11.






「イルカ、チハヤが・・・・・!」
 せっぱ詰まった声にイルカは振り向いた。さっき一緒に出てきた仲間の血相が変わっている。カカシの手をふりほどき、イルカはテントの中に飛び込んだ。
 目の前、飛び込んできた光景は仲間に四肢を押さえつけられて咆吼をあげるチハヤだった。いったい人の声帯のどこから出せるのかという心を抉りとるような叫び。狂ったように叫びながら頭を激しく左右に動かしている。腹部ははだけて、さっき包帯をかえたばかりのはずなのにまるでむしり取られた状態になっていた。敵の術にやられて治療されたはずの腹部の傷、横に大きく縫合の跡があったはずのそこが、赤黒い血に溢れかえっていた。
 ざっと体中に鳥肌がたったのがイルカにはわかった。
 チハヤの傷跡はぬぷぬぷと泡立ち、白い、うじのような小さな虫が蠢いている。赤黒い血が溢れ出し、その海のなかで白い虫の蠢きは悪夢の光景のように、地獄の絵のように背筋を震わせる。腹部は陥没と膨張を繰り返し、まるで中にはポンプがはいっていて、見えない装置がその動きを命じているようだ。波打つチハヤの体。膨らむ時、絶叫は鋭くなり、思わず耳を塞ぎたくなる。よろめいた体は隣に居た者の腕を掴んでた。
「・・・・・・蟲だ。植え付けられていたんだ」
 傍らから聞こえたのはカカシの声。面を上げて露わになった表情は変わっていないが、少し青ざめていた。暗部にいて、数々の修羅場をくぐり抜けてきているカカシでさえ眉根を寄せるような事態に、イルカは絶望感に襲われる。
 あんなにも、婚約者の元に、里に戻りたがっていたチハヤが、こんなところで、死ぬ? いくさは終わったのに、死ぬ・・・・・?
 喉がからからに乾いて、目の前がちかちかと点滅する。震えそうになる体。カカシを掴む手にはすがるような力がこもる。何かしなければと思うのに動けずにいたイルカの呪縛を解いたのは、慌ただしく駆けつけた二人の暗部だった。突き飛ばされたことでイルカの体はチハヤに辿り着いた。
「これは・・・」
 虎面の女は絶句して、鳥面の男と合わせたように呻いた。だがとまどいは一瞬で、二人ともが邪魔な面をはねのけて、女は叫ぶように指示をだした。少々乱暴だったがチハヤ以外の傷病者はテントの外に運び出された。その間もチハヤは咆吼をあげ続け、白目をむきだして唾液をまき散らす表情は人外のものへと変貌をとげようとしているかのようだった。
 気持ちを立て直したイルカは女の指示に従い、頭部のほうからチハヤの肩を渾身の力で押さえつけた。真下で、チハヤは狂ったように顔を振り続ける。口からは血の交じった泡を噴いている。かける言葉も見つからず、イルカはただひたすらに祈る気持ちを込めてチハヤを押さえつけた。
 女の指示で、鳥面をかぶっていた剥げ上がった小男がチハヤの心臓のあたりにチャクラの練りこまれた両手を当てた。それを素早く視線で確認すると、女は手甲をはずした右手の肘から下に渦を巻くようなチャクラを練り上げた。捕縛を目的とするような縄のような清浄なチャクラ。女は小さく男に合図すると、チハヤの腹部が膨れあがった瞬間に右手を縫合した傷跡にずぶりといれた。
 その瞬間のチハヤの叫びは脳裏に深く刻み込まれるような衝撃だった。イルカを含め、四肢を押さえつけていた中忍たちの身が竦む。イルカは本能的な恐怖に今すぐにそこから逃げたい衝動に駆られるが、小男に一喝されて気を取りなおす。小男にも女の顔にも冷や汗が浮かんでいる。女はチハヤの腹に潜り込ませた手を器用に動かしているが、指の動きが腹の外側からはっきりと形として見て取れることがイルカにとっては吐き気を催すような光景だった。
 いた、と女は呟いた。腹の中で握られたこぶしの形が見て取れる。その形のまま、女はゆっくりとチハヤの腹から手を引き抜こうとする。そのあまりの衝撃ゆえか、チハヤの体が反り返る。かすかな音がして血の混じった胃液を吐き出した。それはイルカの顔にかかったが、そんなことに頓着している余裕はなく、うつろな顔のまま歯をがちがちとかみ合わせるチハヤが今にも舌を咬んでしまいそうで、かがみ込んだイルカは片方の腕を少しずらしてチハヤに噛みつかせた。その鋭い痛みが、チハヤの痛みの末端を表しているようだった。
 ずぶ、ずぶ、と女の手が徐々に上がってくる。がっちりと固定されたこぶしが現れると、手のひらのなかには赤黒い海から生まれでる不気味に白い幼虫が掴まれていた。それが触手めいた体をはねさせて口だけの顔から鋭い牙を覗かせて暴れる。粘りけのある体液が飛び散る。
 信じられないような光景にイルカは目を見開いてぽかんと口が開く。とても現実の光景とは思えずに、瞬きを何度も繰り返す。
 その時。
 イルカの脇の下に手が差し入れられて、有無をいわさぬ強い力で引かれた。
「ちょ・・・、え・・・」
 すでにチハヤは失神していた。連れ去られるイルカを気にかける者はいなかった。





