それが、運命なら   11







 カカシが急に暗部に去ってしまい、里に戻っても姿を見せないことで、イルカはさすがに避けられていることがわかった。
 どうしてなのか理由が全くわからずに一人の家で過ごすことにだんだんと苦しさだけがつのっていった。カカシに嫌われる理由は見あたらない。それは里に戻った時に感じるカカシの視線から明らかなことだった。
 ではなぜカカシがイルカを避けなければならないのか。離れていなければならないのか。そこにはきっと仕方のない事情があるのだと、月日がイルカにも思わせてくれるようになった。
 そんなふうに気持ちを落ち着かせることができた頃に、カカシが大怪我を負って里に戻ってきた。居てもたっても居られずに、火影に頼み込んでカカシの世話をした。
 カカシは重傷で、五代目の手当てを受けても予断を許さない状態が二〜三日続いた。眠ることさえ忘れてカカシの世話をして思ったのは、自分はいつの間にか贅沢になっていたということ。命の火が消えてしまいそうなカカシが生きてくれるなら、もう本当にそれだけで、何も望むことはなかった。
 だから目を覚ましたカカシに、たったひとつの言葉だけをねだった。
 せめてそれぐらいは許して欲しかった。その言葉がもらえるならそれだけで生きていけるのだから。
 カカシの目には真実があり、イルカは満たされた。だから、自分からカカシに別れを切り出すことができた。
 もう二人の濃密な気配で窒息しそうになる家からは出て行こうとして部屋の片付けを始めた。これからもカカシのことを思い続けることに変わりはないが、このままずるずるとこの家に居続けては前に進むことはできない。そんな情けない姿をさらしたくはないから、けじめをつける為に家は出て行こうと思った。けれど、時たまどうしても寂しくなった時に、カカシに渡したあの敷物で自分を慰めることを許して欲しいと思って少しの荷物と一緒にまとめた。
 片付けを終えて、庭に出てみた。
 カカシと育てた野菜はいつの間にか苗を枯らし、乾いた土があるだけとなっていた。その様子にもの寂しいものを感じつつも、どこか仕方のないことと納得する自分もいた。
 当たり前だが、時は進んでいく。一時もとどまることはない。カカシと過ごした蜜月も事実なら、今カカシと共にいられないことも同じ事実にすぎない。そのことを冷静に受けとめることができるのなら、きっと一人で生きていけると強がりでなく思えた。
 空を見上げれば満月。自然と口元は緩む。立ち上がって踵を返せば、部屋の中から気配がした。居間の暗がりに、なぜかカカシがうずくまっていた。
 なんの気なしにカカシさん、とかすかに呼んだだけなのに、あやまたずその一声で反応したカカシは顔を上げると、イルカに向かって跳躍したのだ。

 イルカに向かって飛び込んできたのは、鋭い爪で窓を割ったのは、いっときも忘れたことがない、懐かしい、愛しい、ケモノ。
 まるでスローモーションのように、イルカの見開いた目の網膜に、ケモノに変わるカカシが刻まれた。





「……!」
 咄嗟に顔をかばった。肩に鋭い痛みが走り、背中をしたたかに打ち付けた。四肢を地面に縫い止められていた。
 月明かりのなか。
 イルカの体を押さえつけるのは、銀の毛並みを纏った、ケモノ。
 イルカは息をするのも忘れて瞳がこぼれそうなほどに見開かれる。なんとか喉の奥から声を絞り出した。
「カカシ、さん……?」
 問いかければ、ケモノはいきなりイルカから身を引いた。喉の奥で唸りながらまるで恐怖にかられたちっぽけな生き物のように後じさる。
 体を起こしたイルカは、けっして目を逸らさずに、震える手を差し伸べた。
「カカシさん」
 急に時が戻ったような錯覚を覚える。
 イルカの心を焼いた愛しいケモノが、手の届く距離にいる。質感のある柔らかな体、色違いの精悍な目の色、その奥には優しい光。あの朝に決別した姿がなぜ今ここにあるのか。間違った夢を見てしまっていると思う一方で、もう一度と願った姿に触れたくて、イルカは身を乗り出した。
「カカシさん!」
 その瞬間、ケモノは地を蹴った。
 イルカに背を向けて、闇のむこうに消えた。





