少年上忍中年中忍 H
「イルカ先生……」
心なし息を荒げたカカシがすがるように名を呼ぶ。
むくりと起きあがったイルカは、呆然としたまま、手の平を顔に持っていく。適当に頬のあたりを拭って、起きぬけでぼやけた視界にかざしてみれば、そこにはおよそ健康な男子なら皆知っているものが、べとりとついていた。
しばしの間、それを見つめる。とても久しぶりな感じがするものだ。己のものはもちろん知っているが、他人のもので掌を汚すことなど……。
すうっと、体温が下がるのがわかる。服に適当に汚れをなすりつけると、イルカは立ち上がった。
「イ、イルカ先生?」
カカシの慌てた声がするが、よろめきながらもイルカは台所に向かう。
蛇口を回す。飛び散るのを気にせずに思い切りよく水を出して、まずは手を洗う。石けんなんておいてないから、洗剤をだして洗う。
「イルカ先生、ごめんなさい。俺、かけるつもりなんてなかったんだ。いびきがうるさくて目覚ましたら、隣にイルカ先生がいて、それで、なんか……」
手が真っ赤になるほど洗ったあと、今度は顔を洗う。また洗剤をつけて、服をびしょびしょにして、水回りどころか床にまで水が落ちても、それでも手を動かし続ける。
「イルカ先生、ねえ、洗剤なんか顔につけないでよ。よくないよ」
洗う。洗う。洗う。
機械的に動かしていると、ぼんやりとした記憶の向こうに見えてくるものがある。
「イルカ先生!」
後ろから、カカシの腕がまわって、思いの外強い力で抱きつかれた。
「やめてよお願いだから」
裏返ったカカシの声は泣き出しそうな手前の響きがあった。
水道から、勢いよく水が落ちる音が、急に訪れた静寂に響く。その音が耳を打つほどで、イルカはやっと、蛇口に手を伸ばした。その手をそのまま腹のあたりにあるカカシの手に持っていき、体から引きはがす。カカシに何も言葉をかけずに部屋に戻る。さっきまで眠っていた畳にまたごろりと横になった。
「イルカ先生、ねえ、怒らないでよ。いくらでも謝るから」
カカシも畳に座った気配がする、イルカに話しかける声は、おそるおそる、イルカの反応を伺うような気弱げな声だった。
「ごめんなさい。本当にごめんなさい」
「カカシ先生」
イルカが何も言わなければバカみたいに何百回でも謝り続けそうなカカシに声をかけた。
カカシの気配が、わかりやすく和らぐのがわかる。だがその安堵は続くイルカの一言によってまた凍り付いた。
「帰ってくれませんか」
「イルカ先生」
「申し訳にないんですがすぐに帰ってくださいお願いします」
感情がこもらない一本調子な声で告げる。その言葉はカカシのことをかなり動揺させたようだ。
「やだ、ちゃんと謝らせてよ」
肩に触れたカカシの手を、咄嗟に、乱暴に、はねのけていた。
「触るな」
意図したことではなかった。だが、カカシを払ったイルカの手は、運が悪いことにカカシの右目の目元のあたりをかすめていた。あ、と思ったが、遅かった。一瞬で視界の中に入った目を見開いたカカシの表情は、口にするよりも、傷つきました、と雄弁に伝えてきた。
だがイルカも動揺している。こんな時に気の利いた言葉をかけることなんて、できやしない。
「帰ってください」
切って捨てるように言えば、とうとうカカシは観念したようだ。立ち上がると、そのまま無言で、去っていった。
立て付けの悪いドアをそれでも最大限の気を遣って、そっと閉めて行った。
階段を下りる音。去っていく。
きっと、いや間違いなくカカシのことをとても傷つけただろう。
もちろんカカシはイルカを怒らせるに充分なことをした。たとえその気はなくとも顔にあんなものをかけられて怒らない奴はいない
けれどイルカはわかっている。必要以上に動揺して、自分を守るためにカカシにひどい態度をとってしまったと。
「俺ってホント……」
くそっと言ってイルカは両手で頭を抱える。
目を閉じれば、敢えて忘れていた記憶がよみがえってきて今更眠れやしない。
結局起きあがったイルカは風呂敷を出してそこに荷物を包む。
そのまま家を飛び出した。
「おわああああ!」
そして玄関先でのけぞる。
去ったはずのカカシがそこにいたから。
カカシは、イルカの家の水道メーターの下で膝を抱えて座り込んでいた。
「カ、カ、カ、カカシ先生。どうして」
愕きに心臓がばくばくいっている。カカシは抱えた膝の上に顔を載せて俯いている。
「だって……イルカ先生……」
ぐしっと鼻をすすったカカシはちらりとイルカのことを見上げた。その目は真っ赤になっていた。
「イルカ先生、本気で怒ってた。だから俺絶対謝らなきゃって思って。出かけるなら出かけてください。俺ずっと待ってます」