 それでもカカシはぎりぎりまで堪えたのだ。
 汚らしい病人に触れて、あろうことか吐瀉物をかけられるイルカを見ていることに耐えられなかった。だが、ここでイルカを引きはがしてもし治療に影響を与えたら、仲間の女はカカシを許さないだろう。それぐらいの理性は働いたから、強く手を握りしめて耐えていた。病人の絶叫は耳に届かず、血の匂いもただの取り囲む空気でしかなく、カカシはひたすらにイルカを見つめていた。
 おぞましい蟲が取り出された時が限界だった、病人も気絶している。早く、早くイルカを汚らしい場から遠ざけたくて、動いた。
「はたけ上忍。離して下さい。俺はまだあそこに」
 肩に担ぎあえるようにして隊が駐屯している場所から少し離れた清流が流れる場にイルカを連れてきた。いくさで疲れていたはずの体は興奮のために妙に力がみなぎっている感じだった。
 イルカを放り投げるように川にいれて、追って自分も入ったが、冬の水に冷たさも全く感じなかった。
「何を、するんですか」
 ぶるりと震えるイルカはきれいな黒々とした目をしているのに、頬のあたりから首筋にかけて吐瀉物や血がはりつき腹立たしい。汚されてしまっている。何か口にしたらとめどなく溢れそうで、カカシは無言のままイルカの服をむしり取っていく。イルカは反抗するが強ばった体に力は入らず、凶悪なチャクラを立ち上らせたカカシに逆らうすべはなかった。
 上半身裸にしたイルカの顔と言わず体と言わず水をかけてポーチから取り出した布で肌が赤くなるくらいに拭う。それでもおさまらずに常備している消毒液も取り出してイルカの顔にかけて変質的な執拗さで拭った。途中から逆らうことをやめてしまったイルカは体半分水につかったままカカシの膝の上にのってなすがままだった。
 イルカの顔は重点的に拭って最近色つやの悪かった頬が真っ赤になるくらいまで続けた。荒い息をつきながら何とか落ち着きを取り戻したカカシはイルカの顔を包んで、検分するようにじっと見つめた。
 表情もなく目を伏せたままのイルカにかすかに胸が痛むが、きれいな、いつも通りの感触が蘇ってきてまずは安堵した。
「・・・よかった。これでいい」
 頬を合わせれば、なめらかな感触がする。耳のうしろで鼻をすりつければイルカの匂いがちゃんとした。
「もう、あんなとこいったら駄目だ。見ただろ。病人は汚いんだ。あそこにいたら、イルカが汚れてしまう」
 イルカをきつく抱きしめて、背中をさすって、布越しのもどかしさに苛立ち手甲をとって冷たい肌を温めるように撫でる。そのうちにカカシは下肢に熱が集まるのを意識する。こんなところでと言ったらイルカは嫌がるだろうか。そりゃあ、嫌に決まっているだろう。だが今ならいくらでも優しくできるし、本当に抱くことができそうで、早鐘を打つ心臓を意識したまま、イルカの顔をのぞきこんだ。
 途端に、カカシの顔が凍り付く。薄く悲しげに歪められたイルカの口元と、それに反して鋭い眼差しに、カカシは自分がとてつもない失敗やらかしたことを知った。
「ごめん、イルカ」
 謝罪の言葉が口をついていた。条件反射みたいなものだった。イルカは青ざめた口を開けた。
「謝ることはありません。だって、はたけ上忍は自分が悪いなんてこれっぽっちも思っていないでしょう」
 皮肉めいた声。
「悪いとは、思っている。イルカを傷つけたなら、ごめん。いくらでも謝る」
「謝ってくれなくて、いいんです。謝ってほしくありません」
「ごめん。ごめんね」
 イルカが涙をこぼすから、そこにカカシは吸い付いた。舌をはわせて舐め取っているだけで、こんな時なのに興奮する自分がいる。
「はたけ上忍は、どうして俺が傷ついたか、わかりますか・・・?」
「俺が、イルカの仲間のこと、侮辱したから」
「そう、ですよ。チハヤは、あんなに苦しんでて、辛いのに、それを、汚いなんて、ひどいじゃないですか・・・! 俺は、俺にとっては、チハヤは大事な友達で」
 イルカの声に嗚咽が交じる。
 鼻の傷に噛みついて、優しく口に吸い付く。
 怯える舌を無理に絡めとって、長く長く息が苦しいくらいに奪う。イルカの口から紡がれる言葉は誰よりも自分のことであってほしい。そんなわがままな気持ちが沸いてくるのはどうしてだろう。
「も・・・、放してください。あなたに、触れられたくありません。あなたは、もし俺がチハヤと同じ汚いことになったら、嫌悪丸出しで、離れていく人だ。あなたは、きれいなものだけが、好きなんだ。ただそれだけなんだ。俺は、きれいじゃない」
 はっきりと口にされた拒絶の言葉と、力をこめてカカシを除けようとするイルカが逆にカカシの行動を後押しした。
「やだよ。あんたのこと、放したくないよ。イルカは特別。もし汚なくても特別」
 首筋に噛みついた。ダイレクトに下肢を握りこんで、水の中で性急に追い立てるが、イルカは反応を返さない。もどかしくなって、後ろにのばした手を服の中に入れる。その指先を奥に一本、強引に突き立てた。
 びくりと強ばるイルカの体。カカシの動きは急に止まった。生で触れる初めての他人の内側に、思った以上の衝撃を受けたのはカカシのほうだった。冬の凍えそうな水の中なのに、熱く、柔らかな襞に背筋を走るものがあった。急速に下肢が膨れあがった気がする。かあっと体中の血が沸騰しそうになって、目眩に似たものを感じた。
 カカシの内面の動揺などイルカにわかるはずもなく、隙ができたのを幸いと、イルカは思い切りカカシを突き飛ばした。濡れてしまった服をまた着て、水の中で赤い顔をしたままのカカシに言葉を投げつけてきた。
「はたけ上忍は、やっぱり俺のカカシさんじゃありません」
 イルカの顔は涙と鼻水を垂らしてぐちゃぐちゃだ。それをおかしいとは思うが、不思議と汚いとは思わない。
「あんたなんか、一生一人でゴムつけてやってろ! どっかいっちまえ!」
「・・・イルカと、やってみたい」
 素直な気持ちを告げれば、イルカは河原の小石を拾うと子供じみた仕草で投げつけてきた。
「お断りだ! おとといきやがれ!」
 あろうことか舌を出して、いわゆるあっかんべーをして、背を向けると去ってしまった。





