それが、運命なら   3







 イルカはクナイを手にするとためらうことなく湖に入っていった。

 人である自分が、人として超えてはならない部分に踏み込んでしまったと思う。
 これは任務だ。誰もイルカを責めたりしないだろうし、恥じることもないのだろうが、イルカは自分自身に恥じる。
 ケモノと人の姿で交わり、あまつさえ快楽に負けて、己から腰を振って求めてしまうなど。
 朝まだ早い水は冷たく鋭く、イルカの脳裏も鮮明になる。思ったよりも強い水の抵抗におされてよろけながらも、イルカは進む足を止めない。
 火影には申し訳なく思う。必ず生きて戻れと念を押され、約束をしたのに。けれど火影はわかってくれるだろう。イルカの一番の理解者なのだから。
 ケモノは優秀だ。人に戻った後はまた里の為に立派に仕事をこなすはずだ。
 銀の毛は心を温かくする柔らかさでイルカの心を満たしてくれた。今となってはケモノに対してどんな感情を持っていたのかとても曖昧で、だが憎くは思っていない。思えない。
 あのケモノを救うことができたことは、たいして里の為に働けなかった自分にとって最後の最後で満足ゆく仕事ができた。だから胸をはって両親の元に行ける。
 首のあたりまで水がきた。このままクナイで首を切り沈んでいこうと決めたイルカの耳に、言葉をなさない叫びが届く。
 わかっている。誰が、あげている声かなど。振り向いては行けない。耳をふさがなければいけない。

 ああ、でも。
 ケモノはどんな人間なのだろう。どんな姿をしているのだろう。きっと、美しい人間なのだろう。輝く銀の毛皮は高貴で、色違いの瞳も得難い輝きでイルカを映してくれた。きっとケモノの心の気高さが美しいケモノの姿に現れたはずだ。
 ひとめ、ひとめでいい。イルカは自分の網膜にその姿を焼き付けて旅立ちたいとふと思う。そう思う一方で、見てしまったらおしまいだと確信する。捕らわれてしまう。つかまってしまう。だから振り向いては駄目だ。駄目だ。絶対に、駄目なのに……。  そんなイルカの理性の声を打ち砕こうとするのは、どうしようもなく魂を震わせる声。
 言葉をなさないからこそ、それが逆にイルカの心をわしづかみにする。暴力的な力でイルカの心をねじ伏せようとする。激しい水音は確実に近づいてくる。耳を塞ぐよりも、イルカは震える手でクナイを首にむける。ひと思いに突いてしまえばいいのにここにきてためらいが心を覆う。
 音は確実に近づいてくる。叫びが耳の奥深くにもぐりこむ。

 そしてとうとう。
 水にむせながら、イルカは振り向いてしまった。
 派手な水音をあげて、近づいてくる若い男。イルカと同じ年くらいだ。渇望する人間の必死さが男からは溢れていた。それは間違いなく、イルカにむかって、イルカを、渇望している。その目を見てしまったら、イルカに見捨てていけるはずはなかった。
 クナイを捨てて水をかきわけて、男にむかって進む。二人の距離はみるみる縮まり、互いの手をたぐり寄せ、指先が触れた瞬間には互いをかき抱いた。
 男の力は怖いくらいに強くて、イルカの体はきしんだが、そこまで求められることに喜びがまさる。男は長らく使っていなかった声帯から、唸り声のようなものを上げている。言葉にしなくても、男の言いたいことはわかる。伝わってくる。けれど呼んで欲しい。だから男に向かって囁いた。
「・・・・・・イルカ」
 男の顔を両手ではさんで、額を当てる。
 二人とも裸でびしょ濡れで、青白い顔をしていた。
 間近で見る男はひどく整いすぎた、人でないような綺麗な顔をしていた。赤と青の双眸は涙に潤み、銀のまつげにのる水滴がきらめく。
「俺は、イルカ・・・。呼んで。俺の名前、呼んで」
「イ・・・・・ウ、ア・・」
「そう。イルカ。イルカ・・・・・」
 何度か喉の奥でイルカの名前を唱えた後、とうとう男は明確に発音した。
「イ、ル、カ!」
 イルカが笑顔を見せると男の顔もほころぶ。
 湖のうえに響き渡る男の透き通った声。
 死んでもいいと思える幸せの一瞬を、イルカは初めて知った。






