それが、運命なら   10







 また月日は流れ、あの夜イルカの元を逃げてから四ヶ月近くがたった。イルカに触れることができなくなってからもうかなりの月日を過ごした。
 我ながらよく狂いもせずに任務を続けていられるとカカシはぼんやりと思う。いやとっくに狂っているのかもしれない。
 音の忍たちをかくまって後方支援のような仕事をしていた辺境の村の人間すべて、老いも若きも関係なく皆殺しにした。ほとんどカカシ一人の手で。燃えさかる炎を小高い場所から目にしていると、揺らめく熱さに頭の芯もぼうっとしてくる。飢えた心に浮かびそうになる姿を押しこめてうすく笑う。もう拭いようがないくらい血なまぐさいこの体を、それでもイルカは抱きしめてくれるとはかない気持ちを持ち続けている。
 炎の向こうに懐かしい姿を見つめていると、右の脇腹に、鈍く痛みが走った。のろのろと振り向けば、顔を半分つぶされた若い男が、片目をぎらぎらと燃え立たせて後ろからカカシに鉈を打ち付けていた。
 泡を噴きながら、なにか罵倒するような言葉を連ねている瀕死の男。カカシは無意識に持ったままだったクナイをひらめかせてとどめを刺してやった。男は倒れるが、カカシの脇腹に埋まったままの鉈は落ちない。よく見れば結構な深さにくいこんでいる。なぜか痛みが麻痺したように伝わってこない。ただ、ぼたぼたと音が聞こえそうなほどに足下に血溜まりができていく。背筋に冷えた感覚が走る。その感覚に反して腹部は燃える火を移してきたかのように熱い。
 かすむ視界は闇にのみこまれていく。
 倒れ込みながらカカシが思ったのは、死ぬときぐらいはイルカのそばに居させて欲しい、そんなことだった。






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 走っていた。やみくもに暗闇を疾走していた。
 風を切る速度に恍惚となる。人の姿ではありえないスピードに酔う。なんて快適な強靱な体。鋭い牙も爪も敵を引き裂くのに丁度良く、いつだって自由だった。
 寂しいなんて気持ちはとうに忘れていた。ぬくもり? それは必要ないものだ。そう思っていたことに嘘はないのに、いや思うこと自体がなかったのに、そんな居心地のよかった闇の世界に降りたってきた存在。
 あのヒトを乗せて駆けた時はまるで飛ぶようだった。
 あのヒトが毛並みに手を差し入れて撫でてくれると身をすり寄せてもっともっとと甘えた気持ちが沸いた。
 あのヒトが笑うと、胃のあたりから温かいものがわあっとせり上がってきて顔中を舐めまわした。尻尾が勝手に大きく揺れた。
 黒い犬の中に入ることに最初は意味なんてなかった。ただ突き動かされる何かにせかされて貪ったに過ぎない。それがだんだんと、黒い犬が震えて掠れた辛そうな呼気を漏らしているのに気づき始めると間違ったことを強いてしまっている気がして気持ちがしぼんだ。
 優しくしたくて、中に入ることを受け入れて欲しくて、いつも縮こまったままの犬の局所に舌を伸ばそうとしたら怯えられた。そのうちに犬ではなくヒトの姿の中に入りこみたいと大それた欲望を抱くようになった。
 あり得ないような汚い望みをあのヒトは受け入れてくれた。
 あの時はすでに意識はケモノから人としてのものに移っていたのかもしれない。殉教者のように身を差しだしてきたヒトを優しく、愛したいと思った。中に入った時のとろける感覚には陶然となった。あれ以上の快楽を知らない。
 混ざって、溶けて、沈んでいた希望を取り戻した。
 あのヒトのすべてがかぐわしく甘美で、何度か交わったあと、振り向いたあのヒトに抱きしめられたときに、ケモノからはたけカカシへの閉ざされていた道が通じた。

 あの時、湖で二人沈んでいれば、こんなに苦しむことはなかったのに。

 幸せに酔って臆病になることもなかったのに。






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 頬に羽のように触れる感覚が覚醒を促した。
 重いまぶたが痙攣しなんとか開いた時には真っ白な天井と鼻腔をつく消毒液の匂いに病院だということが知れた。傍らの気配にぎこちなく首を巡らせれば、イルカがいた。

