それはセンセー (カカシver.) 2







 飲み屋に行ったのは宵の頃だったのに、すでに日はとっぷりと暮れていた。
 カカシは背中にイルカをしょってとぼとぼと夜道を歩いていた。
 酒屋で馬鹿みたいに逃げようとしたカカシだが、イルカの情けない顔を見たら慌てた自分がなんだったのかとアホらしくなった。
 子供相手に、いくらご無沙汰とはいえ情けない。
 明日試験が終わったら綺麗なお姉さんのいる店に行くと固く心に誓った。
「センセー、ごめんな、俺……」
 イルカは反省したのか殊勝な言葉とともに、ぎゅうっとカカシにしがみついてきた。
「わかったから、あんまりくっつくなよ。あ、暑いだろ」
「ごめん」
 イルカは慌てて体を離すから、ぐらりとカカシの体重はかしぐ。
「こら、いきなり離れるな!」
 漫才のようなことを繰り返して、結局イルカはカカシの肩にちょこんと両手を載せる位置で落ち着いた。
 春がやっと来たか来ないかのこの季節。まだ子供の体温を持っているイルカは暖かくて心地良かった。時折ひやりとする風が二人の横を過ぎていくが、それが全く気にならないほどにぬくまっていた。
「明日で最後だな」
 イルカがあんまり静かだから、カカシはきっかけを与えるつもりで話しかけた。
 肩にあるイルカの指に力が入った。
「センセー、ホントに今までありがとう。俺最初の頃感じ悪かっただろ。悪いことしてるってわかってたけど、でも正直センセーにむかついたのも本当でさ……」
 イルカはカカシから顔が見えない位置にいることで安心しているのか素直な心情を吐露した。
「俺もうみのにはむかついてたからお互い様だな。まあ、黒板消し落としとかもろもろのべたないたずらを味わえたのは貴重だったし〜。だから許してやる」
「ええ、べたかなあ。結構俺的にはいけてたのに……」
 本気で残念がっている雰囲気が伺えて、カカシは苦笑した。
 なんだかんだ言ってもまだまだ子供だ。何となく教師としての自覚が芽生えているカカシは丁度いい機会だから言っておくことにした。
「明日他の奴らは卒業だけど、うみのはこれからだからな。お前、中忍になりたいんだろ?」
 ぴく、とイルカの体が強ばるのが伝わってきた。
 触れるべきではない傷跡なのかもしれない。もしもイルカがこのまま忍をやめて一般の職種を選ぶならそれもいいだろう。見るに堪えない過去は封印してしまえばいい。
 だが、忍でい続けるのなら話は別だ。きちんと向き合っておかないと、イルカは先に進むことなどできない。
「あのな、俺はうみのより少し長く生きてるし、うみのより忍としての経験も積んでいる。だから同じ道で生きる人間の言葉として聞いて欲しいんだけどな」
 カカシは柄にもなく緊張して一呼吸おいた。
「もし、うみのがこれからも忍として生きる道を選ぶのなら、お前が今までに経験したことよりももっと辛い目にあうことがある。仲間がたくさん死ぬだろうし、死なせてしまうようなこともある。もちろん自分が死にそうになる局面だってある。その一つ一つのことをすべて受け止めてそれでも忍でありたいのなら、いちいち止まっていることはできない。進むしかないんだ。立ち止まることが許されるのはせいぜい下忍までだ。わかってるよな。うみのが中忍になりたいなら、今のままじゃ駄目なんだ」
 少し固い声でカカシは言い切った。
 沈黙が重く降りる。
 返事をくれないイルカに、カカシは背中にじわりと嫌な汗が伝うのがわかった。
「うみの……」
 不意に、イルカはまたぎゅうとしがみついてきた。
 口布をしていなければイルカの髪や頬がダイレクトに触れたことだろう。
 イルカは何を思ってか、鼻をうごめかして匂いをかいでいる。カカシは胸の中がざわざわとして落ち着かない。
「う、うみの、なんだ、いきなり……」
「はたけセンセーってば、酒臭くないね」
「そりゃあ、今日はたいして飲んでないからな。って言うよりうみのが飲んじまったんだろうが!」
「そっかあ」
 イルカは笑っているが、カカシは何となく焦っていた。昨日もきちんと風呂に入ったし、特に体臭に気を配ったことはないが忍者は無臭が基本だ。臭くはないはずだ。うん、臭くはない。オヤジ臭だとてまだまだ出るわけがない。まだ若い。
 思わずカカシの方も鼻をうごめかしていた。
 するとそこにイルカの体臭が飛び込んでくる。何とも言い難い、石鹸の香り・・・。
「センセー、どうしたの?」
