まぐろ先生    前編







「マグロせんせえ〜。帰りましょう〜」
 夕方の職員室に暢気な声が響き渡る。残っていた教師たちはきょろきょろと同僚を見回す。マグロ? そんな名前の職員がいただろうか?
「マグロ先生。残業なんて今日はいいじゃないですか」
 すたすたとその男がむかったのはうみのイルカの机だった。イルカははたけカカシを無視してテストの採点に没頭していた。カカシは手近な椅子に腰掛けると、ほおづえついてイルカをのぞき込んだ。
「マグロ先生。テストの採点なら家でしましょうよ。俺が手伝いますし」
 機嫌よさげな上忍はあきらかにイルカに声をかけていた。イルカに、マグロ、と。
 二人が付き合っていることは周知の事実なので、またなにかあったなと、同僚たちはこっそりと同じため息をついた。
 二人が付き合いだしてから半年ほどたつだろうか。たった半年だが、騒動はつきない。こっそりとお付き合いしていたいイルカとあけっぴろげなカカシとの間でもめ事がおきないわけがない。最初はイルカは秘密にしておきたかったようだが、カカシのおかげで一日で広まった。火影だって知っている。両思いで仲がいいことに間違いはないから毎回おこる騒動もいわゆる痴話げんかというやつなのだろうが。
「マグロ先生、無視ですか? 約束違うんじゃないですか?」
 口布で隠れたカカシの口元が意地悪な声を紡ぐ。基本的にイルカに甘いカカシだが、中忍にとって高名な上忍にはやはり遠慮が働く。同僚たちはみな中忍。イルカの態度をはらはらしながら見守っていたが。
 流れるように動いていたイルカのペンがぴたりと止まる。鼻からぷしゅーと空気を出してさわやかな笑顔でカカシを見た。
「なんですか、カカシ先生」
「なんですかじゃなくて、帰りましょうよ、マグロ先生。昨日から約束してたじゃないですか。おいしい店を見つけたから食べに行くって。ね、マグロ先生」
 カカシは必要以上にマグロを連発している気がする。そのたびにイルカの頬がひくり、ひくり、とひきつる。
「確かに、約束してましたが、ごらんの通り、採点が終わらないので、残業です。今日はご自分の家に帰られてはどうですか?」
 自分の家をイルカはあきらかに強調した。いちいち言わなければ当然のようにカカシはイルカの家に入り浸っているということか、と同僚たちは心配しつつリサーチに余念がない。なんといっても注目のカップルだ。真面目一本のイルカとそれなりに経験をつんでいるカカシ。何故か結びついた二人の不思議は噂のまとだ。
「え〜。今日を逃したらしばらく任務が入ってるんで行けないんですよ。約束したじゃないですかあ、マグロ先生。約束は守りましょうよ、マグロ先生」
 マグロ、と連呼するたびにひきつるイルカがわかっていてカカシは口にしている。口元にはりついた笑顔はそのままにイルカは大きな音をさせて立ち上がった。無言で採点途中のテスト用紙を鞄にしまいこむ。てきぱきと身支度を調えて、残っている皆に向かってお先に、と告げて、カカシに向き直った。
「行きましょう、カカシ先生。約束は守りますよ」
「そうこなくっちゃマグロ先生」
 どうやらカカシにはイルカのこめかみに浮いて見えそうな怒りのマークが見えてないらしい。先に歩き出したイルカのあとにはりつくようにして去っていった。
 いきなり静寂が戻った職員室で、同僚たちは顔を見合わせた。何故にマグロ? 考えることしばし・・・。
「・・・!」
 天の啓示のように皆がひらめいた。皆、いい大人だ。しかも忍だ。
「マグロね・・・」
 なんともイルカらしいと、皆が顔を見合わせて口元を同情にひきつらせた。

 

