それはセンセー (カカシver.) 1







 全く毎度毎度べたなことをしてくれる。
 頭上に落ちた黒板消しを拾って無言のまま戻す。こんなトラップとも言えないものもちろん気づいていたが、よけるのも面倒でそのまま落下させた。頭をひとふり、そして何食わぬ顔で教壇の前に立つ。
「授業始めるぞ〜」
 そしていつもの如く開始の合図をした。後ろの戸から出て行く者三名。最後に出ていこうとした黒髪を結わえた生徒は横目でカカシを睨むと、教室中に響く音をさせて戸を閉めた。
 本日もボイコット三名。カカシが就任してひとつき。毎朝の行事になっていた。





 ことの発端はふたつき前に遡る。
 暗部の任務で負傷したカカシは完全回復までに時間がかると医師から告げられた。カカシとしてはとにかく体が動くのならすぐにでもいくさ場に戻りたかったが、火影に強硬に反対された。九尾の打撃から里はほぼ回復した。だから負傷者を無理にいくさ場に戻らせる必要なない、将来のことを考えてきちんと体を治せ、と。
 火影の温情なのかもしれないがカカシにとっては余計なお世話だった。だからカカシの療養は命令となり、完全回復までの間、アカデミーの臨時教師をするようにと言われた。
 今となっては、火影の目的はここにあったとよくわかる。一見無害な老人にしか見えないが、さすがは火影。常に里のあらゆることに目を配っているということか。
 カカシが見ることになったクラスは、下忍選抜試験が今回最後となる、まあ、落ちこぼれのクラスだ。最高年齢は十六歳。下は九歳。本人の力のなさ、やる気のなさ、親の意向、家庭の事情、さまざまな理由から今回で最後との通達を受けた二十名の生徒達。いや、正確には、十九名か。
 クラスにいるうちの一人、うみのイルカはとっくに下忍になっている。なっているくせにここにいる。中忍試験を蹴って、ここにいる。幼なじみの二人、最高年齢の十六歳の友人を是が非でも下忍に受からせる為に、ここにいるのだ。
「火影様。今日もいつものように三人ボイコットしましたよ」
 火影の執務室で毎日の報告をする。毎日毎日同じことしか報告しないカカシにやる気がないのは明らかなのに、それでも火影は苦笑いを返すだけでカカシを解任しないのだ。
 さすがにカカシは焦れてきた。体はもう充分回復した。こんなぬるい場所から早く抜け出したくて仕方ない。
「火影様。一体俺はいつまであの落ちこぼれどもを見ないといけないんですかね〜? 俺はあいつらにこれっぽっちも興味ないんです。受かろうが落ちようが勝手にしろってとこです。俺のそういう気持ちが見え見えだからうみのたちも反抗的なんですよ」
 今朝も憎々しげにカカシのことを睨み付けた、きかん気な黒い目。
 黒板消しを毎朝しかけられようが教壇の上に生ゴミを置かれようが職員室にいきなり頼んだ覚えのない一楽ラーメン十人分を出前で持ってこられようが、とにかくカカシは無視し続けた。ああいう手合いはこちらが反応を返せばさらに増長する。だから徹底して無視している。
 だいたいイルカの要求というのが勝手極まりない。友達二人を試験を受けさせずに合格させろというのだ。
「火影様はうみのに甘過ぎます。俺に言わせれば下忍になっているあいつをクラスに入れたのが第一の間違いです。それにあいつの要求なんてものはですね」
「ああ、わかっておる」
 思わず身を乗り出したカカシを火影はパイプの煙で遠ざける。
「仕方ないじゃろうが。わしはイルカには勝てん。なにしろイルカがうちに寄寓しておった頃賭けに負けてな『ジジイは俺の子分だ!』と言われてしまったのじゃからな」
 と、しわくちゃの顔をとろけさせて火影は笑う。
 処置なし。
 カカシの冷たい視線に気づいたのか咳払いをした火影は居住まいを正してカカシをひたと見据えた。
「とにかく、イルカをちゃんと説得しろ。それが今のお前の任務だ」
 きりり、とすごまれても説得力がない。とにかくイルカがかわいくて仕方ない火影はイルカを傷つけずに今回の件から引かせたいのだ。
