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 因果応報とはこのことかとカカシは思うのだ。
 やはり天に唾吐けば自分に戻ってくるのだと殊勝にも反省したりする。
 溜息ばかりついて肩が落ちているカカシに、同行の者はいい加減にしろと背中をどついてきた。
「辛気くさい溜息ばかりつくな。せっかく最後の任務が気持ちよく終わったのに胸くそわるいだろ」
 馴染みの、暗部の任務では長期にわたって行動を共にした犬面の、がたいのいい男は、タキという名だ。暗部ではないから今はもう素顔を晒している。その頑固そうな四角い顔がカカシを睨んでいる。
 月もない今夜、肌寒い風が吹くなかを二人Sランクの任務に赴き、帰路についていた。親子ほど年は離れているが気心が知れたタキとはよく一緒に任務に着いた。それも今夜で終わり。五十に手が届こうかというタキは現役を引退してアカデミーで後進の指導に当たるという。よほど人手が足りなくならない限りは前線に出ることはない。それが許されたのだから、九尾の痛手から里は本格的に復旧を遂げたといってもいいのだろう。
 結構な力で背中を押されてもいまいちの反応しか返さないカカシをいぶかったのか、タキは顔をのぞき込んできた。
「どうした? おまえと任務につくのもこれが最後だからな、悩みがあるなら話くらい聞いてやるぞ」
 森の中をとぼとぼと歩いていたカカシはちらりとタキに視線を送った。
「イルカ…」
「イルカ? うみののガキか?」
「そ。俺今イルカと付き合ってるの。言っておくけど道具とかじゃないよ。ちゃんとセックスできたし、あいつに、惚れてる」
 タキは急に立ち止まる。カカシが胡散臭そうに振り向けば、ぱしん、と額を叩いて豪快な笑顔を見せた。
「そうか。お前がイルカとなあ。そうかそうか。まあ、子孫繁栄からいけばうみのには悪いが、俺は嬉しいぞ」
「なんだよ。その意外ですっ、てなリアクションは。あのいくさ場で言ってただろ。イルカのことがいいって」
「だからあれ以降の任務では大人しかったのか? 専用の奴いなかったじゃねえか」
「そ〜だよ。イルカとじゃないと気持ち良くなくなっちゃったから」
 タキの思わぬ祝辞が照れくさくもあるが少し嬉しくもある。タキとは外回りの期間、一番長く行動を共にした。仲間という枠から少し超えた感情を持つくらいにはなっていた。
「じゃあ今が一番いい時だろうが。なんだってそんなしけた面してやがる」
 追いついてきたタキはカカシのことを小突いてきた。元来世話焼きなのだろう。軽い口調に紛らせながらも、タキはタキなりに心配してくれているに違いない。
 イルカのことを知っているのだから、確かに聞いてもらうには適材と言える。
「上手くいってるけどさあ、イルカの奴、俺の横だと眠れないんだってさ。あー、やんなっちまう」
「寝れない? お前らやるこたやってるんだろ」
「やることはやって、普通なら恋人同士そのまま一緒に眠るもんでしょ。イルカはそうしたくても、俺が横にいると駄目なんだってー」
 思いつめたイルカの目の色。緊張に強ばっていた顔。
