだすイルカにカカシは首を振った。
「駄目です。あなたにクナイなんか渡したらまた・・・」
 これみよがしな大きな溜息をついたイルカはカカシの手を両肩から払うと、カカシの胸倉を掴んだ。
「ちゃんと説明するから、クナイ、出しなさい」
 駄々をこねる子供を脅しつけることはお手の物だ。イルカの迫力に、カカシは素直に頷いた。



 明かりをつけなくとも、外からの少しの光で充分だ。ベッドで上半身を起こしたまま、イルカはしばしの間、クナイを手の中で検分していた。カカシから渡されたクナイのなかのひとつ。あの夜はやけに調子がよくて、全く眠気が訪れず冴えた目と心で研ぎ始めた。
 今は下忍の担当をしてるカカシだが誰よりも実践にちかい場所で生きている。そのカカシが過不足なく振るうことができるものに磨き上げなくてはならない。あんなにも心を尽くして研いだのは久しぶりだった。久しぶりの感覚に我を忘れてしまったことがそもそもの原因。
「カカシ先生。このクナイ、使ってませんね」
 イルカが苦笑すると傍らに立ったままのカカシは頭をかいた。
「それは、お守りのつもりで持っていったんですよ。というより、願掛けかな。このクナイを使うような事態にならなければイルカ先生は助かっているはずだって」
「願掛けか・・・」
 そういえば、男のくせに結べるほどまで伸ばした髪も、願掛けだったなと、今更ながらイルカは思い出す。
 心の強い人間になるために。その願いはきっと未だかなえられてはいないだろう。
「この傷ですが、自分でやったのは間違いありません。でも本当に、自殺なんて馬鹿なことしようとして切ったりしたんじゃないですよ」
 パジャマ代わりの長袖シャツの上からガーゼをあてられた傷跡に触れる。
 10針縫った。血は溢れるようにでた。真っ赤に染まった視界に舌打ちしたところで急速に意識が途絶えた。火影のはなれの畳は交換せざるをえなかったと聞いた。血の海に倒れる自分にカカシの血の気こそ引いたことだろう。
「心配かけましたね、カカシさん」
 イルカは素直に頭を下げた。
「この傷、簡単に言いますと、事故なんです。俺の不注意が招いたことなんです。こんなに深く切る気はなかったんですが、夢中になってたようです。ざっくりやっちゃいました」
「深く切る気はなかったって、どういうつもりだったんですか・・・」
 カカシは呆れた声をだす。
 それはそうだろう。首を切るなどおいそれと行うようなことではない。だがちょっと試してみたと簡単に話してしまえば、それは回答の核心の部分でもあるのだからそれですむ。イルカがそれだけだと言い張れば、カカシにはそれ以上問いつめる権利などない。
 一瞬、気弱な自分がもたげてきたが、あの雨の夜にカカシが口にしたように、今更取り繕っても仕方がない。少し長い話だが、カカシは聞いてくれる。
「病院で眠っている間に、子供の頃の夢を見ました。もうずっと忘れていました。忘れたかったから、思い出さないようにしてたんですけどね」
 クナイを右に左に手のひらで遊ぶ。
「父に命令されて、弟と二人で野犬を狩ったんです。かなりの数がいましてね。半分は仕留めて、残りの半分を訓練のために使ったんです。俺の発案で、野犬を追って、嬲るように殺しました。敵を相手にした場合ってことでとシミュレートして。容赦なく殺しました。まだ本当に敵と戦ったことがなくて、その感覚がわからなくて、だから、試したかったんです」
 イルカは顔を上げてカカシに笑いかけた。
「本当に生きているものを、動くものを相手にしなかったら俺にはわからなかったから、それを知るための手段としては当たり前のように思ってたんです」
 カカシは黙っている。先を促している。
「そんなことがまかり通ったら忍の訓練は人を殺さないと成り立たなくなってしまう。里の人間を守るための存在なのに、殺すために殺す訓練をする。なんか、とにかく、本末転倒なんです」
「でも、多かれ少なかれ、実践を考えれば、イルカ先生と同じように思う人間はいるでしょう」
「いると思いますよ。でも、訓練と実践の境はきちっとあって、そこと折り合いをつけて皆技を磨くでしょう? 人を殺す訓練をしないと上達しない技なんておかしい。それは実践で掴みとっていくものですよね。俺もそれは今ではわかっているんです。わかっているんですけどね」
 クナイを両手で握る。左の首の根、傷の上に当てる。カカシの息をのむ気配がしたが、手を出してはこなかった。
「切れ味を、試したくなるんです。接近戦の時は一瞬で敵を仕留めなければならない。そんなときは頸動脈を断ち切るのが一番ですよね。だからどれほどの切れ味かを自分の体で、試すんです」
 歯をねかせて、肩の上で滑らせてみせた。
 イルカの傷は出血のわりに治りも早く傷跡も綺麗に縫い合わされた。それは要するにこのクナイが業物であるということだ。まだ完成品ではなかったが、まずは満足のいく出来。そんなことを病院のベッドで思い安心した自分はやはりどこかたがが外れているのかもしれない。
 布団の上にクナイを置いたイルカはシャツを脱いだ。
 秋の気配の色濃い夜気にぶるりと身を震わせた。カカシを見ればイルカの意図するところがわからないのか、とまどいに瞳を揺らしている。
「カカシ先生、俺の体、内勤の中忍のくせに傷が多いと思いませんか?」
 見てみろといわんばかりのイルカが軽く手を広げると、カカシは伏し目がちながらもイルカの体に視線を動かした。