「これって俺にとってはSクラスくらいの任務なんですけど」
「何を言っておる。写輪眼のカカシともあろうものが。だがイルカを説得できたあかつきにはそれなりの報酬はでるから安心するがよい」



 埒があかない。
 本当に面倒で嫌なのだが、とうとうカカシはイルカとの接触を試みた。
 放課後の職員室。窓から夕日がさしこんで赤く染まった教室に、イルカは現れた。
 真っ直ぐにカカシを睨み付ける目は剣呑だ。カカシが用意したパイプ椅子に無言でどかりと座った。
「俺、忙しいんで、手短にお願いします」
 冷ややかな声。ガキの相手をするのも馬鹿らしいのだが、溜息を堪えてカカシはとりあえずは口元に笑みを敷いた。
「ああ、すぐすむ。うみのがいくら抗議してもあいつらは受からないから。だからさっさと中忍試験でも受けろ」
 顔を逸らしていたイルカはぴくりと反応して正面を向いた。黒々とした目には隠そうともしない怒りがあった。
「はたけセンセーは試験管なんですか? 代理の教師に過ぎないじゃないですか。さっさといくさ場に戻ればいいでしょう」
「お前に言われなくたってそうしたいさ。ただ、ご老体の許可がおりないんでね。他ならぬうみののおかげでね」
「俺のせい?」
「そ。ぶっちゃけ言うけど、火影様にさ、うみののこと説得しろって言われてるわけ。お前が諦めてくれたら俺はとっとといくさ場に戻れる。もういい加減諦めてくれよ。お前の仲間とやらは才能ないんだよ。十六にもなって下忍にもなれないんなんて忍なんてやめたほうがいい。運良くなれたとしてもすぐ死ぬさ」
 カカシがずばりと言ってやればイルカの顔は能面のように強ばる。
「まあ自分が死ぬだけならまだしも、弱い奴がいると部隊全体が潰れちゃうかもしれないんだよね〜。大・迷・惑」
 カカシがにんまり目を細めると、イルカは大きく音をたてて立ち上がった。パイプ椅子は倒れる。ただならぬ二人の気配に職員室に残っていた数名の教師が視線を送ってくる。
 イルカはぎらぎらとした目をしていた。
「あんた、自分が何言ってんのかわかってんのか?」
「ん〜? だから……」
 にまついていた顔をカカシは意図的にすごませる。立ち上がっているイルカに視線を据えた。
「弱い奴に用はない。俺たちは命はって忍やってんだ。ガキがしゃしゃりでるんじゃないよ。一丁前の口は最低限中忍にでもなったからききな」
 低く抑えた声。仲間の忍でも飲まれるようなすごみに、けれどイルカは一歩身を引いてごくりとのどをならしたが、そこでとどまった。結構肝は座っているか、とカカシは内心感心した。
「あ、あんたは! 弱い者の気持ちが、わからないんだ。あいつらが、どれだけ、血を吐くような努力をして……」
「ストーップ。そんなお涙ちょうだいな話はいらないよ。とにかく奴らに合格はない。血を吐くような努力だと? 笑わせんな。だったらとっくに下忍になってるだろう?」
 ケッ、と鼻で笑ってやった。
 振り上げられるイルカの拳。このまま殴ってくれればそれを理由に強制退学だ。火影に有無を言わせずに。そう思って苦もなく除けられる拳をぼんやり見ていた。
 だが、案に相違して、その手はカカシの机に打ち付けられた。一瞬教員室中に響いた音に静寂が際立つ。イルカの拳はぶるぶると震えていた。
「あ、あんたは、ガキの頃から優秀だったから、弱い者の気持ちが、わからないんだっ!」
 必死に叫んだイルカの言葉にカカシは思わず吹き出していた。
 ひーひーと腹を抱えて笑ってしまった。
「ちょっ、ちょっと、うみの! やめてよその笑っちゃうくらいのありがちな台詞! って俺もう笑ってるけどさ〜」
 しばらく笑い続けて周りの教師がいさめるくらいになってやっとカカシは目尻の涙を拭った。
「いやあ、わりいわりい」
 ちっとも悪くなさそうな声で告げる。
「うみのがちゃんちゃらおかしいこと言うから俺も言わしてもらうけど、じゃあさ、うみのはあいつらの気持ちがわかるのか? 十二で順当に下忍になったお前に、わかるのか? ずっと下忍に慣れないあいつらの気持ちが」