 ごめんなさい、と言われたことが何より打ちのめす。
 カカシのせいではないと必死になって訴えて、きっと時がたてば治るものだと言っていた。
「いくさ場からそうだったんだってさ。俺、最初イルカにひどいことしちゃったからさ、多分、そのショックだと思う」
 聞けばいくさ場でカカシのテントで寝起きしていた頃もどうしても眠れなかったという。あの頃イルカの顔色が優れなかったことはわかっていたが、それが全部自分のせいだったかと思うと、情けないやら不甲斐ないやらで、イルカに顔向けが出来なかった。
 イルカは、カカシのせいではない、あくまでも原因は不明だと言った。ただ、カカシのそばで眠れないことはそれは事実だから、と小さな声で結んだ。眠らずに朝まで過ごしてもよかったが、そうすると昼間の生活に支障を来してしまうから、一緒に眠れなかった、と、本当にすまなそうに頭を下げられた。
 イルカは悪くない。悪くない、俺のせいだ、と笑ってやりたかったのに、動揺する心のまま、イルカの家を去った。ごめん、とかすかに呟くだけで精一杯だった。
 翌日急な任務に借り出され、それからいくつか立て続けに任務をこなして、もう二週間ほどイルカに会っていない。
「なんかもう自分がヤになってさ〜」
「まあそう責めるな。おまえのせいじゃあないかもしれないだろうが。時間が解決してくれるたぐいのものだろう」
「それっていつなんだよ」
 慰めにもならないタキの言葉に、カカシは背中に背負った荷物が重みをました気がした。
 しばらくそのまま無言で歩いていたら森を抜ける頃に、タキがまた声をかけてきた。
「誰かを好きになるってえのは面倒なことだな、カカシよ」
 カカシと並んでしみじみと、呟く。
 本当にそうだ。誰も好きにならなければもっと生きていくことは楽だろう。楽で、そして少し色褪せたものなのかもしれない。それでも良かったのに、目に鮮やかな色を知ってしまった今はそんな味気ない頃には戻れない。
「でもなあ、俺もまた嫁さんでも欲しくなったなあ…」
 九尾の事件で家族を亡くした天涯孤独な男が柔らかく告げる。いい大人が、少年のように照れながら口にした言葉にカカシは驚いたが、からかいたくなった。
「見合いでもして、旦那に先立たれたおばさんのくの一でも見つければ? で、最初っから孫とかいてじじい呼ばわりされんの」
「それもいいな」
 あっさり頷かれてカカシは毒気が抜かれる。
 不意にタキはカカシの頭に大きな手を置いた。予期せぬことにカカシは目を見開く。思わず瞬きを繰り返してしまう。
 タキの手はカカシのぼさぼさの髪を乱暴にかき混ぜた。
「俺の娘が生きていたら十八になる。なんの手違いかカカシに惚れて結婚したいと言ったとする。以前のお前だったら絶対に許さなかった。今のお前なら、祝福してやる」
「そーゆーあり得ないこと言われても全然意味わかんないんだけどね〜」
 カカシはタキの手から逃れて足を早めた。
 遠回しな言い方には優しさが込められていた。だからカカシは気恥ずかしくて、顔を見ていられなかった。
 ただ無性にイルカに会いたいと思った。










