イツワラナイウタヒメ







 木の葉の里には楽の音が溢れている。
 木の葉の忍は、体術忍術はもちろん標準的に身につけているが、それ以上に、もって生まれてきた楽を奏でる力で敵を屈服させてきた。九尾の災厄の時にも、百年、いや、千年に一度の才を謳われた四代目が九尾を調伏してみせた。
 両親を亡くした九尾の災厄のいくさ場で、イルカが今でも覚えているのは、大地を震撼させ従わせるほどの圧倒的な四代目の歌声。
 あの歌声がずっと耳に残って離れない。





 一番の心配のたねだったナルトを卒業させた後、イルカはアカデミーを去るつもりでいた。
 ナルトたち若い才能に接して、自分もまたあらたな道を模索したいとそう思い始めていたからだ。上忍になることは諦めているが、指導者としてはそれなりのことができるのではないかと思っている。
 だから楽をまた学びたいと思っていた。
 ナルトが無事に上忍師につくことができ、イルカの決意はますます固いものとなった。上忍師たちへの引き継ぎを最後の仕事にしようと思い内々で火影にも伝えていたのだが、ナルトの上忍師となったのが写鈴眼のカカシだと伝えられて、その決意をあっさりとひるがえした。
 何故なら、四代目の秘蔵っ子であるはたけカカシは木の葉が誇る『うたひめ』であり、イルカにとって彼はアイドル、ずっとずっと彼の大ファンだったからだ。
 イルカとそう年が違わないカカシが、九尾の災厄の時に四代目をサポートする楽隊に加わっていたことは有名な話だ。四代目の力強い歌声をより高次のものへと導く手助けをした寄りすぐりのメンバーたち。そこに最年少で参加したカカシのことを知ったのは、親を亡くした子供たちが集められた施設にいた頃のことだ。
 日々泣き濡れる子供たちを慰問するということで、楽を奏でる者たちがやってきたのだ。
 美しい楽器の音色に心癒されたことは間違いないが、一番にイルカたちを力づけたのはカカシの歌声だった。四代目の後継者と言われるカカシは木の葉の里に古くから伝わる歌を朗々と歌い上げ、間違いなくイルカたちに力を与えてくれた。
 歌というものが人の心を動かすものだということを改めて教えてくれた。何も語らなかったカカシだが、その歌がなによりも伝えてきた。
 負けるな、くじけるなと。
 それからイルカは過去を振り返ることをやめた。生き残った命を大切にして、前を向いて生きていこうと心の底から思うことができた。
 イルカがなんとか遅咲きの中忍になれた十代の半ばにはカカシは火の国でデビューを飾っていた。
 木の葉の忍、上忍であるが、大陸を魅了する歌手。
 あれから十年が経って今でもカカシの出す曲はいつもヒットチャートを席巻して、アルバム売り上げの記録は自分でいつも更新する。ファンクラブに入っていても年に数回の大国での限定ライブはチケットをとることが叶わず、プレミアムチケットと化していた。
 いつしかカカシは木の葉の『うたひめ』と呼ばれていた。
 イルカはもちろんファンクラブに入っている。アルバムはすべて持っている。他国で限定発売された唯一の写真集もなんとかつてによって手に入れた。
 だがライブはまだ一度も行けたことがない。
 そのカカシが、ナルトの上忍師になったのだ。大ファンのイルカとしては、少しでも近づけたらと思うのは当然のことだった。
 よろしく、と手甲をとって差し出された右手に緊張した。
 大好きなのだ。自然と手の平が汗ばむ。イルカは服で何回も手を拭ってから、ごくりと喉を鳴らした。そして緊張で裏返った声で告げた。
「おおお、俺! カカシさんの大大大ファンです! 感動です。この手もう洗いません!」
 真っ赤な顔で手を出した。あからさまに震える手に、子供たちは爆笑だ。カカシは露出している蒼い目を細めて優しい表情を作ると、イルカの手を握ってくれた。
「よろしくねイルカ先生」
「ははははは、はいいいいい! 俺、俺もう、らめですやばいです死にそうです! マジ感動です!」
「あはは。ありがとうね。でも手はちゃんと洗ってくださいね〜」
 余裕の表情のまま、カカシは子供たちと去っていった。
 その後ろ姿をぼうっと見送りながら、イルカは抑えきれない喜びに顔がほころぶ。握って貰った手を頬にもっていき、うっとりと吐息をこぼす。カカシの手はなめらかだった。
 歌だけではなく普通の任務もこなす凄腕の上忍なのに、なんて腰が低くて、そして、かっこいい人なのだろう。職権乱用かもしれないが、今度是非写真集にサインをしてもらおうと思うイルカだった。