 鼻の穴がひくひくしているのがばれたかと、カカシは頭にかーっと血が上る。口布をしているからわかるわけがないというのに。
 自分でも追いつかない感情の起伏に眩暈がしそうだ。
「いや、別に、その、そうだ! 空気がうまいなあと思ってな!」
 何とも苦しいいいわけに冷や汗が出そうだが、イルカからは小さな吐息のような声がした。
「そうだね。空気がうまいって、生きてる醍醐味だよね」
 イルカの声のトーンが下がる。
 そしてしばしの沈黙。ふっと息をついたイルカは静かに語り出した。
「俺の先生ってばさ、いっつも酒の匂いぷんぷんさせてるアル中だったんだ。オヤジで腹も出ててさ、でもって女好きで、いっつも追いかけ回して振られてた。それでも上忍かよって」
「…それは、なかなか凄いな」
 同僚の教師からイルカの担当上忍だった者の名は聞いたが、カカシの記憶にはない名だった。アル中が、上忍はまだしもガキ共の担任になってよかったのかとカカシも思う。
「だから俺たちみーんな先生のこと嫌いでさ、早くマンセル解散で中忍になりたくて仕方なかった。火影様にも訴えて、任務も頑張ったんだ。だからあの任務が、先生と一緒のマンセルとしての最後の任務だったんだ」
 あの任務・・・。
 イルカの仲間を奪った任務。
 詳しいことを聞きたいような、聞きたくないような、カカシの心の針は右に左に揺れる。
 聞いてイルカを深くを知りたいような気持ちもするが、悲しい記憶を思い出して欲しくはない。
 しかしそんなカカシの逡巡をよそにイルカは続けた。
「それまではいつもBクラスで、それも楽な任務ばっかりだったから、俺たちわかってなかった。先生は油断してなかったんだけど、俺たちが、なめてかかっちゃってさ」
 イルカは黙って聞いて欲しがっているような気がして、カカシは黙々と歩き続きていた。
「先生の言うことを聞いて引き返していたら、先生も、仲間も、死ななくてすんだ。先生一人だけなら逃げられるチャンスが一回だけあったんだ。その時絶対先生は逃げると思ってたんだ俺。だって俺たち先生のこと散々馬鹿にしてたし、先生はいつもへらへら笑ってたし」
 ごくりとイルカの喉が鳴る。
「でも、先生は、逃げなかった。俺たちのこと最後までかばって、ひどい、死に方をしたんだ」
 短くまとめたイルカの言葉には万感の思いがこもっているようだった。
 ひどい、と一言で言うには言い切れない、だがいくつ言葉を重ねても足りない、そんな死に方をしたのだろう。カカシも思い出す。亡くした仲間達の顔。
「はたけセンセー、前に俺に言ったよね」
「ん? なんだ?」
「人の気持ちはわからないって」
「ああ……あの時は、悪かったな。言い過ぎたと思っている」
 カカシの謝罪にイルカは慌てて言い募る。
「違うよ。俺だって勝手なことばかり言って、ごめんなさい。俺も、本当は、人の気持ちなんてわからないんだ。ただ、わかりたいって、本当に、わかりたいって思うだけなんだ。先生の気持ちなんてこれっぽっちも考えたことなかった。先生が死ぬ時まで、死んじゃった今でもわかっていないよ。どうして、俺たちのことかばったんだろうとか、憎たらしくなかったのかなとか、そんなことばっかりで、わからないんだ。ずっとこれからもわからないけど、わかりたいってずーっと思う」
 必死なイルカの心情は真っ直ぐすぎて、カカシはせつなかった。
 わかりたいと思うイルカの気持ちは切実で、カカシが鼻で笑っていいようなものではなかった。人の気持ちは確かにわからないだろうが、わかりたいと思って気持ちを傾けるのと、最初からわかろうとしないのでは大きく違う。
「うみのは、どうして忍をやめなかったんだ? 正直、怖くないのか?」
 溜息のような声が出た。吐く息は少しだけ白い。
「怖い時も、ある。でも先生を死なせちゃったから、俺は忍をやめたら駄目なんだ。俺が、一番先生に迷惑かけたから」
 耳の近くで語られるイルカの声は柔らかく、そして少し悲しい。
 カカシはイルカのことを励ましたくて気を引き立てるように口にした。
「でもな、うみのの先生はきっとうみののことが一番好きだったと思う。ほら、手のかかる奴ほどかわいいからな。俺も、うみののことが、かわいい。クラスで一等好きだ。大好きだからな」
 大好きだ。
 と言った途端にカカシはぴたりと足を止めた。
 腹の奥からもやもやっとしたものがむくむくと沸き上がり、全身を一気に発熱状態にした。
 なんだ。なんだ。これはなんだ?
