秋の花火 弐
 
 
 

 

 風を切るその音はカカシにとってはあまりになじみ深いもの。
 放たれたクナイは目指す的に向かって軌跡を描き、的確に狙ったものを仕留めるはすだ。忍として物心つくかつかない頃から投げ続け、今では目をつむっても動かない的に当てることなど赤子の手をひねるよりも簡単なことだというのに。
 布団に寝ころんだままカカシが見つめる先で、イルカが投げたクナイは5メートルほど先の的の中心から外れて刺さる。障害もなく、もちろん的は動かない。それを外すことができるなどと、カカシにとって決して嫌味ではなくすごいことだった。カカシにはこの状況では外すことこそ困難なことだから。
「イルカ、お前はひょっとして的を外す訓練をしているのか?」
 庭の気配に目を覚ましたカカシはそっと襖を開けて、かれこれ1時間近くイルカがクナイを的に当てる練習を見ていた。そのうちたった一度も真ん中に命中しないのだ。 少なくとも下忍にはなっているというのだから、わざと外しているとしかカカシには思えなかった。大きな欠伸を我慢することができず、ついでにイルカに話しかけた。
 常の習性で気配を殺していたカカシにイルカは全く気づいていなかったようだ。いきなり話しかければクナイを投げる手を止めて上気した顔のまま振り向いた。
 卓袱台を横に寄せた居間でうつぶせに寝ころんでいるカカシを目にとめたイルカは数秒視線を定め、クナイを片手に持ったまま上がり込んできた。
 カカシの枕元でじっと見つめる黒い目は何かを探るようにカカシを伺っている。イルカのまっすぐな視線にカカシがいたたまれなくなるのは何故なのか。
「あのさ、カカシさん。よく眠れた?」
「あー、夢も見ずにぐっすりだ」
「そっか。よかった」
 真剣だったイルカの顔がほころんだ。クナイを握りなおすとまた的に向かう。そして相変わらず外し続ける。
「イルカ、お前は本当に下忍なのか?」
「何言ってんだよ。昨日僕の額宛て見ただろ?」
「じゃあなんで一度も的の真ん中にあたらないんだ?」
 ぴたりとイルカの動きが再び止まる。肩をいからせたイルカは眉を吊り上げた。
「なんだよ。難しいんだよ。だから練習しているんだろ。カカシさんは当てられるのかよ?」
「俺は上忍だって昨日言ったよな〜」
「じゃあ、百発百中で当ててみろよ!」
 ムキになっちゃって。子供だなあ。
 布団の中でうつぶせに頬杖ついたまま、カカシはちょいちょいとイルカを手招いた。素直に近づいてきたが、イルカの毛は逆立っている。無言でクナイを受け取ったカカシは、距離にして10メートルくらいはある、畑のむこう、木にたてかけてある鍬に狙いを定めた。軽く手首のスナップをきかせて無造作に放る。小気味いい音がして、クナイはあやまたず鍬の細い柄に深く刺さっていた。
 イルカは、刺さったクナイと転がったままのカカシを交互に見て、いきなりカカシに抱きついてきた。
「すげー、カカシさんすげーよ! かっこいいー。さすが上忍だー」
 きらきらと輝く目で手放しの賛辞を受けて悪い気はしないが、しかしカカシにとってはたいしたことではないのだ。気恥ずかしくなってきてやんわりとイルカを引きはがした。
「俺でよければこれから毎朝教えてやるよ。泊めてもらっている礼だ」
「ホントに!?」
 ぱあっと輝く表情がまぶしいのは何故なのだろう。朝だからだろうか? カカシさん大好きと繰り返すイルカの笑顔は心臓に悪い。ああでも、大人のイルカもいい笑顔をよく見せてくれた。彼の笑った顔が見たくてなんとなく飲みに誘っていた気がする。
「じゃあ俺そろそろアカデミーに行くから、適当に冷蔵庫あさっていいからね」
 カカシにありったけの感謝の言葉をささげてイルカは慌ただしく出て行った。
 