 それからの日々はイルカにとって薔薇色だった。
 大スターのカカシとお近づきになれたのだ。ナルトがイルカに任務報告書を提出したいと言い張るから、必ずカカシはイルカが受付所にいる限りイルカの元に来てくれる。ナルトがいなくても律儀に約束を守ってくれるのだ。イルカとしてはとても嬉しいが、さすがに混んでいる時にまでわざわざイルカの元に並ばせるのは申し訳ないとそう言ってみれば、カカシは、気にしないでと言ってくれた。
「俺も個人的にイルカ先生に提出したいんですよ」なんてリップサービスももらいイルカは感激したものだ。
 初めてカカシに飲みに誘われた時には天にも昇る心地がしたものだ。憧れの大スターとさしで飲めるなんて、なにかの冗談のようではないか。だからイルカは少しばかり調子にのってしまったかもしれない。
 出る釘は、打たれるのだ。
 カカシが『うたひめ』であるのはあくまでも忍者としての属性に含まれることであるから、カカシに限らず上忍たちを里でスター扱いすることは禁じられているが、そこには暗黙の了解もある。
暗部(火の国で歌手としてデビューすること)にまで登り詰めた忍者たちには、非公式だが里内で親衛隊が結成されていた。
 カカシと仲のいい一介の中忍イルカに対して、ちくりとさしてくるようなシンパもいた。だがイルカとしてはわかっている。ナルトがカカシの元にいる間だけのことなのだと。けれどそう自覚していることと他から言われることは別だった。
 カカシに誘われて何度目かの約束の飲み屋に向かう途中、待ち伏せされた。
 調子に乗るな。今だけのこと。相手は『うたひめ』なのだからと言われて、イルカの気持ちは沈んだ。
 なんとなくその日はカカシと会いたくない気持ちになったが、約束をキャンセルするわけにもいかずに入った飲み屋ではやはりカカシは注目を浴びた。半個室のボックスシートに落ち着いたが、人々は横を通る時にちらちらと視線を向けてくるのだ。カカシ自身はいたって普通にしているのだが、そこはスターのオーラで皆を引きつける。
 なんとなくこの先そう何回もカカシとさしで飲む機会がなくなる気がして、イルカは酒の勢いも手伝って、思い切って聞いてみた。
「カカシ先生は、どうして俺と仲良くしてくれるんですか?」
「どうしてって質問もないと思うけど、イルカ先生のこと気に入っているからですよ」
 さらりと返された。気負うことなくあっさりと。
 もしもカカシが普通の友達なら、こんなふうに聞くことはない。なんとなく気が合って、一緒にいると楽しく感じる相手と友達になる。二人でいて気詰まりなことがない。そこに疑問を差し挟む余地はないのだが、だが、カカシは『うたひめ』だ。その歌声で他国の忍と渡り合うのだ。そして国をまたにかける大スター。そんなカカシがいくらナルトたちとの縁があるとはいえ、どうしてイルカを特別に扱ってくれるのだろう。知人程度の立場であるイルカと親しくしてくれる理由をつい考えてしまうのだ。
「な〜んか納得していない感じですね、イルカ先生」
 見透かすように言われて、イルカは頷いた。
「俺、本当にカカシ先生のファンなんです。子供の頃から、カカシ先生がデビューする前からのファンなんです。だから今の状況はすごく嬉しいんですけど、こういうお付き合いができなくなったら寂しくなるだろうなって思うんですよね」
「俺だってねえ、イルカ先生のこと、子供の頃から知っているよ」
「はあ!?」
 イルカは頓狂な声を上げていた。いきなり何を言い出すかと思えば、からかわれているとしか思えない言葉だ。カカシは麗しい笑みを口元に浮かべているが、イルカの心は冷えていく。
「あ、嘘だと思っているでしょ。まあ正確には、イルカ先生の歌声を知っていたってのが正しいんですけどね」
「歌声? 俺は楽の才はありませんよ」
「でも歌ったでしょ。九尾のいくさ場で」
「え……」
 イルカは無防備な顔をさらした。あまりに思いがけないことを言われた。
