■ザ☆中忍 5






「アニキー!」
 道の向こうから元気いっぱいに駆けてくるイルカの姿を見つけて、カカシは緊張する。平常心平常心と内心で唱えながら、ぎこちない笑顔を口元に敷いた。
 あの夜から三日経っている。
「いやあ、ご心配おかけしましたがすっかり元気になりました」
 カカシの前でイルカは直角で腰を曲げて頭を下げる。
「そ、それは、よかったですねえ」
「はい! アニキのおかげです!」
 イルカのさわやかな笑顔が輝く日の光のもとで更にまぶしくパワーアップして見える。心にやましいものを抱えたカカシはさっさとこの場を去りたいのだが、三日ぶりに見るイルカともう少しこうしていたいなあという気持ちもあってその場に留まっていた。
「今回のことでアニキの言っていたことが身に沁みました。脳みそかるい上忍相手に力で対抗したらダメなんすね。これからは頭脳戦でいきますよ俺は」
「それは、よかった、です」
 復活したイルカのテンションは高いが、カカシはイルカの笑顔が見ていられない。
 三日前の晩、怪我のせいで痛みに呻くイルカに触れてしまった。イルカに頼まれたことだとは言え、あれは断ることができたことだったし、普通は断るだろう。なのに、同じ男のアレに触って興奮してしまった。イルカの喘ぐ声に欲情してしまった。
 翌朝目を覚ましたイルカはすっかり元気を取り戻していたが、そのことについて一切触れなかった。だからカカシもなにも言わずに病院を去った。
 自宅に戻っていったいどういうことだと己の中と向き合ってみた。
 いくらイルカが怖いからとはいえ、なぜあんな暴挙にでてしまったのだ。同じ男のあそこをいじくっても嫌な感じはしなかった。むしろ……。
 うわーと叫んでカカシは布団の中にもぐりこんだ。向き合いたくない。己の本心など、恐ろしくて直視できない。すぐそこに見えている結論から目を背けて、ついでにイルカのこともさりげなく避けていたのだった。
「アニキ、今、時間ありますか?」
 イルカが、上目遣いに訊いてきた。そんな視線にどうしてかくらりときてしまう。
「あの、ちょっと、聞いて欲しいことがありまして」
 おや、と思った。イルカは頬を赤くして、ためらいがちなもの言いだ。もしや。もしやもしや。あの晩のことだろうか。イルカらしからぬこの様子、もしかしたら、あの夜のことを覚えていて、俺、アニキのこと……なんて言い出すのだろうか?
 それはそれで……。
 先走る想像にカカシははっとなってぶるぶると頭を振る。
 なんだこの妄想は! そうではなく、今更だが文句でも言われるのかもしれないではないか。思い返してみればしっかり興奮して鼻息荒くしいたのだカカシは。キモイんだよてめえとぼこにされたりする可能性もある。
 悪い想像は加速する。しかし逃げるわけにもいかず、ぎこちなくカカシは笑った。 
「じゃあ、昼飯でも食いながら、聞きますよ」
 そう言って、退院祝いをかねて少し豪勢な店にイルカを連れて行った。夜は目ン玉が飛び出るくらいの値がつく料亭だが昼間は良心的な値段でランチをやっている。カカシはオーナーと顔見知りでもあって、奥まった座敷に通して貰えた。
 煮魚の定食を頼んでから、お茶を飲んで待つことしばし。前栽からはかぽーんと鹿脅しの音がする。イルカは聞いて欲しいことがあると言ったくせに当たり障りのない会話をしている。中忍試験の準備のことや、ナルトたちのこと。
 やっと言いたかったことを口にしたのは、食事が終わってデザートの柚のシャーベットを食べている時だった。
「病院でのことなんです」
 と切り出されて、やっぱり、とカカシは緊張する。緊張を隠すためにへらりと作り笑いで対応した。
「病院で、どうかしたんですか?」
「実は、俺……」
 きゅっと口を結んで、ちらりとカカシを見る。そのかわいらしい視線と言ったらない。
 は? かわいらしい? おかしい俺! さっきから絶対おかしい! カカシは心の中で己に突っ込みを入れて悶えていた。しかしイルカに不審がられても困るので、ポーカーフェイスで告げた。
「なんですか? なんでも言ってくださいよ」
 はあ、と息をついたイルカは意を決したのか、背筋を伸ばした。