 カカシの気配が体の上からのいたのがわかり、イルカはぎゅっとつむっていた目を開けた。カカシはベッドの端に座りがりがりと頭をかいている。あきらかな機嫌の悪さにイルカは体を起こして下半身にはシーツをかけた。カカシは全裸のまま気にすることなく居間にいくと、煙草をくわえて戻ってきた。
 床に全裸のまま胡座をかき、ベッドの上のイルカを感情の読めない目で見上げる。
 下半身の欲望が萎えているわけではないのに、ついさっきまで熱心にイルカの肌に唇を這わせていた時の熱さはその目に欠片もうかがえない。何がおこったのかわからずにイルカは目を伏せた。イルカはとっくに萎えている。
「イルカ先生、俺たちが付き合いはじめてからセックスするのって、これで何回目だと思います?」
 回数など、カウントしているわけがないではないか。イルカはおろおろと視線を彷徨わす。カカシは煙を吐き出すタイミングに併せて呆れたようなため息をつく。
「まあ、回数なんて意識していないですよねイルカ先生は。俺は覚えてますけどね。一応伝えておきますと、今夜で10回目です」
 10回。付き合って半年。多いのか少ないのかイルカにはわからないが、カカシは回数が不満なのだろうか? けれどどうしたってされる側のイルカに負担が大きいのだ。翌日が休みで、完全休日でないと了承できない。本当は今日は休日前じゃない。けれどカカシがしばらく任務で夜はゆっくりできないからと懇願してきて、しぶしぶながらもイルカは頷いたのに。
 イルカの不満げな表情にカカシはまた大袈裟にため息をついて煙草を灰皿にもみ消すとのそりと近づいてきた。イルカの黒髪をひとふさつかみ、酷薄な笑みで見つめてくる。
「ねえイルカ先生、いい加減マグロみたいに横たわっているだけって、芸がないと思いませんか? 俺の前に女との経験はそれなりにあったんでしょ。回数重ねてもなんにもしない女って嫌じゃないですか? 少しは自分から動いたり、キスしたりなんかしてくださいよ」
 カカシは煙草の匂いをまとわりつかせたままイルカに口づけた。ぬるりと舌を入れてくる。いつものくせでイルカはぎゅうっと目をつむって思わずカカシの舌をかみそうになった。しかし慣れたもので、カカシは絶妙のタイミングで舌を抜く。一瞬、唾液の糸が伝ったでけでもイルカは沸騰しそうなのに、自分から、どうしろというのだ。
「俺は、別に、女性に、動いてもらわなくても、よかったです」
「だから物足りなくなった女にいつも振られていたんじゃないの?」
 からかうようなカカシにさすがのイルカも眉をひそめた。
「じゃあ俺にどうしろって言うんですか? 言ってみてくださいよ」
 カカシはにいっと口の端をつり上げた。イルカの手を優しく掴むと自らの立ち上がっている部分に押しつけた。ぎょっとしたイルカが手を引こうとしたが許さない。
「まずは、ここ、触って。イルカ先生が一人でするときみたいにして。それが慣れたら、舐めて。したことないだろうから俺が教えてあげる。それもクリアしたら、俺の上にのったりとか、いろんな体位を試させてよ」
 熱っぽく囁くカカシの声がイルカの耳を右から左に流れていく。カカシの要望通りのことを自分の姿で想像するのは難しく、AVの映像が頭をよぎり、沸騰しそうになった。
 慌ててカカシの欲望から手を取り戻すと、湿っている手を、つい、無意識にシーツで拭ってしまった。まるで、汚いものにでも触れたように。
 他意はない。本当に無意識に。しかしさすがにイルカもまずいと思った。一瞬でカカシの気が冷えたから。
「す、すいませんカカシ先生、今のは・・・」
 カカシはイルカにいいわけの間を与えなかった。イルカの両耳をぎゅっとつまむと、怒りの形相のままに大声をあげた。
「この、マグロ〜〜〜〜〜!!! あんたなんかこれからマグロって呼んでやる!」
「だから、今のは悪かったって・・・」
「俺は汚いんですか? じゃあこれを入れられて感じちゃうあんたはなんなんだよ。変態変態!」
「変態? それはあんただろ? お、男のくせに俺に欲情してつっこみたくなるなんて、変態以外の何者でもない。あ、あそこを喜んで舐めたり飲んだりするなんて、頭おかしいんじゃないか?」
「舐められてひいひい言ってる自分のことを棚にあげるな」
「俺は健康なんだ。あそこ舐められたら普通でちまうだろ」
「そうかな〜。感じないやつは感じないよね。あんたがやらしいんだ。あと俺のテクがいいのかな。マグロのわりには感度はいいよね。淫乱なんじゃないの?」
 ふん、と馬鹿にしたようなカカシにイルカはざーと怒りのために血の気が下がるのを感じた。言うに事欠いて、淫乱。男が男に淫乱とほざかれるとは、あまりな侮辱ではないか? わなわなと震えたイルカは真夜中だと言うことも忘れて腹の底から叫んだ。
「出て行けーーー!! マグロでもなんでも勝手に呼びやがれーーー!」

