それが、運命なら   4







 皓々と月が照らす晩だった。
 見るからにひ弱な犬が無謀にも牙をむいてきた。
 もちろんたたきのめして殺してしまおうと首に歯をたてた時、懐かしいようなかぐわしい匂いが鼻腔をついた。その途端猛烈な飢えが体の奥からせりあがってきた。
 肉欲という飢えが。
 組み敷いた犬が雄であることはわかっていた。だがこの存在を貪ることが正しいのだと、体の中の原始的な場所からの命令がでていた。
 ケモノであった存在が震えるほどの快楽を感じた。激しい抽挿を繰り返して犬の奥底に欲望の証をぶちまけた。
 その瞬間。確かに体の中で小さな何かが開放されるのを感じた。息も絶え絶えに倒れたままのちっぽけな犬に、体が震えた。
 何度か交わりを繰り返すうちに違和感が広がり、犬が苦しそうな息づかいで自分の下で震えるさまにもやもやとしたかたまりが体の中にたまっていった。
 犬は日が昇ると人の姿になることを知った時、初めてケモノは自らの姿に違和感を感じた。どうして犬と同じように人の姿にならないのか。おかしい。それはおかしい。犬と同じように、人に代わりたかった。人になって、黒髪の人間の体に思いきり手をまわして、肌のぬくみを味わいたかった。



 一日一日と、確実に違和感が広がっていった。ケモノのままの自分。ヒトに変わる犬。最初に突き上げるようだった肉の欲は落ち着き、もっと深い部分でヒトの姿の時の存在に触れたかった。その思いを行動に移してみれば、黒髪のヒトはとまどいつつも優しく笑って、毛並みに手を差し入れて、撫でてくれた。うっとりとするような気持ちよさに目を閉じる。身をすり寄せる。
 触れたい。この人間にめちゃくちゃに触れて混ざり合いたいと思った。
 強く、希求した。









 暗部での生活を終え、里に戻された。

 ケモノから人に戻りイルカを引き留め、二度目に目覚めた時にはベッドの上で火影がいた。しばらく療養した後に暗部としての任務に戻ることを伝えられた。だが正直、カカシにとってもはや忍としての生は取るに足らないものになっていた。ケモノとして過ごし、イルカに助けられた身にとって、生きる意味はイルカがくれたものだ。だからイルカがもしも死を選んだのなら、カカシも迷うことなく死のうと思っていた。
 そんなカカシの気持ちを測ったように火影は告げた。イルカは、生きていると。里で生きることになると。イルカが生きる里の為なら、働いてやってもいいと思った。いつか会える日もくる。それを信じて、カカシは火影の言葉に従った。
 そして、月日は流れ。
 アカデミー卒業生たちの上忍師になり、思いがけず黒髪のヒトに再会した。
 あの時の歓喜をどうすればあのヒトに伝えられるだろう。ひとときも忘れることがなかったあのヒトが、目の前に立っていた時の奇跡は筆舌に尽くしがたい。日の光の下で穏やかに笑っていた。黒髪も白い肌も森の湖で別れたまま時を止めていたかのようにカカシの脳裏に焼き付いていた姿のままだった。たしかにそこにいてカカシに向かって笑っているのに消えてしまいそうな不安感が襲い、思わずその腕を掴んでいた。
 ピクリと困惑をあらわして反応した黒目は少し潤み、二人は唯一の記憶を共有していることを物語っていた。
 生徒たちのことをよろしくと言われ笑顔で別れたから、カカシは安堵したのだ。イルカと望んだ夢見た通りの関係を築いていけると。だが結果は違った。イルカはカカシからの誘いをことごとくはねつけて、仕事上のこと以外で話をすることもなく、イルカから声をかけることはなかった。焦れたカカシが根気強くイルカにまとわりつきだすと、イルカはあからさまに拒絶しだした。はっきりと悪夢の記憶だと言われた。その言葉に傷つかなかったと言えば嘘になるがカカシにはそんな権利はないのだと自戒めいた気持ちでもって思った。人の身でありながら動物に変化してケモノと交わりを結んだイルカこそを深く傷ついたことだろう。ケモノの姿だけならまだしも、最後にはヒトの姿のままでケモノであったカカシと交わったのだ。それは消せない事実だが、その記憶ごと全てイルカを愛している。イルカが欲しい。この気持ちはどうやっても消せないから、カカシはイルカにいくら拒絶されても諦める気はなかった。







