神社の敷地の裏手、玉砂利が敷き詰めたれた一画に普段神事の際に利用する高床式の舞台はあった。
 主演者が背を向ける後方に紅白の垂れ幕がかけられ、左右、客席から見える正面には薄い紗の幕が用意されて、舞台の出演者を隠すような構造ができあがっていた。舞台の真ん中に一つ椅子が置かれ、後方には長椅子が左手にひとつ、右手には琴が置かれていた。
 舞台を中心に、扇形に軽い傾斜をいれた客席ができあがっていた。
「ど真ん中ですね・・・」
 イルカとカカシは緋毛氈がしかれた特等席に腰を落ち着けた。前から三列分の席にはお膳が用意され、スペースもゆったりして、寄りかかることができるように脇息も設置。いたれりつくせりの高級な席にイルカは居心地が悪い。
「なにちぢこまっているんですか?」
 カカシは手慣れたもので、早速お銚子を傾けてお膳のなかの旬の素材の刺身をつついている。
「いや。俺みたいな庶民にはなんかもったなさすぎて、いたたまれないんですよ」
「らしくないなあ。だって前のほうじゃないと顔確かめられないでしょ」
「でもそれは後から舞台裏にでも行けばいいことじゃないですか」
「舞台裏はすごい人だかりになるんです。そんな中で顔見極めるのは大変じゃないですか。」
「でも、この舞台も、出演者が見づらいようになっていますよ」
「ああ。座長の意向です。純粋に音だけを評価してほしいってのと、臑に傷もつ仲間もいるってことで、見逃してくださいよって暗黙の了解ですけどね」
 なんでも座長自身、過去に刃傷沙汰を起こしたことがあるとかで、やむにやまれぬ事情の者たちを守る意味もあり、そこら中を飛び回っているそうだが、演奏が一流なことに間違いはない。今日も座長が三味線を手に、後方でそれに会わせた演奏が展開されるとのこと。ダイゴの探し人は琴を弾く。顔は見極めやすいだろう。
 三味線か・・・、とイルカが小さくこぼした声をカカシは聞き逃さなかった。
「イルカ先生、三味線の音色、嫌いなの? 最初からそうだったよね」
「嫌い、ではないんですが、苦手なんですよ。ちょっと、イヤなこと、思い出すんで」
「ふーん」
 カカシは脇息にもたれてにやにやしている。無言で、話の続きを促している。さきほどの小料理屋でカカシはイルカの過去が聞けて嬉しいと言っていた。イルカがまた話すことを期待しているのだろうか。
 ちびりとお猪口を口に運ぶと、辛めの味が胃に染みわたる。全身に広がる熱に、気分が少し解放される。
 言ってしまえばいい。たいしたことではない。後生大事に抱えているから悪いのだ。いつまでも抜け出せない。
 立て続けにお猪口をかたむけて、勢いをつけたところでカカシを振り返った。
「あ、あのですね! ガキの頃、俺の親父が・・・」
 一瞬にして沸きあがる歓声、うねりのような拍手がイルカの声をかき消した。場を包みこむような音の渦。
 舞台には一座の者がでてきていた。
 座長を入れて5人。それぞれの場につくと会釈して楽器を抱え座る。座長だけは立ったまま、もう一度深くを頭を下げると、伸びやかな声で挨拶を始めた。
「皆々さま。本日はお招きにあずかり恐悦至極に存じます。流れものの技ではございますが、座員一同、日々の稽古を怠らず、腕には少なからず自信を持っております。短い時間ではありますが、最後までお楽しみくださいませ」
 初老にかかろうかという座長の女性は芥子色の紬を折り目正しく着こなして、細い体からは想像もつかないよく通る声を会場中に響かせた。
 紗の幕があっても真ん前の席ならさすがに顔の造作はわかる。白いものが混じった髪を後ろできっちりとまとめた座長には品の良さが感じられる。きっと若い頃は何人もの男から求愛を受けたであろうことは想像に難くない。今でも十分に、のぞく首筋から色っぽさは匂い立つ。切れ上がった瞳は鳶色で目尻の皺は優しげだ。薄く施された化粧は彼女に華を添えていた。
 
