ひとつ    2    








「これうまいね、何?」
「きゅうりです」
「じゃあこれは?」
「にんじんです」
「この白いの」
「かぶ」
「ふーん。これ、この一番うまいのは?」
「なすですっ」
 イルカは木の葉ビールの缶を卓袱台に打ち付けた。
「どうしてあなたはこんな基本的は野菜のことまで知らないんですか」
 イルカの剣幕に、糠漬けを頬張っていたカカシは首をかしげた。
「やっぱりイルカってヒステリーだなあ。あんまりかりかりすると眉間の皺が深くなるよ〜」
 カカシはぼりぼりと箸も使わずにひたすら糠漬けを食べている。
 卓袱台の上にはイルカが漬けた糠漬けがでんと載った皿。なすとピーマンの炒め物。なすのみそ汁。ご飯。木の葉ビール。
 イルカはいらいらとさきほどからビールばかりを開けていた。
「はたけ上忍、どうしてうちに来るんですか。家がないとかいうのはなしですよ。火影様に聞きました。里にたまにしか帰らない忍用の宿舎があるそうじゃないですか。そこに帰ってくださいよ」
「ええー。やだよそんな味気ないところ。そんなところじゃイルカとセックスできないし」
「してないじゃないですか! とにかく帰ってください」
「やだ。イルカの料理うまいし」
 カカシはそう言うやいなやいきなり箸を手にして茶碗を持つとがつがつと料理をたいらげてしまった。
「俺ね、なす大好き」
 無邪気に笑う。
 なにもイルカはカカシの為になすを大量に出しているわけではないのだ。ただ単に庭で収穫できる夏野菜というだけなのだ。
 やってられるかとイルカは5本目のビールをとりに台所へ向かった。