ずぞぞーと鼻をすすって、目をこする。
俯いたイルカの首筋は白くて細くて、ちょっと力を加えれば折れてしまいそうな風情だ。それでも凄腕の上忍。イルカなんかが想像もつかない修羅場をくぐり抜けてきているはず。なのに、この幼さはなんなのだろう。へたをしたらナルトよりも幼いかもしれない。こんなしおれたカカシにこれ以上ムチを打てるほどイルカは鬼じゃない。それに出かけると言っても、近所の24時間銭湯にいって身も心もさっぱりしてこようと思っただけだ。
「カカシ先生、ひっかいちゃった傷は、痛くないですか?」
ふるふるとカカシが首を振る。
「カカシ先生、家に、入ってください」
びく、とカカシの体が揺れる。
「入って、いいんですか……?」
「傷の手当てもしましょう。入ってください」
イルカがさっさと部屋に戻ってしまうと、カカシも後をついてきた。
「茶でも入れるんで、座っててください。話ましょう」
背中越しに声をかける。カカシは何も言わずに部屋に入ったようだ。
さて、とイルカは薬缶に湯を沸かしながら考える。さきほどの動揺は去ったようだ。冷静な自分が戻ってきた。これも年の功というやつか。
カカシにされたことは簡単に許せるようなことではないが、そのこと以上の衝撃があった理由を伝えておかなければならないだろう。それを伝えて、イルカに対する気持ちに決着をつけてくれないかとついでにもちかけよう。
「よし、それだ」
小さく拳を作って己を鼓舞する。適当に紙パックの緑茶を用意して6畳の部屋に入れば、カカシが、服の袖口を使って畳をごしごしと拭いていた。
「何してんですか?」
部屋の端によけていたちゃぶ台にお盆を置いてのぞき込む。カカシの横顔は真剣だった。
「さっき、汚しちゃったところです」
「ああ。いいですよ、そんなの。適当で」
「ダメです。汚いから」
かたくなに言うカカシに、ついイルカはぽろりとこぼしてしまった。
「いいですよ畳くらい。俺なんかさっき顔にかけられたわけですしね」
笑いに交えて軽く言ってしまった。
やばい、と思ったが遅い。言った途端にカカシはぴたりと動きを止める。そしてイルカの前で体を亀のように丸めて、そのまま、しくしくと泣き出した。
「ごめっ。本当に、ごめんなさい。俺、顔射なんてするつもりなかったんです! でも、いびきかいて寝ているイルカ先生がかわいくて、見てたらむらむらして、我慢できなくなって、つい、いじっちゃったんです。イルカ先生もぞもぞ動きだしたから、もっと近くで見たいなあって思って近づいたら今度はいきなり横向きになって、笑った顔が間抜けで本当にかわいくて、つい出しちゃったんです。ごめんなさいー……」
実況中継ありがとう。口元をぴくぴくと引きつらせつつ、イルカは緑茶に口をつける。もう一度たたき出したい衝動に駆られるが、大人の理性を総動員して押さえ込む。
相手は子供だ。しかもとびきり内面の発育の遅い子供。ここは大人の余裕で諭さねば、とイルカは深呼吸をした。
「カカシ先生。ちゃんと話したいので、泣きやんでくれませんか」
毅然とした声で告げれば、カカシはゆっくりと顔を上げる。色違いの目がどちらも赤くなり、泣いたせいで頬も濡れて赤くなり、鼻の下には鼻水がしっかりと垂れている。
子供だ。どこからどう見ても子供だ。それが今思いきりわかった。イルカは脱力した。こんな子供相手に振り回されていた自分に腹をたてればいいのか嗤えばいいのか。とりあえずタンスからタオルを出してカカシに差しだした。
「顔、洗ってきてくださいよ」
「はいぃ……」
カカシは背を丸めたまま風呂場に向かった。その間にちゃぶ台を部屋の真ん中に移動して、テレビをつける。まだ朝が早い。ニュース番組が始まったばかりのようだ。
欠伸をしたりでぼーっとテレビを見ていたらいつの間にか10分は経っていた。カカシはまだ戻らない。
「カカシ先生?」
声をかけた。のそりと戻ってきたカカシは、涙は止まってすっきりした顔をしていたが、今度はなにやらはにかんでご機嫌な笑顔だった。
嫌な予感がするから、カカシが何を思っているか聞かずに流してしまおうとしたのに、いそいそとイルカの向かい側に座ったカカシは極上の笑顔で、わざわざ告げてきた。
「お風呂に残っている水があったからそれで顔洗いました。イルカ先生が入ったお風呂の水で顔洗えるなんて俺感激。あとね、イルカ先生の使っているシャンプー偶然俺も同じのなんです。なんか嬉しくて」
鳥肌がたった。イルカは早速シャンプーを買い換えようと決意した
カカシは子供だ。だが変態なことに間違いはない気がする。イルカはまともな人間とお付き合いしたいのだ。
