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 カカシがうとうとした頃を見計らってその腕の中からするりと逃れたイルカは、ベッドの下に散らばった衣服をさっと着込んで、寝室をあとにしようとした。
「ど〜こ行くの、イルカ」
 ぎくりとして立ち止まる。おそるおそる振り返れば、しっかりと目を開けたカカシが片肘ついてイルカのことを見ていた、薄明かりでもその目が存外鋭いことがわかって、イルカはごくりと喉を鳴らした。
「明日、朝早い任務なんで、帰ります」
「なんで? ここから行けばいいじゃない」
「いえ。準備も、あるんで」
「準備って何?」
「それは」
 たたみかけるように言われて、イルカは俯いてしまう。カカシはイルカの下手ないいわけなんて見抜いている。それをあえて聞いてくるのだ。その意地の悪さに腹がたつ。だからそのまま無言で身を翻した。
「ちょっと、ごめん。待ってよ」
 素早く動いたカカシはイルカのことをドアのところで捕まえた。そのまま、イルカを背中から裸の胸に抱きしめる。
「ごめん。ごめんなさい。怒らないで」
 言いつつ、イルカの頬にちゅっと口づけてなだめようとする。ぼんやりと五十音表の貼られたドアを見ていたイルカだが、女子供にするようなやり方が気に障って、乱暴にカカシをふりほどいた。
「別に、怒ってなんかいません。怒っているのははたけ上忍でしょ。ともに寝ていたいならそういう人を選んでください」
「あーもう、そういう意地悪やめてよ。はたけ上忍とか言っちゃうし。俺傷つくなー」
 銀の髪に手を差し入れて、カカシはすねたようにして唇を尖らせる。ちらりとイルカを伺う視線に媚びが見えるようで、イルカはますます腹立たしくなる。
「とにかく、本当に帰りますから」
「え〜」
 カカシはぐりぐりと頭を押しつけてくる。
「なーんで泊まってくれないわけ? 俺のこと好きじゃないの? 体だけの関係なの? イルカってそんな奴?」
 たたみかけるように言われて、イルカはカカシのことをどついて離れた。
「うるさーい! とにかく帰ります。本当に明日早いんですから」
 イルカの本気を感じたのか、カカシは渋々ながらもパジャマの下を履いて見送りに玄関まで出てきた。
 ほどよく冷房がきいた寝室から出ると、じっとりと汗が噴き出てくる。9月になり、秋の気配を漂わせていたはずなのに、ここ数日また熱帯夜が続いていた。
「じゃあ、任務気をつけてね」
「そう思うなら任務の前日にさからないでくださいよ」
「先に言ってよ。そしたら一回でやめたのに」
 カカシは反省の色もなくしゃあしゃあと口にする。溜息をついたイルカは背をむけようとしたが、優しく頬を包まれて、カカシのきれいな顔が近づくと、そっと口づけられていた。ついさっきまで熱く強く触れた唇が今はこんなにも優しい。なんとなく体の力が抜けて、イルカはカカシに抱きしめられていた。
「暑いです…」
「うん。でも俺はイルカの匂いがするからこういうのもいいな」
 カカシの鼻先はイルカの髪にもぐりこんでくる。抱き合って、シャワーも浴びずに帰るのだから、臭いのではないかと思うのに、カカシは鼻をうごめかしている。
 カカシと思いが通い合ってからそんなに経っていないのに、カカシはイルカの匂いをもうその身に染みこませ始めている気がする。
 あんなに潔癖だったカカシが。












