ひとつ    3    








 自分の住宅をあてがわれたカカシだが、それでもイルカの家にやってくる。
 二人とも仕事が休みの朝。カカシはイルカが作ってやった練習帳を懸命に埋めていた。イルカは結構字がうまい。わら半紙にうすく書いてやった五十音の上をカカシは辿る。筆圧が強いのか、たまに鉛筆の芯を折りつつも、真面目に練習していた。まるで夏休みの宿題をやる子供のようで、イルカは無碍にもできずに冷たい麦茶を出してやった。
 カカシを置いて縁側にでたイルカは、麦わら帽子をかぶってまだ日が中天へといかないうちに畑仕事を始めることにした。しばらく仕事が続いて、雑草が結構生えてしまっている。それを抜き取って、収穫できそうなものをもいでかごにいれていく。
 畑は3メートルほどの長さで二列で作っている。
 一列目の方には等間隔でさした竹の支柱にトマトときゅうりを植え、もう一列にはなすとピーマンを植えていた。
 今年はなぜかなすが大豊作で、もいでももいでもすくすくと育つ。イルカお気に入りのトマトは少し小振りだが、真っ赤に染まって身が引き締まり、手に取ったものについついイルカはそのままかじり付いていた。ぷつ、と弾けて口の中に甘く広がる。
「うまそー」
 いつの間にか傍らにはカカシ。びっくりして固まったイルカのトマトの汁がついた口元にちゅうと吸い付いてきた。
「甘いねえ。えーとこれは…」
 考えるそぶりで、カカシは今度は手ずからもいで、かぷりとかじり付いた。
「そうだ、トマトだ」
 カカシが笑う。無心に、イルカを見て。
「なすも食べられる?」
 何となくその顔に見とれていると、カカシは後ろの列に植えられているつやつやとした紫色のなすを手に取り、かじり付いてしまった。
「ちょっと、はたけ上忍! なすは」
「あ〜おいしいねやっぱり」
 信じられないことにカカシは嬉しそうになすを咀嚼している。そのまま飲み込んでしまったから、イルカは呆れかえってしまった。
「はたけ上忍、書き取りは終わったんですか?」
「もっちろん。楽勝。完璧」
「そう言ってこの間は間違ってばかりでしたよ」
「今回は大丈夫」
 どういう自信なのか、カカシは大きく頷いている。すぐに確かめてやると立ちあがったイルカは暑さの中にいたため、ふらりと体が傾いてよろけてしまった。
 そこをすかさず、自然な動きでカカシが支える。
 背中から抱えられて、ふわりとカカシの匂いが鼻に届く。いくさ場ではまったく無機質で匂いなど感じさせなかったカカシの体温にイルカはぼんやりとなる。カカシの腕が前に回り、首筋に鼻があたり、歯をかるく当てられるころになってやっと正気づく。
「はたけ上忍、俺、汗かいてますよ」
「うん。しょっぱい」
「だから、離してください」
「だ〜め。もう少しこのままでいいでしょ」
 暑いのに、といいわけめいた言葉は、顎をとられて後ろからの少し苦しい口づけに飲み込まれた。





