刻印 1




 寝苦しい夜だった。
 ぽかりと目を開けて、気配に横を見れば、子供が、いた。
 無邪気に笑う子供。イルカの枕元で、笑っている。
 首から血を滴らせて、その首を両手できちんと持っている。座った膝の上に置いている。首なしの胴体が、両手できちんと持っている。
「お、じ、さ、ん。あそ、ぼーぅ。あそん、で」
 耳障りな音だ。
 子供が口を開けると黄色く汚れた隙間だらけの歯が見えた。先端が尖り、臭い息が吐き出される。
 息があがるのを堪えながら視線を逸らせば、イルカの体の上に、額にクナイが刺さったまま、両目が潰れた忍が乗っていた。
 忍の手にはクナイ。にいっと笑った。耳まで裂けたおぞましい笑み。クナイはためらうことなく振り落ろされる。イルカの、額に。
「っ……!」
 これは現実ではないのに、リアルに感じる質感は一体なんだ? ぐうと額に刺さった傷み。ごりごりと骨に到達して、やわらかい脳髄にぐにゃりと刺さる。機械仕掛けのからくり人形のように、何回も何回も、繰り返される。
「おー……ジー……、さぁぁぁぁぁぁぁぁぁ……」
 子供の首が、イルカに擦り寄ってくる。楽しげに、無邪気に。
 金縛りにあった体は動けない。
 びちゃ、と水っぽい音が聞こえた。イルカの眼球が右にくくっと移動する。
 女が、いた。
 長い髪はばさりと体の全面に垂れている。女は裂かれた自らの腹に手を入れて、腸を引っ張り出している。にちゃにちゃ、びちゃん、と水っぽい音が鼓膜に届く。その合間に女の絞り出すようなくぐもった声がする。なにか呟いている。臓物を掻き出すたびにいくさ場で嗅いだ覚えのある腐臭が濃くなる。
 がばあっと女がイルカに覆い被さってきた。
 濁った白目。そして血走った血管が細かく浮き上がっているさままで確認できるほどの近さ。鋭い目がぎらぎらとイルカのことを睨み付ける。
「あ――――た――――しぃぃぃのおおおおおお、あーかーちぃやああああああんん」
 憎しみのこもった目だった。
 イルカはいくさ場で妊婦を殺したことなどない。だが逆恨みだと言ったところでこの女には通じない。
 ただ、憎いのだから。
 何も答えることができないイルカ。喘ぐようにかすかに開いた口。そこに、女は自らの臓物を突っ込んできた。
「!」
 腐った、肉の臭い。じゅっと肉汁がしみ出そうな食感。
 イルカはことりと意識を失った。







「へえええええ。こいつ、死んだのかああ。俺さあ、こいつ知ってんだよなああ」
 夜の受付所にはイルカだけがいた。そろそろ交代がくる。受理した書類に不備がないか確認して処理していたら、ぽたり、ぽたり、と白い書面に血が落ちてきた。
 これでは仕事が進まない。顔を上げれば、体は赤子のように小さいのに、顔だけが醜く大きく肥大して目蓋のない眼球が顔の半分以上をしめるものが浮いていた。そいつの目がら滲む血が書類を汚すのだ。
「邪魔です。どいて下さい」
 イルカの言葉にげらげらと笑う。
「邪魔だああ? それはお前にとってだけだろうがあ。他のバカどもにはなあああんにも見えやしねえよおお」
「イルカ。悪い。遅くなった」
 同僚が駆け込んできた。彼女と会っていてさと嬉しげに話している。イルカが固まったまま、空を睨んでいるのにそのうち気付くと、イルカの視線の先を確認する。そこに何もないことがわかると、イルカの書類をのぞき込んできた。
「なんだよ、怖い顔して。あれ? この人、死んだのか。あ、なに、イルカもこの人に怨みあったくち? 死んだ人に言うのもなんだけど、この人、ちょっとやばかったよな」
 血で汚れた書類。イルカには忍の名など確認できなくなっているのに、同僚がきちんと読むと、奴は腹を抱えてひーひーと笑う。
「ほおうらみろ。お前だけなんだよおおおおおおおおお」
 イルカはいささか乱暴に立ち上がった。奴をひと睨みして、さっさと帰り支度を整えた。同僚は死んだ忍にひどい目にあったことがあるのか、つらつらと悪口を重ねている。そのうちに同僚の背後にぼんやりと白い物体が形を取り始めた。
「おおお? こいつ、憑かれ始めてやがる。ばあああああか!」
 奴はのげぞるようにして笑っている。イルカは鞄を肩からかけると、同僚の肩に手を置いた。途端、霧散する白いかたまり。
「あんまり死んだ人間にむち打つようなことは言わないほうがいい」
 おやすみ、とイルカは背を向けた。
 廊下に出た途端、目の前いっぱいに奴がいた。ぎらぎらとした目は血管の部分がふくれあがってミミズのようにぴくぴくとのたうっているではないか。
「おおおおい、イルカああああ。余計なことするんじゃねえよおお」
 無視して、歩き出す。後ろから奴はしつこく何か言っている。口汚くののしっている。聞いてやるものか。
 外に出れば、一直線の路上は霊たちでびっしりとうまっていた。
 まともな人のかたちのものはひとつもない。皆どこか欠損していた。そして、例外なく、負の気配を漂わせ、この世に怨みを持っていた。
 体が半分以上崩れたものが早速飛び上がりながらイルカに近づいてきた。生臭い匂いがした。嫌悪感に顔の筋肉がひきつりそうになったが、それを堪える。
 その肉塊は無表情に歩き出したイルカにすれ違いざまに「死ね」と吐き捨ててきた。
 その一声が上がった途端に、いくつかの霊が唱和する。
 しねしねしねしねしねしねしねしねしねし……。