 かわっていないじゃないか・・・。20年ちかくたつというのに・・・。
 
 イルカは呻いて俯くと、胡座をかいた両膝をきつく握りこんだ。
 観客の拍手がおさまったところで、三味線の音が始まる。その旋律は耳の奥に入り込み、脳の中までも犯していく。イルカの過去をえぐり出す。
「イルカ先生? 確認してくださいよー? ・・・どうしたんです? 気分でも悪いんですか?」
 小刻みに震えるイルカの肩をカカシは掴む。イルカは本来の目的を思い出し、ゆっくりと、顔を上げた。熱心に琴をつま弾く女性。間違いない。結い上げた髪、秀でた額の左眉の上にある少し多きめの黒子が特徴。
「・・・間違い、ないです。彼女です」
 消え入るような声でつぶやいたイルカは勢いよく立ち上がると、振り向かずにその場を駆けだしていた。
 
 
 逃げているな、と思いながらも止まることができなかった。駆けて駆けて、今夜に限っては人通りが格段に少ない裏街道をやみくもに走り回って、疲れ切って小さな河川敷の雑草のなかに大の字で寝転がった時には体は汗ばんでいた。息を整えているあいだにじきに体は冷えてきた。ひとつくしゃみをしてぶるりと震えて耳を澄ます。
 音色がかすかに届いてくる。遠く、過去からの音なのだろうか?
「少しは落ち着いた? イルカ先生?」
 不意に影が落ちる。微笑むカカシがイルカをのぞき込んでいた。
 そのままイルカの横に落ち着いてしまう。
「・・・カカシ先生。登場早すぎないですか?」
「ああ。イルカ先生なんかぐるぐるしていたから、適当な距離であとを追っていました。やっと止まってくれてホっとしましたよ。イルカ先生全力疾走だったから、酒が回って気持ち悪いんじゃない?」
 大丈夫? と優しくカカシが頬に触れてくる。
 日頃どちらかというと冷たいカカシの手のひらが、少し汗ばんで熱を持っている。イルカのことを追いかけてくれたからだ。いきなり飛び出したイルカを心配してくれたからだ。
 イルカは片手をあげて、カカシの手に自らの手を重ねた。
 暖かい。この人の手は暖かいんだ。信じていい暖かさだ。
「カカシ先生、ちょっと、聞いてもらっていいですか?」
 
 
 
 10歳になるかならないかの頃だった。
 あの日、アカデミーの友人たちと遊んだあと商店街にいた夕刻、父の姿を見つけたのは偶然だった。
 日帰りだが急な任務にかりだされた母から、今日は出来合いのものでも買って夕飯をすませるように指示がでていた。たまにおとずれる外食の機会を有効に使いたいから、様々な店を吟味しつつぶらぶらしていたイルカは、人混みの隙間から、間違えようのない横顔を見つけた。
 父は花屋の前で赤を基調にした花束を受けとっていた。
 父の帰還は明日のはず。思いがけず早くに任務が終了して、今から家に戻るのだろうか? それなら夕飯は父と食べればいい。最近多忙な父はこのひとつきほど家でまともに食事をしていなかった。
 嬉しくなったイルカは父がこちらに向かってくるのを待った。
 だが、父はそのまま通りを進みだす。家とは逆の方向へ。
 夕方の混雑する通り、大人をかき分けてイルカは父の後を追った。上忍である父がイルカの気配に気づきもせずにどんどん距離を作っていく。必死にくいさがって父の姿を見失わなかったのは、イルカのプライドだった。父に気づいてもらえないことが悔しくて、悲しかった。
 やがて父は、穏やかな微笑をたたえたまま、イルカにはわからない楽器の音色が聞こえてくる木戸をくぐりぬけていった。
 
