それが、運命なら   5







 真っ直ぐすぎる瞳が怖い。色違いの目に見つめられると、戒めを忘れてすがりつきたくなる。
 瞳は、イルカが愛したケモノと同じだから。

 カカシはあけすけにイルカへの好意を表す。それを間近で見ている友人、同僚たちに羨ましがられるほどに純粋に思いをぶつけてくる。
 半眼の目はけだるげでいて妙になまめかしく、笑った顔は子供のように無邪気。なにげない仕草が嫌味がない洗練さを見せて無駄のない動きにさすがは名のある上忍なのだなと思う。
 イルカはこの9年の間にそれなりにキャリアを重ねて忍としての現実もたくさん見てきた。そして、結論として思ったのが、自分には命を削るようなやりとりはむいていないということ。いくさ場に居続けたら自分をなくしてしまいそうな気がする。殺伐とした人間にはなりたくないから、教職としての道を選んだ。
 引き比べてカカシは、幼い頃から忍として生きて暗部になりケモノにまで一度身を落としたというのに、心の芯の部分で光るものをいつまでも損なったりしていない。それはカカシのもって生まれた強さなのだろう。カカシの前にいるとイルカはいつも自らを恥じずにいられない。
 イルカの浅ましさがカカシを翳らせることが怖かった。





 保健室で噛みつかれたあともカカシは懲りずにイルカの前に怪我をしたと言っては訪れていた。そんな日々が日常になるくらいの時は過ぎた。
 そんな折り、カカシがフォーマンセル二組でSSレベルの任務に赴くことを火影から聞いた。本来ならイルカに話していいようなことではないのだが、火影なりに思うところがあるのだろう。昼食を一緒にとった時にさりげなく会話にのぼらせた。イルカはその場では平静を取り繕ったが、聡い火影にはイルカの動揺など見抜かれたことだろう。
 SSレベル。イルカが心配するようなことではないのかもしれないが、相変わらず怪我をしたと言ってはやって来るカカシにやはり不安が襲う。もし、ちょっとした気の緩みを持ってしまったら少しの怪我ではすまない。命に関わることになる。
 狭い部屋の中をうろうろと円を描いて動き回る。出発は明日早朝。イルカは耐えきれずに部屋を飛び出した。



「あの、これ、ちょっとした傷でしたらたちまち治ります。友達で薬師の奴がいて、俺もいつも愛用しているんですけど、本当によくきくんです。邪魔にならないと思うので持って行ってください」
 ノックもおろそかに勢いづけてドアを開けた。でてきたカカシの顔を見ることができすに下を向いたまま小さな軟膏を差しだした。
「あの、俺が言うようなことじゃないですけど、気を抜かずに、任務を・・・」
「イルカ先生」
 軟膏を載せた手のひらごとひかれた。勢いのまま顔をあげたイルカは、その瞬間に後悔した。
 イルカの手を両手で包み込んだカカシは、まるでこの世にひとつとない宝を手にしたように押し頂いて、口の端を上げて微笑んでいたから。
 体が硬直する。背筋が震える。くらくらと目眩がする。
「嬉しい。すごく、嬉しいです……」
 言った途端にカカシのまなじりからぽろりと一筋の涙が伝った。
 ケモノが、愛しいケモノが泣いていると思ったら我慢できなかった。体を伸ばして、涙を舐めとってしまった。ぞろりと下から舐め上げ、目元に吸い付く。
「泣かないで。泣いたりしないで」
 ふわりと柔らかなカカシの髪が額にあたる。銀色のまぼろしが目蓋の裏で弾ける。離れなければと理性の声がするのに、イルカはカカシの顔中を舐めまわすようにしてしがみついていた。
 とまどいがカカシの体を動けなくさせているうちにイルカは離れなければいけない。けれど滑らかなカカシの皮膚と水滴と髪の感触があまりに甘美で、イルカを酔わせた。愛しくてたまらないケモノ。9年も経つのにあの短い日々の記憶が色褪せることはなく鮮明な思い出が脳裏をかけめぐる。貫かれて歓喜に染まった心が体を震わせる。イルカは無意識のうちに腰をすりつけていた。
「イ・・・イルカ、せんせい・・・」
 カカシの焦りがささやきとなって耳に届く。突然我に返ってイルカはカカシを突き飛ばしていた。
「ごめ、ごめんなさい!」
 カカシの顔を見ることが出来ずにイルカは逃げるように飛び出した。