 死んじまえ。

 俯いて、少し早足で進み始めたイルカの袖を引く手があった。思わず顔を上げればー。
 空洞の眼窩。頭皮は矧がれている。口も、両の乳房も、陰部までも削り取られた年若な娘。無惨に切り取られた口があった場所の穴が紡ぐ言葉をイルカは耳にいれてしまった。
「あたしいいいいいいい、あの人とおおおおおおお、逃げようとおおおおおおしたのおおおおおおお。でぇえもぉお、あの人はあああああ、いいいいいっしょおおおに、しのおおおおおおっっってえええ」
「やめてくれっ!」
 耳障りな音に耐えきれずに、イルカは叫んでしまった。
 その途端、霊たちの動きがぴたりと止まる。皆が、同じ顔をして、イルカを見た。喜々とした、昏い喜びの顔で。
 見つけた。
 獲物。
 舌なめずりしている気配に後じさりしたイルカは、身を翻して走り出した。
 何も考えてはいけない。答えてはいけない。奴らの存在を認めてはいけない。
 耳を塞いで、ぐっと目と瞑って駆けだしたから、つまずいて転ぶ。
 金属音のような笑い声らしきもの。
 震えながら立ち上がって、駆け続ける。無意識に向かう先。そこにいるもの。

 実体がないものたちと、確実に実体を持つ彼。本当はどちらが恐ろしいのだろう。

 息を切らし、とうとう目的地に辿り着いた。
 イルカに対してはいつだって開かれている扉。
 滑り込むその間際に背に走った傷み。入り込んだ玄関先で、がくりと座り込んだ。
 扉の向こうには、かりかり、ぎぃぎぃ…と削るような音。暗い、黒い、気配。死ね死ね死ね、と呪詛のようにずっと呟いている。イルカを追っている。ここまで来ても、追ってくる。
 鼻の奥からこみ上げてきたものにぐっと歯を食いしばる。鉄さびの味がする。どうやら口の中を切ってしまったようだ。悔しくて、情けなくて、嗚咽が漏れそうになる。
 その時――。
「イルカ先生」
 呼ぶ声がした。甘く、うつくしい声。耳に心地よく響く、声。
 ひた、ひた、とそっと近づいてくる。
 膝を抱えて、イルカは下を向く。
 気配はイルカの前、玄関の框で跪いたようだ。
「イルカ先生……」
 イルカは膝を抱く手に力をこめる。
「イルカ先生。どうしたの? 怪我、してるよ」
 ひやりとした指が、イルカのこめかみに触れる。
 びくりとイルカの体は震えた。
 強ばった体。逆らえない。手に促されるままに顔を上げれば、そこには、はたけカカシがいた。
 壮絶な、この世のものとは思えない美貌で、笑んでいた。








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