 イルカは優しい。
 子供たちに対しては勿論だが、友人たち、職場の同僚たちにもいつも笑顔を絶やさずに接している。ただカカシにだけは険しい顔をしていつもは明るい表情が暗く沈む。
 アカデミーの授業中、怪我をした子供がいた。砂場で転んだから膝が大きく赤くすりむけてしまいひどく泣いていた。その子供をおぶって保健室に連れて行くイルカは子供を励ましながらもまるで自分が怪我をしたかのように辛そうな顔をしていた。
 アカデミーに長く勤めていた用務員の老人が家の都合で里から離れることになった。別れの会に予定されていた日に急に他国の遣いが来ることになりそれどころではなくなった。そんな時もイルカが音頭をとって時間の都合をつけてアカデミーの教職員と仕事が終わったあと老人の家に挨拶に向かった。老人が里を離れる朝も見送りに来た。
 アカデミーからの帰宅途中に寄る小さな商店街では店主たちは誰彼となくイルカに声をかけて、互いのやりとりには親しさがにじみ出ていた。
 イルカを見ていると、カカシの表情は自然と笑みを浮かべていた。こわばりがとけて柔らかな根元的なものに触れているような懐かしいような気持ちを味わうことが出来た。きっと9年前にカカシの術を解くことができたのはイルカだったからなのだろう。イルカの中に包まれて、イルカから注がれた心がカカシを満たして人としての形に戻してくれたのだろう。暗部にいる間に血なまぐさい日々にケモノになっていた自分に立ち戻りそうになったこともある。そんな時カカシを支えたのはイルカだ。身をもってカカシを救ってくれたイルカがカカシを導いた。
 9年の歳月は長かったのか短かったのかわからない。カカシの中にはイルカしかいないからいつまでもイルカの気持ちを待つ心持ちではいるが、それでも、イルカがカカシ以外の存在ばかりに笑いかけて優しくしている姿を見ていることが寂しい。寂しくて仕方がない。過去に混ざり合ったあの熱が恋しい。匂いを嗅いで、きつく骨もくだけよとばかりに抱きしめたかった







「イルカ先生。怪我しました」
 イルカの授業の空き時間に職員室に訪れた。
 イルカは無言で席を立つと、同僚の視線を尻目に職員室を出る。カカシはそのあとに従う。真っ直ぐな背中はこわばりが見えるようで、イルカが怒っていることがわかる。まあ当然だろう。これで何度怪我をしたと言ってはわざわざイルカを訪れることか。カカシなりに考えたのだ。けが人にはイルカも優しくしてくれるはずだと。だから任務でのちょっとした怪我でもイルカに見て欲しくて訪れている。最初は邪険にしていたイルカだが、同僚たちがカカシに同情しだした。高名な上忍が誠心誠意心を傾けている姿に、応援したい気持ちが沸いたようだ。イルカにとっては迷惑なことかもしれないが、カカシはどんな些細なことでもイルカに近づくことができるのならそれでよかった。
 保健室には誰もいなかった。イルカはあいかわらず無言で棚のうえから簡単な医療キットを出した。カカシはベスト、アンダーまで脱いで、右の二の腕を見せた。巻かれた包帯には血が滲んでいる。三日ほど前に単独任務で負った傷だが、適当に自分で手当てをしておいたら傷は治るどころか悪化していた。化膿しかけた跡にイルカは溜息をついた。
「カカシさん。念のため聞きますけど、俺のところに治療に訪れる為にわざと怪我をしたりなんて、していませんよね」
 キットだけでは足りないと判断したのか、イルカは鍵を取り出して棚から薬品をいくつか手にした。気難しげな横顔を伺いながらカカシは答えた。
「そんなこと、ないです。昔から手当に無頓着なんです。でも、もしかすると、イルカ先生に会いたいし、構ってもらえるって意識が働いているかもしれないです」
 イルカは消毒済みの綿布に大量の液体を浸して、乱暴な手つきでカカシの傷跡を拭いだした。さすがにカカシも痛みに片目を細める。カカシが痛がっている様子はわかっているだろうに、イルカは容赦することなく手当てをする。
「カカシさん」
 イルカの固い声音から、また叱られるのかと思ったが、案に相違してあげられた顔は落ち着いていて、幼な子を見守るようないたわりがあった。
「自分の体に無頓着にならないでください。人は自分だけの存在ではないんですよ」
「それは、俺が、写輪眼だからですか」
「違います。カカシさんがどんな存在でも関係ないです。ただ、一人でここに生きているんじゃないって忘れないでほしいんです」
 イルカの口元は静かな微笑を湛えていた。それが無性に腹立たしい。
「違うよイルカ先生。俺は一人だよ。あの時からずっと一人だ。俺を一人にしたのはイルカ先生だ」
「カカシ先生・・・・・」
「どうしてあの時、あなたはいなくなったんだ。目を覚ました俺がどんなに心細かったかわからないだろ。ケモノでいた時間は1年ちょっとだったけど、それ以上の年月を送ったような気持ちだった。あの時もう一度生まれたような俺を放って、あなたは、いなくなったんだ。俺は」
「カカシ先生」
 強い声音に呼びかけられ、あの時の身を切るような寂しさに我を忘れかけていたカカシは瞬きを繰り返す。イルカは丁寧に包帯を巻き終わると、ふと思いついたようにカカシの頬に片手で触れた。
「カカシ先生。人は一人で生きるわけじゃない。一人では生きていけない。でもね、生まれる時と死ぬ時は一人なんですよ。だから俺があの時あなたをおいていったことは間違っていないんです。甘えないでください」
 イルカは透明な目の色でにこりと笑った。
 ああ・・・なんて・・・・・・・。
 憎くて愛しいヒトの手を取って、カカシは歯形を残すくらいに噛みついた。



 

 

  
 
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