「えーとですね、さっきのことなんですけど」
がりがりと頭をかいてあらぬほうを見て切り出せば、カカシは途端に背を丸めてずんと落ち込む。正直うざいと思ったが、いちいちかまっていては話が進まないから、イルカは続けた。
「正直、顔にかけられたことは怒ってます。笑って許してあげられるほど心広くないんで」
「はい。ごめんなさい」
カカシはしおしおとうなだれる。さすがにもう泣かないようだが、沈みきった顔を見ていると、こちらが悪いような錯覚が起きる。
「起きた途端にあれだったんで、さすがに驚きました。頭真っ白になりました。でもですね、え〜と、あ〜、その〜」
腕を組んで、うーんとうなる。言いづらい。とても言いづらい。言わなくていいのではないか、と思ってしまうが、それはダメだとぶるぶる首を振る。この逃げの姿勢が悪い。だからこんなだらだらとした人生を歩んできたのだと一瞬で反省する。
あぐらから正座になって、膝に手を置いてぐっと握った。
「俺、実はですね、昔、二十歳くらいの頃の話ですが、いくさ場で、たちの悪い上忍に命令されて、あの、伽ってやつをですね、やらされたんです」
「とぎ……?」
カカシは意味がわからないのか目をぱちぱちと瞬かせる。世間知らずの上忍め、と内心で悪態をつきながらイルカは思い切って言った。
「だから、くそ上忍のテントに呼ばれてあれをくわえさせられて、顔にかけられたことがあるんだよ」
思わず目をつむって言った。
忘れていた過去。中忍になって初めての長期任務だった。あの任務のあと、睡眠障害をおこして食欲もなくし、みるみるやせ細ったイルカに対して、火影は医療班に治療を命じた。暗示治療。それからはイルカは任務のあとはその間の記憶をイメージのようなものでしか思い出さないようになった。
そのうちに外回りは遠のき、ほとんどアカデミー専属になった。
そんなことがあったなんて本当にきれいさっぱり忘れていた。己の情けなさに改めて力が抜ける。かなりだめだめの忍者だ。火影の温情がなければとっくに死んでいたかもしれない。
カカシが何もコメントしないからとりあえず伏し目のまま続けた。
「事情がありまして、そのこと忘れてたんですけど、さっき一気に思い出したんです。だからちょっと俺も取り乱しちゃいまして、それで必要以上に、変な態度になったといいますか。まあ、そういうことです。だからですね、多分俺はそういうことに対する恐怖心てのがあると思うんです。なので」
「イルカ先生」
有無を言わさぬ響きがあって、イルカは顔を上げた。目の前のカカシはさきほどまでのしおれた表情のかけらも見せずに、きりりと引き締まった顔で真っ直ぐにイルカを見ていた。
「知らなかったこととは言え、俺、本当にひどいことしちゃったんですね。いくら謝っても足らないくらいですけど、きちんと、謝らせてもらえませんか」
いきなりの真面目な上忍モードでイルカもしゃっきりと背が伸びる。
「わかりました」
すっと卓袱台を除けたカカシはイルカの前で、正座の姿勢から丁寧に頭を下げた。
「申し訳ありませんでした」
それは気持ちいいくらいに潔い謝罪だった。さすが上忍、と納得した。
「カカシ先生、顔、あげてください」
「許していただけますか?」
「許すなんておこがましいですけど、もう気にしませんから」
「よかった」
顔を上げたカカシは安堵の息をついた。
「本当によかった。俺このままイルカ先生に嫌われたらどうしようかと思った」
胸をおさえるカカシの手は、かすかに震えていた。
イルカに嫌われるということがなぜカカシに震えるくらいの緊張を強いるのだろう。
誰かに、あの人に嫌われたら、という恐れ、不安。そんなものとはかなり遠い世界にきてしまったものだと思うと、カカシの純粋さがとてもまぶしいものに思えた
「カカシ先生」
「でもね、イルカ先生」
いきなり、カカシに手をとられた。邪気のない顔で笑うから油断した。カカシはイルカの手を力強く握りしめる。
「俺にはかけて」
カカシは、目を潤ませて、イルカのことを仰ぎ見た。
「いつか近い将来に俺と恋人同士になった時にも絶対にイルカ先生に顔射はしない。でも俺には、いっぱいかけていいよ。ううん、絶対、かけて。イルカ先生の白い海に溺れたい」
うっとりと告げられて、イルカの時が止まることしばし。頬を緩めてだらしなくうっとりしているカカシの脳天に、容赦ない一撃を加えた。
「痛いっ」
涙目で見られてもだまされない。
イルカはにっこり笑うと、カカシを家から今度こそたたきだした。
「ガキはくそして寝ろ!」
G。。。I