森の魔物 肆
「イルカはレイタを連れて指示に従うこと」
それがまず最初にカカシから指示されたことだった。あんなにぐずっていたレイタはぴたりと泣きやんだまま、イルカの胸の中に身動きせずにおさまっている。水晶玉のような目は恐怖に潤むこともなく、ただ一点に据えられていた。
木々の枝を渡る影がある。敵は何をするつもりなのか、6人がいるテントを超えて行く。いくつかの影を見送ったあと、カカシはイルカたちに向き直った。
「おそらく、結界を張られた。今渡って行った奴らは中から攻撃するんだろうな。で、外にも待ちかまえているわけだ」
他人事のようなカカシの声。部下の3人も頷いただけで、何も言わない。いずれも落ち着いたものだ。レイタでさえ、黙然としている。イルカだけが、身の底から上がってくる武者震いともおびえともとれる何かに体温が冷えていくのを意識していた。
もわんとした禍々しいチャクラに森中が取り巻かれてしまった気がする。風が途絶え、月明かりももやがかかったように映る。暗がりの森で、何が起こるのか全くわからない。初めてのいくさ場での戦いに、イルカの喉はごくりと鳴る。
「イルカ」
写輪眼を露わにしたカカシは、厳しい声音とは逆に優しい顔をしていた。
「これからみんなと合流する。ちょっとここは離れ過ぎているから、敵が仕掛けてくるかもしれない。だからイルカとレイタを真ん中にして走るから、とにかくイルカの速度で走れ。俺たちが二人を守るから」
守る、という言葉にイルカは顔を歪ませた。
「俺も、戦う。これでも下忍なんだから」
「イルカ一人なら、そうしてもらうさ。でも今はレイタがいる。レイタを守るのが、イルカの仕事。最初からそうだっただろ」
「でも、そんなの・・・」
「なんだよ〜。レイタを守るのが嫌だって言うのかよ」
「嫌なんかじゃない。でも俺だけ守られるなんて」
「自分より弱い奴を守ることの何が問題なんだ? 敵と渡り合って戦うことだけが忍のいくさなのか? もしそう思っているなら忍なんか辞めちまえ」
「カカシ・・・」
言葉に詰まったイルカの代わりに3人がカカシを避難めいた目で見た。
けれどイルカにはわかっている。おそらく3人だってカカシと同じ気持ちだ。守ろうとしてくれる気持ちは嬉しくないわけがない。だが、階級が下だから、赤ん坊を連れているからと言って守られるだけに甘んじていいのかという気持ちが抑えようもなく沸いてくる。
だがイルカが指示に従わず勝手をできるはずもない。そんなことをすれば切り抜けられるものも切り抜けられなくなってしまう。わかっている。わかっている。従うしかない。それなのに反論してしまう自分は、図体ばかりがでかくててんでガキだ。
「・・・ごめん、カカシ。俺、レイタを絶対に守るから」
イルカがぎこちないながらも笑えば、カカシは大袈裟に溜息をついた。
「頼むぜ〜? 人一人守るってのは殺し合いなんかよりよっぽど大変なんだからな」
冗談のように茶化したように言うカカシだが、イルカはレイタを見つめて強く頷いた。
確かにカカシの言う通りだ。イルカは仲間を守りたい。守りたいから、忍になりたいと思った。どんな命だろうと代わりはない。
「じゃあ〜、イルカの機嫌も直ったことだし、行きますか?」
休戦の話し合いが進んでいることで油断していた。
子供だけのカカシのチームは大人たちから離れて、森の端にテントを構えていた。カカシたち以外は比較的寄り集まって滞在していた。一番近いアスマとガイのテントまでイルカの速度に合わせて駆けて10分ほどだろうか。
カカシを先頭に、すぐ後ろにイルカがつく。イルカの右にキヨ、左にタカ、後ろにテツがいる。どっしりと普段は動きが鈍そうなテツは音もたてずに走るし、キヨの鼻水は引っ込み、綺麗な丸刈りになったタカも鋭い目をしていた。