 机に頬づえ付いてカカシは問いかけた。イルカの血相が変わる。
「俺は…」
「わかるわけないだろ。まあお前があいつらと同じ落ちこぼれだったとしても、誰にもなあ、個人の気持ちなんてわからないんだよ。わかるわけがいだろ〜が」
「わ、わからなくても、わかりたいって、俺は…」
「傲慢なんだよ」
 ぴしっと言ってやれば、イルカの手が動く。カカシの胸倉に伸びる手。がたがたと椅子と机が揺れる。カタン、と無機質な音が響き、カカシははっとなって倒れた写真たてに手をのばしていた。イルカの手は邪険に振り払う。
 慌てて手に取った写真の中には、先日のいくさ場で命を落とした仲間たち数名の姿が映っていた。任務にたつまえに、記念に撮ろうと言い出したのは誰だったのか。写真の中には笑顔が納められているが、もうここに映る仲間のうちカカシ以外はすべて死んだ。カカシだけが、生き残った。
 だから仲間の敵を討つために、少しでも早くいくさ場に戻りたいのに、このガキのせいでいつまでも足止めを食っている。噂に聞けば、そろそろいくさは終わりに近いとのこと。いくさが終わるのは嬉しい。だがカカシ自身の手で報復をしなければ腹の虫が治まらない。
 いくさが終結することとは別問題だ。戦えるのに、いつまでも平和な里にいるなど仲間に申し訳が立たない。
 カカシのそんな苛立つ気持ちが、意識せずに表出してしまった。
 写真立てを掴む手にぎりぎりと力がこもる。不穏なチャクラにさすがのイルカがびくりと震えるのがわかった。カカシがしまったと顔をあげれば目があったイルカは年相応の怯えた顔を見せていた。
 十歳も歳の差がある子供相手に大人げなかったかと、さすがのカカシも自己嫌悪に気持ちが覆われる。カカシは溜息を落として、イルカを見上げた。
「なあうみの。お前の気に入らない気持ちとかさ、仲間を思う気持ちはわかるさ。けどな、どうしようもないことがあるのは事実だ。十六にもなって下忍に合格できないってことは、向いてないってことだ。向いてないのに無理して忍になっても、死ぬぞ。うみのは、仲間に死んで欲しいのか?」
 その問いかけは、カカシ自身思ったよりも静かに真摯に問いかけていた。イルカは視線をさまよわせる。
「俺は、ただ、あいつらの夢が、叶うといいなって、思ってるだけだ……」
「その夢の為には死ぬことも厭わないってのか? それは犬死にだ」
「そんなことないっ」
「忍にならなければもっと違う道が拓けて、全く違う人生を歩めるかもしれない。どうしてその可能性を見ようとしないんだ」
「でもあいつらは忍になりたいんだ!」
「俺は」
 カカシは聞き分けのないことを繰り返すイルカの左手首を知らず強い力で掴んでいた。
 イルカがびくりと震えたのが伝わってきた。
「俺は、もし忍としての才がなければ違う道を目指していた。けど幸か不幸か才能とやらがあって、なし崩しに中忍になった。六っつでな。それは、幸せなことなのか? 俺は、そうは思わない。俺の先生も、もしもあんな時代でなければ6才で中忍になんてさせなかったと言っていた」
 イルカを追いつめるつもりなど毛頭なかったのだが手首を掴む手には力が徐々にこもっていた。うなだれたイルカに、「痛ぇよ」と小さく呟かれてカカシは我に返った。
 唇を尖らす姿がやけに小さく見えて、カカシは慌てて手を離す。
「悪かったな」
「…もう、帰っていいですか」
「ああ。けど、俺の言ったことは真面目に考えてみてくれ」
「……」
 無言だったがかすかに頭を下げてイルカは出て行った。廊下にあった友人たちの気配と共に去って行った。
 らしくなく熱くなって語ってしまった自分に疲れて、カカシは椅子に大きくのけぞった。そこに湯飲みを差しだしてきた熟練の教師がいた。
「ご苦労様です。イルカは馬鹿じゃない。きっと、考えますよ」
「だといいんですけどね」
「ええ。いやしかし、イルカの奴もすっかり元気になって、それが嬉しいですねわたしは」
「すっかり元気って、病気でもしてたんですか?」