 □□□






「・・・・・・」
 物思いから引き戻されれば、イルカはアカデミーの職員室の自分の机で頬杖をついていた。
 昼下がりのアカデミー。今日は子供達は野外演習で、イルカは待機組だった。イルカの机にお茶を置いてくれた同僚はしっかりしろよと笑って自分の席にもどった。外の空気を吸ってくると声をかけて、イルカは廊下にでた。
 春が過ぎ、そろそろ季節は夏に向けて進み始めようとしていた。降り注ぐ日は空高く強く輝き、日向にじっとしていればじんわりと汗ばんでくる。ともすればぼんやりとしてしまう思考にイルカはぶるぶると首を振る。
 渡り廊下から出て、中庭の水飲み場のところでばしゃばしゃと顔を洗う。
 もうあれから9年も経った。イルカはまだ子供で、未熟な中忍だった。月日がイルカの中から記憶を薄めてくれていたのに、最近になって落ちつかない理由はわかっている。
「イルカ先生。タオル使います?」
 いつの間にか、全く気配を感じさせずに傍らにはたけカカシが立っていた。
 顔の半分を口布で覆い、写輪眼は額宛てで隠す出で立ち。その素顔がひどく整っていることは知りすぎるほどに知っている。
 イルカがタオルを素直に受け取ると、蒼の目は細められた。
「ねえイルカ先生。いつ俺と遊んでくれるんです?」
「俺は、あなたとは関わりたくないんです。何度も言ってますが、俺に構わないでくれませんか」
「それは無理だよ。俺はイルカ先生に構って欲しいから」
「カカシ先生・・・・・・」
 イルカの眉間にしわが寄る。カカシと再会してからいつもこんなことを繰り返している。
 ナルトたちの担当上忍として再会した時から、カカシはあからさまにイルカに接触してきた。好意を隠そうともせず、人の目も気にせずにまとわりつく。
 一度はっきりと告げたこともある。
 あの時のことは自分にとっては悪夢であり、忘れたい記憶に他ならない。だからカカシとは必要最低限しか関わりたくないのだと。
 息を荒げて告げたイルカに目を見張ったカカシは、次の瞬間には破顔した。
 イルカにとっては悪夢でも、カカシにとっては極上の夢のような記憶だと。そのとろけるような顔は熱を持って、イルカを見つめる目には温かなものが溢れていた。
 いたたまれないとはああいう時のことを言うのだ。
 何を言ってもカカシには通じない。それはある種あの時の最初の頃のケモノとの交わりを思い出させた。
 イルカはずっと礼を失しない程度の応対しかしていないが、カカシはめげない。最近では周囲が同情するくらいにイルカにたいして一途だ。
 イルカが無言でタオルを返すと、カカシはその手をとった。取り返すより先に指先にカカシの唇が触れて、歯を、たてられた。熱い舌の感触が届いたときにはイルカはカカシを突き飛ばしていた。
「やめてください!」
 カカシはぺろりと唇を舐めてごちそうさま、などとふざけて口にする。
「好きですよ、イルカ先生」
 銀の髪が、陽差しに反射して輝く。自信と力に溢れてまるで人ならぬ存在が降りたって地上にいるようだ。
 イルカはこの存在は知らない。イルカが知っているのは、ケモノから急に人に戻されて、とまどいと恐怖に怯えていた、人……。





 二人湖からあがると、もつれるようにして草むらに倒れ込んだ。
 ついさっきまでケモノであった男は震えてイルカにすがりつき、ただひとつの言葉、イルカの名をひたすらに繰り返していた。イルカは、宥めるために何度も何度も頭を撫でてやった。そのうちに男は落ち着いたのか、体の力を抜いてイルカの顔を見た。
 色違いの目は潤んで揺れていた。小さな子供のような頼りなげな姿に、大丈夫だからと囁いてやった。
 疲れとぬくもり故か、男はそのうちに穏やかな寝息をたてはじめた。イルカは自分の荷物を持ってくると、男の鼻先に小瓶をかがせた。これで男は火影の元で調合された薬をかがされるまで目を覚まさない。
 暗部が到着するまでどれくらいの時間があるのだろう。
 イルカと同じまだ成長過程にある若い体。鍛えられて均整のとれた体には古いもの新しいもの取り混ぜて縦横に傷が走っており、子供の頃から戦場を駆けていたことが伺い知れた。あどけない寝顔がどこかケモノを彷彿とさせて愛おしい。
 もう二度と会うことはない、綺麗なもの。唇に触れるのは申し訳ない気がして、イルカは震える唇をそっと額にあてた。





 二度と、生涯会うことはないと思っていた。会いたくなかった。
 だがそれは忌まわしい記憶であるからではなく・・・・・・。
 真っ暗な部屋の中には熱のこもったイルカの息づかいがこぼれ落ちていた。堪えきれずに鼻から抜ける息に交じって、粘着質な水音がある。
 カカシと再会して求められてから、イルカは自覚した。
 イルカが欲しいのは、あの男じゃない。
 ケモノ。
 部屋の中には毛足の長い絨毯が敷き詰められている。そこに横向きで裸で横たわったイルカはうっとりと目を閉じる。銀のケモノを夢見る。

 もう一度、柔らかな毛並みに包まれたかった。



 

 

  
 
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