「俺はわずか5年前に忍に戻ってそれからずっと内勤なんですよ。たまにこなす任務もせいぜいBランク止まり。そんな忍がこんなに傷をつけるわけないでしょう?」
 イルカの体には比較的新しい傷が歴戦の勇者のように走っている。突かれたもの、裂いたものが点となり線となっている。任務上ついた傷というには不自然すぎる、拷問にでもあったようなわざとつけられたような跡。
「これね、8割方は自分でやったんです。研ぎ師の修行をしている時からそうでしたが、忍に戻って頼まれて刃物を研ぐ時にもつい、やってしまうんです。これはどれくらい切れるんだろうって、深く考えもせずになんでもないことのように自分の体を突いてみるんです。不思議とそういう時、痛くないんですよね。それよりも切れ味がいいと満足して気持ちいいくらいなんです。この5年間、自分のことおかしいと思うこともなく自然としてきたことなんですけど、今回のことで、俺は・・・、俺も、やっぱりうみのの人間なんだなあって自覚しました。ちょっとここが、おかしいんですよ」
 イルカは自分の頭を指さして笑った。
「弟のこと、散々狂った人間だって思ってました。思おうとしてたんです。俺は幼い頃に野犬を無惨に殺してからさすがに自省しましてね、生き物をかわいがろう、みんなと同じでいようと自分を戒めてきました。でも結局は中身は弟と同じものが流れていたってことなんですよね」
 イルカは吐息を落とした。
「でも、その自覚は嫌じゃないんです。なんといいますか、覚悟ができました」
「覚悟?」
「はい。俺はもう過去のことがどうのって振り返ったり後悔したりしないで、きちんと、忍として、生きていこうと思いました。あの夜、カカシ先生も、言ってくれたじゃないですか。俺は忍を選んだって、忍として生きてきたんだって」
 照れくさくて、イルカは鼻の傷を指先でかいた。目を見開いたカカシは、まだ小さく震えたままの手のひらで、イルカの片側の頬を包んだ。
「・・・嬉しかったんです。適当なこと言いやがって、なんてつっぱねる気持ちにはならなくて、素直に嬉しかったんですよ」
 耳の裏側をくすぐるように撫でるカカシの手をやんわりと除けて、イルカはシャツをまた着てしまった。
「以上、告白終わり。前向きになった俺が自殺するわけないって信じてくれました? もしあのまま死んでいたら後悔でばけてでましたよ」
 唇を尖らせるイルカにカカシはやっと体の力を抜いてくれた。
「イルカ先生。こう見えても俺心配のあまり何度か敵にやられそうになったんですよ。こんな俺にご苦労様のご褒美はないんですか?」
「情けないなあ。でも火影様に口添えぐらいしてさしあげますよ。カカシ先生はめちゃくちゃ頑張ったって」
「そんなことよりもう一回脱いでくださいよ。さっきは動揺しちゃってちゃんとイルカ先生の体見なかったんですよ」
「やですよ。元気になったら風呂ぐらい一緒に行ってあげますからそこでじっくり見ればいいでしょう」
「そんな公衆の面前で鼻血噴いたら恥ずかしいじゃないですか」
「ヘンタイですね」
「そうですよ。ヘンタイなんですよ」
 軽口の応酬。顔を見合わせて、どちらからともなく吹き出した。
「まあカカシ先生が我慢できるのなら、泊まっていってもいいですけど」
「俺はこう見えても紳士なんです。病人に無体なまねはしません」
 言いつつカカシは暗部装束のベストを脱いで身軽になると、イルカのベッドの横の畳に座った。まるで寝ずの番でもかってでたようなカカシだが、任務帰りで疲れているはずだ。ここで客用の布団を敷くことを提案してもきっとカカシはイルカのそば、より近い場所に居ることを望むだろう。自分で誘った手前、無碍にはできないなと、イルカはぼんやり考えた。
「カカシさん。どうぞ。せまいですけど、一緒に寝ましょう」
 イルカは体をずらして布団を捲った。
「いいの?」
「ですから、へんなことはしないでくださいよ」
 頷いたカカシは手放しの笑顔を見せて、イルカの横にすべりこんできた。
 片肘ついて横向きになると向かい合ったイルカを笑顔で見ている。うれしさが満面に溢れた様子が少し気恥ずかしくてイルカはそれを隠す為に呆れたような溜息をついた。
「むさい男と一緒に寝て嬉しいもんですかね」
「むさくても、好きな人だから。嬉しいよ」
「そんなこと言って、寝てる間に俺はきっと歯ぎしりもするしいびきもかいておならとかもしちゃいますよ。朝になったらよだれとかたらしてうっすらどころか剛毛なひげが生えてて・・・・・何嬉しそうに聞いてるんですか」
「ごめんごめん。なんか、初めてイルカ先生と肩の力抜いて普通に喋っていると思ったら、嬉しくてね」
 身を乗り出したカカシはイルカがよける間もなく、額にキスをひとつ落とした。
 唖然としたイルカだが、それでも顔が赤くなったのがわかり、カカシを睨みつけた。
「は、恥ずかしいことしないでくださいよ」
「うん。ごめんなさい」
 カカシの顔といったら。難癖をつけるのがばからしく思える極上の笑みにイルカは脱力した。
 諦めて目を閉じると、ゆっくりとカカシの腕がまわされ、胸の中に抱き込まれた。イルカの傷に気を遣いつつも簡単にははなしてもらえないくらいの気持ちは感じる。
 まあいい。
 暖かいから、許してやろう。
「おやすみなさい。カカシ先生」

 

 

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