夜のなかでイルカ先生は眠っている。
 体を横向きにして少し背を丸めて、右手はなにかにさしのべるように布団から伸ばされていた。



 イルカ先生に告白されてひとつの願いを聞かされた時、思いがけないことに咄嗟に反応することができなかった。
 俺は上忍とは思えないくらいに隙をみせてイルカ先生をまじまじと見つめた。
 夕日を顔に受けたイルカ先生は思い詰めたような顔をしていた。
「あの、イルカ先生。念のために聞くけど、俺が特定の相手を作らずとっかえひっかえ、常に付き合っている人間が10人以上はいるって言われているの知ってるよね? それ、事実だよ?」
 親切に教えてあげたがイルカ先生はあっさりと肯いた。
「知ってます。ついでに言えばきれいな人ばかりで男は相手にしていないってことも知ってます」
「そう。なら、どうして? そこまでわかっているなら俺が受け入れるわけないって思うよね」
 なるべく傷つけないように穏やかな声で告げた。イルカ先生はナルトにとって大切な人間だ。一介の中忍なんてカテゴリーでおろそかにはできない。
「好きだからです」
「好き?」
 イルカ先生は俺に一歩近付くと、真っ直ぐに見つめてきた。
「好きだから、なにか少しでも特別な扱いを受けたいんです。そう思うのはおかしいですか? 中忍の分際でおこがましいですか?」
 いきりたつイルカ先生に思わず苦笑した。
「おこがましいなんてそんなふうには思わないよ。ただ、らしくないでしょう?」
 そう、らしくない。イルカ先生のような人には普通の女性と付き合って結婚して家庭を築くことが似合っている。俺みたいなどこかがうつろな人間と付き合うなんて、そんなことしてほしくなかった。
「ごめんねイルカ先生。気持ちは嬉しいよ。でも、男を抱く趣味はないし、イルカ先生を俺の不特定多数の恋人に加えたくはないんだ」
「だから、付き合って欲しいなんて言いません。ただ、5月26日、俺の誕生日の日だけは、俺のところに来てくれませんか。任務でどうしてもこれなくても、その日だけは俺のことを忘れないでください。式を飛ばすとか、なんでもいいです。俺のところに来て欲しいんです。それ以外は何も望みません」
 イルカ先生は必死だった。
 過去になにか誕生日でトラウマになるようなことでもあったの? そう茶化そうかと一瞬考えたが、気圧されそうな様子にそれを思いとどまった。俺は真面目に聞き返していた。
「それだけでいいの? あとは俺が何人の女と付き合っていようがイルカ先生をないがしろにしようが、それだけで、OKってこと?」
 イルカ先生はこくりと肯いた。
 正直、面倒な人なのかなと思った。
 今まで付き合った女の中に、やたらと記念日を大事にしようとするのがいた。最初は合わせていたが、うっかり忘れたり優先しなかった時に責め立てられて、だんだんと気持ちが萎えていったことを覚えている。
 しめっぽいのは好きじゃない。愛なんてくだらない。大人のクールな付き合いをしたいだけだ。
 けれど、面白い、と思った。
 イルカ先生が何を考えているのかわからないが、好きだと言われて悪い気はしない程度に興味はある。
 それにイルカ先生の条件はあくまでも誕生日だけだ。それくらいなら大丈夫だろう。誕生日も半年以上先の話だ。それまでにイルカ先生に興味を失う可能性だってあるのだから。
 そんなことを頭の中で素早く考えて、俺はにっこりと笑った。
「わかりました。それくらいならたやすいですよ。よろしくイルカ先生。今から俺の恋人の一人ってことでいいんだね? 俺の恋人でいる間は他の人間と付き合っちゃ駄目だよ。でももし他に好きな人ができたら言って。別れてあげるから」
 上からのもの言いにもイルカ先生はむっとすることはなかった。
 安心したように息をついて、笑顔を見せた。
 その真っ直ぐな笑顔はいいと思った。イルカ先生には笑顔が似合う。
 それに比べて、打算が混じった俺の笑顔を見て、イルカ先生は何も思わなかったのだろうか。イルカ先生の笑顔がまぶしくて、俺はさりげなく視線を逸らせた。