 確かに、イルカは歌った。両親を追いかけて、見失って、四代目と楽隊たちを宙に見た時、イルカは声も嗄れよとばかりに、出来る限りの声を張り上げて、祈りの歌に唱和したのだ。己のできる精一杯のことをした。>そこここから歌が聞こえだした。そして歌は天に届いたのだ。
「俺、すごく耳がいいんだ。一度聞いた人の声は忘れない。あのいくさ場で、周りから届いた歌声に俺たちは助けられましたよ。そしてあの時に歌ってくれた子供たちはすべて、声をつぶしてしまった。だからイルカ先生も、楽としての才を失うことになってしまった」
 カカシの言うことは本当だった。
 不運にもいくさ場で正しい喉の使い方も知らずに歌い続けたイルカたちは、忍者としての声を失うことになった。当初そのことに絶望していたイルカだが、慰問の際にカカシの本物の歌声に励まされて、命があるだけでもと思えるようになったのだ。
 だがそのことをカカシが知っていただなどと、思いがけないことだった。
「イルカ先生の声を聞いてすぐにわかりました。歌ってくれた人だって。それでまず感謝の気持ちが沸きました。で、ナルトやサスケやサクラから先生のことを聞いて俺自身が実際にイルカ先生と付き合ってみて、いいなあって思ったから親しくさせていただいてます。この答えじゃ不満ですか?」
「親しくさせていただいているのは俺の方です!」
 イルカは慌てて声を上げていた。『うたひめ』にもったいない言葉をもらってしまった。かあっとなる気持ちを冷やしたくて、残っていたジョッキのビールを一気に飲み干した。
「俺、これからもカカシ先生と仲良くさせてもらっていいんですかね?」
「他人行儀ですねえ。もちろんですよイルカさん」
 その時のカカシの笑顔はきらきらと輝いて、イルカの心を深く貫いた。感動のあまりその場でぶっ倒れそうだったが、そんなことになったらカカシに迷惑をかけてしまう。その代わりにイルカはじゃんじゃんと酒を頼んでかなり気分よく店を後にした。
「カカシさ〜ん。これからうちにきて、写真集にサインしてくれませんかあ? まだそんなに遅くないですしお茶くらいお出ししますよお」
 ご機嫌なイルカはついつい調子づいたことを言ってしまった。イルカと違って喉に気を遣うカカシはほとんど飲んでいない。はしゃぐイルカに苦笑している。
「俺の写真集ですか。あれって火の国じゃ売られなかったし、そんなに刷らなかったからかなりレアですよね。イルカさんは本当に俺のファンなんですねえ」
「あったり前ですよ〜。ビッグファンです。大好っきです」
「じゃあお茶よりも、俺のために歌ってくれませんか?」
「いいですよ〜」
 脳がふわふわ状態なイルカは深く考えずに頷いていた。そして、気分がのるままに、よりによってカカシの大ヒットナンバーを歌い出す。
 気分がいいときに思わず口ずさむさわやかなポップナンバーだ。いくらでも幅広い音域がだせるカカシだが、この歌は声量のない者でも難なく歌えるから、イルカのカラオケの十八番でもあった。
 人通りのあることも気にせず夜空に歌声を乗せれば心も弾む。
 ついつい傍らのカカシに向かって歌いかければ、カカシが、歌い出した。
 『うたひめ』の澄んだ声に景色が色を変える。
 木の葉の繁華街が夢の国に染められる。
 ぽかんとなったイルカに歌を続けろと目が告げている。とてもとても恥ずかしいが、イルカも歌を再開する。イルカが歌いだすと、カカシはあくまでもイルカを引き立てるように声をおさえるが、そのあまやかな旋律はイルカの声を別のものに変える。
 なにがなんだかわからないままにイルカはカカシに助けられていつもよりも声がでる気がした。酒を飲んだあとの少し力のない声帯が、カカシの歌で潤っていくようだった。
 気持ちいい。体が震える。歌い終わった時には思わずカカシに抱きついていた。
「凄い! 凄い凄いカカシさん! やっぱりあなたは最高の『うたひめ』です!」
「イルカさんの歌声も素敵だったよ」
 そして周りからは拍手歓声。
 焦るイルカと違って、カカシはあくまでも優雅に一礼して、その場は幕となった。