 陽差しを避けて病院の庭の木陰に車椅子のチハヤを連れ出した。
 カカシの術が施されてからひと月ほどたった。7月も半ばを過ぎ、いよいよ夏は加速していく。日陰にいても体は湿り気を帯び、少し動くだけで汗ばむ。チハヤの容態は日に日に快癒に向かい、今ではベッドから人の手を借りずに起きあがることもできるようになった。顔色は常人と変わらず、今もイルカの話を聞いて穏和な顔をさらに優しくほころばせていた。
「面白い人だな、はたけ上忍って」
「面白くない。変人なんだよあの人」
 しゃがんだイルカは意味もなく雑草をぶちぶちと抜いていた。
 カカシはイルカに暴挙を働いた夜から一週間後にまた訪れてきた。しかし今度はきちんと玄関から呼び鈴を鳴らしてやって来た。しかも菓子折まで持って。その菓子折が、イルカの好物の木の葉の老舗の店が日に限定で作っているまんじゅうで、5つ全部イルカ一人で食べていいなんて…!
 ついつい、カカシを家に入れてしまった。
「あの人、いい年してさ、まず字がきちんと書けないんだぜ。あとあったり前のこと全然知らない。この間はたけの水やり頼んだら水遁でぶっかけてさ、あやうく俺が丹誠込めて作った野菜が全部駄目になるとこだった」
 あの朝、カカシはカカシなりに反省したのかイルカに対して謝罪の言葉と共に、顔色が悪かったことを気遣って兵糧丸を置いていったのだと言った。少し空回り気味ではあったがイルカのことを気遣ってくれたことは理解できたから、まずは素直に礼を言った。するとカカシは調子にのって褒美をくれといったから、兵糧丸を袋ごと口に突っ込んでやった。
「ねえ、イルカの家に住まわせてよ」
「駄目です」
「部屋ならイルカと一緒でいいからさ〜」
 卓袱台に突っ伏して駄々をこねるカカシにイルカは本気で頭痛を覚えた。もしかすると、カカシはいくさ場で本当に頭をやられて、治療が必要なのかもしれない。そう思ってイルカが探るようにカカシを凝視すれば、素早い動きでカカシにキスされた。
 イルカはもう顔を赤くすればいいのか青くすればいいのかわからなかった。
「はたけ上忍、大丈夫ですか? どこか悪いんじゃないですか?」
「なんで? かなり調子いいけど」
「だってあなたはあんなに潔癖な人だったのに、いきなりゴムもなにもつけないで俺に、その、あんなことしたり、して……」
 言い淀むイルカを前に、カカシは胡座をかいて背を丸めた。決まり悪そうにぼさぼさの頭をかいて、少しの間口のなかでなにごとか呻いていた。
「あの夜は悪かったよ。一人で勝手に盛り上がっちゃってさ。イルカと別れてから半年もあったし、まあそれなりに他の奴抱く機会もあったんだけど、なんか全然駄目。ゴムつけても気持ち悪くてさ、結局最後までいったことなかったなあ。そんなんで適度にたまってたこともあって、ちょっと暴走してしまったってわけ」
「だからそんなに潔癖なら一人でやってろって言いましたよね」
「違うんだって」
 カカシは顔の前で大袈裟に手を振った。
「何が違うんですか」
「イルカは特別。この間わかった。だって俺ってばさ、あれ、銜えちゃったんだよ? しかも舐めたし。もしイルカがいってたら、飲んじゃってたかもしれない! すげえ俺!」
 ぎゃーとカカシは一人で盛り上がっている。興奮気味にすげえすげえと連呼しているカカシだったが、その声がだんだん小さくなり、背中がますます丸まった。イルカが伺うと、青い顔をして、口元をおさえている。
 無理をして自分を鼓舞しているようだが、いきなり気持ちの大転換を起こすのはそれは難しいだろう。
 溜息をついたイルカは立ち上がった。
 あんな行為、たとえカカシのような潔癖な人間でなくとも当たり前のように受け入れるような行為ではないはずだ。つくづく、出したりしなくて良かったと思う。
 イルカはバスタオルを持ってカカシの前に立った。
「今日はもう遅いし、風呂にでも入っていってください。泊まるというならこの居間で寝てください」
 諦めのような気持ちで青い顔のカカシにタオルを差しだすと、瞳を輝かせたカカシは大きく頷いて余計なことを言った。
「一緒に入って背中流して」
 勿論、イルカはタオルをばふんとカカシの頭に打ち付けた。
 それから結局カカシは三日と開けずにイルカの家にやってくる。
 暗部には所属したままなのだが、各地の戦況がそろそろ沈静してきており、里で待機しつつ、上忍としての任務でかりだされているようだ。
「さっき火影さまに言われたよ。仮の宿舎じゃなくて住宅の用意ができたから手続きにくるようにカカシに伝えとけって。なんで俺が伝言頼まれるんだよ」
 イルカは頬を膨らませるが、チハヤはくすくすと笑っている。
「でもなあイルカ、はたけ上忍がお前のこと特別に思っているっては本当だぞ」
「なんだよそれ。違うって。あの人今までやりたい放題だったからちょっと珍しい反応した俺にちょっかいだして楽しんでるだけだって」
「イルカー、かわいくないぞそれは」
 チハヤに頭をこづかれる。むっとしたイルカはチハヤを睨みあげた。
「じゃあなんで特別だって言えるんだよ」
「ああ、それはさ」
 カカシが治療を施してから数日後のことだったという。
 事後の確認事項がありカカシは医療班に呼びだされて、数人の医者とともにチハヤの病室を訪れた。
 木の葉の中忍以上が着る支給服を身につけたカカシは、口布を鼻の上まで引き上げて左目の写輪眼は額宛てで隠し、さらされた片目は明らかに不機嫌そうに細められていた。起きあがったチハヤはまずは礼を言って感謝の気持ちをこめて片手を差しだした。その時カカシは身を引いた。頑なにポケットにいれた両手を出さずに、首を横に振った。
「悪いけど、あんた汚いから近寄らないで。あんたの腹から蟲が出るとこも見ちゃったんだよね〜。ほんっとに気持ち悪くてさ。俺病院とか病人って嫌いなの」
 平然と言い切ったカカシは傍らの年長の医者にたたかれた。
 結局カカシは用件だけをすますと逃げるようにして退散したという。
「あんの男は〜!」
「そう怒るなよ。ちゃんとやるべきことはやってくれたんだから」
「そういう問題じゃないだろ。ほんっとにチハヤは人がいいよな」
 イルカは憤慨するが、チハヤはおかしそうに五分刈りの頭をかいた。
「だからさ、そんな人がイルカの家におしかけてモーションかけてるんだろ? やっぱお前が特別だからだろ?」
「いいよ俺のことは」
 イルカはそろそろ昼食時間が近づく気配に車椅子を押して歩き出した。
「だいたいなんでチハヤはあの人贔屓なんだよ。お前友達の俺と横暴上忍のどっちの味方だよ」
 確かに最近ヒステリーかもしれないと、イルカは自覚する自分が嫌だ。
 そんなイルカのちょっとした落ち込みをよそに、くるりと振り向いたチハヤはにんまりと笑った。
「そりゃあ、はたけ上忍の味方に決まっているだろ? なんと言っても命の恩人だからな」