 
「それが、あの女性の三味線の教室だったんですよ」
 カカシもイルカの隣に寝ころんでいた。
「結局その日、親父は帰ってきませんでした。そのことをなんとなく母に言うこともできず、父にも勿論言えなくて、それから俺は親父のあとを付けるようになったんです」
「ようするに、親父さん、浮気していたんですか?」
「どうでしょう。それは今でもわかりません。決定的な場面を見たわけではないので。でも気持ちの問題なら、あの人に惹かれていたんじゃないですかね? さっきカカシさんも見たでしょ? 結構いい年なのに、未だに昔の面影があって、きれいな人でしたよ」
「そうですか? ただのばあさんじゃないですか。イルカ先生の親父さんより年上だったんじゃないですか?」
 カカシの口を尖らせるさまがなんだかおかしくて、イルカは小さく笑っていた。
「ある日ね、父が居ないときだったんですけど、あの人の家を訪れた時、家の中を伺っているところを外まわりから帰ってきたあの人に見つかっちゃいまして、有無を言わさず家の中に引っ張り込まれました」
 その時のことを思い出して自然と苦笑してしまう。
「なんですか? 息子にまで手だそうとしたんですか?」
「違いますよ。その日俺は友達と派手な喧嘩して、膝はすりむけるは顔は腫らすわでひどいありさまだったんです。あの人は見知らぬ子供の手当をしてくれて、食べたこともないようなお菓子も出してくれた。時たま俺のことじっと見てたから、ひょっとして父との関係にその時気づいたのかもしれないですけど」
 優しくて、きれいな人だった。繊細な指がイルカの頬に触れ、小粒な白い歯がまぶしい微笑。子供心にドキドキして、父がここに来る理由がぼんやりとだが理解できた気がした。
「イルカ先生、続き」
 カカシの尖った声に我に返る。横目で睨んでくるカカシは少しかりかりしている。
「どうしたんですか? カカシ先生、怒ってます?」
「ええ、気分悪いです。なんかイルカ先生幸せそうな顔してるし」
「そうですか? すいません」
「ねえ。イルカ先生の初恋ってその女なの?」
 急にカカシは身を起こすと、肘で体を支え、のぞき込むようにイルカの間近に顔を寄せてきた。
「多分、そうだと思います」
「俺と似てるとか言ったよね?」
「似てませんよ。だから、きれいな笑いかたがちょっと雰囲気あるかなってくらいで」
「なんだ・・・」
 落胆したカカシはそのままイルカの胸に頭を載せてきた。
「重いです」
「俺、寒いの。風邪ひくと困るし」
 どこまで本当かわからないがイルカも少し寒さを感じていたから、カカシをそのままにして話を再開した。
 
 
 それから1年くらいの間、父は三味線教室に通っていた。気づけば母も父の習い事は知っており、あの女性のことを普通に話していた。父にはなにも後ろ暗いことなどないから口にできるのだと安堵したイルカだが、逆に自分のほうが後ろめたい気持ちを抱えるようになった。
 両親には内緒で、あの女性のもとに度々遊びに行き、お菓子をもらったりする日々があれから続いていた。たわむれに三味線を教えてくれたりもしてくれ、ふざけて抱きしめたりもされた。時たま、ほんの時たまだが、イルカのことを深い目の色で見つめて、ため息のような吐息をついてきつく抱きしめてくることがあり、その時ばかりはイルカは本気で嫌がった。彼女のぬくもりやいい匂いが好きだった。ただ、その時だけは、自分の後ろの影を彼女が見ているような気がしたから。父という影を・・・。
 
 不思議な日々。だが、終わりはあっけないほどに訪れた。
 
 九尾の狐が現れる半年ほど前のこと。
 木の葉の里は四代目が火影を襲名し人々は言祝いだが、里の空気にかすかにまじり始めた禍々しいチャクラは人心に不安を植え付けてもいた。四代目は希望の象徴ではあったが、里を囲む森に入り込んだ者が変死体で見つかることが重なり、里の上忍、中忍、果ては下忍までが警備にかり出されることになった。
 母が怪我をして病院にかつぎこまれたと連絡を受けた時、家に父はいなかった。タイミングが悪いことに、彼女の家に最後の稽古に行っていた。母の怪我は軽傷ではあるとのことだが、イルカは居ても立ってもいられずに飛び出した。母が負傷したときに父がいないというのは許しがたいことだった。
 暗闇に、浮かぶ月は尖った三日月。刺さればさぞ切れ味鋭くこの身を刻むことだろう。
 そんな不吉なことを考えたのが悪かったのか・・・。息を弾ませたまま、彼女の家に飛び込んだ。
 そこにイルカが見たのは。

 

 対峙する男と女。俯く父にむかって、彼女は三味線のばちを振り上げたところだった。
視界に映った光景に、イルカは何も思う間もなく、二人の間に割ってはいっていた。父をかばうかたちで手を広げる。顔面に走った線、鋭い痛み。視界に赤がはねる。その向こうに、幽鬼のように青白い顔をした彼女の、凄絶なまでに美しくも恐ろしい姿が見えた。体の奥底のところで痙攣が起こる。美しく、優しい女の姿が砕け散る。イルカは父の腕に抱き留められながら、痛みに意識が朦朧としたなかで、最後に彼女のすすり泣く声を聞いた気がした。
 
 
  
 

 

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