「やっぱり言うんじゃなかった」
 本日何度目かのイルカの呟きにチハヤは大仰に溜息をついた。
「お前ね〜、もううざいから、どっか行け」
 ベッドの上で雑誌を読んでいたチハヤは冷たく言い放つ。今日は目出度くチハヤが退院して自宅に戻った。お祝いに酒類やつまみ持参でかけつけたイルカだったが、木の葉ビールやらサワーやら焼酎やらをがばがば飲んでも一向に酔えない。逆にますます頭が冴えていく気がする。それがどうしてかなど理由はわかっていた。
 カカシの隣で眠れない理由を正直に告げた。その時のカカシの衝撃を受けた顔が忘れられない。正直に驚きました、傷つきました、と瞳は伏せられ、口数少なくイルカの家から出て行った。
 ごめん、と謝られたような気がしたが、イルカが必死に謝る声は果たしてきちんと届いていたのだろうか。
「言っちまったもんは仕方ないだろうが。後悔先にたたず〜」
 茶化すチハヤに悪気はないのだろうが、今のイルカにとっては痛手でずんと重しが落ちてきたような錯覚に襲われる。事実、肩が下がり、口はへの字になる。
 イルカが何も返さないから、チハヤは雑誌を置いてベッドから降りてきた。
「あのなあイルカ。そもそも何で眠れないんだよ。ぶっちゃけ、セックスして、しかもお前が受け身なんだろ? めちゃくちゃ疲れるじゃねえか。普通寝ちまうだろうが」
「俺も、そう思ったから、最初はたいして心配してなかったんだよ。けどよお、寝れねえんだから仕方ないだろ。あの人がどんなにねちっこく責めてきても、2時間みっちりやられても、ちっとも眠くないんだよ! 逆に目が冴えちまうくらいなんだよ!」
 イルカはテーブルに顔を伏せる。
「おめえ、今何気なくすげえこと言ったな…」
 テーブルに顎を載せたままイルカは全身から力が抜けていくような溜息をついた。
「せっかくさあ、カカシさんは何も聞かなくていいって感じだったのに、先走って言っちまって、俺、間違ったんだなあ」
 結構いいムードで抱き合い、完全に両思いになれた二人だったのにまた振り出しに戻ってしまったような気持ちがする。
 チハヤは少しぬるくなったビールを一口含んで、まずい、と顔をしかめた。
 そのしかめつらのまま聞いてきた。
「いくさ場でそんなにひどいことされたのか? 確かにあの時のはたけ上忍は超嫌な奴だったけど、今は別人みたいに感じいいじゃねえか。イルカのこと大事にしてくれてるみたいだし。なんで眠れねえんだよ。何がそんなにショックだったんだよ」
 改めて問われて、イルカも考える。
 本当に、何が、ショックだったのだろう。
 いくさ場で一番ショックだったのは、ひどい扱いを受けて、思い出のカカシまで汚された気がしたことだ。だがそれはこちらのカカシとあちらのカカシを混同したイルカも悪かった。二人は同じだが別人で、別人なら違うのは当たり前なのにもう一人のカカシと同じであることを望んだこと自体が間違いだった。最後には、ここでのカカシはあのカカシと別な人間であることを実感して、別れた。
 それで終わると思っていたのに、思いがけずカカシと思いが通じ合ってしまった。だが同じラインを行って戻ってを繰り返しているようだ。
「俺、あの人に、嫌われちゃったかな」
 真面目に呟けば、チハヤは失礼にも吹き出した。
 そのままげらげらと笑う。わけもわからず、唖然としていると、目尻に涙を滲ませたチハヤがごめんごめんと手を合わせた。
「なんだよ、人が真面目に悩んでいるってのに」
 イルカは口を尖らせた。
「いや、お前さ、いつの間にか、ホントにはたけ上忍のこと好きになってたんだな」
「ほ、本気だったら、悪ぃのかよ」
 ムキになってイルカが言い返すと、チハヤはまた笑った。
「違うって。良かったなって思ってる。マジで」
 その声がしみじみと柔らかかったからイルカは面食らった。咄嗟に憎まれ口を叩いてしまう。
「チハヤは、カカシさんの味方だからな、そりゃあ、良かっただろうさ」
「イルカの為に良かったってんだよ」
「どうして」
 チハヤは胡座を組んで俯いた。口元は笑んでいる。
「イルカはさ、結構、自分の中でためちゃうだろ? 多分思いやりなんだろうけど、少し物足りない時があってさ。もっと言えよ、甘えろよって思うこともある。でもきっといまさら俺相手にそういうのは無理だろうってこともわかってたからさ、友人一号としては寂しくも思ってたわけだ」
 チハヤの笑みが深くなる。
「はたけ上忍には思ったまま言ったりできるみたいだし、一緒にいて肩こらないだろ」
「チハヤといたって肩なんてこらねえよ」
「まあな」
 顔を上げたチハヤは笑顔のまま、目の奥は真剣にひたと見つめきた。
「眠れないって言ってよかったんだよ。イルカが言ったほうがいいって思って言ったことならそれでいーんだよ。長い付き合いになるんだから話せばいいじゃんとことん。いくさ場でのことはどうでもいいんだろ? 許せないとかそういうことはないんだろ?」
「許せないなんて、そんなこと、あるわけねーじゃん」
「じゃあ、今を大事にしろよって、ちょっとカッコいいな俺」
「ばーか…」
 イルカの顔はいつの間にやら自然と緩んで、自分でも頬が赤くなっているのがわかる。照れた表情を見られたくなくて、片手でごしごしと顔をこすった。
「まあ、安心してイルカはホモの道を突き進め。もし子供が欲しくなったら俺んとこのを養子にくれてやってもいいからな」
 最後に陽気に告げたチハヤのことは殴りつける。
 怒ったふりでも顔がゆるむ。脳裏に浮かぶのはカカシ。
 今無性にカカシに会いたかった。