「そんなの知ったこっちゃないよね〜。俺は俺だしさ」
 まだ日も明けきらぬ早朝。
 暗部の四人は出発の為に集合していた。遅刻ぐせのあるカカシは案の定最後にのこのこと現れて、とぼけた声で適当ないいわけをした。曰く、初めて知った愛の迷宮で立ち往生していた、と。もちろん、その瞬間三方向からクナイが飛んできた。
 イルカときちんと別れたのかと犬面の男に聞かれて、のらりくらりとかわした。
「俺のこと、好きなんだよ。でも前の俺のほうがいいらしい。まだまだ若いねイルカも」
「虫でも沸いたかカカシよ」
「ああ、そうそう。虫って言えば、ねえ」
 虎面の女に声をかける。
「あの中忍どうなったの? 死んじゃった?」
「馬鹿言え。あたしが取り出したのは見ていたんだろう」
「うん。そうだけど、その後出て行ったからさ」
 イルカともめて、そのまま頭を冷やす気持ちもあって、カカシは一人大きな岩場のところで時間をつぶし、誰とも顔を合わせずにテントで寝たのだ。
「助かった。助かったが、術の発動を凍結させたに過ぎない。腹に爆弾を抱えたままだからね、ちゃんと治さないと、一生寝たままだ」
「それって、治す方法って、あるの?」
「ある。あるが、お前には関係ないだろ」
「それが大あり。俺の恋の成就がそこにかかってると思うんだよ」
 恋、と真面目な顔をして告げれば、鳥面の小男は小さく吹き出した。虎面の女と犬面の男は身を引いた。
「お前が恋とはねえ。長生きすると面白いことがあるもんだ」
 女は溜息まじりに呟いたが、犬面の男はカカシのことを意味深にこづく。
「いいからさ、方法教えてよ」
「お前に、うってつけかもな。写輪眼を持つお前にはな」
 女が語った方法は、いたって簡単なことではあった。
 術をかけた者は死んでしまったが、同じ術をかけることができれば反作用として、中に巣くう細かな蟲たちを滅することができると。特殊な術ではないが、木の葉では有名な油女一族は扱わない種類のもので、少し遠いが雷の国のほうに術者がいるときいたことがあると。
「あ、それいただき」
 カカシは暢気に手を合わせた。
「俺それやるよ。で、あの中忍助ける、次の任務終わったら火影様にお願いしよう」
「馬鹿か。そんな勝手許されるわけないだろう」
「だーいじょうぶ。だって仲間を見捨てないのが木の葉の忍だろ? ほら、俺のレベルアップにもつながるし、任務のついでにでも行かせてもらえば問題ない」
 カカシは調子よく鼻歌なぞ歌い出す。
 皆が呆れるなかで一人犬面の男だけは、なにげない優しい仕草でカカシの肩を叩いた。







 薄暗い空のした、疾走しながらカカシは思う。
 まだ夜は明けない。まだ自分はイルカの横に立つ時ではないのだと。だが、あの存在はどうしようもなく刻み込まれてしまった。放したくない。離れて欲しくない。あの中忍を助けて、負い目をなくして、胸をはってイルカを口説きにいこう。
 だって、夜はいつか明けるものだから。


















 

 


 
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