覚悟の決まったイルカは紐で支えたレイタを胸に器用に走っている。4人に手加減されないくらいの充分な速度は保っていた。レイタのぬくもりが不思議と頭を冷静にして、イルカたちとともに移動する頭上の気配を感じることはできた。
探るように飛んできたクナイはキヨとタカが弾き返す。後方からは風を切るような音に続く金属音。テツは無言で処理をする。明らかに迫ってくる敵の気配にイルカの額から冷や汗が伝う。4人は何も言わない。飛んでくる武器をかわし、カカシの薙いだ一閃に視界の隅を倒れていく影がよぎる。ふと散った鉄さびの匂いにイルカの心臓は大きくはねる。
もうとっくに味方の誰かとかち合ってもいいいのではないか。6人が離れて合流していないことは明白なのだから助けに来てもいいではないか。それとも、味方はみんなあっという間にやられて、この森にいるのは子供だけなのではないだろうか。
もしもそうなら、生きて戻ることなどとうてい無理だ。いくらカカシが写輪眼でも、上忍でも、多勢に無勢だ。そうしたらまず最初に、弱いイルカとレイタが狙われる。抵抗する間もなく殺されてしまうだろう。
レイタが急に冷えた気がして胸元を伺えば、白目を剥いて、口からは泡と血がない交ぜになったもの、鼻からはどす黒い血を流していた。
ひっ、と呼気をかするような息がでる。わななく口で何とか名前を呼ぼうとした矢先、レイタが牙を剥いてイルカの首に食らいつこうとしてきた。
咄嗟に。
レイタを投げ捨てたい衝動が刹那にも満たない時間でイルカを支配する。でも違う。おかしい。そうじゃない。レイタは、守る。守らなければならない存在。迷い、のけぞる体。固定した紐のせいもあったが投げることなど出来るはずはなく、走る速度を殺すことも出来ずに急に止まったイルカはその場で無様に転んだ。
「・・・イルカッ!」
強く抱え込んだレイタの熱。右腕上腕のあたりに鋭い痛みが走る。目を開けたイルカの腕の中で間違いなくレイタはレイタの顔をしてイルカを見ていた。
ほっとしたのも束の間、覆い被さる影は鋭く光るクナイを持っている。うおおお、とテツの声。イルカのせいで一緒に転んでしまっていたのに体勢を立て直してイルカを突き飛ばす。イルカの目の前で、テツの体が倍くらいに膨れあがる。ゴムのような塊のテツは敵の手裏剣を弾いたが、頬にはすでに千本がいくつか刺さっていた。
千本が刺さった頬からはうじのようなものがにゅるにゅるとはい出てきて、テツの分厚い唇に吸い付き、じわじわと食らいつく。肉が浸食されるおぞましさにイルカは堪えられなかった。
「ぅあ・・・あ、ああああ・・・・・!」
無意識に腕に刺さっていた手裏剣を抜き取り、テツの顔面に向かって投げつけた。
本能が命じた技は思いがけずテツの顔面に真っ直ぐに向かった。
「イルカ!」
テツを救ったのは、手甲をつけたカカシの小さな手。イルカの投げた手裏剣を手のひらで受けて、そのまま恐怖におののくイルカの前まで突進して血にまみれた手で、イルカの頬を張った。
「しっかりしろ! 幻術だ!」
「げん、じゅつ・・・」
「俺たちはちゃんとここにいる。ちゃんと生きてるからな!」
息がかかるほどの近さで、カカシは怒鳴りつけた。しかし敵に襲われている今イルカをなだめすかす余裕はなく、すぐに身を翻すと囲んできた敵に向かう。
武器を弾く耳障りな音が継続的に続く。座り込んだままのイルカとレイタを守って、4人がそれぞれに敵と応戦している。
がちがちと歯の根があわずにイルカは震える。腕の中のレイタを恐る恐るそっと見れば、目を見開いたまま固まっている。
4人と敵を見れば、相変わらずテツにはうじが顔に張り付いているし、キヨは両肩に粘着質なぬるりとしていそうな物体を貼り付けて戦う。タカの丸い坊主頭はところどころ骨がむき出しになり陥没している。カカシは、その中でカカシ一人、カカシの姿のままで刃を振るっていた。
