それが、運命なら   1







 うっすらと開いた目に、水に映る朧な月が映る。
 もしも本物の犬だったなら人のような鮮明な視界は持っていないはずだ。犬は外界からの情報をほとんど嗅覚や聴覚を頼りに入手すると聞いたことがある。だが今視界には人の時と同じ景色が広がる。それがこの身に起こっていることが現実なのだといやがうえにも認識させる。
 疲弊しきった体は眠りを貪りたいのに、背中から覆い被さる存在がそれを許さない。
 荒い息をつきながら、乱暴に腰をうがち、時たま首や背に牙をたてる。
 ケモノは熱い息を吐いて、よだれが飛び散る。
 本来入れられるべきではない場所に抜き差しされているのはケモノの男根。水っぽい音をたてながら永遠の反復運動のように繰り返される行為。
 最初対峙したとき、かなわないことは瞬時で知れたが、意のままになるのもプライドが許さず立ち向かった。
 狂気を宿した色違いの目に射抜かれると、体は震えた。銀の毛並みは月に照らされて神々しささえまとっているのに、立ち上るチャクラは黒く渦巻き、まともな思念を受け入れないことは肌で感じた。
 恐怖で体が動かなくなる前に、地を蹴った。
 体躯の大きい銀のケモノより二回りは小さい凡庸な犬が無謀なことをすると頭の片隅では思った。思いながら、のど笛をかみ切るつもりで牙をむいた。手応えはあった。確かに噛みついたのに、ケモノが大きく首を振った途端すぐに飛ばされる。なんとか宙で回転して着地し、すかさず次の攻撃に移ろうとしたが、視界にケモノの姿はなかった。
 横っ腹に衝撃。無様に甲高い声をあげて吹っ飛ぶ。運悪く大木に激突し、一瞬息が止まる。続いて肩口に鋭い痛み。肉が引きちぎられるほどの痛み。もし人としての声帯が機能していればあらんかぎりの叫びをあげたことだろう。
 無様にも腹を見せて倒れたところに、ケモノは悠々と見下ろしてきた。
 のど笛に牙をたてられ、気が遠くなりかけた。
 まあ、こんなものだ。最初からわかっていた。ちっぽけなプライドは満足した。ここで果たさねばならないことをしよう。
 犬は喉の奥から媚びるような鳴き声をあげた。術のおかげもあるが、充分に征服者の憐憫を誘うような声。
 首から顔を上げたケモノを見つめて、鼻面を擦りつける。時たま舌で口のあたりをぺろぺろと舐めて、ひたすらに甘える。
 ちらりとケモノの下腹部を見れば、欲望の印があった。
 もういいだろう、と犬は背を向けて、腰を擦りつけた。発情した四つ足歩行の動物が交尾を求める姿。誘うように左右に振ってみる。ケモノの息づかいが近づいてきた。
 観念して、黒い犬は目を閉じた。



 真夜中に始まった行為が果てたのは一体いつだったのだろう。
 あたりのまぶしさに目を開けたイルカは思考をつむぐより先に目の前の湖にのろのろと体をひたす。
 人の体に戻ったら、犬の時の行為や記憶が全てなくなっていればいいのに。
 むしのいいことを考えながら、みじめな体を検分する。
 打撲痕やら、咬まれて傷ついた肌。体中がぎしぎしときしんでいる。
 手の平で無心にこする。ケモノとの情痕を消し去ってしまいたい。体中を清めて少しは落ち着き、最後に一番酷使された箇所に指先をもっていけば、とろりと溢れてくるものがある。生温かな、液体。体の最奥に放たれたモノ・・・。
 その瞬間堪えてきたものに耐えきれずに、イルカは癇癪をおこしたようにめちゃくちゃに水面を叩いて、わめいて、泣き叫んだ。






 これが最初の、始まりの日だった―――。






 ケモノでもはたして快楽を感じるものなのだろうか。
 二日目、三日目、四日目と乱暴に体をまさぐられケモノの欲望を放たれながらイルカはそんなことをつらつらと考えていた。単純な反復運動の性交に少しは慣れたのか、興奮したケモノがいきなり歯をたてたりしなければ思考の海に漂っていられる。
 夜が明けるとすぐに体を清めるが、奥の部分は腰にくるほどに傷ついていた。特殊に調合された薬を塗るからなんとかなっているが、そこに薬を塗るという行為自体が屈辱的なことだった。
 ケモノが熱い息を吐いて、感極まったのかイルカの首筋に少し強めに噛みつく。このケモノはイッた瞬間にそうすることがわかってきた。その瞬間にケモノに快楽が湧き上がるのかは知らないが……。