「アニキ、笑わないでくださいね?」
「笑いませんよ」
 それでも最後のためらいゆえか目を伏せたイルカだったが、思いきって顔を上げた。
「実は俺あの夜、いい年して夢精しちゃったんです!」
 夢精かよ! とカカシはすべりそうになる。しかし思ったよりもイルカの声が大きくて、個室とは言えカカシは周囲を気にしてしまう。
「ちょっと、イルカ先生、もう少し声のトーンを落として。ね」
「別に、たまってはいないはずなんです。適当に抜いていますし。それなのに俺って男はっ。情けなくって情けなくって、首でも吊ろうかと思いました」
「首吊り?」
 極端なイルカはまた穏やかでないことを言う。本当にやりそうなところがあるから怖い。
 しかしこんなことを言い出すイルカはあの夜のことをまったく覚えていないということだ。暢気というか調子いいというか。
「いやそれはまあ冗談ですがね、これはいけねえと思いました。彼女でも作った方がいいってことっすよね」
「彼女?」
 カカシは愕きっぱなしだ。イルカは照れた時のくせで鼻傷のあたりをかくと、頷いた。
「あの、幼なじみのあいつです。妹みたいなもんなんですけどねえ」
 カカシは固まった。イルカは続いてあっさりと言ってくれた。
「実はこの間病院で告白されたんすよ。あいつ俺のこと好きだから気を引きたかったって。長年妹分だった奴ですからね、返事は保留にしてたんすけど、今日あたり……」
 固まっている場合ではなかった。イルカは嬉しそうに笑っているではないか。
 この笑顔が他の人間のものになるなんて嫌だと思う自分がいる。
 カカシは、いやが上にも己の心と真っ直ぐ対面することになった。
 どうやら、イルカのことを、好きになっていたらしい。
 だからイルカが中忍女をかばうことがなんとなく面白くなくて、イルカ一人が貧乏くじを引くことに憤慨した。
「ダメです!」
「へ?」
 イルカの目がまん丸になる。
「あの女はダメです!」
「え? あの、それは一体……」
「あんなのあばずれって言うんですよ。イルカ先生のことだって、からかっているだけです。だっていろんな男引っかけてからかうような女なんでしょ? そんなのと付き合ったらイルカ先生も適当なところで捨てられますよ。それに、妹みたいなものならそれでいいじゃないですか」
 はあはあと息があがる。イルカは悲しそうに表情を歪めた。
「そんな、そんなふうに言わなくても……」
「あなたひとがいいから騙されているんですよ。俺はアニキとしてそんなの許しませんからね」
 イルカは俯いてしまった。しぼんでしまったイルカに言い過ぎたかと思わないでもないが、仕方ない。
イルカの幸せは俺の幸せ、なんて余裕で祝福ができるようなできた人間じゃない。そんなきれい事な気持ちじゃない。それにここで降りたら、勝負する前に諦めるのと同じではないか。
「でも俺、いい機会だと思って。あいつのこと、ちゃんと好きになれそうな気がするし」
 俯いたままイルカは小声ながらもはっきりと口にした。好きという言葉にかっとなったカカシの心は決まった。
「じゃあ俺とどっちが好きなの?」
 一拍の間の後、イルカはのろのろと顔を上げた。
「あいつとアニキを比べることなんてできません」
「比べてよ。今すぐ比べて」
「何言ってんすかアニキ。おかしいですよ」
「おかしくてもなんでもいいから。はっきり答えを出して」
「アニキ……」
 イルカはべそをかくような表情になる。カカシの責めるような言い方にとまどっている。どちらが好きかなどと、子供じみた質問だ。それでも聞かずにはいられなかった。
「どうなのイルカ先生」
「それは……」
 あっさりと女のほうだと言われないことにひそかに安堵する。迷っているということは、あの女と付き合わないかもしれないのだ。
 正座したままぐっと拳を握って、イルカは考えている。しかし待てども待てどもイルカは何も言おうとしない。昼もかなり過ぎた。これ以上は待てないとカカシは立ち上がった。
「残念タイムアウト」
「アニキ」
 イルカも立ち上がろうとするのを制した。