ぶるりと頭を振る。げんじゅつ。そうだ幻術だ。イルカは敵の術中にはまってしまった。おそらくイルカ一人が未だ捕らわれている。
ぎゅうっとレイタを抱き寄せて、頬についていた血を拭ってやる。そのイルカの指先を、レイタの小さな小さなおもちゃのような指が、握り返してきた。ひたとイルカを見つめて、強く握ったまま、にこりと無心に笑った。
イルカは意識する前に、ぶわっと涙を溢れさせていた。
恐怖ではなく、奮い立つものがイルカの中にみなぎる。乱暴に目をこすって顔を上げた。
こんな幻術にひっかかってパニックを起こしそうになるなんて最悪だ。幻術の中でもレベルの低いもの。アカデミー生や下忍になりたての者ならいいわけはたつだろうが、イルカでは嗤われるだけだ。心を落ち着かせて、印を組む。解、と鋭く唱えれば、ぱちんと頭の中がクリアになる。何度か瞬きを繰り返して皆を見れば、血を流している箇所もあるが、きちんとした人の姿で戦っていた。
「カカシ! 俺、ごめん! 大丈夫・・・、もう大丈夫!」
自分より倍くらいはありそうな敵を屠ったカカシは振り返る。
色違いの目が、イルカをみとめて見開かれる。銀の髪がかすかに血濡れて、体にも返り血をいくつか浴びている。それでもカカシは笑ってくれた。まるでイルカを安心させるように、笑った。
敵を倒した後、6人は皆が集合する広場のようなところに辿り着いた。
「カカシ・・・遅ぇじゃねえか、ってなんだよ・・・お前らも襲われたのか?」
アスマが驚いて迎え入れる。すでに集まっていた大人たちも幾人かが怪我をしていた。
「ああ。ちょっとね〜。まあたいしたことないからさ。それより、どうなっちゃってるわけ」
カカシは数十人が集まる中心に入っていく。さきほどの戦闘などもう過去のことになり、飄々としたいつもの生意気な子供に戻っている。
3人の中忍もかすり傷程度だが、イルカだけがレイタを抱いたまま転んだ拍子に片足を捻挫したようで、歩くのに難儀していた。足首はぷっくりと膨れあがり、歩くたびにずきんずきんと痛みを訴えるが、さすがに顔には出さない。右の上腕に刺さった手裏剣の傷はきつく布を巻いて止血した。
戦闘が終わった後、とにかくみんな無事でよかったと、カカシはイルカをこずいてきた。下忍のわりには頑張ったんじゃん? と言って失態を責めはしなかった。テツも、よかったと言うだけだった。
改めて未熟な自分を知り、イルカは情けなさに唇をかむ。そんなイルカに、テツ、キヨ、タカは寄り添うようにして立っていた。
大人たちの真ん中で今の状況を聞き頷くカカシはどこか遠い存在に感じる。傍から見れば、大の大人たちがカカシの指示を仰ごうと待っている。実力の世界。ここではカカシが一番の人間とは言え、どこか奇異なものにも写る。
イルカが知っているカカシは、ゲームをして、好き勝手やりたい放題の王様で、でも憎めないガキだから。
なんとなくカカシを見ていたくなくて視線を逸らしたイルカは、目を疑った。
足下には、リスやら、イタチ、他には小鳥などが身を震わせていくつか散らばっているではないか。イルカは思わず声をあげていた。
「カカシ、動物が・・・!」
「あ〜、慌てないの」
ひらひらと手を振ったカカシにはわかっているようだ。想像以上に今危機的な状況に陥っていることが・・・・・。
森の中を囲うようにして張られた結界のなかではじわりじわりと毒が浸透しつつあった。さきほど倒した敵が毒を仕込む役割を担っていたようだ。
即効性はなく、徐々に浸透していき体を痺れさせ解毒しなければそのまま死に至る。敵も木の葉の忍をすぐに殺すつもりではなく、足止めをして何かを仕掛けるつもりなのだろう。
しかし外のことに関しては心配していない。いち早く気づいた斥候が里に向けて式を飛ばした。ほどなくして暗部あたりが来て何とかするだろうから。