 木の葉の夏祭りの夜にイルカとやっと心が通い合ったと思った。
 生真面目なイルカはこの世界でのカカシのことを、もう一人のカカシの存在の代わりにしようとしているのではないかと、罪悪めいた気持ちを抱いていたようだ。もう一人のカカシを思うなら、自分のことを好きになるしかないのにイルカの思考がカカシにはいまいちわからなかった。だが、結局は受け入れてくれて、生身で抱いた愛しい者の体をカカシは貪った。己の性器がとろけたイルカの中に押し入っていく様はひどく淫らで、あまりの気持ちよさに脳が焼き切れそうだった。イルカの下肢はべとべとで、汗の匂いと精液の匂いが鼻についたが、沸騰した頭にはそれさえも嫌悪はわかなかった。揺さぶって、登り詰めて、出して、イルカにしがみつかれた時にはふつふつと体の奥から沸き上がるぬくもりに、目に見えない、見ることなんてできないはずの、愛、なんて言葉がふと浮かんだ。
 これでもうイルカとは恋人になれたと何の疑いもせずに安堵したのに。
 イルカが帰ったあとの部屋で、カカシはベッドの上に寝ころぶ。
 イルカが明日任務があることは知っていた。Bの下くらいのレベルだが、ただ、朝が早い。そして集合場所もカカシの家からのほうが近い。だから、火影の執務室から出てきたイルカを掴まえて、家に連れてきた。少し強引にイルカと体をつなげて、快楽に溶かして、そのまま抱き込んで眠ってしまえ、と思っていたのに。
 いつまでも眠らないイルカ。カカシのほうがうとうととしてしまい、深く眠りそうになった時、イルカの重みが消えた。
 今夜こそは、と思っていたのに、イルカは頑なな態度で、帰ってしまった。
 イルカがカカシのことを好きなのは疑うべくもないと思うが、けれどイルカは、一度もカカシの隣で眠ってくれないのだ。セックスをせずに泊まる時も、せめて隣に寝ようと言うのに、眠るときは一人がいいと、絶対に頷かない。いくさ場ではいつも傍らで眠っていたのに。
「でも、俺のこと、好きだよね……」
 虚空への問いかけは我ながら頼りなげで、カカシは落ちこんだ。












 本当に病院も病人も嫌いなのだ。それはいくさ場の匂いが染みついた者にとっての根元的な嫌悪かもしれない。死が連想されるような直裁的なものは好きになれない。だがイルカに関してなりふりかまっている余裕はないから、カカシは嫌々ながらもイルカの友人チハヤを訪ねた。
「お久しぶりですね。イルカと、何かあったんですか?」
 リハビリ中の合間、廊下のベンチで待っていたカカシの隣に、気をつかってか端のほうに座ったチハヤは開口一番口にした。人の良さそうな坊主頭でにこにこしている。カカシが治療を施したころを考えればすっかり普通の顔色だ。
 だが顔を見ているといくさ場でのことが連想されて、カカシはへたな咳払いとともに顔をそむけた。
「あんたはさ、俺とイルカが付き合っていること、知ってるよね」
「はあ、まあそうですね」
「イルカ、何か言ってない?」
「何かって、何をですか?」
 我ながららしくない。直接的に聞かなければならないのに、聞きたくない回答が戻ってくる可能性を考えると怖いのだ。
「喧嘩でも、したんですか?」
「いや。いたって順調」
「俺、イルカに何も言ってませんよ?」
 何も、か、とカカシは脱力する。イルカと再会した当初、少しでもイルカを喜ばせたくて、イルカが気に入ることをしたくて、このイルカの親友に恥を忍んでリサーチしたのだ。イルカのことがそれだけ好きだったということだ。
「そういやあさ、あんたなんで俺にいろんなこと教えてくれたわけ? あのいくさ場で俺のイルカに対する仕打ち知ってたでしょ」
「はたけ上忍の嫌なところをいくさ場で見ていたから逆に信用できたんですよ」
「何それ」
 カカシが低い声で問い返すと、チハヤはカカシのほうを見ずに笑った。
「あんなに感じが悪くて下の者に対して乱暴なはたけ上忍が俺に対して頭下げたじゃないですか。イルカのこと、知りたいって。だから、イルカのこと本当に好きなんだなって思えたから、教えました」
 なんだかすべてわかってます的なものいいが気に入らない。だからカカシは少し意地の悪い気持ちになった。
「またイルカをいたぶるための手段だったかもしれないじゃない。あんたにもらった情報と俺の努力のおかげでイルカは目出度く恋人になったけど、これから手ひどくイルカのこと傷つけるかもしれないよ」
 言いながら、それはあり得ないことだとカカシ自身が一番わかっている。イルカを手に入れてからは臆病になって、イルカの態度や言葉に一喜一憂している。
 己のガキくさい行動に自己嫌悪が沸き、カカシは顔をしかめて立ち上がった。
「時間とらせて悪かったな」
 逃げるように去ろうとしたカカシをチハヤは呼び止めた。
「あの、はたけ上忍、俺、もう死ぬんだって覚悟決めた時に思ったんですけど」
 真っ直ぐ対峙して、カカシは初めてチハヤの目をきちんと見つめた気がした。イルカと同じ真っ黒な瞳には誠実な光が宿っていた。
「好きな相手だからこそ言えないこととか、ためらうことってあると思います。でも、言わなければ、いけないと思うんです。考え込むより、相手の言葉と向き合うことが大事だと、思います。相手の言葉こそ、信じなければいけないって、思います」
 生意気なこと言ってすみません、とチハヤは言葉を結んだ。
 言われるまでもなく、カカシのほうこそよほど長い間死線をくぐり抜けてきた。
 告げずに後悔したことなど数え切れない。告げることの大切さ、難しさなど知っている。知っているが、目の前にいる男は刹那に生きてきたカカシとは違う種類の恐怖に耐えていたのだろう。じわじわと体を蝕む恐怖はきっと一瞬で生死を決することよりも怖いはずだ。そんな中で悟ったことならそれはきっとひとつの真実には違いない。
 カカシは肩をすくめた。
「ご忠告ど〜も。でも俺やっぱあんたのこと好きにはなれないや」
 苦笑したチハヤは、本当にありがとうございました、と深く頭を下げた。