 
 居間で胡座をかいているカカシの前には、ぼんやりと犬の形態をした煙のようなものが鎮座していた。
「・・・じゃあ俺は今家のベッドに寝てるってわけか」
「ああ。ナルトと自来也様がツナデ様を捜しに里を出た」
「そっかー。しかし情けないねえ俺も。イタチごときにやられるとはねえ」
「仕方ないだろう。あっちは本物だ」
 カカシと長い付き合いの忍犬はなかなか辛辣だ。
 どうやら自分が過去に迷い込んだということはわかったカカシだが、もう少し現状把握を試みようと口寄せをしてみたところ、生意気な忍犬が一匹、実体を伴わずに姿を表した。
「お前は結構重傷のようだ。眠っているが無意識に印を結んでいる。チャクラをねりこんだ深い睡眠で体の身体機能を回復させようとしているようだ。そのせいだと思うが、過去に入ってしまったようだな」
「ふ〜ん。よくわからないけど、まあいいさ。そっちの世界でさ、イルカ先生はどうしている? 俺の見舞いにきてくれたりしている?」
「イルカ? ナルトの恩師か?」
 いきなり何を言い出すのだと、忍犬は鼻のあたりに皺を寄せる。カカシ自身、馬鹿なことを聞いているなあと思ったから、早々に忍犬には去ってもらった。
 ごろんと横になって天井のしみをぼんやりと映す。
 確かに、忍犬が不審がるのも無理はない。わざわざ呼び出したのだからもっと聞くことがあるだろうに、頭にあったのはイルカのこと。今なにをしているのかが気になるだなどと。火影が亡くなり里は揺れている。そんな時にイルカが悠長にそんなに親しくない上忍の見舞いに足を運ぶわけがない。この世界にいるイルカなら何をおいても来てくれそうだが。大人のイルカは冷たいかもしれない。勝手な妄想にぐるぐるしていたカカシはその不毛さに気づき起きあがった。
 おかしい。イルカのことなど別に知り合い程度にしか考えていなかったはずだ。それが、子供のイルカの顔が、笑顔が、でんと頭の中心に居座るのは本当に何故なのか。
 考えて答えがでないことはとりあえずほおっておき、カカシは里を探索でもしようかと腰を上げた。
 
 
 探索とはいっても、おおっぴらに出歩けないことは自覚していた。九尾の事件の頃はビンゴブックに載るようなことにはまだなっていなかったが、6歳で中忍になった者として里内での知名度はなかなかのものだったから、どこで見知った人間に会うとも限らない。大人と子供の差はあるがカカシに似通った風貌の今ここいにる大人のカカシは間違いなく尋問されるだろう。
 アカデミーの周辺は特に注意を払って移動した。物陰に身をひそめ木々を飛び移ってそれとなく様子を見る。
 建物自体は勿論新しいのだが、どこかかすんだように目に映るのは、カカシが未来のフィルターを通して見てしまっているからだろうか。九尾の急襲の際に本営はアカデミーに置かれた。カカシはあの頃すでに上忍だったから、師の四代目とともにここに集まった。勿論、四代目と供に九尾のもとに出向くつもりでいたのに・・・。
 アカデミーを出入りする人々は皆足早で、精力的に動いている。傷ついた木の葉の再興。内から外から里を立て直さなければならなかった。カカシは自ら外での立て直しを選んだ。数年里に戻ることはなく、いつ野垂れ死ぬかもしれないとのことで、志願した者たちを皆が称えたが、少なくともカカシは個人的にはそんな悲壮な決意は微塵もなかった。
 ただ、逃げたかっただけだ。
 四代目がいない現実、壊滅寸前まで追いやられた木の葉。それを見ていたくなかった。カカシは復興などあの時信じていなかった。四大目が命を賭して守った木の葉の終わりから逃げた。逃げて逃げて、外の世界で人を殺していた。
 ところが今目にする当時の木の葉はどうだろう。復興を信じて動く人々が沢山いる。カカシは数年たって戻った時に正直驚いたが、木の葉の火は決して消えていなかったということだ。
 逃げた自分。そして今も結局逃げているのではないか。過去へと。
「全く進歩がないね、俺も」
 日が沈んだ黄昏に、カカシは慰霊碑の前に立った。
 九尾の災厄で作りなおされたばかりだが多数の名を刻んだ碑。今でも鮮明に思い出せる年上の戦友たちの顔がめぐる。名前に目を走らせたままカカシは慰霊碑の向こうのこんもりとした草かげに声をかけた。
「でてきたらどうだ、イルカ」
 未熟ながらも必死で気配を殺していたようだが、一瞬で動揺して、がさりと草むらが揺れる。
「お前がでてくるまで俺はずっと待っているぞ」
 脅しの気持ちをこめると、イルカはのろのろと顔をあげた。草むらから顔だけが出ている姿は滑稽でもあったが、泣きはらした真っ赤な目と拭いきれずに垂れている鼻水が哀れだった。
 泣いていたのか、と訊くのも野暮だから、カカシはつかつかとイルカに近寄った。無表情に近づいたせいか、イルカはびくりと肩を震わせる。
「別に、泣いてなんか、!」
 そっとイルカを引っ張りだすと、膝をついて抱きしめた。ぽんぽんと背中をたたく。
「慰霊碑の前ならいくらでも泣いていいんだ。ここで泣く人間を責めたり笑ったりする人間は木の葉にはいない。安心しろ」
 あやすように背中を撫でたりしているうちに、イルカは大きく鼻をすすってカカシに強くしがみつくと、声をあげて泣き出した。
 いつもいつもイルカは一人で声を殺して泣いていたのだろうか。すがりつける者があれば、ぬくもりを分けあい、心を重ね併せることができるのに、ただ一人、静かに涙していたのだろうか・・・。
 カカシはあの頃泣きたかったが泣けなかった。泣くことは負けのような気持ちでいた。それが間違っていたとは思わないが、素直に泣きたかった自分がどこかに消えていったのは確かで、それが少し申し訳ない気もした。イルカのように泣けばよかった。大切な人の死をきちんと悲しめばよかった。今更は泣けない。だからイルカの涙に自分の心を重ねてみた。イルカの柔らかなぬくもりはとても、とても、気持ちがよかった。
 
