7.
やっぱりな、とカカシは妙に冴えた頭で考えていた。
この馬鹿な中忍は自分の信念を曲げない。このままカカシがくびり殺しても怨みに思ったりしないのだろう。それを当たり前のこととして受け入れるような気さえする。無意識かも知れないが、イルカの手はカカシの手に触れている。カカシの手をはずさせようとするのではなく、優しく気持ちの込められた手で。
本当に、馬鹿な奴だ。
別の世界の、もう一人のはたけカカシ? 嘘でも本当でもどうでもいい。ただ、その人間が間違いなくはたけカカシだと言うなら、簡単に体を重ねたりしない。
人の体の気持ち悪さをいやというほど知っているから。いくさ場で友が仲間が何人も死んでいった。人ではない形をして崩れていった姿が網膜に焼き付いている。人の体はキモチワルイ。
そう思う一方で、人肌を求めてしまう心の矛盾はわかっている。結局そうすることでしか、気も狂わんばかりのひどいいくさ場で正気を保つことができないから。どんないくさ場でも閨の相手を選ぶのはようは願掛けのようなものだ。人のまま無事に帰還できるように、と。だから閨の相手は道具。願をかけるのだから丁寧にも扱う。
人肌との接触も怖いに決まっている。それも自覚している。しているつもりでいた。けれどイルカにずばりと言われて苛立つのは、心底そうは思っていなかったと言うことか。
「カカシ!」
後方からの叱責の声と首にかけていた手をはなすのは同時だった。イルカのことを知っていると言った犬面の仲間がいた。
「カカシ。仲間に手をかけて、どういうつもりだ」
「どうもこうもないよ。こいつが生意気なこと言うからちょっと礼儀ってものを教えていただけ」
咳き込んでいたイルカは顔をあげた。
黒々とした目が酸欠状態に潤んでいる。濁りのない目だ。まっすぐな目だ。そこにカカシを糾弾する色はない。こういう手合いはたちが悪い。手に負えない存在にカカシが関わる気はなかった。
呼び止める声を無視してカカシは去った。
認めたくないし、情けないことだが、随分気持ちが動揺していたのだろう。
カカシは数日後の敵襲で毒矢を除け損ねて負傷した。左肩背中よりのあたりに矢を受けてしまい、体の左側の感覚を失った。傷の手当てをしながら暗部の仲間である虎面をつけた女は嗤った。らしくない、と。鳥面の男は無言。犬面の男は、らしくないが俺はいいと思うと言った。
確かにらしくない。一晩もすれば治ると言われテントのなかで俯せになりながら己をあざける気もおきなかった。毒矢が放たれた先には、仲間を救助するイルカの姿があった。確か、イルカのことをかばっていた奴だ。腹部から大量に血を流し、気絶しているのか事切れているのかわからないようなひどい状態だった。その仲間をイルカは横抱きにして抱え上げた。その瞬間に矢がイルカたちを狙った。イルカは迷うことなく背を向けて仲間をかばおうとした。
カカシが内心で毒づいたのと体が動いたのは同時だった。
かばったという意識も、負傷する気もなかったのに、カカシさん! と必死な声で叫ばれてコンマの単位で動きが遅れたのだろう。
おかげでこのざまだ。イルカは疫病神に違いない。その疫病神がテントの外で声をかけてきた。
「はたけ上忍、お邪魔してよろしいでしょうか」
「・・・どーぞ」
するりと入ってきたイルカは憔悴した青い顔をしていた。かたい表情ながらもかすかに笑んで頭を下げた。
「ありがとうございました。おかげで、チハヤは助かりました」
「あっそう。別に感謝される覚えはないけど、よかったんじゃない?」
カカシはそっぽをむいたまま気のない返事を返した。イルカの視線が上半身裸の包帯を巻かれたあたりにささる。鬱陶しさに苛立ち振り向けば、カカシのすぐ横にイルカは立っていた。まるで自分が怪我を負ったように辛そうな顔をしている。
「あの、痛くないですか?」