「本当に本当にカカシさんは素敵です」
「もう、イルカさん、それ何回目ですか」
 イルカは浮き立つ気持ちを抑えられなかった。自分が気分よく歌えたことはもちろんだが、それよりもカカシと一緒に歌えたことがまるで夢のようだった。
「俺、今夜が生まれてきてから一番の幸せな時です。カカシさん、ありがとうございます」
 家についた。なかに入る前に改めて向き合って頭を下げたが、カカシは静かな顔で、じっとイルカを見つめてきた。ありえないくらい美形なカカシにじっと見られるなどしらふの時なら照れくさいのだが、酔っぱらっているイルカはじっとカカシを見つめ返した。
 すると。
 徐々にカカシの顔が近くなってきて、唇に体温が近づいて、キス、されていた。
 え? と思った時には唇は離れていた。
 それでも間近にカカシの顔がある。カカシの手が、イルカの頬を撫でる。もう一度今度は鼻の傷にキスされた。ぼうっとするイルカにカカシは優しく笑いかけてくれた。
「今日は楽しかったよ。ごめんね、サインはまた今度。おやすみなさいイルカ先生」
 夢の時間が、終わった。





 それから一週間ほどのイルカはひどいものだった。
 新人の頃にもやらかさなかったような凡ミスを繰り返し、同僚の教師はおろか子供たちにまで馬鹿にされ怒られ、終いには真剣に心配された。
 どうしてカカシはキスしてきたのだろう。
 任務が入ったらしくカカシとはあの夜から会えていない。
 イルカは家の中でごろごろしてはカカシのポスターを見つめ、キスを思い出して一人で顔を赤らめてため息をついて、そしてまた思考は堂々巡りを繰り返す。
 どうしてキスしてきたのだろう、と。



 ナルトたちの中忍試験の際にさしでがましい口をききカカシに叱責されたことはイルカにとって痛手になった。
 それまで気さくな人柄のカカシしか知らなかったイルカは、調子にのっていた自分を穴に掘って埋めてなかったことにしてしまいたいくらいだった。
 カカシの元でナルトたちは確実に成長を遂げているが、まだ変声期も終わっていない。いくらグループ活動とはいえインディーズデビュー(中忍試験)には早すぎるのでないかと思ったのだ。
 中忍になるには火の国のすべてのライブ会場での活動を二ヶ月でこなさなければならない。自分たちで作り上げたライブを行い同時進行で製作したアルバムを自分たちの力だけで売って、その結果をもって判断がくだされる。
 イルカの頃はアルバム製作だけだったが、それだけでも大変だった。それが今はライブ活動もこなさなければならないのだ。しかも客の入りのいかんによっては途中失格となる。だからイルカとしてはもう少し路上パフォーマンス(下忍)としての修行を積んでから、と思ったのだ。
 カカシは才能のある有名人でイルカは庶民。これがもともとの距離だったのだと納得させたが、その夜イルカは少しだけ泣いた。
 キスの意味を問いかける間もなかった。
 きっとカカシにとってキスなんて、なんの意味もない挨拶のようなものなのだ。そう思ってもやるせない気持ちは拭えなかった。