 確信があったわけではないが、カカシが向かう先はあそこしかないと思った。
 二人でいることが当たり前だった頃、よく訪れた里のはずれの森。小さな湖もあり、出会ったあの場所に酷似した場所。
 イルカは駆け続け、夜も更にふけた頃にやっと辿り着いた。整わない息のまま、暗がりに向かって叫ぶ。
 闇に溶けた濃い緑は見知らぬ生物が潜んでいそうで、気を張らないと心に覆い被さってくる。カカシがいることを信じて、イルカは森中を回った。必死にカカシの姿だけを追うから、時たま木の根に足を取られて転び、低空を飛びたつ夜の鳥が体にあたったりした。
 喉が枯れるほどに叫んでも、カカシは姿を現さない。見当違いのところで探していたのかと、疲れ果てたイルカは木の陰で膝を抱えて座り込んでしまった。
 なぜカカシが今になってケモノの姿に変わるというのか。実際自分の目で見なければ信じられないことだ。術をかけたわけではなく、その姿が別の種への変化した。
「イルカせんせえ……」
 突然届いた声にイルカは慌てて顔をあげた。
 立ち上がろうとしたところをカカシの声に止められる。鼓動が激しくなる。懸命に気配を探れば、イルカが座る木の真後ろに、カカシの気配があった。
「イルカ先生。そのままで、聞いて」
 イルカは落ち着けと自分に命じて、膝を抱いたまま顔だけを後ろに向けた。
「突然あなたから逃げてごめんなさい。きっといっぱい心配かけましたよね。本当に、ごめんなさい」
「そんなこと、……」
「あなたのこと避けてしまったけど、病院で言ったことに嘘はないです。俺が好きなのはずっと、イルカ先生だけで、イルカ先生しかいません」
「それなら、どうして……」
「人間のままでいたかったから」
 カカシがぽつりと落とした言葉は、イルカの奥深くに入りこみ、すとんと落ち着いた。激しかった鼓動が、急速に引いていく。残るのは静けさ。目を閉じたイルカの闇の中には銀色が散った。ああ、と漏れた声にはどんな感情が入っていたのかはわからない。
「五代目に、言われました。俺の体が、またケモノへ戻ろうとしてると。俺の術を解いてくれたのはイルカ先生だけど、俺が、イルカ先生をケモノの時に抱いたから、術がイルカ先生の中に残っていると。イルカ先生と交わることは、俺をまたケモノへと変えることになる、そう言われて、あなたと別れろと言われました」
 イルカは地面におろした手をきつく握りしめていた。草の匂いが、かおる。
「イルカ先生と別れたくなんてなかった。でも、もうケモノになるのは嫌だった。俺は人間のままで、ずっと、イルカ先生と二人でいたかった。五代目に、落ち着けば何か方法を講じてみると言われ、俺はそれにすがることにしたんです」
 吐息のようなかすかな息づかいが届く。
 空気を震わすカカシの声が悲しい。
「俺は、イルカ先生のすべてが欲しくて欲しくてたまらないのに、そばにいるだけであなたに触れないなんて、そんなこと無理です。だから、あなたから離れることを選びました。でも俺、馬鹿ですね。離れたらもっと苦しくて、イルカ先生に触れたくて、気が狂いそうでした。
 あなたと離れられるわけがなかったのに。馬鹿なことして、苦しめて、ごめんなさい。ごめんなさい。ごめんなさい……」
 くぐもったカカシの声がイルカの脳裏にリズムのように響いてくる。せつなく、心震わすリズム。それは優しくて、哀しい音。
 イルカはカカシを驚かせないように、そっと移動した。イルカが座っていた木の真後ろに、裸のカカシは膝を抱えて顔をうずめていた。ふさふさの銀の髪がしぼんでいる。
「本当に、馬鹿ですね、あなたは」
 小さな声で苦笑をこめて告げれば、カカシの肩がびくりと揺れる。カカシが逃げないことを確信して、柔らかな髪に指をさしいれた。
「どうして、俺にそのことを言ってくれなかったんですか」
 カカシの気持ちをほぐすようにそっと触れる。
 久しぶりに触れる愛しい人間の体温に、イルカも強ばっていた気持ちがほっと一息ついていくのを感じた。
「イルカ先生を、あいつにとられたくなかったから……」
「あいつ?」
「……あの、ケモノです」
 意外なカカシの言葉にイルカの手は止まる。顔を上げたカカシは涙に濡れた歪んだ顔をしていた。
「イルカ先生は、ケモノのことを、思ってますよね。俺はケモノじゃない。人間です。俺は、あんなケモノなんかじゃない。俺が人間のままなら、あんなケモノに怯えなくても良かった。でも、ケモノに戻ったら、俺って人間は忘れられてしまうかもしれない。イルカ先生に忘れられるかもしれない。そんなの、嫌だ。絶対に、嫌だ。イルカ先生が俺のことを一番に好きじゃないなんて、嫌だ。嫌なんです……」
 色違いの目から、溢れた涙が、歪んだ口元が、カカシのことを寄る辺ない子供のように見せる。
 イルカの前にはカカシがいる。人間のカカシがいる。カカシだけが映る。
 イルカは両手を広げて、カカシを胸に抱き取った。
「本当に、馬鹿です。あなたがなんだって、俺はかまわない。言ったじゃないですか。俺の中、あなたばかりだって」
 甘えるようにカカシの髪に頬をすり寄せると、とまどっていたカカシもおずおずとその手をイルカの背に回してきた。
「あなたとなら、どこでも行きます。なんだってかまわない。あなたとなら、俺はそれだけでいいんです」
「でも、俺は、ケモノに、戻ってしまう。それでも……」
 カカシを抱きしめる手にイルカは万感の力をこめた。
「いいんです。そんなこと。それが……」





