刻印 4




 九尾は封印され四代目は上位の世界へと消えたが、眷族たちが地上に溢れ出しはじめた。
 戦闘でいびつに起伏した大地から、ぼこりぼこりと音をたて、這いだしてくるものども。
 腕がなく足がもがれ溶けた体。骨に肉と皮をへばりつかせたもの。だが人であったものとして認識できるものはマシなほうだ。腐臭を放ち肉塊としか言いようのないものまでもが意志を持って動き出す。臓器だけがずるりとのたうっているものまでもいる。牙を持ったものは未だ命の火が尽きていない木の葉の忍の体に、死体に、食らいつく。そこかしこであがり出す悲鳴。発狂しはじめる場。
 四代目が消滅と同時に施した封印は効力を発揮するまでに少し時間を要する。
 その前にこの場を収束させるためには……。
「あ、うああ! ああああぁぁぁ!」
 がたがたと震えるイルカはカカシにしがみついてきた。
 恐怖ゆえかイルカの大きな目からはぼろぼろととめどなく涙が溢れる。
 イルカをきつく抱きしめたまま、カカシは舌打ちした。ほどなくして眷族はイルカに気付くだろう。気付いたらイルカを連れて行こうとするだろう。
 カカシは怯えるイルカの眉間をとんと指でついた。ふっとイルカの意識が途絶える。泣き濡れたイルカを抱いてカカシは枝を蹴った。







 イルカの瞳に焼かれて、カカシの体中がきしきしと蠢きだしてきた。やっとその時が来る。中途半端な存在で彷徨っていた日々が終わりを告げて本来のカカシ自身に戻ることができるのだ。
 洞の天井からは、時たま気まぐれのように水が落ちてくる。イルカのことを岩のしとねに横たわらせたカカシは膝を抱えてじっとイルカを見ていた。
 暗がりなど関係ない。カカシにはイルカの姿がはっきりと見えた。
 外からは絶えることなく悲鳴が届く。早くやつらを従えないと四代目が守りたかったものが壊されてしまう。それを回避する為にはイルカが必要だ。
 顔を上げたカカシは動物のようにはってイルカに近づくと、弾力のある頬に触れた。
「起きて。イルカ」
 震える目蓋。ほどなくして開いたイルカの真っ黒な目にカカシは感嘆の声を漏らしていた。
 改めて間近で見たイルカの目はまるで奇跡のようにきらめいて、カカシを誘う。失われた高貴な存在たちのものだ。どういった経緯でここに辿り着いたのかわからないが、イルカの目の奥に潜んでいる。だから眷族たちもイルカを招こうとする。
「……お前、誰だよ」
「カカシ。さっき俺にしがみついてきたくせに。ひでえな……」
 カカシが小さく笑うと、いきなりイルカは体を起こした。
 空を見つめる目は途切れてしまった記憶を辿っているのだろう。息が荒くなり、小さな手でぎゅうと胸をおさえる。
「お、俺、俺、行かないと! あいつら、なんとかしないと、俺、俺が、俺しか……」
「落ち着いてイルカ」
 イルカの手を握って撫でさすってやる。
「あいつらはイルカ一人の手じゃどうにもならない。逆に引きずり込まれるよ」
「でもっ! でも、父ちゃんも、母ちゃんも、もういないから、俺が、い、行かないとっ」
「イルカじゃ無理。俺なら、なんとかできるよ」
 カカシが髪に口づけながらそっと告げると、震えていたイルカの体がぴたりと止まった。
 ぎこちなくイルカは顔を巡らせた。
「お前にも、見えるのか……?」
 吐息のようなイルカの声が届く。カカシはとびきり綺麗に笑んだ。
「見えるよ」
「じゃあ、お前も、俺と同じで、あいつらのこと、殺せるの?」
「俺は殺さない。殺せない」
「殺せない? どうして……」
「俺も、あっち側だから」
 イルカの体がかすかに揺れた。軽く目を見開いてカカシのことを食い入るように見る。濡れた視線に堪えきれずカカシの局所はゆるく立ち上がり始めていた。
「あっち、側……」
 しんとした空間に落ちたイルカの声はどこまでも落ちていきそうだった。カカシは無邪気を装い首をかしげた。
「そう。信じる? 信じない?」
 イルカが考え込んでいるのをいいことに、もう堪えきれずに己の欲に触れる。所詮本性だ。欲しかったものが手の中にあるのに我慢する必要などない。
「イルカ、俺の頭に触ってみなよ」
 擦り寄るようにしてイルカに懐けば、ためらいながらもイルカの手がカカシの頭部に触れた。さぐるような動きが側頭部を確かめて、はっとなり身を引いた。
 離れていこうとするのを許さずにイルカの手をとってもう一度頭に触れさせた。
「わかる? 角があるでしょ?」
 イルカは口を半開きにして力が抜けたようにこくりと頷いた。
「これはねえ、特別なやつにしか触らせない」
「特別……?」
「そう。イルカは俺の特別な人間」
 状況が掴めずにぼうとしているイルカの手をとり指先をねろりと口に含む。咄嗟に手を引こうとするのを許さずに疼く牙を立て、イルカに見せつけるようにしゃぶる。カカシの行為が何を意味するのかわかっていないようだが、イルカはほんのりと頬を染めた。その可憐なさまはますますカカシを煽る。
「やめて……、ねえ、やめろよっ」
 叫ぶイルカの声とかぶるように洞を震わす音が響いた。地の底から満ちてくるような腹の奥に響く音だ。その音に不吉なものを感じたのか、抱きついてきたイルカをカカシはそのまま押し倒した。
 両手をおさえて、安心させるように笑ってやった。
「ねえイルカ。時間がない。俺が生まれなきゃならないんだ。その為にはね」
 カカシは隆々と立ち上がった局所をイルカに見せつけた。
「これからイルカを抱くよ」
「だ、く……?」
 オウム返しに呟いたイルカ。柔らかそうな口をぺろりと舐めると、我に返ったイルカは暴れ出す。
「やめろっ。俺は、そんなことしたら、駄目なんだからっ」
「駄目? 何が駄目なの?」
 からかようにカカシが聞けば、イルカは顔を歪ませた。
「俺は、あいつらを追わないと駄目なんだよ! お前とこんなことしたら、俺は、駄目になる!」
 必死なイルカにカカシは思わす吹きだしていた。そのままイルカの薄い胸に突っ伏して小刻みに震えて笑う。けれど腕は放さない。外からの音は絶え間なく届いている。ひとしきり笑ったカカシは涙目で顔を上げた。
 口元を引き結んだイルカの悲壮な表情。そんな顔を見ていると、たまらない。
「わかった。抱くのはやめる」
 カカシの明るい声にイルカの愁眉は開く。だがそんな安堵を打ち砕くようにカカシは舌を出してイルカの耳の奥にねじこんだ。
「犯してやるから、堕ちなよ」