 謝らなければならないと思った。
 そう思ったらいてもたってもいられず、楽屋に挨拶する間も惜しくアンコールの前にはイルカはライブ会場を飛び出していた。
 ナルトたちの最後のライブの日、イルカはこっそりと会場に足を運んだ。もちろんイルカは忍だから客としてカウントされないし、カカシの手前ナルトにかまわないほうがいいのだろうが、どうしても聴いておきたかった。
 会場についてまず驚いたのは、三百人はいるライブ会場がぎっしりと埋まって、立ち見となっていたことだ。
イルカは関係者ということでステージの袖へ案内されたが、そこには他国の忍たちも大勢おり、ナルトたちへの注目の高さを伺わせた。
 ナルトは変幻自在のミラクルボイスと言われ、超絶技巧と絶対音感の申し子であるうちは一族のサスケと、まるで男のような力強さでドラムを叩くサクラ。この三人の圧倒的なパフォーマンスに熱い視線が集まるのは当然といえた。
 確かに才能もあるし努力もしている。
 だが実際に三人の生の演奏を聴くまで、これほどだとはイルカは思っていなかった。
 二時間があっという間だった。ナルトのアカペラの歌で始まり、途中からサスケのギターが音色を奏でナルトの音を高みへと引き上げ、サクラが加わった瞬間会場がひとつになった。
 瞬きさえ忘れ引き込まれて、イルカが我に返ったのはアンコールを叫ぶ会場の声だった。体中が火照っていた。ナルトたちの歌に心が震えた。呆然とステージを見つめるイルカにナルトが視線を向けてきた。大人びた顔をして頷くと、右手の親指をたてて、笑った。自信に満ちた笑顔にイルカは瞬時に悟る。
 カカシは、間違っていなかったのだと。
 里に戻って上忍の待機所に行ってみたがカカシはいなかった。火影の水晶にでも居場所を探し出して貰おうと執務室に駆けていく途中、前から歩いてくるカカシを見つけた。
「カカシ先生!」
 名を呼べば、カカシは少し目を開いて、止まってくれた。目の前に立ったイルカに優しく笑いかけてくれる。
「こんにちはイルカ先生。久しぶりですね。さっき報告がありましてね、ナルトたち」
「申し訳ありませんでした!」
 カカシの言葉を遮って、謝罪の言葉とともに頭を下げた。
「俺、俺なにもわかっていませんでした。今日ナルトたちの歌を聴いたんです。俺、感動しました。めちゃくちゃ感動して、泣きそうになりました。カカシ先生は正しかったです。あいつらならもう大丈夫です。俺なんかの想像のできない早さで成長しているってわかりました」
「イルカ先生、落ち着いて。ね」
 まくしたてるイルカをカカシは穏やかに制した。こんなところでなんですから、とカカシに言われてあらためてここがアカデミーだったことに気づく。有名人のカカシは里にいても『うたひめ』であることにかわりはなくて注目される。カカシはイルカを促して火影の執務室にとって返した。
「火影さま〜。
ちょっと席をはずしてもらっていいですか?」
「なんじゃカカシ。イルカも」
「イルカ先生とお話があるので、二人にしてください」
 火影はその場にいたいような感じだったがカカシの無言の笑顔の圧力にしぶしぶながらも席を外してくれた。
「イルカ先生に聞いて貰えたなら、あいつら嬉しかったでしょうね」
 ソファに腰掛けたカカシは優しく言ってくれるが、イルカは己の浅はかさに落ち込む思いだった。そんな自分の心のうちをカカシに聞いて欲しかった。
「俺、教育者に向いているなって図々しく思っていたんです。でも今回の件でよくわかりました。俺は未熟な人間です。なにより生徒を信じてやれなかった。お恥ずかしいです」
「そんな死にそうな顔で反省する必要ないでしょう。イルカ先生はあいつらのこと信じてないわけじゃなくて、心配していただけでしょ」
「でも……」
「まさか教師やめるとか言わないでくださいよ? そんなこと言い出したら上忍命令で止めなくちゃならなくなる」
「そんな。カカシ先生、俺なんか」
「『俺なんか』って言葉嫌いです。それって頑張ろうとしない自分を正当化する言葉でしょ。未熟だなって思うならこれからまた精進すればいい。なーんて、俺なんてそんなことの繰り返しですよ」
 カカシは苦笑して肩を竦める。イルカを慰める言葉に、やっぱりこの人は憧れの『うたひめ』だとイルカはもう何度目かわからないがカカシのファンになる自分を感じた。>何度でもカカシに惹かれる。心が軽くなって、イルカも自然と笑顔を浮かべていた。
「そうですね。俺も、頑張ります」
「そうそう。それでいいでしょ。ところでイルカ先生、あの夜のことは、覚えているよね?」
 唐突な話題転換に、イルカの脳裏にはあの夜の、カカシとのキスが、プレイバックされる。かれこれ三ヶ月ちかくも前になるのに、かあっと脳が焼ける。
「あ、はい……。覚えて、ます」