 それが、運命なら―――――。





 それから二人は何かにせかされるように互いを求めあった。人にしかできない愛し方で何度も何度も交わった。かたほうが意識をなくしていてもむさぼることを止めずに、日が明けても、日が天高く上っても中毒のようにぬくもりを求めずにいられなかった。
 カカシはイルカの耳元でまるでその言葉しか知らないかのように、馬鹿みたいにひとつの言葉を繰り返し繰り返し注ぎこんだ。きっともう聞くことが叶わない愛の言葉をイルカは脳裏に刻んだ。
 イルカが完全に気絶する直前、最後にその目に写したのは、色違いの美しい瞳と、その後ろの染み入るような真っ青な空と、光を弾く緑と、清廉な白い雲だった。





 イルカは目覚めた時、あまりの疲労感に指一本動かせない気がした。喉の奥もさまざまなものが絡んでいるようで、粘りついてかすれた声しかでない。それてもなんとか身体を起こして、イルカのことを守るようにして傍らに寄り添う銀色のケモノの安らかな鼻先にそっと口づけた。

 ここにいるのは愛しい存在だ。それだけのことだ。





 おかえり…。





□□□




「それで、後悔はしないのかい?」
「しません、と言いたいところですが、それはわかりません。悔やむ時がくるかもしれません。だから、五代目に頼みたいんです」
 イルカはそう言ってやけにさっぱりした顔で笑った。
 火影の執務室の机をはさんで渋面の火影とイルカは向かい合っていた。
「わがままというより、忍として許されないくらいの図々しいことを望んでいると自覚はあります。でも俺たちにはそれしかもう在りようがないんです」
 火影は額をおさえるとゆるゆると首を振った。
「あたしがどれほど反対しても、もう手遅れなんだろう?」
 イルカは何も言わずに頷いた。もう結論は出ている。訂正はきかない。
「ああ、わかったよ」
 手をふった火影は引き出しから取り出した巻物を無造作にイルカに放り投げた。
「そこにお前ら二人の使役としての契約を残していけ。必要な時はせいぜい呼び出してこきつかってやる。覚悟しておけよ」
 火影の言葉に頷いたイルカは、深く深く頭を下げた。





