地をはうような唸り声に目を覚ます。
傍らの布団にカカシはいない。格子戸の窓から身を乗り出している。忍びの目にあきらかな横顔は憔悴していた。
「カカシさん? 具合が、悪いんですか?」
そっと声をかければびくりと揺れる背中。思いため息を落とし振り向いた顔は弱々しく笑った。
「ちょっと、ね……。すいませんね、せっかく眠っていたのに」
「具合の悪い人に気遣われても嬉しくないですね」
布団をはい出たイルカはカカシに近寄ると、そっと背をさすった。薄い布を通して伝わる体温は低く、間近で見る白い顔には脂汗が浮いていた。
「誰か、呼びましょうか?」
「いや、いつものことなんで」
「いつも?」
怪訝なイルカにカカシは声もなく笑った。自嘲するような顔がどこか痛いたしい。
「お恥かしながら、帰ってきてからこっち、この調子です。戦場にいる間は緊張感が続いていたんでしょうね。なんでもないと思っていたんですが、どうやら俺は自分が思うより弱い人間のようでした」
「眠れないんですか?」
「夢をね、見るんですよ」
窓に背をあずけたカカシは、月の隠れた曇った夜空を仰ぎ見た。
「なんだろう、よくわからない。きちんとした話なんかないんですよ。悪夢ってわけでもない。ぼんやりしていて、でも、暗い。暗くて、もやがかかったような、掴めそうな、夢なんです」
カカシが見つめている夜空。こんな暗さが、カカシの身のうちにもくすぶっているのだろうか。カカシの傍らで同じように空を見上げてイルカは思う。
そういえば、戦場から戻った木の葉の忍たちの中には、心的外傷で入院している者が多数いると聞いた。体に負った傷で入院する以上に、通院の者をいれればかなりの人数になるという。一年という長期遠征のわりには死亡人数は数えるていど。支援した国が勝利をおさめ、まずは上々と、皆安堵していたが、目に見えないところで傷は膿んでいた。
「きつい、任務だったんですね」
「そうですね……。敵方には、幻術に秀でた忍も多数いましたよ」
口元を緩めるカカシにかける言葉が見つからない。中忍としてそれなりに任務をこなしてきたイルカではあるが、おおきな、長期の遠征に参加したことはない。所詮、ぬるま湯につかっている自覚があるから、下手な言葉をかけないだけの分別はわきまえている。
「イルカ先生が暗くなってどうするんですか」
そんなイルカの心情を知ってか知らずか、カカシはおどけた調子でイルカの頬を両手ではさみこんだ。思った通り、一瞬身がすくむほどの冷たい手をしていた。イルカは自然な動きでその手を掴むと気持ち強く握りこんだ。
「いちいち触らないでください。男同士で、気持ち悪いでしょ」
「えー? そんなことないですよ。イルカ先生肌スベスベだし。ひげないね」
「確かにひげは薄いです。でも胸から下にかけてはすごいですよ。カカシさん思わず泣いちゃいますよ」
「本当に? 見たいなあ」
「そうですか。いつか機会があればお見せしますよ」
蒼白な顔色のままそれでも笑むカカシが無性に腹立たしい。カカシの手にイルカは少しばかり爪をたてた。無理をする必要はないのに。イルカが握りこんでも手は冷たいままだ。やはり先ほどの女性でも呼んできたほうがいいだろうか・・・。
「カカシさんが女性とところかまわずセックスしていたのって、ひょっとして、戦場の後遺症のせいですか?」
ぬくもりに安堵するからだろうか? 柔らかな体に包まれて眠れば、悪夢を追い払えるからだろうか?