「答えがでたら会いにきてよ。もしあの女と付き合うようならそれでもいいよ。その場合俺はもうイルカ先生のアニキじゃないから」
 ぴしりと言えば、イルカは泣きそうになる。抱きしめて嘘だよと言ってやりたかったが、ぐっと堪える。ここで引いてしまったら勝負は終わりだ。
「じゃあねイルカ先生」
 ごめんねと心で謝る。もしもイルカが女を選ぶなら、それもいい。その時は男らしく諦める……とは思えないが。
 しかし。
 センチな気持ちのままで行こうとしたカカシは、イルカに引き留められた。
「え? なにか言った?」
 俯いたイルカの小声が聞き取れずもう一度部屋に戻ろうと一歩踏み出せば、イルカはゆらりと顔をあげた。
 暗く燃える目には、間違いようもない、怒りがあった。
「ちょっと待っておくんなせえって言ったんですよおおお」
 地を這うような低い声にカカシは失敗をやらかしたと瞬時に悟る。久しぶりのすごんだ三白眼全開だ。正座から片膝だちになったイルカは、立てた方の膝に片腕を乗せて、斜に構えてカカシをひたと見据えた。
「アニキよお、なにせせこましいこと言ってやがんだよお。女とアニキを比べろだとお? あんた男相手の惚れたと女相手の惚れたを同じ土俵で考えようってなあどういう了見なんですかい」
 カカシは部屋の中に体を踏み出した不自然な姿勢のまま固まった。氷の彫像のように固まった。誰かがとんかちでこんと叩けばばらばらにくずおれるほどのかたまり方だった。
「あんま情けねえこと言わねえでくだせえよ。アニキはアニキ、女は女。それのなにがいけねえんですか」
 カカシの無茶なもの言いに怒りを表しながらも、それでもイルカはどこか悲しげだった。
 なにか言わねばと思うのだが、結局カカシはひとことも喋ることができなかった。そのうち、重いため息を落としたイルカが、部屋を出て行ってしまった。



 中忍試験が始まり、第一の試験、筆記ではナルトは危うい橋を渡ったが、なんとか合格した。次の巻物奪取の試験までまた数日の猶予がある。
 子供たちは頑張っている。だがカカシは何もする気が起きずにぼうとしていた。
「カカシ先生元気ないってばよー。せっかく俺達合格したのに」
 ナルトが傍らでぶうぶうと頬を膨らます。
「そうね。試験のこと報告しても気のない感じだし」
「カカシはこんなもんだろ」
 サクラとサスケからも今の自分を評されて、はあとため息が漏れる。一楽での一次試験突破祝いの最中だ。
「お前らと違ってね、大人にはふか〜い悩みがあるのよ」
「なにが深い悩みだってばよ。こんなんじゃイルカ先生のアニキ失格だな」
 う、とカカシは胸を押さえる。確かにアニキ失格だ。理不尽なことをイルカに突きつけて、そしてイルカはカカシの元にはやってこない。もしかしたらとっくに三行半でイルカはカカシのことなどきれいさっぱり過去のこととして忘れてしまっているかもしれない。
 会いに行きたい。しかし会いに行くのが怖い。そんなジレンマにカカシは毎晩悶えて、悶えるついでに病院でのイルカを思い出してそれこそ情けないことに己を慰めてしまっていた。


 とんとん拍子に試験は進み、巻物奪取の試験が終わった。不測の事態が起こりはしたが、まずは七班は全員次に進むことができた。大蛇丸に呪印を施されたサスケのことは気がかりだが、出来る限りのフォローをする。それが今のカカシにできることだった。
 サスケの呪印に封印を施し、トーナメント戦までにはまだ少し間がある。大蛇丸とも対峙して、少し疲れたのは確かだ。
 なんとなくぼんやりとして窓の向こうの雨に塗り込められた景色を上忍控え室で見ていた。
 思いがけないことにそこに、イルカがやってきた。
「失礼します」
 と頭を下げてイルカが入ってくる。ぼんやりと見守る視界の中、窓に添うように曲線を描くソファにいるカカシと向かい合う位置にイルカは座った。
「お久しぶりですアニキ。ご無沙汰しました」
「……そう、ですね。元気でしたか」
「ええ。アニキのほうはいろいろと大変だったみたいで。ご苦労さまでした」
「まあ、うん」
 そのあたりでやっとカカシは意識がしゃっきりした。イルカが、きた。しかもわざわざカカシが一人いる場所にやって来た。とうとう三行半か?