「よせよセンセー照れるじゃん!」
 ばしんと勢いよく背中を叩かれて、カカシは狼狽から救われた。
 もういいよ、とイルカはカカシの背から降りてしまう。離れたぬくもりが惜しくて、イルカの右手を掴んでいた。
「何? もう俺大丈夫だから一人で帰るよ」
 イルカはいつも通りの笑顔でそっとカカシの手を離そうとする。温かな子供の手をカカシは強く掴む。
「うみの、俺、お前の……お前らの担任になれて、よかった。うみのと知り合えて、よかったと思う」
 思いがけず頼りなげな声になってしまった。イルカはなんとなく不審そうに首をかしげるが、今どうしても、伝えたかった。
 本当に、人の心はわからない。だがカカシは今のイルカの気持ちが知りたかった。
「うみのは、俺が担任で、よかったか……?」
「そーだなー」
 イルカはにんまりとほくそ笑む。とても意地の悪い答えが返りそうでカカシは覚悟を決める。
「言ってくれ。俺は教師として」
「ごーかくに決まってるだろ〜?」
 イルカの笑顔がじんわりとカカシの胸の奥に広がる。鼻の傷をかいたカカシは頭の後ろに両手を組んでにしし、と笑った。
「俺も、はたけセンセーのこと好きだぜ。いいセンセーだと思う」
「ホントか!?」
「ほんとほんと。大マジ」
 カカシはその瞬間全開の笑顔になった。
 その勢いで思わずイルカのことを抱きしめていた。
 柔らかな、温かな、かたまり。触れていると、心の奥から後から後から止めどなく溢れるこの気持ちは、何だろう? 知っているけれど、とても気恥ずかしい気持ち。これは、この気持ちは。
「気持ち悪ぃなセンセー! 離せよ〜」
 イルカにぐいぐいと押されて、カカシは身を引きはがされた。イルカは口を突き出して睨んでいた。
「酔っぱらってるだろ? 明日頼むぜセンセー」
「お、おう! まかせろ!」
 カカシが握り拳を作ると、笑ってイルカは背を向けた。
「じゃな〜」
 大きく手を振って去っていく背中。
 その小さな背を抱きしめたいと思うのは、いけないことだろうか・・・?
「あ〜マイッタ」
 カカシは火照る頬を手のひらであおぎながら、空を見た。
 いつの間にやらぽかりと半月が浮かんでいた。







 カカシは教室の前方に設置された長机のところに座り、いつものように眠そうな目で生徒たちをチェックしていた。
 机の上には資料として今朝渡された生徒たちのデータがある。
 本当はカカシは試験管をする予定ではなかったが、やる気を出したカカシを火影が推薦した。
 上忍で暗部に所属でもあるということでサポートはつかなかった。見届け人として、親しくしてくれた老教師がいるだけだ。
 十九名中、試験を受けなかったのは7名。忍ではない道を選んだ子供たちだ。退学という扱いになる。他は皆挑んだ。
 試験は順当に進んだ。
 教室の後ろに座るイルカも心配そうな顔が徐々にほころび、残り一名となった。
 その一名。
 イルカの友人の一人だ。もう一人はとうに試験を終え、合格点を与えた。
 二人共が授業を真面目にこなし、基本的な術も身につけて、まずは問題なく合格だと思っていた。合格のはずだった。昨日までは……。
 だが……。
 その生徒は5人に分身して見せた。
 テーマは分身か、変化か、ある程度自由な課題にしていた。
 カカシは自分の目で確かめたことを確認したくて、見届け人の教師を振り返った。
 老教師の普段は穏やかな目は細められて、そこには何ともいえない悲しげな色があった。カカシをちらと見てかすかに頷く。
 確認するまでもないことだ。現役の暗部のカカシの目がここでは誰より正確なのだから。
 分身をといた生徒は固い顔をしてカカシを見ている。すでに試験を終えた生徒達、イルカも、固唾を飲んでカカシのこと見ている。教室中の目がすべてカカシに注がれる。
 イルカの黒々とした目が、真っ直ぐ、カカシを見ている……。
 分かり切っていることをこんなにも逡巡することはきっとこれから先はないだろう。
 思いを断ち切るように立ち上がったカカシは、咳払いをひとつして、口を開いた。





「センセー!」
 追いかけてくる音。すぐに追いつかれる。
 このまま駆けだして、逃げたい気持ちをカカシはぐっと堪える。
 さまざまな教室のある棟から、職員室や訓練場がある棟に向かう渡り廊下のところでカカシはうしろからイルカに体当たりされた。
「センセー、待てよ。なんで、なんで、あいつだけ不合格なんだよっ」
 気のないカカシの体を華奢な手が無理矢理振り向かせて、揺する。