「さーて、どうですかね〜? 単にセックスが好きなだけなんじゃないですか?」
目の前のカカシは心の中の読めない顔で笑っている。カカシはいつも笑っている。辛いことなんかないような顔で。けれどそれは自分の心を覆っていることではないだろうか。
「カカシ先生は、遠征の壮行会の日に、どうしてわざわざ俺に声をかけてくれたんです?」
「わ。いきなりの話題転換ですね」
「まあ眠れないのなら話でもするしかないじゃないですか。付き合いますよ」
「優しいんだイルカ先生。そうですね。簡単ですよ。イルカ先生のこと好きだから、最後かもしれないなら少しでも話したかったんですよ」
「……。そのわりにはどうでもいいようなこと言ってきましたね。おかげさまで俺は太ってません。やせました。500グラムほど」
500グラムなど日々前後するようなものだが、とりあえず見栄をはって言ってみた。自慢げなイルカに、カカシは目を見張る。一瞬後には銀の髪に手を入れてさもおかしそうに喉の奥で笑った。
「なんですか。失礼ですね」
「いや、覚えていてくれたんだ。でも500グラムじゃ自慢にならないよ」
「わかってます。一応、口にしただけです」
そっぽを向くイルカの横でカカシは膝に顔を埋めてしばらく笑っていた。
落ち着いてくれたようで内心イルカは安堵する。カカシのひととなりをどうかと思うこともあるが、個人的に心配するくらいの近しさはイルカのほうでは感じていた。
カカシの低い笑い声と、窓の外から届く夜の街のしめやかな喧噪とに、そっと息をつく。日頃の生活からは考えられない状態だが、特に厭う気持ちはおこらない。これからしばらく続くかもしれないのだから慣れるのにこしたことはない。
「ごめんごめんイルカ先生。もう大丈夫っぽいから、横になろうか」
笑いをおさめたカカシはイルカの背をおして、結局二人してもとのようにそれぞれの布団におさまった。とはいっても一度覚めてしまった目がすぐに閉じられるわけはなく、仕方なく天井のシミでもかぞえようと思ったが、そんなものありはしない。ちらりと横のカカシに目をむければイルカのほうを向いて体を横たえていた。イルカを見ている。さっきよりも微妙に布団が近づいている気もする。
「カカシ先生」
「なんですか、イルカ先生」
無邪気なカカシに言う言葉がみつからず、いまだ青白い顔につい同情的な気持ちが沸いた。
「手でも、握りましょうか?」
「え?」
カカシの反応に馬鹿なことを言ったとイルカは気づく。
「いや、別に、その、意味はないんですけど! 男同士で手つなぐなんて、いい年して、気持ち悪いですよね・・・」
「つないじゃった」
さりげなく伸びてきたカカシの手はイルカの手を握りこんでいた。振り払うのもタイミングが悪く、イルカも力をこめてみた。
「カカシ先生はヘンな人ですね」
「イルカ先生はやさしい人だよね」
「やさしい人? 人並みだと思いますが。今回の件はダイゴが友達だから世話やいてるんですよ」
「でも、友達でもない俺にも優しいじゃない」
友達じゃない・・・。さらりと言われた言葉にイルカはふと考える。
「改めて言うのもなんですが、俺とカカシ先生はなんでしょうね?」
「うーん。なんだろう。上司と部下、でもないですよね」
「でも上忍と中忍だし、それが一番近いんですかね」
「イルカ先生が俺の部下だったらもっと楽だったよ」
ふいに真面目な声。カカシは握った手にいっそうの力をこめる。
「俺がイルカ先生のこと好きだったのは本当。多分今も憎からず思っているよ。俺としてはアプローチしていたつもりだったんだけどね、イルカ先生ははなから気づこうとしなかった。もしイルカ先生が部下だったなら、俺の相手しろって、命令していたかもね」
おそろしいことをさらりと告げるカカシにイルカはあっけにとられる。。
「カカシ先生みたいなかたが、俺に手ださなくたっていいでしょ。命令しなくて懸命でしたよ」
「ですよね〜。俺もなにをとち狂っていたんだか。」
いきなり手をはなしたカカシはイルカに背を向けて布団にもぐりこんでしまった。お休み〜と暢気に告げてくる。なんとなくイルカも背を向けて布団にくるまった。
カカシがイルカのことを好きだったというのはおそらく本当なのだろう。だからイルカはカカシが苦手だったのかもしれない。イルカの深い場所をさぐりだそうとするカカシが無意識にもうとましく、怖かったのかもしれない。
鼻の傷をたどってみる。目に見える傷は残ってしまったが、心の中にまで残すことはないのだろうか・・・。
かすかな吐息を漏らしてイルカも目をつむった。
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