 逃げなければいけない。
 カカシのことを愛しいケモノの代替品にしてしまう前に逃げてしまわなければならないのに、結局イルカは里にいて、アカデミーで日々を過ごすことしかできなかった。
 カカシとケモノは同一のものなのだから何も考えずに飛びこんでしまえばいいと思う自分がいる一方で、それをよしとしない自分もいる。あの時の幼い自分が銀のケモノを忘れることができない。ケモノの背にのって駆けた。同じ景色を映した。そしてケモノにヒトの身を愛された。細胞のひとつひとつに染みこんだような記憶を消すことなどできるわけがない。
 毎日のように思考を振り払うために遅くまで残業した。それでもまとわりつく残滓のような記憶に結局は勝てないのだとぼんやりと敗北を思ったのは、夜道に月光を受けて銀の髪に光を散らすカカシと向かい合った時だった。
 道の真ん中にカカシは立っていた。いつもの忍服で、汚れや血の匂いはしない。つつがなく任務を終えたのだとまずは安堵した。カカシと再会してからすっかり身に付いたポーカーフェイスを崩すことなく会釈をしてすれ違った。
「イルカ先生」
 予想していたことだが、引き留められる。静かに呼吸を逃してイルカは振り返った。
 カカシは目の前にいた。息がかかる近さに驚いて飛び退こうとする前に抱きしめらていた。カカシの体と境界をなくすくらいの強さで引き留められる。耳朶にはいる息づかいと湿った感触にイルカの吐息は震えた。
「イルカ先生。ねえ、俺のこと、愛してよ。俺の何が駄目なの? 何でも言ってよ。俺のこと嫌いじゃないよね。嫌いだったらあの晩、俺に薬なんて持ってこなかったよね」
 カカシの声も体も震えていた。その震えが移らないようにイルカは歯をくいしばった。
「ケモノ、だった時に、俺と何をしたか、覚えていますか?」
「覚えているよ。全て覚えている」
「それなら、わかるでしょう? その記憶が、俺には耐え難いことなんです。あなたと向き合っていると俺は嫌でもあの記憶を思い出す。あの、恥を……思い出す」
 カカシは急に身を離すと、怖い顔をしてイルカの両肩を力をこめて掴んだ。
「恥? 恥なんかじゃない! イルカは、俺のことを助けるために抱かれたんだ。そのことの何が恥だって言うんだ。あの行為が恥なら、俺はどうしたらいいんです? 俺の存在自体があってはならないものになる。俺を助けたあなたがそんなこと言うな。そんなこと言うなら最初から助けるな」
 言葉の強さとはうらはらに、カカシのイルカを見つめる目は揺れていた。
「俺はあのままでもよかったんだ。ケモノのままで生きていてもよかった。それを人に戻したのは里だ。あなただ。それなのに、今更」
 イルカはもう耐えられなかった。
 カカシの手を力の限り振り払うと駆けだした。





 勢いよく家の扉を閉めた。安っぽい教員住宅のドアが家全体をきしませる。そこにもたれたままイルカはずるずるとしゃがみこんだ。
 自分の体を抱えて膝に顔を埋める。
 あんなすがるような目で見るなんて、最悪だ。逆らえることなど出来なくなる。こうしてみじめに逃げるしかできない。ケモノを愛しているが、カカシへむけてその気持ちをイコールに結んでしまってもいいのだろうか。カカシと交わりながら、柔らかくしなやかな毛並みを思い出してもそれは間違いでも罪でもないのだろうか・・・・・・。
「・・・・・・」
 イルカは顔をあげた。
 半ば予期していたことだが、薄いドアをはさんで、カカシの気配がする。そっと目を閉じれば、カカシがすがるようにしてドアに額をあてている姿までも見えるようだ。
「イルカせんせい・・・・・・」
 か細い声がイルカを絡めとろうとする。
「イルカ先生。さっきは、ごめんなさい。助けなければよかったなんて嘘です。ケモノのままでよかったなんて、嘘です。あなたが来てくれるまで、俺の記憶は曖昧でした。あなたが俺を呼び覚ましてくれたんです。あなたのおかげで世界が戻ってきました。その世界にはね、イルカ先生がいるんです。イルカ先生だけがいる、寂しい世界です。寂しいけれど、俺にとってはそれだけで充分なんです。だから、あなたにいなくなられちゃったら、俺の世界なくなっちゃいますよ。
 消さないでください。俺のこと消してしまわないで」
 言い募るカカシに言ってやりたい。それは思いこみにすぎないと。生まれた雛と同じことがおこったに過ぎないと。カカシにはもっと広い世界が待っているのに、偶然そこにいただけのイルカに捕らわれてはいけないと・・・・・・。
 そう思いつつも、きつく抱きしめてやらなければいなくなってしまいそうな不安定な気配に胸が圧倒される。ここで拒むことができたら人ではない。
 偶然イルカはカカシと出会ったが、その偶然は必然であったとも言える。里中に忍は沢山いる。その中でイルカがカカシの唯一になれたのは、定められたことだと思ってしまってもいいのだろうか。

 観念する。もう逃げられない。
 一度きつく目を閉じて、次に開いた時、イルカの目には欠片の迷いもなかった。



 愛している。ケモノでもはたけカカシでも。この存在を、愛しく思う。





 

 

  
 
NOVEL TOP