 いくら平和な里の中だとはいえ、ありえないことにカカシはイルカの家の居間で昼間っから寝ていた。しかも腹を出して、口を開けて。イルカのものだったはずの藍に縞模様の甚平がいつの間にかカカシのものになっている。イルカが帰宅した気配にも目を覚まさない。何となく殴りつけたい気持ちになり傍らに座り込んだ。
 網戸をとりつけた縁側からはふわりと風が届く。それは思ったほどぬるくはなく、心地いい。風鈴の音も涼を感じる手助けをしてくれていることだろう。
 カカシの頭を軽くたたいてみるが、カカシはむにゃむにゃとするだけでぴくりともしない。イルカはその手をそのままカカシの頬に滑らせた。
 つるりとした感触、閉じられた目のまつげも銀色で長い。薄い唇は少し情が薄そうな気がする。実際いくさ場で出会ったカカシは最悪だった。人になんて触れたくないくせに、欲の解消の為にモノのように扱われた。カカシの行為は責められるようなものではなかったのかもしれないが、もう一人のカカシを知っているイルカには耐えられなかった。
 あのカカシとは違うカカシ。この存在が嫌いではないことは自覚している。いくさ場でされたことを許すことができる。再会の夜に強姦めいたことをされてもこうして結局家に招き入れているのだから、心の秤はかなり傾いている。それならこの存在でいいのかもしれないが、わだかまりが、在る。
 子供の頃、と言ってもわずか6年前だ。いきなり現れたカカシは寂しさを深く沈静させていたイルカの中にみっしりと入り込んだ。途中からは子供の姿になって、短い間だったがイルカの中にあの日々は輝いてしまい込まれている。あの時にカカシに求められても幼くてうまく応えることができなかった。そして再会して、心から望んで、抱かれて。
 この居間で冬の夜に抱かれたのだと、不意に思い出す。
 カカシの顔が間近にあることで、一気に記憶が戻って駆けめぐる。
 熱い体と、汗と、匂いの記憶が体の中で膨れる。カカシの性器を自ら銜えて、口の中で出されたものを喜んで飲み干した。そう言えば、自慰までしてみせて、浮かされたようにカカシを求めた。
 勝手に駆けめぐる記憶に体が熱を持ちそうで、イルカは慌ててカカシから離れようとしたが、いやなタイミングでカカシがぱちりと目を開けた。
 顔をのぞき込んでしまっていた。気づけば顔と顔が十数センチの距離。赤と青の目があまりに近くて、体が動かない。ごくりと喉を鳴らした。
 イルカのとまどいをよそに、カカシの手が上がり、イルカの首に巻き付いた。
「やらしい顔しているよ、イルカ」
「そんなこと、!」
 最後まで言えずに、引き寄せられて、口を塞がれた。
 口を閉じる前に舌を差し入れられて、絡めとられる。手を突っぱねて逃れたくても、しがみつくように押さえられて、思うように身動きがとれない。唾液なんかこぼしたくないのに、息をつく間にどうしても下にいるカカシの口元に流れてしまう。
「きたなっ…」
 あろうことか口の中に流れた唾液をカカシは飲んでいる。嚥下する音にくらくらとして、イルカの頭は沸騰しそうになる。カカシに片手でぴったりと抱きしめられて、もう片方の手はゆるく立ち上がりかけていた下肢に触れてくる。
「んあ…! や、だ…」
「この間、うまくできなくて、ごめん。今日は、大丈夫…」
 カカシも息があがっている。上に乗っているイルカの顔を唇で次々と触れ、いたずらな指で擦ってくる。少しきつめに嬲られて、イルカはほどなくして出してしまっていた。
 弛緩したイルカはカカシの首筋で息を整える。目をつむっていると、鼓動が落ち着いてきて、耳には縁側で揺れる風鈴の涼しげな音が届く。外からきまぐれのように入る風は心地いいとはいえ、夏の昼間に抱き合えば熱いに決まっている。どっと吹き出した汗がカカシの肌を濡らすことを申し訳なく思い、体を離して、顔を上げれば、イルカと横向きで寝そべり向かい合ったカカシは、とんでもないことをしでかした。
 イルカの白濁がぺとりとついた手を口元にもってくると、舌を長くだして、舐めたのだ。
「ぅわ、うまいもんじゃないね」
 にが、と顔をしかめるカカシにイルカはのろのろと手をあげる。
「あ、当たり前じゃないですか、何、考えてるんですか! やめてください!」
「や〜だよ」
 イルカの手をやんわりと拒んで、呆然とするイルカの目の前でカカシはすべて舐めとってしまった。
「よかった、やっぱりイルカは大丈夫みたいだ。安心した」
 へへ、とカカシは嬉しげだが、イルカは羞恥だか怒りだかわからない渦巻く感情のままカカシに背を向けた。
「イルカ? 何? 怒ったの?」
 カカシが肩に触れてくるが、それを払ってイルカは体を丸めた。
「イルカ、気持ち良くなかった? 俺、本とか読んで勉強したんだけど」
 心なしか気弱なカカシの声。
 気持ちなど、良かったに決まっている。そんなの、イルカのあがる息から明らかなことではないか。
 いちいち聞いてくるな、と内心悪態をつく。いくさ場ではあんなに偉そうだったカカシは一体どこに行ってしまったのだろう。カカシが後ろで何かいいわけめいたことを言っているが、耳を塞いでイルカは丸まり続けた。