 
 カカシが本来いる世界での毎朝の日課はまずは慰霊碑に行くことだ。そこで煮詰まったまま立ち続け、いつも遅刻して子供たちに叱られていた。
 だが今の日課は朝起きてイルカにクナイを投げる指導をしてやり、昼間は里を目立たないように歩き回り、人気のない場所で鍛錬をしていた。なんとなく夕飯はカカシが作るようになり、イルカはただいまと言える人間がいることに喜びを感じているようだ。それはカカシも同じで、おかえりと返してやれる人間がいることがこそばゆいが嬉しかった。
 イルカはアカデミーが終わってから友達と鍛錬して帰ってくるからいつも泥だらけだ。帰ってきた時に湯気のたつ食卓と沸かされた風呂に幸せいっぱいの笑顔を向けてくる。ありがとう、おいしいよ、とイルカは素直に言葉を紡ぐ。その真っ直ぐな心根がカカシには羨ましくあった。
 カカシが迷い込んでからゆるやかに日々は過ぎていき、最初聞こえていた蝉の声はいつしか途絶え、虫の音が耳に心地良いものになっていた。
 
 
 実際の眠っている自分はどうかわからないが、とにかくここにいるカカシは絶好調で、快眠快食快便で、ひょっとしたら太ったのでは危惧するくらいだというのに、対してイルカは、反比例して元気がなくなっていくようだった。患っているようなことではないのだが、目の下に隈が居座り、ぼんやりとして、夜は風呂にはいるとすぐに2階にあがってしまう。
 今夜もカレーを食べていたが、カカシが話しかける声にも生返事で、ちょっと台所に行き目を離した隙に、イルカの顔はカレーに突っ伏していた。
「イルカ・・・。お前は不眠症か何かなのか? 寝ていないのか?」
 腕の中に抱えてタオルでカレーを拭ってやる。しかしイルカはすでに熟睡しており、小さな寝息をたてている。あどけない寝顔がカカシをいたたまれなくする。何も考える間もなく、イルカの頬についたカレーを舌で拭った。
 おかしい・・・。
 辛みをきかせたはずなのに、やけに甘かった。
 
 
 カカシは十字にはりつけられたまま、ひたすらにその痛みに耐えていた。
 抵抗することも叶わず、72時間の苦行に体よりも心が悲鳴を上げる。永遠に続く一瞬。耐えなければならないのだろうか? 何のために? 生きたいという人としての本能がそうさせるのだろうか? けれど苦しい。あまりに苦しい・・・。
 もがいていた意識が急速に浮上する。カッと見開いた目に映ったのは近しい子供。イルカの、眠る顔。
 どこにいるのかが瞬間把握できずに起きあがれば、カカシは寝起きしている居間の布団の中。その横でイルカはカカシに寄り添うようにして畳の上に体を丸めていた。暗がりの中だが、忍の目はすぐに慣れる。横たわるイルカの片方の手は、カカシの頭が置かれていた枕のあたりに伸ばされている。その手が意味することをカカシは考える。イルカの手はまるでカカシの頭に置かれていたようではないか。
 昨夜イルカは夕飯を食べると風呂にも入らずに眠ってしまった。よほど疲れているのかと思った。そのイルカが、何故真夜中にカカシの横にいるのだろう。
「イルカ。起きろ、イルカ」
 問いただしたい衝動のままにイルカを揺さぶる。目をこすりながら起きあがったイルカはむにゃむにゃと口の中で呟きながら焦点の結ばない目をこすっていたが、肩に置かれたカカシの手と目の前の真剣な顔に瞬きを繰り返す。
「なに、カカシさん・・・。また怖い夢でも見た?」
「怖い、夢・・・?」
「うん」
 まだ寝ぼけたままのイルカは半分閉じたままの目で揺れながらこたえる。
「あのね、カカシさん、いつもうなされていたから、僕、ずっと頭撫でていたんだ」
「いつも? ここに来てから毎日か?」
「うん。母ちゃんが、僕が怖い夢とか見た時、いつも頭を撫でて一晩中そうしていてくれたんだ。もう怖くないって言ってくれると、本当に怖くなくなったから、僕も、カカシさんに・・・」
 揺れていた体がそのままカカシにもたれかかってきた。落ちた目蓋はもうぴくりとも動かない。
 カカシは呆然と目を見開き、胸の中にいるイルカを凝視した。
 すると。
 イルカが、隈を作って万年睡眠不足状態になっていたのはカカシのせいということか。2階で眠るイルカに気配を悟られるほどにうなされて、毎晩毎晩頭を撫でてもらい平安を取り戻し、一人のうのうと快調に過ごしていたということか?
 腹の奥底からせり上がってくるものに突き動かされて、カカシは胸の中のイルカを強く抱きしめた。
 