「うっわマジかよ。あの人お前ぇのとこに来たのかよ」
 イルカは頭を抱えた。
 あと数日でチハヤは退院して、通院でリハビリに励むことになった。荷物の整理でも手伝おうかと訪れたイルカだがあらかた終わっていると言われ、地下の食堂に向かった。
 ゆっくりとではあるが、松葉杖もなしに今のチハヤは歩くことができる。すさまじい回復力に、イルカは問いかけたものだ。忍をやめる必要はないのではないかと。だがチハヤは潔く首を横に振った。もう決めたことだから、と。
 それでイルカにも踏ん切りがついた。生きていく道は違えど、友人には変わりがない。
「イルカが何か言ってないかって、なんか悩んでいるみたいだったぞ」
「で、あの人に何も言ってないだろうな?」
「言うことがあれば教えてあげたかったけど、あいにくと何も知らないからな」
 カカシの味方宣言をしているチハヤは悪びれずに舌を出した。
 イルカは今の今までカカシの気持ちを正直侮っていた。思いは通じている。セックスもしているのだ。一緒に眠らないことや、泊まらないことを思い悩むとは思っていなかった。
「いくさ場で嫌な目にあった仕返しかって考えもあるけど、イルカに限ってそれはないしな」
 チハヤの発言にイルカは笑えなかった。そもそも今回のことの発端は多分いくさ場でのことにあるのだから、無意識にも意趣返しをしようという気持ちが働いているのかもしれないと、言えなくもないではないか。
「なんだよイルカ。お前が仕返しするような奴なんて、ホント、これっぽっちも思ってねえぞ?」
 慌てて否定するチハヤにイルカは苦笑した。
「チハヤは優しいな。お前ぇきっと元々忍にむいてなかったんだよ」
 面と向かって友人を褒めることが気恥ずかしくて、イルカは目の前のドンブリをかっこんだ。
 チハヤもうどんをすすり、二人はしばらくそれぞれの食事に没頭していたが、箸を置いたチハヤが真面目な顔でいきなり切り出した。
「俺は、優しいって気づいてくれる人間のほうが優しいと思う」
「なんだよいきなり」
「優しいって思ってくれる相手がいなかったら誰も優しくなんてなれないだろ」
「なんだよ、難しいこと言うなよ。チハヤは優しいじゃねえか」
 お茶をすすって首をかしげたイルカにチハヤはゆるゆると首を振った。
「だからさ、向き合っていける相手がいるってすごいことだと思うんだよな。イルカは、あの人を見つけたんだろ? 変な隠し事しないで何でも話してみろ」
 チハヤは、柔らかく笑った。
 チハヤの言葉の真意がイルカにはよくわからなかったが、確実に言えるのは、このまま黙っていても何もいいことがないということだ。
 イルカはその日の夜に意を決してカカシを向かい入れた。
 何となく当たり前のようになった手順で食事のあと供に風呂に入って居間でビールを飲むところまでこぎ着けた。
 結局カカシはあのあとビールを沢山飲めるようになるべく精進したが、成果は芳しくない。やはり一本でぽーとなってしまう。けれど糠漬けは大好きで、イルカはビール、カカシはお茶を手にぽりぽりと糠漬けをかじっていた。
 時計の音とかじる音がやけに響く。なんとなく正座の体勢で卓袱台はさんで向かい合う成人男子二人。互いがちらりちらりと相手の出方をうかがい、言いたいことも言えずにたまに視線をからめては逸らす。いい加減耐えられなくなったのは二人同時だった。
「あの!」
「あのさ!」
 顔を上げた。声がかぶる。
 先に続けたのはイルカだ。卓袱台をどけてカカシににじり寄る。
「あの、カカシさん、俺…、実は」
「な、何も言うな!」
 思わぬことに、カカシは両手を前に出して待ったをかけた。ぎゅっと目もつぶってしまう。
「ちょっと、カカシさん、俺の話」
「いいから。別に泊まったりしなくてもいいから、俺別れないから」
 カカシはまくし立てた。大声のあとの静寂が、耳に痛い。
 別れる、と言う言葉がイルカの体から力を奪った。緊張に強ばっていた体が弛緩していくのがわかる。
 口元もゆるまり、笑いが漏れていた。
「そんな、何言ってるんですか。別れたりしませんよ。好きなのに」
 好き、とぽろりと口をついてでた言葉にカカシは激しく反応した。
 畳に置かれたイルカの手に手を重ねるときつく握りしめてきた。
「今好きって言った? 俺のこと好きって」
「痛いですカカシさん」
「好きって」
「言いましたよ。それが」
 カカシの白い顔が薄く染まっていくさまが見えた。何か言おうとして口を開けて目を見開いて、そのまま息を吐き出しながら、イルカの腰に抱きついてきた。
「カカシさん?」
「よかった。初めて聞けた」
 決して離すまいというかのような力。背中にまわった手がイルカを拘束する。
「俺、言ってませんでしたっけ」
「言ってない。もう一人のカカシのことは散々好きだって言っても俺には言ってくれてなかった」
 拗ねたカカシがいじましくて、イルカは柔らかな髪にそっと触れた。
「ご、ごめんなさい。でも俺、好きな人とじゃなきゃ、男となんて、できないから」
「わかってるよ。でも言って欲しいってこと、あるだろ」
「すいません」
 イルカの謝罪にカカシの腕の力は増す。
 こんなにそばにいて、セックスさえしていたのに肝心なところが中途半端だったということか。
 イルカは屈んでカカシの髪にそっと口づけた。