「痛いもなにも、毒のせいで感覚ないんでね。今ぐっさりやられてもなーんにも感じない。あ、俺に報復しとく? 痛くないからいいよ。でも明日になって痛みが戻ってきたら倍返しするかもしれないけどね」
軽薄に鼻で笑えば、イルカは笑みを深いものにした。
「そうですね。報復していいですか?」
イルカの思わぬ言葉にカカシは体を浮かしそうになる。だが半身不随の今の状態では思うように動くこともままならず、その間にイルカはベッドに乗り上げてきた。
カカシは表情には表さなかったが、心臓が強く脈打った。イルカとて忍だ。カカシにとっての一番の報復は何か、とっくにわかっていることだろう。動揺を悟られないためにカカシはことさらゆっくり喋った。
「なに? 俺にやられてそんなによかったの? 疼いちゃってしょうがない? でも今日はちょっと勘弁してよ。どうしてもしたいならアソコ舐めるので我慢してよ」
「おっしゃる通り疼いてしまいまして、それくらいじゃ我慢できないですよ」
イルカは平気で返してくる。カカシは無意識にも体を横にずらして逃げの体勢になってしまっていた。もしもイルカが直に触れてきたら咄嗟に何をしてしまうかわからない。
しかしカカシの焦燥をよそに、イルカはカカシが腰のあたりまでかけていた上掛けを手にとると、カカシの首のところまで引き上げた。その手は肌を露出していずに、手袋に包まれていた。カカシの隣、感覚のない左側に横たわるとすまなそうに頷く。
「暗部のかたから聞いたのですが、毒の治療はしたけれど、今夜一晩、体がすごく冷えるそうです。今夜は外も冷えています。申し訳ないんですが、少しでも暖かくしたいので、そばにいることを許してくれますか? 絶対に、直接触れたりしませんから」
イルカの懇願する声がカカシを冷静にした。
イルカからはかすかに消毒液の匂いがする。結い上げた髪は生乾きで濡れている。そこからはひやりとした空気を感じるが、イルカのまとう空気全体は温かい。感覚がないはずの体の左側からもその温かさが流れてくるようだ。
カカシの体の力は抜けていた。あまりに真剣なイルカの顔を見ていられずに顔をそむける。
「勝手にしろ」
ぶっきらぼうに告げれば、イルカのチャクラがふわりと柔らかく膨れあがる。
「ありがとうございます」
嬉しげな声音。イルカはごそごそと動いて、用意してきたらしい防寒性の高いもう一枚の上掛けを二人の体の上に広げた。狭い空間に二人で包まれているのに、布の少しかびくさい匂いと消毒臭しかしない。イルカの体臭はこれっぽっちもしない。イルカは寒空の中で体を洗って消毒までしてきたということか。
健気、ともいえるイルカの行動はやはり別世界のカカシのことを重ねてのことなのだろう。かなりの無体を強いた自覚があるが、イルカの中でそれを許す気持ちが勝つのは、それだけ、もう一人のカカシへの思いが強いということか。
「はたけ上忍、寒かったら言ってくださいね。俺、起きてますから」
イルカの声は耳の奥に穏やかに響いてくる。イルカの手が伸びてきて、カカシの体の上に置かれる。一定のリズムをつけて手が動く。温かさと柔らかな空気にカカシの耳には幻の子守歌が聞こえてくる。それを唄ってくれたのは誰だったのだろう。顔も知らない両親だろうか、四代目だろうか。思い出せる子守歌があるということはカカシの記憶のなかにそれが眠っているからだ。
忘れていた。忘れたままでよかったのに。
思い出の吸引力はすさまじく、半分以上眠った心のままカカシはそむけていた顔をイルカのほうに戻す。閉じかけた視界にイルカがいる。照れたように、はにかんだように口元がほころんでいる。ごめんなさい、と小さく謝ったイルカは手袋をはめた手でカカシの頬に触れた。その後口元にかすかに触れてきたのはイルカの唇なのかどうか、混濁し始めた意識のなかでははっきりしないまま、カカシは震えた。
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