「あいつ、5人だぜ? 5人に分身したのに、どうしてだよ! 絶対合格じゃん! なんで不合格なんだよ!」
 イルカは両目を尖らせてるくせに潤ませて、懸命にカカシに訴えかけてくる。
 すがりつくイルカに負けないように、カカシは両手をきつく握りしめた。
「あいつが5人に分身したことはすごい。けどな、お前あいつの本体がどれかわかったよな?」
「わかったよそりゃあ! 左端にいたのだろ? そんなことじゃなくて……」
「だから! だから……、不合格なんだ」
 イルカの肩を押さえてカカシは真っ直ぐ告げた。
 ひたむきなイルカの目から目を逸らすなと自分を叱咤して言葉を続ける。
「分身は何のためにやるんだ? 敵を攪乱する為だな? それが最初から本体がどれかわかっていたら意味がない。まイルカにまで見抜かれてどうするんだ」
「そんなことまだ下忍にもなっていなんだからしょうがないだろっ。これからもっと修行を積めば」
「修行を積んでも、あいつには意味がない」
 カカシの言葉にイルカの手がぴたりと止まる。
 カカシを見上げる目には問いかける色がありありと浮かんでいた。
「あいつのチャクラの量は、5人の分身までが限度なんだ。あれ以上に分身はできないし、分身した体を操ることもできない。チャクラを、基本的に錬ることができない。それは、先天的なもので、どうすることも、できないんだ」
 イルカが次に言うであろうことは想像がつくから、カカシは続いてたたみかけた。
「体術で、忍として生きていく選択もある。俺の仲間でも体術に力をいれている奴がいる。 でもな、あいつはもう十六だ。これから下忍になって、体術のスペシャリストを目指すには、遅いんだ」
「遅くなんて……!」
 イルカの悲しい声を聞きたくなくて、カカシは頭を振った。
「あいつのチャクラのことを見抜けずにここまでこさせたのは俺を含めて今まで指導した教師の責任だ。それは本当に悪かったと思う。でもな、もうここまできてしまったんだ。今から下忍になって、体術を極めるほどの気持ちを保つことができるのか? 酷なことを言うようだが、本当に忍になりたかったなら、どうして、こんなぎりぎりになるまでに頑張れなかったんだ? そんな奴が、これから苦しい修行に耐えていけるのか? 俺は、正直言って、無理だと思う」
「無理じゃない! センセーに何がわかるんだよ。あいつの可能性を否定するな!」
 イルカの拳が振り上げられて、カカシの胸を打つ。
「あいつは別にさぼってたわけじゃない。父ちゃんしかいなくて、任務で忙しいからちっさい弟や妹の面倒見たりして大変なんだ」
 イルカの表情はくやしさゆえか歪んで、顔は真っ赤になっていた。
 一回、二回、三回、と打たれても痛くなんてない。イルカのほうがよほど痛そうだ。
「なあ、頑張ったんだからいいだろ? 下忍にしてやってくれよ。忍になってそれで死んでもいいだろ。それで後悔なんてしないよっ!」
「うみの!」
 カカシは咄嗟にイルカの手をおさえていた。拳を強く握る。イルカの目の端からは涙が滲んでいた。カカシはきっと強ばった顔をしているのだろう。イルカは息を止めてカカシを見た。
「お前は、先生を死なせたことを悔やんでるんじゃなかったのか? 先生は忍として死んでそれで本望だったって思うのか?」
 イルカの顔は固まる。
「お前のマンセルの仲間だって、下忍で死んで、それで、よかったのか……?」
 卑怯な言葉で追いつめている自覚はある。イルカにとって身動きがとれなくなることで黙らせようとしている。イルカからこれ以上拒絶めいた言葉を聞きたくないのはカカシのわがままだ。それは、わかっている。わかっていて、黙らせたかった。
 イルカの手はすとんと下り、青ざめた唇で俯いた。
「どうしても、無理、なんですか……?」
 イルカは聞いてきた。最後の望みをかけるようなか細い声。
 カカシはかなりの気力を使って、かたい声でこたえた。
「駄目だ。不合格だ」
 途端にはねられるカカシの手。一歩身を引いたイルカはカカシを親の敵のように睨みあげて叫んだ。
「だいっきらいだ! センセーなんか、だいきらいだ!! いなくなっちまえっ」
 身を翻したイルカは駆け去っていった。
 イルカに叫ばれた瞬間、カカシは無意識に胸に拳をあてていた。
 ズキン、と痛んだのだ。
 ずきん、と・・・。




 

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