 イルカ先生は最初の言葉通り、俺に対して何も望んでこなかった。
 複数の恋人たちの中には笑ってしまうことに俺の寵とやらを争って自滅しているこたちもいた。そして空いた場所には違うこが居座る。みないつか俺のたった一人になれるのではと思っているようだ。
 そんなもの作る気ないのに。特別な人間なんて必要ないのに。そんなもの、とうに諦めたのだから。
 うるさい女たちから逃れるためにイルカ先生を使うことはあった。上忍と中忍、階級差がある二人の当たり障りのない会話だが、それでもイルカ先生と過ごす時間はとても穏やかで、懐かしい空気を感じることができた。友人とも違う不思議な関係性。これはこれでいいものだと思えるようにはなっていった。
 そして、くだんの誕生日となった。
 その日俺は単独の任務が夜に終わって疲れていた。久しぶりに写輪眼を使うほどの任務だった。さっさと自宅に戻っりシャワーを浴びた。明日イルカ先生に任務でとても疲れていたといえば許してくれるだろうと思いベッドの上に横になった。
 目を閉じればすぐに眠気も訪れるだろうと思っていたが、心の片隅にイルカ先生との約束が引っかかっていた。気になって体は疲れているのに目は冴えるという状況に陥ってしまった。
 早々に諦めた俺はため息を落としつつイルカ先生の家に向かうことにした。ケーキくらいはと思い遅くまで開いている店でショートケーキを二つ買い、イルカ先生の家のドアを叩いたのはその日が終わる30分ほど前だった。
 カカシです、と来訪を告げれば、どたどたと家の中で音がして、勢いよくドアが開いた。
 イルカ先生は寝るばかりだったのか髪を下ろしてパジャマ姿だった。
「カカシ、先生……」
 心の底から驚きました、イルカ先生はそんな顔をしていた。俺は照れくさい気持ちを隠しつつケーキの箱を差しだした。
「誕生日おめでとうイルカ先生。遅くなってゴメンね。任務でね」
 イルカ先生はケーキの箱と俺の顔を交互に見て、ぽつりと口にした。
「……誕生日、覚えていてくれたんですね」
「そりゃあ、まあ」
 肯けば、イルカ先生は、ふにゃりと表情をくずして、空いている方の俺の手を、とった。温かな手が強く握りしめてきた。そして、ありがとうございますと言って、笑ってくれた。
 泣き出しそうな、安堵したような、そして温かな輝くばかりの笑顔だった。
 その瞬間、俺の心臓はきゅうとしめつけられたような心地がした。
 イルカ先生に促されるままにお邪魔して、ケーキを食べようということになった。
 イルカ先生は畳の部屋に敷かれていた布団を適当にたたんで隅に置くと卓袱台を真ん中に持ってくる。やっぱりケーキにはコーヒーですか、それとも遅いから違うものがいいですかとイルカ先生に聞かれたが、俺はコーヒーでかまわないと返事しつつも気持ちは上の空だった。
 心臓のあたりがさっきからずっと脈打って、コーヒーを用意したイルカ先生が向かい側に座ってにこりと笑った時には、頬に血が上ったのがわかった。
 イルカ先生の日常の話に頷きつつくるくる変わる表情から目が離せずにいた。
 一時間くらい過ごしただろうか。そろそろ帰られますか、とイルカ先生に言われた時には、イルカ先生の手を思わずとっていた。
 帰りたくないと口にした。それで伝えたつもりだったが、イルカ先生は首をかしげて、それなら泊まられますかとかるく返してきた。俺がどういう意味で言ったのかわかってくれないイルカ先生にたまらない気持ちがして、小さな卓袱台越しに、体を引き寄せた。
 シャンプーの香りが残っている髪に顔をすり寄せて、耳に口づけた。
 びくりと震えたイルカ先生に、抱きたいとこれ以上ないくらいストレートに告げれば、イルカ先生の体が硬直したのがわかった。
 何も言ってくれないイルカ先生をかき口説くように、好きだ愛しているだと続けて声にする。そうすると体の奥からイルカ先生への愛しい気持ちがこんこんと沸き上がってきた。
 イルカ先生の髪をかきあげて、額を合わせた。目を伏せたままのイルカ先生の頬はかすかに染まっていた。頬を両手ではさめばびくりとイルカ先生は震えた。
 鼻の頭にキスをして、唇にもそっと触れた。
 怖くないよ、愛しいだけだよ、と優しく触れた。
 触れるだけのキスを繰り返していると、イルカ先生はやっと目を上げてくれた。潤んだ瞳は困ったような色合いをしていた。
「あの、カカシ先生は、男を抱く趣味は、ないんですよね? 俺、男ですよ?」
 今更のことを言うイルカ先生がおかしくて少し笑ってしまった。
「知ってる。けど俺たち男同士だけど付き合ってるんじゃなかったっけ。好きだって言ってくれたの、イルカ先生だよ?」
「そう、ですけど……」
 イルカ先生の物慣れない様子に、初めての女の子を口説いている心地になる。できるかぎり優しくしたい。でも奪いたい。
「好きだよイルカ先生。俺もイルカ先生のこと好きになったみたい。だから抱きたい」
 精一杯の気持ちをこめて、長い口づけをおくった。
 ちゅ、と音をたてて唇が離れた時、イルカ先生の唇は赤くつややかに濡れていた。その唇と同じくらいに真っ赤になった顔で、イルカ先生は俺を受け入れてくれた。
 その夜俺は初めてイルカ先生の家に泊まった。