 吸い込まれそうに深い黒の目からみるみる溢れた涙が、背中を丸めたイルカの膝の上の拳に次々と落ちていく。イルカは何も言わず、ひとときの間、ただすすり泣く音だけが病室を満たした。
 いつもイルカを泣かせている。
 心を占めるただ一人のヒトが泣いているのに手を伸ばすこともできない自分が今ははがゆい。鉛のような体が動くなら、今だけはイルカを抱きしめたいのに。
 ひととおり泣いて落ち着いたのか、顔をあげたイルカは赤い目と寝不足と伺える疲れた顔のままそれでも静かに笑ってくれた。それを見てカカシの中には忘れかけていた温かな波が満ちてくるのを感じた。イルカ一人の存在だけで満たされる。強ばる筋肉を意識しながらカカシも笑いかけた。イルカ、と呼びたいのに、声帯がはりついたように乾いて呻くような声しかでなかった。
「無理しないで下さい。あなた一週間ぐらい生死の境をさまよっていたんですよ。本当に、無茶ばかりして」
 子供をいさめるようなものいいが懐かしい。イルカから注がれる穏やかな空気がイルカに飢えていたカカシを包み込む。食い入るようにひたすらにイルカを見つめる。
「カカシさん。訊きたいことがあるんです」
 イルカの固い声音に、カカシも覚悟する。イルカを避け続けた理由を今こそ問い質されるのだろう。
 イルカは少しの間、カカシのことをじっと見つめてきた。その澄んだ眼差しが、瞬きも忘れてカカシに注がれる。間に走る緊張に、カカシは知らず喉を鳴らした。
「カカシさん、俺のこと、好きですか?」
 イルカは思いがけないことを問いかけてきた。思わず目を見開いたカカシの答えをイルカは待っている。
 好きか、だなんて。
 そんなことを問わせるほどにイルカに不安を与え、距離を作ってしまったのかと今更ながらカカシは自らの行いを悔やむ。声がでたならあらん限りの叫びで言えるのに。体が動いたなら、痛がるくらいにきつくきつく抱きしめてあげるのに。
 役立たずな自分を叱咤して、見つめた。口を動かした。
 たったひとりのヒトに、ただひとつの愛の言葉を。







 イルカは、深い深い吐息を漏らした。
 ありがとう、と小さく呟いて、はかない笑みを浮かべた。
「俺も、愛してますよ。カカシさんばかりです、俺のなか」
 頷いたイルカはどこか懐かしい顔で笑った。出会った頃のイルカ。少し寂しさを滲ませた笑み。急速に溢れる焦燥にカカシは動かない体をなんとかできないかともがく。
 それを制するように立ち上がったイルカはカカシの両肩に触れた。そのまま顔を屈めて、カカシの額にそっと唇で触れた。
 あたたかな唇が額に熱を灯す。
「ありがとうカカシさん。それが、聞きたかったんです。あなたがもし俺のこと嫌いになって離れてしまったのなら耐えられなかった。でも、そうじゃないなら、大丈夫です。俺は、一人でも、生きていけます」
 一人という言葉の衝撃に口を震わせるカカシにイルカはもう一度笑いかけてくれた。ケモノであった頃によく目にしていた同じ微笑みが、苦しい。
 金縛りにあったようにカカシが動けずにいる間にイルカはドアに向かう。背中越しに、さようなら、と呟かれた。絶望の言葉が耳の奥に残った。





 不自由な入院生活を余儀なくされた。
 ひと月は入院が必要だと言われ、全治三ヶ月だと言われた。
 暗部の仲間はもとより、五代目も見舞いに訪れこっぴどく叱られた。だが、カカシのことを心配してくれている。この怪我も五代目の治療を受けたおかげで命をつなげることができたのだ。
 心配かけたことは仲間たちに申し訳ないと思うが、それよりも今はイルカのことが気がかりだった。
 目覚めて最初にそばにいてくれたイルカ。五代目の話では、どうしても付き添わせて欲しいと頼み込まれ、その熱意に負けて許可したとのこと。
 だがイルカはあれからぱたりと姿を現さない。五代目に様子を問えば普通に仕事をこなしてつつがない日常を過ごしているとのこと。だが五代目にカカシのことを問うことはない。それはまるでイルカの中からカカシの存在が追い出されてしまったようで、自分勝手にもカカシは焦りを覚えた。
 イルカにさようならと言われた。
 さようなら。別れの言葉。イルカは一人で生きていけると言った。
 先にイルカを一人にしたのはカカシのほうなのに、実質イルカは1年近くの間一人でいたのに。それがイルカから別れの言葉を切り出されるのが許せないなんて。
 身勝手なことは重々承知だ。カカシは体が動くようになるとすぐに病院を抜け出した。