 ちらりとカカシを伺えば、頬杖をついて、茶化すような視線でイルカを見ていた。
「あのキス、どう思った?」
「どうって……」
 なんて意地の悪い質問。どうもこうも、イルカは常識的な一般忍者なのだ。さすがにあんなキスだけで勘違いはしない。
「俺が歌ったから、そのご褒美ですか?」
「違いますよ〜う」
「じゃあ、俺がファンだファンだって言うから、思い出にキスくらいしてやるかってとこですか?」
「ぶぶー。なんですか思い出って」
「ただなんとなく、キスしてみたかったから」
「イルカさ〜ん」
 カカシはため息をついたが、イルカの方こそ嘆息したい心境だ。
「ねえ、もっとシンプルに考えられないかな?」
 そう言われてさすがにイルカもかちんときた。からかわれているのかもしれない。
「わかりました。じゃあシンプルに。カカシさん、俺のこと好きなんですね」
 やけ気味に言ってやった。
「うん、そう。あたり」
「はいはい。ありがとうございます」
「イルカさん」
 けっと吐き捨てたイルカだったが、いきなり腕を引かれた。気づけばカカシの腕の中。驚いて顔を上げたところを、口を塞がれた。
「!」
 動揺した隙に、入りこんでくる舌。口の中をカカシの思うさまなぶられて、酸欠になりそうな激しい口づけのあと、ぐったりとなったイルカはカカシに抱きしめられていた。
 イルカを腕の中に閉じこめて、カカシは耳元で囁いた。イルカが大好きなうっとりとする声で。
「本気なんだから、茶化さないで。好きだよ。あんたのことが好き。俺と付き合って欲しい」
 耳の奥にねじこむような声に、イルカはぶるりと震える。
「そ、んな、の。うそ」
「どうして信じないのかなあ」
「だって、カカシさんは、『うたひめ』だから……」
 口にした途端、イルカは陶然とした気分から引き戻された。
 そうだ。カカシは木の葉の里が誇るスターなのだ。イルカに対して色恋を囁いている場合ではない。
「は、離してください!」
 慌ててカカシを突っぱねようとしたが、腕の力は強まるばかり。
「カカシさん! 俺、あなたのファンだけど、恋人になりたいとかの好きじゃないです!」
 その言葉にはさすがにカカシの腕の力は弱まった。その隙にイルカはカカシの腕から抜け出す。カカシはイルカのことを不満げに見ていた。
「イマイチよくわからないんだけど、ファンって、イコール好きだよね。それで俺もイルカさんのことが好き。お互い特定の相手もいないし障害もない。それでどうして付き合えないの? 恋人の好きじゃないとかわけわからないこと言うの?」
「それは……っ」
 障害なら、あるではないか。カカシは至高の『うたひめ』。それを一般忍者のイルカが恋人になんかなっていいわけがない。
「ねえイルカさん。もしかして俺が『うたひめ』だからって理由じゃあないよね」
「え?」
 あからさまに動揺してしまったイルカにカカシは大仰なため息を落とす。
「あのさあ、そういうくだらないこと言わないでよ。俺は『うたひめ』なんていわれているけどそれは忍者としての特性の一部であって、いたって普通の男ですよ」
「それは違います」
「違うってなにが」
「あ、あなたは、選ばれた人間なんです」
 イルカは叫んでいた。
 そうだ。カカシには才能がある。カカシは祝福を受けた存在だ。
「誰もがカカシさんみたいになれるわけじゃない。あなたは特別なんだってことを自覚してください」
 イルカの言葉にカカシは目を伏せた。
「特別って、そのせいで好きな人にふられるんだ」
「ふられるとか言わないでください。そもそもカカシさんが俺なんかと付き合うなんて……っ」
「イルカ先生」
 特に大きな声をだしたわけではないのに、一瞬で相手を黙らせるような冷たい声音だった。
 びくりと身を震わせたイルカに立ちあがったカカシが近づいてくる。冷徹なまなざしで見つめられて、イルカは緊張に顔を強ばらせる。カカシは歪んだ笑いをみせた。
「さっき言ったよね。『俺なんか』って言葉嫌いだって」
 視線だけで縫い止められる。動けない。
「そうやって自分にいいわけばかりして、安全な道を歩いていけばいいよ。バイバイ、イルカ先生」
 そのままカカシは出て行ってしまった。
 一人残された執務室でイルカは倒れ込むように傍らのソファに座る。
 いやな感じで汗をかいている。ふうと腹から息を吐き出す。ソファの背に反り返って、目を閉じる。
 バイバイと言われた。呆れられた。けれどカカシはわかっていない。カカシの歌声でどれだけの人が励まされるかということを。力を与えて貰えるかということを。スターに私生活はないというつもりはないが、でもそれでも特定の存在がいればファンは落胆する。
 ずっとずっとカカシのファンだったから、ファンの気持ちがわかるから。
 イルカに頷くことなどできはしなかった。