カカシが何とかしなければならないのは、結界の中。
弱いものから毒にやられていく。動物たちだけでなく、レイタもせわしない苦しそうな呼吸に代わりつつある。
情けないことだがイルカもレイタの額に浮かぶ冷や汗を拭いながらも頭が締め付けられるような感覚に襲われつつあった。まだ子供である体に加えて、先ほどの戦闘での負傷が響いているのかもしれない。
情けない。重ね重ね情けない。
イルカは気持ち悪さとたたかいながら皆から離れて木にもたれかかるようにして休んでいた。
「イ〜ルカ。なにへたってんだよ」
軽い口調でやってきたカカシがイルカの横に座った。ぼんやりとイルカは顔を上げる。カカシの顔が焦点を結ぶまでに一瞬の間があった。
「・・・カカシは、平気、なのか?」
「ま〜ね〜。まだ今のところは。これでも上忍だからな」
カカシは言いながら手を伸ばし、イルカの頬にそっと触れた。
「さっき叩いてごめんな。腫れてる。雨隠れの忍は幻術に長けた奴が多いんだ。きっとえげつないもの見せられたんだろ? それにしちゃあ、レイタを守りきったなんてすげーじゃん」
「カカシは、何も、悪くない。俺が、ヘマして、テツのことは傷つけそうになった・・・・・」
一息ごとが苦しくなってきた。カカシの冷えた柔らかい指先が気持ちいい。うっとりと目を閉じそうになる。
「こら。寝るな」
「いって!」
いきなり右腕の傷をねじられてイルカは飛び上がりそうになる。脳裏が覚醒する。ぷるぷると頭を振ってカカシを見据えた。
「この! 根性悪!」
きっと睨み付ければ、カカシは声をあげて笑う。
「な〜んだ。元気じゃん。その調子でいろよ」
笑いをおさめたカカシは不意に真面目な顔になる。
「ごめんな、こんなことになって。俺がこの隊の責任者だから、みんなは絶対に助ける。生きて里に帰れるようにするから」
「だから! 謝るなよ!」
イルカは、カカシの手を握りしめた。
「確かにカカシは隊長だし、上忍だけど、でもやっぱり子供でもあるだろーが。子供のくせに、そんなに全部自分で背負ったり、するな。もっとみんなを頼って、助けてもらえばいいだろ? こんな、ちっせぇのに・・・・!」
イルカは、レイタを間に入れたまま、カカシのことを抱きしめていた。小さな肩は全てを一人で背負うにはせつなすぎる。だが今のイルカに何ができるかと言えば、こうして大人しく命令に従うことくらいだ。
レイタがぐずっているのもかまわずに力をこめる。
今切実に、力が欲しかった。せめて中忍になっていたらと、甘えていた自分を呪った。
「泣いてる場合じゃないぞイルカ。イルカにはレイタを守るってきびし〜い任務があるんだからな」
カカシは大人びた手つきでぽんぽんとイルカの背を叩いた。
鼻水をすすりながら、イルカはカカシの達観したような綺麗な顔をじっと見た。イルカがあまりに凝視するからなのか、カカシはくすぐったそうな顔をした。
「俺より年上なのに、泣いてんじゃな〜いよ」
カカシは素早い動きでイルカの頬の涙をべろんと舐めとった。
イルカが惚けているうちに立ち上がって行ってしまった。
カカシの為に流した涙はイルカの頬を火照らせた。
怒号のような制止の声。
アスマとガイが是が非でも止めようとする手を振り切って、結界の“目”に対峙したカカシは、写輪眼を発動させて、外からかかる力と同等のものを“目”からコピーしてぶつけた。
膨れあがるような爆風が局所的に起こる。
その中にいたのはもちろんカカシ一人。
苦しかった肺と頭部にいきなり酸素が周りはじめたような気がして、意識を飛ばしかけていたイルカは目を覚ます。
皆が集まるところによろよろとたどりつけば、カカシが一人、倒れていた。
参 伍
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