 

 それが昨日。正確には今日になっていたが。
 夕飯を食べている時はいつも通り仲むつまじく、明日の約束をとりつけたりしていたのに。夜中の出来事で今までで最大の喧嘩をしてしまった。さすがのカカシもしばらく姿を見せないとふんでいたのに、カカシは平気でやってきた。喧嘩などしていないかのようにいつも通りだ。だが。
「マグロ先生、ここのマグロの刺身が絶品なんですよ〜」
「嫌味ですか」
「嫌味? なに言ってるんですか。マグロ料理って昨日言ったじゃないですか。ね、マグロ先生」
 嫌味だ。確かにマグロと言っていた気はするが、しつこくイルカのことをマグロマグロと言ってくるあたりが完璧に嫌味だ。根にもっている。
 手酌で日本酒を傾けてぐいっとあおると、じとっとカカシを睨み付けた。
「カカシ先生、昨晩のこと、謝ってくださいよ」
「謝る〜? なんで俺が。どっちかというとマグロ先生が謝るべきじゃないですか?」
「謝りましたよシーツでぬぐっちゃったことは。だからカカシ先生も俺に淫乱って言ったこと謝ってください。訂正してください」
 マグロの唐揚げを口に放り込み、マグロの吸い物をずずっと飲んでカカシはマグロづくしに舌鼓を打っている。
「だって本当に淫乱だもん、俺がちょっと触れただけでめろめろでしょ」
「ちょっと・・・?」
 イルカは二の句が継げなくなる。何がちょっとだ? 確かにイルカは行為の最中布団の上にかちんこちんに固まって横たわり、たいがい目もぎゅとつむってしまうが、だが、それでも、わかることはある。
 イルカとしてはもっと体育会系なノリで男同士のセックスは行われるものと思っていたのだ。終わったあとさわやかな汗をかいて、ビールでも飲みましょうか? なんてノリで。
 だがカカシはやけにムーディな攻め方をしてくるのだ。まるで女にするように口づけから入って、愛を囁いて、前戯にものすごく時間をかける。体中舐め回すような勢いで、妙にねちっこい気がする。おかげでイルカはつっこまれる頃にはへろへろになる。終わったあとはぐったりと力が抜けて、最初の頃はそのまま気絶するように眠りについてしまっていた。しかし起きた時にカカシが自分の体をきれいにしくれていたことを知った時のあまりの羞恥に、なんとか気力で始末をつけてから眠るように頑張るようになった。自分のことは自分で。これは生きる基本ではないか。
 しかし起きていれば、それはそれでまたカカシは大丈夫ならもう一回だの、恐ろしいことを言い出したり、恥ずかしい言葉を耳元で囁いてくる。1回が限度のイルカが頑なに拒否すると、イルカの体を抱き込んで離さずに眠りにつく。そんな時の翌朝はカカシのほうが先に目を覚ましていることがほとんどで、寝顔をずっと見てました、と幸せそうに照れたように言われた日にゃあ、気絶しそうになる。男の寝顔なんて、決して見て楽しいものではないはずなのに。ひげだってうっすらと生えているだろうし、いびきだってかいていそうなものなのに。それをカカシは愛しそうにイルカに告げるのだ。
 なんて恥ずかしい男なのだろう、カカシは。ああでも、これが女だったら、幸せを素直に感じるのだろうか?
「カカシ先生はあんまりわかっていないようなので言わせてもらいますが、あなたの触れ方はちょっとじゃあありません。俺は確かに経験が少ないのであまり大きなこと言えませんが、カカシ先生はしつこいです。エロ親父なみです。誰だってへろへろになりますよ」
「よりによってエロ親父ですか」
 マグロを炭火で焼いてちぎったものに里芋をあえた一品をつまんでいたカカシは嫌そうに頬のあたりをぴくぴくと震わせた。箸を置いてイルカを見る目の光は剣呑だ。