 気まずいままにカカシを別れてしまってからひとつきほど経った。
 カカシのことはなるべく考えないように、アルバムもDVDもポスターもすべてカカシに関するものはしまいこんで平静を保とうとしていたというのに、よりによってこんなタイミングでカカシのライブが急遽開催されることになったのだ。

 ライブのタイトルは―イツワラナイウタヒメ―。

 火の国最大のドームで行われるライブは同盟国に配信される。カカシの歌声は命あるものを活性化させるとも言われて定評があった。
 どうせ当選するわけがないと思いつつもイルカはチケットを申し込んで、やはり落選した。これでいいのだと思っていたというのに、公演前日に、差出人不明でチケットが、しかもアリーナ席が送られてきた。
 誰からかなどと考えるまでもない、カカシ本人からだ。
 ポスターのサイズを小さくしたちらしのカカシは暗部の装束を大胆にアレンジした衣装を身にまとっていた。背中ごしに振り向いているカカシ。形のいいヒップが丸見えで、うさぎのしっぽのようなものがついていた。
 憂いのある表情が儚げでもあり、なにかを訴えかけているようでもあった。
 じっと見つめていれば、会いたい気持ちが沸いてくる。
 どうしてあの時、断ってしまったのだろう。カカシのことを、傷つけてしまったのだろう……。後悔ばかりが沸き上がる。
 今更会って、気持ちを告げて、それをカカシは受け入れてくれるだろうか。
 迷う気持ちはある。だがわざわざチケットを送ってくれたカカシの気持ちを信じたいと心を決めたのは公演当日。もうすぐライブが始まる時間だった。
 イルカは勢いよく立ちあがった。