 消灯を待って抜け出せば、夜も更けていた。
 二人の家へとひた走る。イルカのことをつかまえられるのならもうそれだけでいい。本当に今更だが、どうしてイルカに何も言わずに逃げたのだろう。イルカなら必ずカカシのそばにいてくれるのに。イルカに何もかも話してしまおう。そして、二人で生きたいと、こいねがおう。
 自然とゆるくなる口元を引き締めて家の扉をたたいたカカシだが、中にいるはずのヒトはどこにもいなくて、イルカの私物は居間の片隅にまとめられていた。



 一人で住むには広い家。
 台所、居間、それぞれの部屋、寝室。いつも二人で居る時は居間で過ごして、持ち越しの仕事があれば互いに没頭した。もっともアカデミー教師のイルカのほうが圧倒的に仕事を持ち帰ることが多く、手持ちぶさたになったカカシはいつも黙ってイルカのことを見つめていた。
 テストの採点をしたり、翌日の授業の教案を作ったりとなにかと忙しい。いい加減教師としては中堅どころで日々の繰り返しのような授業になるだろうに、イルカは毎回何か新しいアイディアがないかと熱心に考えていた。カカシの存在などどこかに置いて、テストの採点に一喜一憂したり、ひらめいたことに大きく頷いたり、生き生きと表情が動いた。
 カカシの存在に不意に気づくと、イルカはばつが悪そうに鼻の傷をかいて、すまなそうに笑った。カカシはそんな瞬間、イルカのことを抱きしめたくてたまらなくなった。堪えきれずに手を伸ばすと、少し厳しい顔をしたイルカにたしなめられた。膝を抱えてすねたポーズで部屋の隅にいると、仕事を終えたイルカが寄ってきて、髪に手を差し入れて撫でてくれた。鼻先をすり寄せると、イルカはくすぐったがって逃れようとした。
 イルカは結構料理には手を抜いた。自分が好きなものを食べればいいと見た目にはこだわらずに豪快にどんぶりのようなものをよく作った。カカシが少し手のこんだものを作るとそれだけで激しく感動して、おいしいおいしいと口いっぱいにほおばって楽しんでいた。子供のように口のまわりにご飯粒を散らす無邪気な様子が愛しくて仕方なかった。
 部屋の中には、イルカが溢れている。
 イルカの気配、匂いが濃厚にカカシの脳裏を焼く。
 考えようとしなくても、次から次へとイルカとの思い出が押し寄せる。記憶が勝手にイルカとの日々を辿っていく。
 ほんの数十分だ。それでもここは二人の生活に満ちて息苦しいくらいなのに、こんな残酷な場所に、イルカ一人を長い間ひとりぽっちでいさせたなんて。
 なんて、なんて人でなしなことをしてしまったのだろう。イルカはいったいどんな気持ちでこの家に居続けてくれたのか。何も言わずに姿をくらまし、思わせぶりに気配を漂わせ、イルカの心を縛り付けていた。本当にイルカのことを思うなら、もっと他にやりようがあった。自分のことばかりで、自分だけが不幸だと思って、逃げていた。
 情けなさに目がくらむ。
 ぼやける視界に大きめの紙袋が映った。なかには、イルカにねだった敷物がしまわれていた。イルカが不在の時はイルカの匂いが濃厚な敷物を抱えて眠りについていた。
 毛足の長い敷物を口元にあてればそこにはやはりイルカの匂いがして、カカシは歯を食いしばった。
 どんな謝罪の言葉を並べても足りないが、すがりついて、イルカに謝りたいと、願う。
 苦しくて、敷物を腹に抱いて、カカシはそのままうずくまった。



 きっともうイルカのことを失ったのだと思ったから、かすかな音が聞こえたとき、それは夢だと思った。
 それは窓の外からした。
 顔をあげれば、窓の向こう、庭にイルカが佇んでいた。
 夢なら、もうその中に行ってしまいたい。それでいい。
 立ち上がったカカシが床を蹴った時、その脳裏にはイルカだけがいた。





 

 

  
 
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