 カカシが問いかければ、イルカのことをマンセルの頃に担当していた上忍と知人だったという教師は語った。



 イルカが下忍になって二年目の時に事件は起きた。
 担当上忍とスリーマンセルで出かけたBランクの任務が蓋を開ければAを超えそうな任務内容だった。上忍の片腕と共に届けられた血濡れた文で事件は発覚した。木の葉の暗部までが出動して納めた任務で、上忍とマンセルの一人が死亡。イルカともう一人の仲間は助けだされたが瀕死の重傷で、完治するまでに半年を必要とした。その後、生き残った一人は忍をやめ、イルカだけが忍にとどまり、中忍におされるくらいの力を備えるくらいになった。だがあの時の任務について、イルカは決して語らない。事件の調査を担当した者には語ったがそれだけ。誰も深く追求はしなかった。なぜならイルカは傷が完治しても、助け出されてから1年の間、一言も口をきくことがなかったから。
 同じ忍として何がおこったのか想像できる部分もある。
 イルカはそれなりの修羅場を経験してそれでも忍であろうということか。
 肝が座っているはずだ。けれどそれでも中忍になるにはためらいがあるのだろう。中忍になれば小隊を率いることもある。責任が自分の肩にかかるのだ。それに、任務ももちろん過酷なものが多くなる。
 仲間の一人のようにさっさと忍をやめてしまえばいい、とさすがにカカシには思えなかった。イルカとて思うところがあり忍でい続けるのだろう。
 そんなイルカの過去を聞いたからというわけではないが、それからはなんとなくイルカのことをきちんと見るようになった。
 今までは手前勝手な理屈だけで反抗するくだらないガキだと思っていたが、イルカなりの信念でもって友人たちに加担しているということか。
 年相応に、ガキが大口開けて笑っている。それが不意にカカシと目が合うと口がへの字になって目が尖る。そんな変化もまた面白いものだとカカシは思い始めていた。



 そんなある日のこと。
 盛大に寝坊したカカシが大あくびをかいて二時限目も始まろうかという時間に教室に向かうと、中からは生徒たちの楽しげにはしゃぐ声が聞こえた。
   なんとなく完全に気配を絶ってそっと教室の中をうかがうと、教壇の辺りに生徒たちが集まっていた。元々忍になんかなる気がない生徒も含めて全員が集まっていた。
 その中心にいるのはイルカ。印を組むと煙があがり、イルカが数人に分身した。すげえ〜と感嘆の声があがる。
「だからあ、お前らだってできるんだって! だって同じ人間だぜえ。俺だってできなかったのが、修行でできるようになったんだし」
「修行ならしてるし、授業にもちゃんとでてる。でも出来ないんだよ。俺ら才能ないから」
 そうだよなあ、と同意する声がそこかしこにあがる。
 一人が口火を切ったことにより、そこいら中から鬱積していた不満があがる。
 才能ない、努力はしている、どうしてかうまくいかない、本当は忍になんてなりたいと思っていない。惰性でいるだけだ……。
 なんだかカカシは呆れ返ってしまった。勝手な言い分ばかりだ。わかってるじゃねえか、お前らさっさと諦めてしまえ、とカカシは内心大きく頷いていた。
 だがイルカはふるふると首を振ってひとつひとつ噛みしめるように口にした。
「嘘つくなよ、お前ら絶対忍になりたいんだろ? どうしても忍になりたいから、さっさと諦めたら楽なのに、ずっと、馬鹿にされても、アカデミーにいたんだろ……」
 イルカの言葉に囲んでいた生徒たちは神妙な顔になる。
「だったら、なればいーじゃん。もしさ、もし、今回落ちても、アカデミー退学になっても、違う方法探してでも、なればいい」
「そんな方法、あるのかよ……」
 気弱な声が聞こえたとき、いきなりイルカは激高した。
「だから! 探すんだよ! どうしても、絶対忍になりてーんだろ!? こんな、情けねえ姿さらしても諦めきらない夢なら絶対に絶対に諦めるなよ! お前ら、あ、甘ったれてるんだよ! ふざけんなコンチクショー……!」