 なんとなく甘い雰囲気になって、そのまま皓々と明かりのついた部屋で致してしまった。カカシに申し訳なかったという気持ちが先立ち、望まれるまま下肢に顔を埋めたらものすごく喜ばれた。ゴムをしなくていいのかと確認したが、そのままで、と言われ舌を絡めた。色違いの目がぼんやりと快楽に潤んでいた光景はイルカをも興奮させた。
 とろけそうな笑顔というものを間近に見ながら、イルカはカカシと裸のまま横向きで寝ころんでいた。
 しかしイルカは内心焦っている。肝心なことを話していないではないか。
「今日はこのまま眠ろうよ。明日は任務ないんでしょ」
 ご満悦なカカシの表情を曇らせることになるのは嫌なのだが、だが、ここで言わなければ同じことを繰り返してしまう。
 イルカは何となくチハヤの顔を浮かべて、覚悟を決めた。
「カカシさん、あの、俺の話、聞いてくれますか」
「ん〜。なあに」
 カカシはイルカの肩の二の腕の盛り上がりのところを撫でている。慰撫するような手つきが心地いい。本当はずっとこうしていたい。
「あの、あのですね……」
 一度目をつむって、真っ直ぐに見つめ返した。
「俺がカカシさんの隣で眠らない理由なんですけど」
 ぴたりとカカシの手が止まる。きっとイルカからの告白に舞い上がり、互いのひっかかりであったことを忘れていたのだろう。何となく笑顔が引きつった気がした。
「……俺、カカシさんの横だと、眠れないんです」

 

 

 










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