 普通気まずく別れた時は次に会うまでに少し時間が必要なものだ。だからイルカもしばらくカカシは訪れないだろうから自分自身気持ちの整理をつけようと考えていたのに、カカシはあっさり翌日の晩もやって来た。
 しかも、今度はイルカの大好きな一楽のラーメンを餃子つきの出前で。
 どうしてカカシがイルカの好物を知っているのか不思議ではあるが、とにかくおかもちから立ち上る匂いに腹がぐうと鳴り、カカシのことを家にあげてしまった。
 冷蔵庫の中身が何もなく、夕飯をどうしようかと考えていたところに好物のラーメンを持ちこまれたら、食べるしかないではないか。
 ずるずると夢中で食べた。その間カカシは定番の糠漬けを噛んでいた。イルカが時折顔をあげるとカカシと目があい、にこりと笑顔を見せられる。言いたいことはあるが食事はおいしくいただきたいから、とにかくイルカは餃子まで平らげて、ビールを出してきてやっと人心地ついた。
「ありがとうございました。おいしかったです」
「そう? 良かったね」
「昨日、帰ってから消毒液とかでうがいしましたか?」
「うがい? しないよ。だってイルカは汚くないから」
「誰のだろうが、汚いものは汚いです」
 口にしながら、これではいくさ場での二人と全く逆ではないかとイルカは思う。
「昨日みたいなことはしないでください。こっちの気持ちを無視してあんなこと、しないでください」
「え? やっぱり良くなかった?」
 見当違いのカカシの反応にイルカは最近切れやすくなっている血管がまた音をたてて切れるのを聞いた気がした。
 だだだだと2階に駆け上がって、机にあったものをひっつかむとまた戻る。
 カカシの前にノートと鉛筆をおいた。
「ここに、ごめんなさいって100回、書きなさい!」
 ノートの上に手のひらを打ち付けた。
 カカシは唖然として、顔を赤くしているであろうイルカの顔と、ノートを、いったりきたりと伺った。
 カカシに要求していることがどれほど子供じみていることか今のイルカには判断できなかった。まだ両親がいた頃、イルカがいたずらをして叱られた時、いつもやらされていたことだった。
 イルカの剣幕におされたのか、大人しく鉛筆を握ると、背中をますます丸めたカカシは言われたとおり書き出した。
“げめんなさい”と。
「はたけ上忍。どうして“ごめんなさい”が“げめんなさい”なんですか」
「何言ってるの。ちゃんと書いてるじゃない。“ごめんなさい”って。そりゃあ字は汚いけどさ」
 心外だ、と言わんばかりのカカシだが、どうやら本気で誤りがわかていないようだ。
 仕方なくもう一度立ったイルカは、2階から子供の頃に母親が手書きで作ってくれた五十音表を持ってきた。
 カカシに説明すると、目を見開いたカカシはそれをまじまじと見て、イルカに、本当なのかと改めて聞いてきた。脱力したイルカが頷くと、カカシは盛大な溜息をついた。
 曰く、幼い頃からいくさ場を巡り、ひととおりの教育はまわりの大人から受けたが、文字についてはいくさ忍の日常にあまり関わりがないため適当だったという。
「は〜。20年生きていて初めて間違いがわかった」
 さすがのカカシも気詰まりなのか、肩ががくりと落ちている。カカシのような特殊な環境で育ったのなら仕方ないことかともイルカは思う。
「あの、はたけ上忍、俺でよければ、教えましょうか? 簡単な文字とか漢字なら」
 イルカがなんとなく言ったことに、カカシは首をかしげた。
「イルカが、俺の先生ってこと?」
「まあ、そんな大袈裟なものではないですが」
「イルカ先生か。よろしくお願いしま〜す」
 おどけて頭を下げられて、イルカの顔は自然とほころぶ。
 イルカ先生。
 頭の隅にひっかかる。あの人がもう一人のイルカのことをそういうふうに言っていたなあと思い出した。

 

 

 








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