 ぽろりとイルカは涙をこぼした。
 うう〜とイルカは唸って溢れてくる涙を乱暴に拭う。生徒たちだとて馬鹿ではない。イルカが本気で考えていてくれていることはわかるのだろう。なんとなくしんみりとした空気が満ちて、誰からとなく、ごめん、と小さく謝る声も聞こえた。その言葉に、イルカの顔には笑顔が戻る。赤い顔をして、歯をだして、気恥ずかしげに笑う。照れからか、鼻の傷をかいている。
 しばしの間、カカシはぼんやりとなる。その一瞬の隙に思いきり気配を戻してしまったようだ。いち早く気づいたイルカが戸のほうを向いた時には何食わぬ顔で教室に入った。
「おはよ〜う諸君。今日は己の教師としての……」
 カカシがいつも通りの嘘八百のいいわけを言っている途中で生徒たちはさーっと散ってしまった。
 なんとなく高揚しているようなふわふわとした落ち着かない空気にカカシはわざとらしい咳払いをする。生徒たちも微妙に赤い顔をして、だが神妙にいつになく真っ直ぐに教壇を見ていた。
 一番うしろの端にいるイルカと目が合った。
 イルカはふいと視線を逸らして頬杖をついた。
 カカシが聞いていたことに気づいているのだろう。耳が赤い。
 そのままカカシは授業を始めたが、普段より熱が入って、真剣に教えた。
 イルカは最後まで教室にいた。
 初めて、イルカはカカシの授業をボイコットしなかった。





 イルカはカカシなどよりよほど教師に向いているのかもしれない。
 あの日以来、生徒たちの目つきが変わった。
 元々忍にはならない試験を受けない予定でいる生徒たちまで、ここにいる間は、と懸命に課題にとりくみだした。
 試験までは2週間を切った。
 生徒たちの大半は試験の課題をクリアしていた。残っている生徒たちも目処はたった。あんなにやる気のなかったカカシの変わりぶりに火影は勿論他の教師たちも驚いていたが、一番驚いているのはカカシ自身だった。
 生徒たちは鐘だ。打てば響くのに、カカシはきちんと打とうしていなかった。イルカが言っていたように、どうしても忍を諦めきれなかった生徒たちだ。根は真っ直ぐで、素直な気持ちを秘めている。そこをきちんと見ようとしなかったカカシのほうにも問題があったのだろう。
 イルカも試験もなく合格させろという無茶な要求は撤回して、カカシのサポートをするように仲間を助けた。自然とカカシはイルカを居残らせて指導についての話し合いや、一人一人の生徒たちの情報を聞いたりと接することが多くなり、時々はイルカを居酒屋に連れていくこともあった。
「俺、未成年なんだけど!」
「何も酒を飲めとは言ってないでしょうが。おこちゃまはジュースでも飲んでなさい」
「なんだとー」
 カカシはさっさとオレンジジュースを頼んでしまう。イルカが100%のジュース系が好きなことはとっくに知っている。
 ガキじゃねえよ、とぶつぶつ言いつつもイルカはさっさと好きなものを頼んでしまう。漬け物、枝豆、塩から、もつの煮込みは必ず頼む。ジュースやお茶を手に上手そうにもつを口にする。酒が飲めるようになったらイルカとはいい飲み仲間になれそうだ、と考えた自分にカカシは苦笑した。
「なんだよセンセー。気色悪ぃな」
「ん〜? いやあ、きっとうみのは酒飲みになるなあと思ってな」
「そうだなあ、父ちゃんと母ちゃんも飲んべえだったから俺も間違いなくその血を引いてると思う」
 イルカは穏やかに笑う。
 最初の頃の険悪さが嘘のように、イルカとは友好な関係を築いている。
 心を開いてから知った本来のイルカはひねたところのない真っ直ぐな子供だった。喜怒哀楽がはっきりしていて裏表がない。だが人に気を遣うことは知っていて、礼儀も弁えていた。だから最初カカシがイルカにヘルプを頼んだ時など中忍になってもいない自分がと固持したが、カカシが真剣に頼むと最後には精一杯やります、と深く頭を下げて引き受けてくれた。
