カカシという人間はどうしてイルカを苛立たせるのだろう。数年前、大切な生徒の上官として出会い、何度か食事に行くくらいの親しさはあった。しかしそれもナルトたちがカカシの手の内にいる間だけで、所詮階級違いの知り合い、国の情勢も危うくなりナルトたちも手を離れたあとは自然と疎遠になった。
1年前、木の葉の国は大陸の辺境の国同士の争いに、戦争を終わらせるための助成を求められた。総勢50名ほどからなる部隊の大隊長に任じられたのがカカシ。いくつかの小部隊の隊長は上忍と中忍、部隊の構成員は中忍と下忍がいりまじっていた。
送り出す日、一言カカシと会話した。
「元気でねイルカ先生。ラーメンの食い過ぎで太らないでね」と、細められた目に馬鹿にされているようで、イルカは大きなお世話ですと返した。それが、別れ。それ以来の再会がこんなかたちというのも変なかんじだ。あの別れの日もカカシに群がる人間は多くいて、特に印象に残ったのは美しい女たちが大勢泣いていたこと。にこやかに応対しながら、ぼんやり立っていたイルカのもとにきて、わざわざ声をかけてきた。カカシの真意はわからない。顔見知り程度のイルカになぜ近寄ってきたのだろう。しかも人を馬鹿にするような言葉を投げかけただけだったのに。カカシはわからない。昔も、今も……・
「なんで、カカシ先生が、ここに、いるんですか」
「あ、俺、ここのオーナー。いわゆるサイドビジネスってやつ?」
妓楼”四代目”の奥まった部屋。真っ赤な目と、疲労をたたえて目のしたに盛大な隈を作ったイルカがしゃっちょこばって正座している正面にはカカシがにこやかに座っていた。
疲れ果ててたどり着いた場でふかふかの座布団にきちんと正座して待っていた。からりと襖が開き、数人の移動する足音がした。イルカは俯いていたが、上座の座布団のうえにふわりと胡座をかいて優雅な仕草で座った人物を足下から目線をあげてとらえたときには、体中から空気がぬけでるほどに一瞬で力がぬけた。
そこに座っていたカカシは昨夜とは違い、白地に、赤い椿の縫い取りが左の身ごろに散っている、素人目にも値が張りそうなことがわかる豪奢な着物をまとっていた。顔色は嫌味なくらいにつやつやとして、横に座る二人の美女はたおやかにカカシにしなだれかかっている。それに比べて今の自分は……。
にやにやしていたカカシがとうとう吹き出した。
「イルカ先生、昨日はずいぶんな目にあったようですね。ひどい姿じゃないですか」
げらげらとカカシは笑い、美女も口元に軽く手をあてて、控えめに、しかし明らかに笑っていた。
確かに、今のイルカといったら。
額あてはずり落ちて、かろうじて首に巻き付いている。結い上げていた髪は落ち武者のようにざんばらになり、右頬には青痣。左頬にはどろ。目の下には隈がでんと居座っている。
「子供の心配する前に自分の心配するべきだったね」
見透かしたように口にされ、イルカはカカシを寝不足の目でにらみつけた。
散々な夜だった。迷いながらもあやしげな通りにたどりついたまではよかったが、暗がりからいきなり尻を撫で上げられ悲鳴をあげ、逃げるように店を訪ね歩けば、半分ぐらいの店にはスカウトされた。憤りに我を忘れれば路地に引っ張り込まれて押し倒されそうになる始末。めちゃくちゃに暴れて逃げて、どうしてこんな目に遭わねばならないのかと、本気で泣きたくなった。我ながらとても忍とは思えないほどに慌てふためいて街中を駆け、朝方、やっと思い出して妓楼”四代目”に飛びこむこととなった。
「ごめんねイルカ先生。助けてあげたかったんだけど、ちょっと、抜け出せなくて」
「見てたんですか?」
「うん。この店の前、何度か追いかけられていたでしょ」
悪意のなさそうな笑顔が十分な悪意だ。今更言っても仕方ないが、煮えたつ腹がおさまらずに、ついイルカは訊いていた。
「何か、大事な用件でもあったんですか?」
「そ。こいつの中から抜けられなくって」
おもむろに右側の太夫の肩を抱いたカカシは赤い唇を吸った。左側の太夫はその様を余裕のある笑みで見守っているが、イルカは脱力した。俯いて大きくため息をついた。顔を見るのも不快で、そのまま立ち上がり、座をあとにしようとした。
「子供の名前、タカナですよね。茶色の髪の子供」
勢いよく振り向いたイルカはカカシに詰め寄っていた。
「っみみ、見つけたんですか?」
「興奮しないで。唾とばさないでくださいよ」