 8月に入って、暑さはますます加速しだす。
 イルカの家に冷房なんてものはない。扇風機が自分の部屋にあり、風通しのいい下の部屋には涼をとるものとしては団扇と風鈴の音色だけだ。
 風が吹かない熱帯夜には家中の窓という窓を網戸にしても空気はひそとも動かず、どうしても朝がた、日が昇るか昇らないかの時間に目を覚ました。だから最近のイルカの日課はまずは洗濯機を回しつつ畑に水をまいて、干して、その後、クナイを取り出すと的に向かってひたすらに投げ続けた。
 物干し竿の横、庭の端から端、7、8メートルほどの距離。
 アカデミーの頃からクナイを的中させるのが苦手で、下忍の頃は必死になって練習していた。九尾の事件で両親を亡くした寂しさを紛らわせる為にも、何も考えずに的に向かうのは好きな時間だった。おかげで、今では百発百中と言ってもいいくらいの的中率を誇る。日々の練習に加え、カカシが教えてくれたおかげだ。決して出来がいいとは言えないイルカに辛抱強く指導してくれた。カカシが褒めてくれるから、笑ってくれるから、頑張ることができた。
 最後のクナイは、カカシが初めて見せてくれた時と同じ、畑の向こうの鍬の柄の部分に向けて放つ。それがあやまたず刺さった瞬間の合図でイルカは肩の力を抜く。
 そんなイルカの背に、拍手の音が届いた。
 振り向けば案の定カカシで、気配を全く感じさせずに潜り戸から入ってくるところだった。近づいてくるカカシに、余っていたクナイを差しだす。
「これ、当てて下さい。あそこの、鍬に」
「え〜。俺ヘタだよ」
「ヘタなわけ、ないじゃないですか。上忍なんだから」
「任務の時は集中してるけど、ただ的に当てるだけだとイマイチなの」
 唇を尖らせたカカシは指先でクナイをくるくると回していつまでも投げようとしない。距離があるわけではない。上忍ならそれこそ目をつむって投げても的中させることができるだろう。それなのにカカシは投げない。
 なぜか、イルカはカッとなった。尖った声をあげていた。
「上手かったです。あそこの鍬の柄に、うつぶせのままで投げて当てたんですよ? 俺もそれくらい上手くなりたいって思って……」
 語尾が、小さくなる。途中で気づいた。自分は見当違いなことを言っている。柄に当てたのは、ここにいるカカシではない。
 イルカのことをカカシはじっと見ている。何か言いたそうな風情に対して、ごめんなさいというのも違う気がする。そんな言葉が脳裏に上がったこと自体が嫌だ。
 背を向けたイルカは無言で居間に戻った。