 

 あの人が好きだった。大好きだった。それは間違いない。誓って言える。
 けれどこんなにも心をかき乱すのは、今この世界にいてくれるカカシだ。
 字が汚くて、ひらがなが怪しくて、ビールが飲めなくて、なすばかり食べて、少し甘えてくる、イルカと同じ場所に立っているカカシだ。
 いつの間にか今年も金木犀が薫る季節になった。
 イルカの住居がある、里の中心から離れた住宅街はそこかしこに金木犀が咲いている。人々の家の庭、公園などに咲いている。
 風に乗ってくる香りを吸い込み、弾む足取りでイルカが自宅への道を急いでいると、道の向こうに、佇む人がいた。
 一瞬のデジャブ。
 イルカがあの人と出会った場所に、塀の向こうに咲く小さな花弁を見あげているカカシがいた。
 あの人もあの時熱心に見上げていた。変な大人だと思ってイルカは急いで駆け抜けようとしたところを引き留められたのだった。
 今はゆっくりと近づく。カカシが声をかけやすいように、ゆっくりと、ゆっくりと、近づく。



「あのさ、この花、なんて名前なの?」



 どこかで聞いた台詞だ。
 イルカはカカシの目の前で止まると、笑いかけた。
「金木犀ですよ。カカシさん、そんなことも知らないんですか」
 イルカの揶揄にカカシはむっとなる。
「どうせ俺は色んなこと知らないよ。悪かったな」
 イルカは腹の奥からせり上がってくるものに動かされて、カカシに手を伸ばす。
「知らなくて、いいですよ。俺が、これからたくさん、教えてあげますから」
 カカシの体は少し埃っぽく、汗の臭いがした。きっとあの夜わかれてからずっと任務にでも赴いていたのだろう。イルカが背に回した手に力をこめようとしたら、いきなり突き放されて、肩を掴まれた。
 正面のカカシは憮然としていた。
「なーんで、先に言っちゃうかな〜。俺が言おうとしてたのに…」
「なんですか? 言ってください。俺、ちゃんと聞きたいです」
 熱心に見つめれば、カカシはちぇーとぼやいて、目線を逸らしたが、イルカのもとにまた戻すと、斜めに宛てた額宛てをはずして、口布を下ろす。そして、口の端を上げて、静かな笑みを浮かべた。色違いの目が綺麗に輝いている。
「俺、知らないことばっかりだから、イルカがずっとそばにいて、色んなこと、教えて欲しい」
 一呼吸置いて、カカシはほっと息を吐き出した。
「そばにいて。ずっと、そばにいてくれ」
 その瞬間、イルカは目を閉じて、胸いっぱいに金木犀の香りを吸い込んだ。そしてそれを静かに吐き出した。
 もう言葉はいい。
 何も言わずに、カカシに抱きつく。ただ、今は、抱きしめて欲しい。
 そんなイルカの願いが届いたのか、カカシは強い力でイルカを抱きしめる。ぬくもりに包まれて、イルカは不覚にも涙が出そうになった。
 それを知られたくなくて、しがみつく。
 イルカはやっと、たったひとつにたどり着けた。





 

 夕暮れの道を、二人手を繋いで帰路に着く。
 カカシがなにげなく言う。任務に出ている間、イルカが眠れないわけを考えていたと。
 わかったんですか、と素直に聞けば、カカシは得意げに自分の顔を親指で指した。
 カカシのことが好きで好きで仕方ないから、眠るのも惜しくて、ずっと顔を見ていたいからだ、と。だから眠れなかったのだと。
 イルカが呆れてまじまじと顔を見つめると、カカシは握った手に力を込めた。
 その、強い力、熱い手に免じて。
 そういうことにしておいてやるか、とイルカは笑って頷いた。