 
「今まですまなかった」
 翌日、いつものようにどろんこで帰ってきたイルカの前でカカシは神妙に頭を下げた。
「なんだよいきなり。別に食費とかいらねえよ」
「そうじゃない。お前の寝不足の原因を作っていたのは俺だったんだな。本当に悪かった。でも言ってくれたらよかったとも思う」
「え? なんのことだよ? 寝不足はカカシさんのせいじゃ・・・」
「昨日、寝ぼけたお前は全部俺に話した。今更ごまかすな」
「・・・ごめん」
「いや。謝るのは俺のほうだから」
「そうじゃなくて、カッコ悪いとこ見ちゃってごめん。うなされているなんて、見られたくなかっただろ?」
 イルカは何も悪いことはしていないのに、上目遣いにカカシを見る目は叱られたようにしょんぼりとしている。
「イルカ、謝るなよ。お前が何も言わずに毎晩俺のこと撫でていてくれて、俺は嬉しい。イルカは、優しいな・・・」
 柔らかな頬にそっと片手を添える。みるみる目に光を取り戻すイルカが可愛くて、愛撫するようにカカシはその手を動かした。
「カカシさん?」
 どうやら無意識に顔を近づけてしまっていたようだ。息がかかるような距離にイルカの黒い目があった。膜がかかったような色合いに心臓がどきりとする。
「いや、別に・・・。そうだ、風呂、久しぶりに一緒に入るか?」
 カカシの提案にイルカはいちもにもなく頷いた。
 
 
「俺は馬鹿だ・・・」
「何? 何か言った?」
 無邪気な子供はカカシの前で豪快に体を洗っている。もちろん前をタオルで隠したりしない。がしがしと洗い石鹸の泡にまみれた体は健康的に日にやけていながらもほのかに色づき、なめらかな首筋やら小さな薄い色合いの乳首やら、なんといってもつるつるのあそこに目が釘付けにされる。
 イルカの体が泡にまみれる姿はどこかしら卑猥で、それを卑猥に感じる自分の脳みそがカカシには怖かった。
「カカシさん、さっきからどうかしたのか?」
 話しかけても目をそらすカカシにさすがにイルカは不審がり、湯船にいるカカシに顔を近づけてきた。
「うわああ!」
 情けないがカカシは飛び退いた。ざぶんとお湯がはねる。洗い場のところで体も髪も洗い終わってたたずむイルカがカカシの心拍数を跳ね上げる。黒髪は首に張り付き、赤い唇は少し肉感的て、心臓はばくばくしっぱなしだ。
「なんだよ。背中流してやるから、こっちきなよ」
「イヤ・・・いい」
「なんだよ、遠慮するなよ」
 イルカの手が無情に伸びてくるのをカカシはつい、振り払ってしまった。ぱん、と乾いた音が風呂場に響く。一瞬でかげるイルカの表情にカカシは観念した。イルカの悲しい顔は見たくない。
「ごめん、その、な・・・」
「あー! カカシさん! 何おっ立ててんだよ〜?」
 イルカはとうとう気づいてしまった。
 さきほどからずっと元気いっぱいになっていたカカシの息子に。
 透明なお湯の中で立ち上がったカカシの下半身と、気まずそうに口元をひんまげているカカシを見たイルカは爆笑した。
「なんだよ〜。しょうがねえなあ、大人は〜。父ちゃんもたまにおっ立ててたんだ〜。そういう時って僕いつも寝るとき部屋に印結ばれてたんだ。弟か妹を作るぞって父ちゃんはりきっていたよ」
 恥ずかしげもなくイルカは語る。どうやら性教育をきちんとしていた家庭だったようだ。
 だが、さすがのイルカの両親も、同性同士でのナニまでは教えてはいないだろう。今のカカシは仔供のイルカに欲情している。
 イルカを抱きたいと、自覚してしまった。