 音の洪水の中、会場は熱気以上に、狂気ともいえるほどの興奮状態となっていた。
 皆立ちあがっている。
手を振り上げて、共に歌って、カカシに酔いしれていた。
 イルカが普段着のままよれよれで会場に着いたのは、すでに半分ほどの時間は経過した頃だった。
 ステージの上でカカシは輝いていた。
 キレのあるダンスと共にステージ中を駆け回ったり、しっとりと歌い上げるバラードがあったり、ギターをかきならしたり。カカシは多才だった。
 イルカは初めてのライブに呆然となった。見惚れるしかできなかった。他の人たちのようにのりのりで手を振り上げることもできずに、ひたすら食い入るようにカカシを見つめていた。
 次がラストの曲だという前に、カカシのMCが入った。
 薄い唇に水を含み、銀の髪に汗を散らすさりげない姿にさえ艶があり、会場からはどよめきが起こる。
「次が最後の曲なんだけど、みんな、楽しんでくれたかな」
 問いかければ会場中から、最高! と声があがる。終わりたくない! と悲鳴じみた声も聞こえる。
 ライブというのは夢の時間だ。だからこそ終わってしまうのだろう。
 イルカは瞬きも忘れひたすらカカシを見ていたが、不意に、視線が合った気がした。すかさずイルカの周囲から目が合ったと声がする。まさか、と思っているうちに、カカシはまた喋りだした。
「あのね、みんなに聞いてもらいたいことがあるんだ。ちょっと座ってくれる?」
 ふうとひとつ呼吸をいれたカカシは、皆が座ったのを見届けると、にっこりと人々を悩殺する笑顔をみせた。
「俺、好きな人がいる」
 瞬間、会場は静まった。
 そして徐々にざわめきが拡大して、そのうちに悲鳴のような声があがる。
 カカシは会場内の喧噪を黙したまま、見ていた。真っ直ぐな視線が、会場を黙らせる。再び会場が静まると、カカシはさばさばとした様子で笑った。
「と言っても俺の片思いなんだけどね。いや、もっと正確に言うと、ふられた」
 うそぉ、えええ? ありえなーい。
 そんな声が怒濤のようにあがる。
 イルカは、ひたすら縮こまっていた。もしかしなくてもこれは、イルカに対して言っているのだろうか。いや、そうとしか思えないが。
「その人にふられた理由ってのが、俺が『うたひめ』だからなんだって。俺が選ばれた人間だから。特別だから、だから、普通の自分とは付き合っちゃ駄目だって。そんなふうに言われた。それでみんなに聞きたいんだけど、やっぱ俺って特別なの?」
 そんな、聞くまでもないことをカカシは真剣に問いかけた。>案の定、会場いったいとなって、特別だと声が上がる。
「そっかあ。俺としてはちょっと楽の才能がある程度にしか思ってないんだけど、特別なのかあ」
 カカシはかわいらしく小首をかしげてなにやら考え込む。次はなにを言い出すのかとイルカは生きた心地がしなかったが、おそらく会場中すべてそんな気分だったはずだ。
 カカシはちょっと待ってて、と言い置いてステージの袖に消えてしまう。カカシが姿を消した途端ざわめきがまた沸騰した。今のカカシの発言についてみなが議論を交わしている。イルカはその声を聞いていた。自分なら付き合う、いやふった人の気持ちがわかる、正しい、などと聞こえてくる。
「みんなーお待たせ〜」
 顔を上げれば、カカシは木の葉の里で中忍以上に至急される忍服を身につけて現れた。口布を鼻の上まであげて、左目は額宛で隠し、髪は飛び跳ねている。
 『うたひめ』としてのカカシしか知らないファンたちにとっては一瞬でも唖然としておかしくない姿だろう。
 だがイルカにとっては、普段の、カカシだ。イルカがよく見慣れた、親しくさせてもらった、カカシだ。
 好きだと言ってくれた、カカシだ!
 イルカの目からはぶわりと涙が溢れた。
「みんな知ってると思うけど、俺の本来のお仕事は木の葉の里の忍者なんだよね〜。こんなあやしい格好で里を歩いて、任務こなしてるわけ。全然『うたひめ』っぽくないでしょ。普通だよね?」
 普通じゃないよーとすぐに応える声にカカシはがくりと肩を落とす。
「そっかあ、これでも普通じゃないのかあ」
 笑い声があがる。カカシのある意味パフォーマンスのような言動に会場は温かな空気をかもしだしていた。
「まあいいや。俺としては、普通なの。ただの忍者なの。だからさ」
 髪を手ぐしで梳かしたあと、呼吸を整えたカカシはファンに向かって笑いかけた。>せつないほどの透明な笑みがその顔には浮かんでいた。
「俺が人を好きになっても、いいよね? 俺、自分の気持ちを偽りたくない」
 イツワラナイウタヒメ。
 ライブのテーマはここにあった。
 イルカは、思わず立ちあがっていた。アリーナど真ん中の席で。ばちりとカカシと目が合う。
 泣き笑いの顔で、イルカは叫んでいた。
「いいよお! 『うたひめ』が恋したって全然いいっ! そのほうがかっこいい!」
 がたがたと会場中が再び立ちあがる。そして渦のような歓声が上がる。涙ぐんだカカシは深くお辞儀をすると、涙を振り切って、マイクをたかだかと宙に掲げた。
「ありがとうみんな。愛してるよ! 最後の曲はみんなに捧げる。新曲【イツワラナイウタヒメ】。俺の歌、心して聞けよー!」  シンセサイザーの機械音が満ちてくる。>会場中を飛び交う光の光線。幻影のオブジェ。上がる歓声はひとつ。
 至上最高の『うたひめ』を祝福する。
 カカシが、忍服のままで歌い上げたのは今までで最高の歌だった。



 雨降って地固まるというのはこういうことをいうのかもしれない。
 その後イルカはカカシを受け入れて、二人は恋人同士だ。カカシのパフォーマンスのおかげで二人の仲はファン公認。特に波風もなく、見守ってもらえている。カカシの相手が男だったことも特にファンを引かせることはなかった。カカシ曰く、逆に女性ファンにとってはよかったのではと。女性はアイドルに対してへたな女につかまるよりは男のほうがいいという思考があるそうだが、イルカにはよくわからない。
 なにはともあれ、二人は今日も愛し合って、ひとつのベッドで眠っていた。
 まどろみの中にいるイルカの耳元をくすぐる声。
「好きだよ」
 と何度でも告げてくれる声。
 イルカは好きだと返す代わりにカカシの胸に顔を埋めた。



 イルカを遠く高く導いてくれる天上の声に、この先の生涯ををゆだねた。





                    

FIN