 とはいっても、あの夜にイルカ先生と結ばれたわけではない。
 同性同士最初からうまくいくはずもなく、その夜はイルカ先生の性器を慰めるだけで、体を寄せ合って眠ることしかできなかった。それでも、イルカ先生が恥ずかしげに喘ぐ表情や仕草に充分俺は満たされて、どうして今までイルカ先生に触れずにいられたのかわからないくらいだった。
 俺は本能が突き動かすままに他の女たちとはすぐに手を切った。イルカ先生だけを選んだ。
 イルカ先生はそんなことをする必要はない、今まで通り他の人とも付き合ってくれてかまわないなんてことを言ったが、俺にはもう他はいらなかった。イルカ先生がいればそれでいいと思えた。
 それから段階を踏んでイルカ先生と結ばれて、何回か誕生日を迎えた。
 一日中二人きりでべったりと過ごすこともあったし旅にでたこともあった。珍しくもイルカ先生が任務でいなかった時は俺は任務地に駆けつけて、喜ばれたけれど怒られもした。
 イルカ先生がいない人生なんて考えられないくらいに俺はイルカ先生にはまっていったけれど、イルカ先生はどうだったのだろう?
 俺のわがままにも付き合ってくれて、閨の時の少しばかり大胆な欲求に懸命にも応えてくれた。愛しさが溢れてたまに無茶をさせてしまうこともあった。でもどんなイルカ先生でも見たかった。俺をイルカ先生に刻みつけたかった。
 イルカ先生は眠っている時、かすかに唇を開けている。それがキスを待っているような感じだねとからかえば、頬を染めて背を向けてしまうことがあった。そんな時は背中から強く抱きしめてイルカ先生の首筋に顔を埋めて眠ったものだ。
 イルカ先生が俺のことを好きでいてくれることに間違いはない。
 でもたまにふとした時に、イルカ先生は遠くを見ることがあった。俺に何か言おうとすることがあった。憂いのある顔から嫌な予感がして、そんな時俺はうまく話題を逸らしたり、布団にもつれこんだりしてイルカ先生の口を塞いできた。
 でも。
 でもこんなことになるなら、きちんと別れてあげればよかったと、今更、思う。



 静かな、とても静かな夜だ。
 まるでこの世にまだなにも誕生していないような錯覚さえ覚える。
 窓辺のベッドで眠るイルカ先生にそっと近付いた。
 この家に移り住んだのは去年の誕生日だ。
 一緒に住みたいと言い続けた俺にやっと肯いてくれて、二人の家に越した。
 キングサイズの大きなベッドで数え切れないくらい睦み合った。
 そこに今イルカ先生は一人、月明かりを頬に受けて横向きに眠っている。
 俺は昼間のうちに式を飛ばしておめでとうを伝えておいた。だからイルカ先生は安心して眠っているのだろう。
 俺の無事を疑いもせず。
 俺は今遠く離れたいくさ場で、敵の術中にある。
 やっかいな術から抜け出すことができず、俺はこのまま封印されてしまうかもしれない。
 式を飛ばしたあとでねばってみたけれど、どうしても抜け出せずに魂魄をイルカ先生の元に飛ばした。こんなふうに力を使えばますます脱出の機会がなくなるのかもしれないが、無理かもしれないと思ったとき、どうしてもどうしてもイルカ先生に会いたいと思った。いてもたってもいられなくなった。
 実体のない身をイルカ先生の傍らに置く。
 安らかな寝顔に安堵すると共に、後悔が沸き上がる。
 俺はきちんとイルカ先生に伝えただろうか?
 愛していると。あなたがなにより大事でいつの間に俺の全てになっていたと。
 イルカ先生はいつだって俺を受け入れてくれた。イルカ先生のそばにいるだけで俺はなんだってできるように思えた。
 もう一度だけでいい。イルカ先生を思いきり抱きしめたい。
 布団からでているイルカ先生の右手の中には紙片が包まれていた。俺が飛ばした式だ。
 まるで俺の自身のことを包むような優しげな手つきに、俺は泣きたいような気持ちになる。
 イルカ先生は誕生日には必ず俺の手をとった。最初の時のように手を握ってくれた。その手にそっと手を伸ばす。掴めやしないのに、それでもイルカ先生の手を掴みたくて、伸ばす。
(イルカ先生、ねえ、俺が帰ってこれなくても、俺のこと、忘れないで。ずっと俺のこと、待っていて。俺を忘れて他の奴になびいたりしないで。だって俺が一番にイルカ先生のこと好きなんだよ。誰よりも、この世の誰よりも!)
 イルカ先生は眠ったまま、何も言ってくれない。笑ってくれない。
(イルカ先生……!)
 手が重なった、その時。
(!)
 幻の俺の手と実体のイルカ先生の手。二人の合わされた手から、放出される何かがあった。そして、イルカ先生が目を開く。
 その視線は見えないはずの俺に真っ直ぐと注がれている。
「カカシさん」
 イルカ先生は、優しく笑う。俺に向かって微笑んでくれている。
(イルカ先生?)
「戻れますよ。戻ってきてください」
 俺の元に――。
 力強い声に導かれて、俺の世界は暗転した。
























 手が。
 イルカ先生の力強い手が、俺の手を掴む。
 俺はその手にすがる。
 俺は進む。イルカ先生について行く。
 体全体を覆っていた圧迫感からいきなり解放されまぶしい光の元、目の前にはイルカ先生。
 イルカ先生は笑っていた泣いていた。
 そして。
「カカシさん」
 俺のことを強く強く抱きしめてくれた。