□ □ □ □




(でも本当は怖かったんです。ずっと、怖いんです)

 不意に思い出した。
 愛しいぬくもりを腕につらつらと思い出を辿っていたカカシは、目を開ける。すると周囲はいつの間にかいつもの部屋ではなくて、洞のような穴蔵のような懐かしい湿った空間に移っていた。
 どこかで水の落ちる音がする。空気は生臭い。イルカは気配を感じたのか、ぶるりと身を震わせてカカシに擦り寄ってきた。カカシはこみ上げる愛おしさにイルカの目蓋に口づけた。
 イルカがカカシにほんの少し心を許したあの時に聞いた言葉――。
 あれはひどいいくさ場だった。イルカは中忍になったばかりで、カカシは暗部から合流した。本来ならイルカはまだ耐えることができたが、あの死臭漂うところでは堪えきれずにイルカからカカシの元に飛び込んできたのだ。
 カカシのテントでイルカを飼った数日は至福の時だった。仰向けのカカシの上に乗りあげさせて腰を振らせた時だ。泣きながら、イルカは口にした。怖い、と。それはそうだろう。あそこでは二人の交わりをやつらが、血濡れた肉塊のやつらが、じっと見ていたのだから。
「また、俺と、いくさ場に行こうか。ひどいいくさ場。俺なしじゃやっていけないとこにさ。ね、イルカ」
 眠り続けるイルカにそっとささやきかけて髪を梳く。
 少なくとも今だけは。
 今だけはこのベッドの上に永遠が安んでいる――。





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