ぱん、とカカシが手を打つと、後ろの襖が静かに開き、小さな布団が見えた。伸び上がって確認すれば、安らかに眠るタカナの姿があった。安堵したイルカはその場で力が抜けそうになるが、なんとか持ちこたえてふらふらと近づこうと足を踏み出すと、再び襖は閉じられた。
「カカシ先生!」
「そんな急がないで、少し俺と話しましょうよー」
胡座をかいた膝に片肘をつき、猫背の体をさらに丸めてイルカの顔をのぞきこんでくる。
「うちの雇い人が料亭から拾ってきました。空腹でフラフラだったみたいでね、たらふく食べさせたらすぐ寝ちゃいました。で、俺としては、何があったのか知りたいんですよ〜」
「それは、カカシ先生には、関係のないことです」
「あ、そーゆーふうに言っちゃう? 俺が動かなければあのガキ、ひどい目に遭ってたかもよ?」
「それは、感謝しますよ。ありがとうございました。でも、それとこれとは……」
「じゃああいつ返さなーい」
ぷいっとカカシは子供じみた仕草で顔を背けてしまった。そんな態度が女心をくすぐるのだろうか、二人の美しい太夫はカカシをなだめるように体をすり寄せてくる。イルカの目の前で。
イルカは膝の上の拳の力を緩めた。煮えたっていた腹は冷めた。呆れかえって言葉もない。無表情のまま立ち上がると、さっさと部屋をでる。うしろから呼び止めるカカシの声がしたが、脱力した心を素通りしていく。塵ひとつなく磨き抜かれた廊下をのしのしと歩き、帰りの客を送り出す遊女たちを押しのけて外にでた。朝日のまぶしさに一瞬目を細め、首にぶら下がっていた額当てをきつく結び直し、髪をなでつけた。
本当にろくな目にあわなかった。もう二度と来るものか。タカナはカカシが送りつけてくれるだろう。とにかく無事だったのだから、そのことを早くあいつに報告しなければ。
「待ちなよイルカ先生」
ずんずん歩くイルカの腕がいきなり引かれた。カカシが少し息を乱して立っていた。唇の紅の赤さが腹立たしい。不快な顔を隠すことなく、イルカは掴まれた腕を乱暴に取り戻した。カカシは目を細めた。
「何をそんなに怒るのかね。大人げないんじゃないの? 追いかけられているあなたを助けなかったことを怒っているわけ? 忍者のくせに無防備に追いまわされるほうがおかしいよ」
「別に、怒ってなんかいません。呆れているだけです」
イルカはカカシから目をそらした。
「俺は、人が困っている時に交換条件を出すような人間を軽蔑します」
カカシにたいした悪気がなかったであろうことは重々承知だ。自分が確かに大人げないという自覚もある。疲れているから、余裕のない応対になていることも自覚してはいる。だが、言った言葉に嘘はなかった。
「失礼します。タカナのことは、申し訳ありませんが誰かに頼んで……」
「ごめんなさい!」
九十度に曲げる勢いでカカシに頭を下げられた。”四代目”からたいした距離はない。店の者たち、客たちは身をのりだしてこちらを伺っている。店の主人であるカカシに往来で頭を下げさせているのだ。イルカは慌ててカカシの肩を掴んだ。
「やめてくださいカカシ先生。頭を上げてください」
「ごめんなさいっ。ホントに申し訳ないです」
「わかりましたから。俺も大人げなかったのは事実なんで」
必死なイルカをカカシは探るように下から見上げてきた。
「本当に、許してくれました?」
「許すもなにも……」
イルカは肩の力を抜いて、自然に表情には笑みがこぼれていた。
不意に思い出す。昔、中忍試験への推薦でカカシとやりあった時、後日謝りにいったイルカにカカシのほうが逆に大袈裟なくらいに謝罪してきて、イルカをとまどわせた。あの時も、許してくれます? などと上忍らしからぬことを口にしたカカシに破顔一笑したものだ。カカシはかわらず子供みたいなところがある。
「タカナを連れて帰ります。よければ、道々話しますよ」
行きは飛ぶように駆けた森を帰りは子供を背負い、ゆっくりと歩く。傍らには忍服に着替えたカカシ。何度かタカナを受け取ろうとしてくれたが、辞退した。一晩中捜してやっと見つけたのだから、きちんと自分で連れて帰りたいことを告げると、カカシは苦笑したが何も言わなかった。
森の空気と鳥のさえずり。茂る木々の合間をぬって届く光が気持ちいい。疲れた体が癒される気がする。
「ねえイルカ先生。どっかで見た顔だとずっと考えてたんですけど、タカナは、ダイゴの息子じゃないですか?」
「そうです。あいつの息子ですよ」
「あいつ?」
「あ、俺、スリーマンセルで一緒だったんですよ」
懐かしい仲間。一人はとうに亡くなり、一人はアカデミー教師、一人は上忍として華々しい戦績を重ねた。
「だから、俺には、無事だったのかって言ったんですね」