「俺、今回の巻物の試験で、七班の伝令役を務めさせていただいたんです」
「そうらしいね。アンコに聞きました」
「それで、思ったんです。やっぱりアニキはすげえなって」
「え? なにが?」
 イルカは真っ直ぐにカカシのことを見返して自嘲気味に喋りだした。
「ナルトに言われちまったんです。しらねえうちに過保護になっちまってたんですよ俺あ。反省しました。やっぱりアニキが正しかった。俺とのほうがあいつらとの付き合いは長いのに、アニキのほうがよっぽどあいつらのことわかってたんだなあって。さすがですアニキ」
「そんなことないですよ。イルカ先生の気持ちはあいつらちゃんとわかっていると思います」
 班での任務を行っている時にイルカの話題がよくのぼったものだ。そんな時はサスケでさえも話に入ってきた。
「まあそれはいいんですがね。アニキ」
 穏やかに笑っていたイルカの目がかっと見開かれる。いきなり立ち上がる。カカシが最初に恐怖を覚えた三白眼がごおごおと燃えていた。
 なに? なになになに? なにが始まる!?
 カカシはどきどきしつつイルカの言を待つ。ただ単に恐怖で硬直してたのだが。
「アニキよお……」
「はいいいいぃぃぃ」
 カカシは涙目ながらもなんとか返事をした。
「あんな二者択一があるかあ! ごらああああああ。だいたいだなあ『好き』って気持ちを秤にかけるんなんてこと俺はしねえんだよ! 好きなもんは好きで嫌いなもんは嫌いなんだよお! さんざん悩んだぜ俺あ!」
 カカシはソファの上に足を引き上げて丸まると、両腕で体を抱きしめて震えた。
 怖いよー怖いよー、と心で怯える。イルカの頭から湯気がたっている。
 ふしゅうと呼気を吐きだしたイルカは再びソファに腰を下ろした。
「失礼しました」
 そう言ってイルカはたった今の激高などなかったようにあっさりと頭を下げる。カカシは遠い昔のようになってしまっていたイルカの姿を久しぶりに見て石像のように固まったままだ。
「アニキ? どうしたんです?」
「ご、ごごご、ごめんなさい」
 とりあえず素直に謝ればイルカははっと何かに気づいたようにぴくりと反応して、大袈裟に頭を下げた。
「こちらこそ! 申し訳ありません! つい興奮しちまって! スンマセンスンマセン。アニキに対してなんてことをっ」
 汗を飛びちらさんばかりにイルカは反省しているがカカシはぐったりだ。もしかしてイルカのことを好きだと思ったのは気のせい、勘違いだったのかと思う。
「それで、ですね、アニキ」
 突然イルカが隣に座った。緊張したままぎぎぎと首を横に巡らせれば、イルカはカカシの大好きな優しい笑顔を見せてくれた。それを目にした途端、緊張していた体は弛緩して、心臓は高鳴る。やはり勘違いではなく、イルカのことは好きなようだ。
「気持ちを秤にかけたわけじゃあねえんですぜ。けどね、カカシのアニキがアニキじゃなくなっちまうのは嫌だなって思いました。だから、あいつと付き合うのはやめにしました」
 イルカはさらりと言ってくれたが、カカシはまじまじとイルカのことを見てしまう。
「え、でも、好き、なんでしょ?」
「好きですよ。言ったじゃないすか、幼なじみで妹みたいなものだって。まあ、俺も夢精なんてしちまったからこりゃあいけねえって思って付き合おうなんて不純な考えだったわけですよ。でも、きっとあいつには俺よりもっとふさわしい奴が現れます。ですがねえ、俺にとってアニキの代わりはいないんすよ」
 くすぐったそうにイルカは肩を竦める。
 イルカは、なんでもないことのように簡単に言ってくれたが、代わりはいないと言い切られて、カカシは殴りつけられたような衝撃を覚えた。真っ直ぐな、嘘偽りのない言葉が、胸を打つ。
 それじゃあと言って立ち上がったイルカの右手を、掴んでいた。



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