 そんなこと、わかりたくなかった。



 何日目かの夜、いつものように犬の姿のイルカの元にケモノはやって来た。
 昼間のイルカは里から持ってきた味気ない非常食で空腹を満たしたあと、疲れを癒すために木陰で眠りにつくという日々だった。
 首の辺りにふんふんとかかる鼻息と甘咬みされて目を開ければケモノが月を後ろに従えて目の前にいた。夜。人から犬に戻ったのだとイルカは溜息をつきたい気持ちになった。
 ケモノは一日一日と穏やかな目になり、そこにはもう狂気の色はない。だがイルカの体に足をかけて、行為を促していることは明白で、イルカはまた腰を心持ち上げた。
 後ろにまわったケモノはずぶずぶと欲望を入り込ませてくる。もしも人間同士であれば、この行為は潤いを与えるとか少しは気を遣うものなのだろうか。だがケモノは快楽の為でも生殖の為でもなく、術にかかって行為に及んでいるようなものなのだから、そんなこと関係ない。
 ケモノの気持ちなどわかるわけがないが、生殖行為でもなく、少なくとも今のケモノには意味なんてないはずの行為なのに、なんとなく気持ち良さそうに腰を使っている気がする。
 イルカの首筋に労るように鼻先から息を吹きかけ、背に載せた足が爪を立てることもなくケモノは変わりつつある。さすがに火影の術はたいしたものだなあと別の思考で気を紛らわせていたが、急にケモノの動きが速くなる。ぶつけるようなピストン運動に耐えきれずにイルカは喉の奥から絞り出すように呻いて前足で土をかく。ぶちまけられた感触がして、ケモノはぶるりと震える。首筋を咬む。終わったと安堵して、イルカはそのままぐったりとなり意識を飛ばした。
 所詮人である自分が変化して不自然な行為を強いられているのだから、痛みばかりで疲労が重なる。これがあと何日続くのだろう。さすがにイルカは暗澹たる気持ちになった。

 ほんの少しの間気絶していた。不意に鼻先に新鮮な香りがした。
 目を開ければ、ケモノが色鮮やかな果物の入った皮袋を転がしてきた。
 食べろ、と穏やかな目が言っている。
 イルカは真っ赤な果実に噛みついた。甘い味が口の中に広がった。






 目を覚ましたら、傍らにケモノが丸くなって寝ていた。
 イルカの起きあがる気配にぴくりと片耳が反応して目が開く。明るいところできちんと見れば、深く掘りの深い精悍な顔に、右目は深い蒼。左目は燃え立つような赤い目をしていた。物珍しさに顔を近づけたイルカが凝視していれば、ケモノはイルカの顔を舐めてきた。
 びっくりしてのけぞれば、それを追いかけてケモノはイルカの顔を舐め回す。
 やめろ、と注意しながらもケモノがじゃれているのがわかるから、元々動物好きなイルカは邪険にもできずに知らずケモノの体を抱きしめていた。
 柔らかで豊かな毛並みに気持ちが柔らかくなる。ケモノに夜毎されている行為に対しての嫌悪感は特に沸くことなく、その感触を素直に受け止めることができた。
 ケモノは1年以上ここで暮らして本当のケモノたちとかわらない生活をしているのにまとう雰囲気はどこか高貴で、さすがに里が誇るエリートの上忍なのだなと思う。四代目火影の生徒でもあり、かわいがられていたという。これだけの人物を里が見殺しにできるはずもなく、イルカのココロが壊れる可能性とをはかりにかけても救助する価値があるのだ。
 イルカとて、それなりに苦労して育ってきたから、こんなことくらいで崩れてしまうとは思っていない。だが、ここに来る前の自分には戻れないことはわかる。
 自分で申し出た事とはいえ、それが少し悲しかった。
 ケモノに口を舐められてはっとなる。物思いに沈んでいたら、いつのまにかイルカはケモノともつれるようにして地面に転がっていた。裸の、ままで。まだ少年の華奢な体のイルカと同じくらいの大きさのケモノ。イルカを見つめる目から人としての感情が流れてきそうで慌ててイルカは目を逸らす。そしてケモノを突き放すと湖に向かった。
 イルカが体を洗っている間、ケモノはずっとその場でイルカのことを見ていた。イルカは何故かケモノを見ることができずに、俯いたまま体を清めた。



 その夜、ケモノは無言でイルカを導いた。
 とぼとぼとついていけば、粗末な掘っ立て小屋に入っていく。後に従えば、そこには柔らかそうな藁が敷き詰められていた。
 入り口で立ち止まったイルカを振り向いたケモノは得意げに顔を上げる。
 イルカが呆然と動けずにいればケモノはイルカに近づき前足でイルカ誘う。まるで人間のような仕草。
 まるでも何も……。ケモノは元々人間なのだから。
 用意された褥は人間が行う行為を想起させてイルカの体はますます強ばる。
 ケモノのくせに――。
 ケモノのくせに!
 けれどイルカがここにいるのは任務ゆえだ。ケモノに体を預けなければならない。
 のろのろと藁の上に載り、身を屈めていつものように腰を上げようとしたが、ケモノはふるふると首を振った。
 そのまますとんと座り込むと、身を丸めて、前足に顔を載せて目をつむってしまった。腰を上げかけた中途半端な姿勢でイルカが固まっていると、ケモノは片目だけを器用に開けて、何してるの? とでも言っているような目の色で見つめてきた。
 イルカが人の姿なら羞恥に顔が赤らんでいたことだろう。
 ケモノの傍らで、向かい合わせでイルカも体を落ち着けた。ケモノがもぞもぞと動き、身をぴたりと寄せてくる。イルカのことを体の内側に抱き込んで眠る体勢になってしまう。
 ケモノの胸の柔らかな毛が鼻先にあたってくすぐったい。藁は、お日様の香りがする。傍らのぬくもりがまどろみをもたらす。心が溶け出しそうな暖かさに、イルカはすんと鼻をすすっていた。
 ここに来て、初めての平安だった。

 

 


 
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