 居酒屋にも最初に来た時は頑なにごちそうになることを拒んだが、稼ぎもたいしてない下忍が生意気を言うな、と少し真面目な顔で脅せば、それからは素直に奢られるようになった。だがもちろん安いものしか率先して頼みはしないし、安い店にしかついては来なかった。やせっぽっちのイルカをもっと上等な店で食べさせてやりたい気もするのだが、イルカなりに線を引いている部分があるのだろうから無理強いはしなかった。
 うち解けたイルカは始終笑顔で、卒業試験のことやら仲間のことを楽しげに語った。
「はたけセンセーってば最初あまりに胡散臭くてさあ、俺マジでだいじょぶかよって思ったんだぜえ」
 試験は翌日にせまっていた。
 久しぶりにと、前祝いをかねてカカシはイルカのことを食事に誘った。
 カウンターの端、店員や他の客から姿があまり見えない位置に座ったあと、いつもは絶対に口にしない酒だが、少しだけ、とカカシが進めれば、コップ半分くらいに注いだ酒でイルカは乾杯した。案に相違して、イルカは一口のビールでぽおっと頬を赤くした。
「あれ? あれ〜? なんか俺ほっぺた熱い」
 とまどいながら自分の頬を押さえるイルカは柄にもなく可愛らしかった。カカシは手甲をはずすと大きな手でイルカの頬に触れた。
「ホントだ。なーんだ、うみのもしかして酒弱いのかもな」
 柔らかですべらかなイルカの頬は大層気持ちが良かった。
「そんなことない! 俺の両親は酒好きだったし、強かったし、だから俺も酒が強いはずだよ」
 イルカはムキになって瓶からなみなみと注ぐとビールをぐいっと飲み干した。
 単純にもすぐにとろんとなるイルカの目。
「お、おい、うみの、大丈夫か?」
 イルカはけらけらと笑い出した。
「だーいじょーぶだって! そんなことより飲もうぜセンセー。明日で卒業なんだからさあ!」
 イルカは慣れない手つきでカカシのコップにも酒を注ぐ。
「でもはたけセンセーって思ったよりいいセンセーだったよなあ。指導とか的確だしさあ、最初からやっててくれたら俺もあーんなに反抗することなかったのにー」
 ぶうとイルカは膨れる。機嫌のよいイルカはカカシの目の前であれよあれよと酒を開けていく。あっという間に大瓶3本が空になった。
 追加〜と赤い顔のイルカが瓶を振り回すのを慌てて止めて、口を塞いだ。
 団体客が何組か入っているから、カウンターの端にいる二人に目を配る店員はあまりいない。カカシはイルカの口を塞いだまま胸に抱き込むような格好になった。
 イルカの黒髪から、小さな子供のようなお日様のようななつかしい匂いがした。カカシの心臓はどきんと跳ね上がった。
「なんだよ〜センセー。もっと飲ませろよ〜」
 カカシの胸にすがったまま、イルカは潤んだ黒い目で見上げてくる。結構大きな目をしている。奥二重なんだ。
「……火影さまがあ、言ってたけどお、はたけセンセーってさあ、暗部なの?」
 いきなりの話題転換に、カカシは一瞬ついていけなかったが、すぐに気を取り直した。
「あ、ああ! 現役暗部だ。でもちょっといくさ場で怪我してな。リハビリかねて、火影様の命令であのクラス持つことになったんだ。だから、あんまり勝手がわからなくてな」
 しなくてもいいいいわけめいた言葉をカカシは早口でまくしたてた。
 イルカは値踏みするような目で、じっとカカシを見ていたが、にこおと無邪気な笑顔を見せた。
「俺たち現役暗部に指導してもらってたんだなあ。すげえラッキーじゃん! 超自慢できる。あいつら絶対受かるよ。ね!」
 イルカの、ビール臭いなまるい吐息が、カカシの口元にあたった、その時……。ぞくりと体の奥のほうにきた熱い感覚にカカシは焦って席を立ち上がった。
 驚いたイルカが瞬きを繰り返しているが、まっすぐに見ることが出来なかった。
「か、帰るぞ! 明日、試験だからな!」
 さっさと身を翻したカカシにイルカから悲壮な声があがる。
「ちょ、セ、センセー! はたけセンセー!」
「き、気をつけて帰れよ」
「だから、俺!」
 イルカの必死な声に振り返ったカカシは、床にへにゃりと踞るイルカを見た。
「立てない…」
 半べそのイルカは頬を膨らませていた。