 夏は進む。
 8月も半ばを過ぎようとしているが夏の勢いは衰えず、木々は青々と繁り、むわんとした空気が里中に溢れ息苦しいくらいだ。
 去年は任務で岩の国にいたから、木の葉にいなかった。一昨年の夏はこんなに暑くなかった。暴力的な、挑むような陽差しにさすがにうんざりとなる。
 チハヤの坊主頭が快適そうで、いっそこの長い髪を切ってしまおうかと考えてしまう。
 個室から大人数の部屋に移ったチハヤは初めての外出許可を得て、今日は夏祭りに出かけることになっていた。もちろん、彼女と、だ。もう少したったら迎えに来ることになっている。
「久しぶりだからってあんまり騒ぐなよ。車椅子で転んだりしたら彼女に大迷惑だからな」
「だからイルカも行こうって言ってんだろ。なんだよ、遠慮するなよ」
「遠慮するだろ普通。やっと外出許可がおりてのデートだろ? そんなのについて行くほど野暮じゃないよ」
 デートという言葉にチハヤは照れたように笑む。
 さすがに人込みは避けなければならないから、少し会場からは離れてしまうが、火影岩のあるアカデミーのほうの高台に昇って花火を見る予定だ。
 病院に来るまでの間に歩いた通りはそこら中がお祭りムードになっていた。
 木の葉で一番大きな夏祭り。里中のいたるところに屋台がでて、様々な店の店主たちは大盤振る舞いで商品をさばく。里全体が浮かれて、子供たちは駆け回り大人たちはきりきりと立ち働く。忍を生業にする者と一般の職種の者とが友好を深めることにも一役をかう祭り。イルカとて、幼い頃は両親と、そしてそのうちに友達同士で屋台を駆け回った。空を見上げては花火に歓声をあげた。父親の肩車から見た花火が一等綺麗だった。
 口元が緩んでくるのを引き締めて、チハヤにむかった。
「相談ってなんだよ。まあチハヤのことだからどっちかと言うと報告なんだろ」
 イルカが見舞いの品のりんごをかじりながら問いかければ、チハヤは急に姿勢を正して頷いた。
「俺、忍やめるわ。多分、この体だと完治してももう前線でろくな働きもできないと思うから。でも忍でいたいし、関わっていたいと思うから、アカデミーの仕事を目指す」
 きっぱりと言われた言葉は疑問を差し挟む余地がないほど明白なのに、イルカは身を乗り出して聞き返していた。
「え? ええ!? やめる? 忍者を?」
「ああ。正確にはいくさ忍をやめる。忍者の端っこにはかじりついてやるけどな」
 もうすべてを決意したチハヤにイルカが何を言えるというのだろう。
 アカデミーでも優秀で、口にしたことはないがイルカにとって目指すような存在だった。そのチハヤが、やめる。忍者をやめる。
 内心の落胆を隠しながら、イルカは笑った。笑うことでしか、チハヤに応えることができなかった。
 結局そのまま他愛ない話をして、カカシとのことを聞かれてからかわれて、笑いながらも空虚なものを腹の中に意識して、彼女の到着とともに病院を離れた。
 今夜は病院の患者のすべてが外出許可のおりる限りは祭りにでかけるのだろう。祭りの浮遊感は里のそこら中に伝播している。
 御輿を担ぐ音、お囃子、太鼓、子供達が引く小さな金魚の山車。あらゆる音が不協和音を奏でそうでいてかみ合って、空気を高い場所へと連れて行く。花火までにはまだ時間があるが少しでもいい場所をとらなければならないから、皆早足で会場へ向かう。
 そんな人の波に逆らってうつむき加減に歩くイルカに時たま子供たちがぶつかり、謝りながら駆け去っていく。
 イルカの足が向いたのは、九尾の爪痕が一番激しかった森の中。里の郊外。
 里の中心では人混みの喧噪しか聞こえなかったのに、ここにはまた虫の声が戻ってきた。立ちつくし、ほっと息をつく。
 あの時、子供の姿のカカシと二人で花火をひとつあげて以来、訪れることはなかった。今は植樹された細い子供の木がけなげに根を張って、天に向かおうとしている。ぽっかりと土が抉れて開いていた一画の、前とは異なる姿に、安堵というのか、諦念というのか、どうしてかどこか虚しいものが体の中で静かに降り積もっているのを感じた。
 なぜそんなふうに思わなければならないのかわからないままに、背を向けてイルカは来た道を戻り出す。
 とぼとぼと歩く先に、腹の底に響く重低音がした。条件反射で顔をあげれば、散ったあとの花火の残光が映る。そのまま足を止めれば、星が敷き詰められた夜空に向かって昇っていく一条の光の糸。
 空を覆うほどの大きさの光の花が、咲いた。
 あんなに大好きだった花火。
 どうして、いつから、空を見上げて歓声をあげることをやめてしまったのだろう。





 祭りの熱気のせいなのか、いつもより更に湿度の高い粘つく暑さに辟易する。
 帰宅してほとんど水に近い風呂に浸かり、糠漬けをかじりながら木の葉ビールを5,6本あけた。親の血を引いたのかイルカは酒が強い。カカシもうまそうに飲んでいた。なのにあのカカシは一本で顔を赤くして陽気になる。
 同じ人間のはずなのに、微妙に違う齟齬がたまってくると不快になるのだろうか。
 カカシのことばかり考えている、思っている。
 ビールを飲んだせいでまた体が汗ばんできた。
 蚊帳を吊って、電気を消して、縁側の窓を開け放った。
 仰向けで寝っ転がり、逆さの視界に網がかった庭が映る。ぼんやりと飛ぶ光。蛍がひとつふたつ飛んでいる。遠くに花火が上がる音と、かすかに明るく染まる空。幻のような光景に、いつの間にかイルカは目を閉じた。





 

 

 








読み物 TOP