 綱手は火影岩を見上げていた。
 凝視するのは三代目火影。睨み付けていたが、ふっと力が抜けて俯いた。
「綱手様」
 持っていた巻物を火遁で燃やしていると、そこに付き人であったシズネがやって来た。
「綱手様、その巻物は」
「ああ。馬鹿二人の契約の巻物だよ」
「よろしいのですか、燃やしてしまって」
 シズネを少し顧みて、綱手はフェンスにもたれかかると夜空に向けて溜息をついた。
「いいんだよ。あんな奴らいなくたって、里は優秀な忍がいっぱいいるんだ。立て直してみせるさ」
 馬鹿にするような軽い口調の綱手にシズネは笑って頷いた。
「綱手様、イルカに術をかけたりしませんでしたよね」
「暗示だよあんなの。あいつが望まない限りあの変化がとけることはない。あいつが人に戻ることを望むことは、生涯ないだろ。馬鹿な奴だよな本当に」
「馬鹿ですね。馬鹿ですけど、いさぎいい。わたしは、好きです」
 シズネと綱手は視線を見交わして、お互いに同じような少し寂しい顔をして苦笑した。
 並んで燃え落ちていく巻物をじっと見つめていると、不意に風が吹く。主従二人のまわりを巻物の燃え残りがくるりと回ってすぐに散っていった。

 そうして、はたけカカシとうみのイルカの里での存在が失われた。





 いつもの修行の場である、里を囲む森のほうからの帰り道だった。
 いつもよりも成果があがった今夜は鼻歌なぞ唄いながらナルトは帰路についていた。空には星が瞬き、掴めそうなほどに近い。知った星座がないか原っぱの真ん中で立ち止まって目とこらした時、前方からふたつの気配を感じた。
 ほんの数メートルの場に、ナルトの体躯をしのぐような大型の犬がいた。真っ黒と銀色をしたケモノはナルトのことを見ていた。瞬間、身構えてクナイを取り出そうとしたが、目の前の存在からは殺気の欠片も感じなかった。首をかしげたナルトが不思議に思っているうちに黒いほうが近寄ってきた。
 とまどうナルトにかまわずに鼻先をすり寄せて、頬を舐めてきた。
「なんだよお前ー。くすぐったいってばよ」
 ナルトは笑ってケモノのふさふさの毛並みに手を入れて抱きしめた。ケモノはナルトにじゃれつくように舌をだす。子供らしい少し甲高い声ではしゃいだナルトは、犬の耳をひっぱってじっとその顔を見つめた。
「お前の鼻のとこにある傷イルカ先生みたいだってばよ」
 ナルトの声に応えるかのように、黒い犬は一声吠えた。
「なんだよ、俺の言ってることわかるのか?」
 ナルトが犬の体に顔をうずめた時、いつの間にか傍らにもう一頭の銀色のケモノがいた。黒い犬よりもひとまわりほど大きくて鋭い眼差しは色違いのようだ。
 ナルトがその目の色にもう一人の身近な人間を思い出そうとする前に、黒い犬に対して頷くように首をたてに振った銀のケモノは、ナルトには一瞥を与えると、駆けだした。
「え? あれ〜? あれれ〜……」
 銀のケモノの後ろ姿を見つめるナルトの胸元に、再び身をすり寄せた黒い犬は、ひたとナルトを見つめた。
 黒々と濡れた目が今にも言葉を紡ぎそうなほどにナルトに肉迫する。
「なんだよ、なんなんだってばよ……」
 ナルトは思わず手を伸ばしもう一度犬に触ろうとした。
 そこを逃れて犬はナルトと距離を作る。ナルトは飛びつこうとしたが、それを遮るような遠吠えがする。
 瞬間、犬も駆けだした。遠くから呼ぶ声に惹かれるように、去っていった。
 ナルトはたった今のふたつの存在との邂逅とあっという間の別れに心を波立たせる。心臓がどきどきとうるさく鳴る。
 ふたつのケモノが駆け去った遠くを、ナルトはしばしの間見つめ続けた。






 それからしばらくして。
 木の葉の里のコピー忍者はたけカカシが死んだのではないかとまことしやかな噂が他国に流れる。
 木の葉の里ではアカデミー教師をしていた狐仔の恩師でもある一介の中忍が姿を消す。
 命をはって任務を遂行する忍なのだからいつどこで死んでも不思議はない。
 いつの間にか消えた二人の忍のことは、時とともに誰の口にものぼらなくなるが、ただ、木の葉の里を囲む、深く折り重なる緑が広がる巨大な森には、時たま黒と銀の二頭のケモノが訪れ、そこで負傷した者たちを助けているという話がささやかれるようになる。
 真実はわからない。
 だが、六代目の火影となった金の髪の若者は知っている。
 二頭のケモノがこの世界のどこかで生きていることを。





 

 

それが、運命なら



ケモノとイルカ カノンちのM子さんより



 
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