「俺なりにマグロ先生のことを思ってのことだったのに。だってマグロ先生、痛いの嫌でしょ? 何にも施さないで適当にやったらマグロ先生泣いちゃうよ。毎回流血沙汰だよ。大事なマグロ先生に感じてほしいからご奉仕している俺を、言うにことかいて、エロ親父呼ばわりですか」
 マグロマグロと本当にうるさい。イルカは鉄火丼をかっこんだ。なにがご奉仕だ。頼んじゃいねーよ。
「俺が淫乱なんじゃなくて、カカシ先生がスキモノなんでしょ? 女の人と沢山やって、今度は男ですか。お盛んですね、本当に!」
「ふん。英雄色を好むってね。小者のマグロ先生には無理でしょうけど!」
「英雄? ケッ。たかが上忍のくせに。火影にでもなってから言えってんだ」
「たかが? じゃあそれ以下の中忍のマグロはどうしたらいいんですかね?」
 嫌味の応酬の合間にイルカは鉄火丼を食べ終わり、マグロのづけに箸をむけつつ喉ごしさわやかな日本酒を味わった。
 結構グルメなカカシがセレクトする店に間違いはない。それなりの値段だが、それに見合った上品なオープンしたての店は、ゆったりとした作りのテーブル席が6つ。お座敷が3つ。和楽器が耳に心地よく流れ、他の客はゆったりと食事を楽しんでいるだろうに。
 せっかくのおいしい食材、店の雰囲気をあまり堪能していない気がする。なんだか情けなくなってきてイルカは箸を戻した。
「どしたの、マグロ先生?」
 急に黙り込んだイルカを心配したのかと思いきや、あくまでもマグロと言い続けるカカシになんだかイルカは情けなさに泣きたくなった。衝立があって他の客から顔は隠れ、声もあまり聞こえないようになっているが、それでも声を潜めて俯いたまま聞いてみた。
「カカシ先生、マグロはそんなにいけないことですか?」
「いけなくはないですよ。ただ限度ってものがあるでしょ。今まで付き合ったなかに処女がいたけどね、なんかあっという間に俺の上で腰振るようになっていたよ? それなのにマグロ先生はいつまでたっても緊張しっぱなしで、背中に手だってまわしてくれないし、イク時まで顔しかめっぱなしだし、さすがに愛情疑っちゃうじゃない?」
「わかりました」
「わかってくれたの? 触ってくれるの?」
「カカシ先生がものすごくいやな人間だってわかったんですよ」
 静かに告げたイルカに、カカシはごくりと喉を鳴らした。常にないイルカにさすがに地雷を踏んだと気づいたようだ。
「あの、イ・・・」
「カカシさんが昔付き合っていたかたのことは知りませんが、その女性を侮辱していませんか? あと、俺は好きでもない相手と寝ることができるほど適当な人間じゃあないんです。カカシさんと違って」
「別に俺は侮辱なんかしていませんよ。いい女だったなあってなつかしがってんです。それに俺はいつ死ぬかもしれぬ上忍なんで、色恋にも後悔しないようにいつでも全力投球なんです。マグロ先生と違ってね」
 ああいえばこういうの見本のようなカカシに、先に切れたのはイルカだ。もともと短気な質なのだ。
「お、俺がマグロなら、あんたなんか、あんたなんか・・・!」
 適当な言葉がでずにわなわなと震えるイルカをカカシは勝ち誇ったように、馬鹿にしたように、口元を歪めて、鼻で笑った。
 その瞬間、イルカは自分の血管が切れる音を聞いた気がした。派手な音をたてて立ち上がると、両手をテーブルに打ち付けた。
「俺がマグロなら! あんたはブリだあああああああ!」
 わけのわからないことを叫んでイルカは店を飛び出した。
 イルカは悔しさに目もくらむばかりだったが、叫んで飛び出したことがカカシへのちょっとした意趣返しになったことは知らない。カカシは店の人間に叱られて、出入り禁止を言い渡されていた。

 

 

 

後編