イルカは頷いた。
カカシが大隊長を務めた遠征隊のなかにダイゴも中隊長として参加していた。戦は勝利を収めたものの、ダイゴは忍としては再起不能の大怪我をして戻ってきた。まだ、病院のベッドにいる。
「あいつ、昔裏街の遊女にいれあげましてね、タカナが産まれたんです。結婚したかったんですけど、あいつの親父さんが許さなくて。あいつの家、旧家だから。女性は身を引いて、タカナが残されました。今回の怪我で、もう忍としては生きられないし、親父さんも亡くなっているから、その女性と今度こそ結婚したい、謝りたいって言って、それを知ってしまったタカナが先走って、探しに飛び出してしまっただけのことだったんですよ」
イルカが傍らのカカシに笑いかけると、カカシは難しい顔をしていた。
「カカシ先生?」
「その女性の特徴を教えてもらえれば、俺も協力します。ダイゴのことには責任感じますんで」
「ご協力は是非お願いしたいですが、カカシ先生がダイゴに責任を感じる必要はないですよ。俺たちは忍なんですから」
「イルカ先生も、そんなふうに思うんですか?」
聞かれた意味がわからず、イルカ首をかしげた。カカシは気まずそうに頭をかいた。
「曲解しないでほしいんですけど、イルカ先生はあまり忍っぽくないから、忍であるからっていうだけの理不尽な決まり事を嫌悪していると思ってたから」
「もしそうならとっくに忍を辞めていますよ。自分が甘いことは認めますけど、俺も、忍なんです」
どこか諦観のようなものを滲ませてつぶやいた言葉を、カカシは真剣な顔で聞いていた。
逸らさない視線の居心地が悪く、イルカは意識して話題をかえた。
「カカシ先生はいつあの妓楼を作ったんですか?」
「ああ。えーと、21ぐらいの時ですかね」
「はあ〜。すごい財力ですね」
「まあ、暗部にいた頃ですからね。命の代償が金っていうのも寂しい話ですが、別に、欲しいものもなかったんで」
カカシの軽い口調は過去を過去としてきちんと見つめることができている。きっと、いろいろあっただろうに。
強いんだなあと、思う。
「結構なげやりに生きていた頃、一度すごいヘマしてね、敵の毒にやられちゃったんですよ。生死の境ってやつを彷徨いまして、川を渡りかけたんですけど、ま、悪運強く助かったんです。代わりに種を無くしちゃったんですよー」
「種?」
「そ。子孫残せなくなっちゃったんですよ〜」
「カカシ先生……」
露骨なものいいに口元がひきつる。カカシは男としては致命的な現実を苦にしてはいないようだ。
「でね、その頃は若かったし、こうなったら心おきなく女百人切り、いや、千人でも、と思い立ちまして、俺専用のハーレムとして”四代目”を作ったわけですよ」
何がこうなったらの決意になるのか、よくわからない。
「で、百人でも千人でも切ったんですか?」
「その前に商魂に目覚めちゃいまして、妓楼にしました。でも店のコたちはみんな俺のお手つきです。実際のところ今何人切っているのか、知りたいですか?」
「いーえ全く興味ありません」
にやにやとしたカカシからタカナをかばうように少し距離をとった。なにやら寝言を言っているようなので、あやすように背を揺する。ふと傍らのカカシを見れば、探るようにイルカを見ていた。
「なんですか?」
「イルカ先生、ひょっとして、あそこに来たの昨日が初めて?」
「あそこって、”四代目”ですか?」
「てゆーか、裏街道」
「そうですよ。それが何か?」
カカシは目をむいた。
「本当に? え? じゃあ、イルカ先生彼女いるの?」
「いませんよ」
「はあ〜? ならいっつも右手ですか? あ、それともくの一にお願いしているとか?」
あけすけな、あまりにあけすけなカカシの言葉にイルカは忘れかけていた怒りが再燃してくるのを感じた。タカナを背負ってなければクナイを引き抜いて本気で飛びかかっているところだ。
若い男が独り身で風俗にも行かないのはカカシの常識ではありえないことなのだろう。だとしたら、カカシは呆れるくらい、……羨ましいくらい健全な人間だ。
タカナをあやすふりで、歪みそうになる口元の震えを押さえた。
「まあ、俺はきっと淡泊なんですよ。仕事も忙しいし、友達も多い。彼女がいなくても充実してますよ。いざとなったら、右手がありますしね」
カカシを見ることはできなかった。口元の震えが見破られる。
「人それぞれですよ、カカシ先生」
それが一番のイルカの本音だった。
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