■ザ☆中忍






「優しそうな先生だね〜」
 初めて持った生徒たちの担任だった海野イルカと言葉を交わしたあとカカシなにげなく口にした。
 三人が合格したことを報告に行くと言うのでなんとなくついていったのだ。元の教え子、特にナルトを見る目は親のそれのようで、カカシは素直に優しいねえと思ったのだ。
 カカシの前を歩いていた三人がぴたりと止まる。
 同時にくるりと振り向いた時、三人ともが同じ顔をしていた。
 子供らしからぬ座った目で、深く重い息を吐き出した。

 どこからどう見ても、徹頭徹尾人の良さそうなイルカに対して、優しい以外のどんな評価あるというのか。子供たちの様子が腑に落ちないながらも、まあたいしたことではないかとそのままにした。
 イルカとは受付で顔を合わせる程度だろうし、人となりを知りたいほどの興味はわかなかった。



 そんなある日の昼下がり。
 野暮用でアカデミーを訪れたカカシは愛読書を読みながら暢気に歩いていた。
 里は平和だ。火影からのたっての要請で毎年アカデミー卒業の時期には里に戻ってきたが、生徒にしたいと思える子供たちはいなかった。だからすぐに外周りに戻って、里でゆっくりすることがあまりなかった。
 今は子供たちの指導の合間に上忍の任務もこなしているが、それでも久しぶりの穏やかな平和な空気をカカシは楽しんでいた。
 しまりのない欠伸をしつつ通り過ぎようとしたアカデミーの裏手の一画で、不穏な気配と声がする。そのまま行ってしまってもよかったのだが、好奇心が勝った。
 バックしてひょいと建物の影から覗けば、絵に描いたような修羅場が展開されていた。
 小柄な、中忍と思われる女が壁際に立ち、女をかばうようにして立つ中忍。
 間違いようもない、先日挨拶を交わした海野イルカだった。
 二人の前には屈強な、上忍だろうか、見たことのない顔だが、いかつい四角い顔で粗暴な感じが沸き立つ気配からうかがえた。
 これはいわゆる痴情のもつれ的なやつなのか……?
 ふむ、とカカシは考える。
 ここで出て行って助けをさしのべるのは簡単だが、イルカのプライドを傷つけることにはならないか。それに、もしイルカがかばっている女に気があった場合、きっと、いいところを見せたいに違いない。
 いろいろとついつい気を回してしまう。悪く言えば優柔不断なのだが、とにかくカカシは事の成り行きを見守ろうと、愛読書イチャパラを腰のポーチに押し込んだ。
「おい。痛い目にあいたくなければ、どけ」
 ドスのきいた声。わざと発する不穏なチャクラ。あちゃーとカカシは頭を抱えたくなる。これは、やばいやつだ。きっと外に出たら里の目が届かないのをいいことに、処罰ぎりぎりのことをやっているに違いない。助けに入ればカカシも嫌がらせめいたことをされるかもしれないが、ここはかばわないわけにはいかないだろう。
 決めたからにはカカシはかるく息をついて猫背の姿勢のまま一歩踏み出した。
「ちょ……」
「ざけんじゃねえぞクソ上忍」
 さきほどの上忍の声よりドスのきいた、地を這うような暗い声に、カカシは顔をあげる。
 女性をうしろにしたまま、イルカはずいと一歩踏み出して、顔を上げた。
 ちょうど見えたイルカの顔に、息を飲む。
 三白眼がすごみを増し、白目の部分は凄絶に青白くなっている。頬のあたりがひくひくと動き、口をひん曲げて、なんというか、とても、悪い顔をしていた。
「おめえよう、何様のつもりだ? こっちが下手に出てりゃあつけあがりやがって。痛い目にあいたくなければだと? あわせてみろよ。ああ〜ん?」
 ああ〜ん、と舌を横にだして動かすイルカの、上忍を馬鹿にしくさった顔。
「貴様、中忍の分際でっ」
 こめかみに青筋をたてて、ドス黒い顔で鬼のような形相になった上忍に、イルカが怯むことはなかった。けっと地面に唾を吐いた。
「てめえこそ上忍の分際でなめてんじゃねえぞごらああ!」
 上忍の分際!? 上忍であるカカシはぱかりと口が開く。上忍が分際なら、中忍、下忍は、どうしたらいいのだろう?
 事の成り行きについていけずに見守るしかないカカシの前で、上忍はとうとうというか、やはりというべきか、手を振り上げた。しかしイルカはそんなことは見越していたのだろう。素早い身のこなしで避けて、あっという間に腕をねじり上げた。上忍は息をつめる。
「これが上忍さまの実力かよ。くっだらねえ」
 ぽーいと上忍を投げ捨てる。投げ捨てただけでは飽きたらないのか、顔からべちゃりと地面に落ちた上忍の背中にだんと足を乗せた。
 上忍はぐっと息をつめる。
「上忍さまよ〜。ざまあねえなあ」
 イルカは容赦なく乗せた足のかかとに力をこめてぐりぐりと背中を圧迫する。上忍はぐえっと変な声をあげる。カカシは自分がふみにじられているワケでもないのに、恐怖に顔が歪む。
「俺の目が黒いうちは中忍の女に手を出せると思うなよ。このクソがぁぁぁ」
 クソ! クソだなどとひどすぎる!
「目障りだから消えな」
 イルカはとどめとばかりに上忍の脇腹に容赦ない蹴りを入れた。そのままどすどすと乱暴な歩き方でカカシのほうに向かってくる。後ろには助けた女性を従えて。あまりの衝撃に突っ立ったままのカカシの肩に、イルカの肩がぶつかる。ふっと立ち止まって、カカシのことをねめつけた。
「のぞき見してんじゃねえぞうんこヤローが」
 暗い声に、カカシの背には冷たい汗がつつーと伝う。
 イルカは何も言わないカカシに舌打ちすると、去っていった。
 数秒ののち、カカシはがくりと膝をつく。
 怖かった。正直、怖かった。



「ちょっとちょっと〜。どういうことだ〜」
 カカシが上忍師になってから何回目かの任務の日、遅刻せずにやってきたカカシに、ナルト、サスケ、サクラの三人は顔を見合わせた。何かあったのかと問われ、開口一番イルカのことを話した。慌てるカカシと違って三人は落ち着いて頷いた。
「今更だってばよ。イルカ先生は最強だってばよ」
「そうそう。あたしたちのクラスで独裁しいてたんだから。おかげて今年の卒業生は優秀でしょ」
「怪我の功名ってやつか」
 三者三様の意見。だがカカシが聞きたいのはそんなことではない。
「いや、だから、イルカ先生、上忍をぼこにしてたんだよ? それってありなわけ?」
「どうせその上忍がなにかしてたんだってばよ」
「イルカ先生はああ見えて中忍のボスよ。中間管理職の中忍の権利を守るために日夜奮闘しているんだから。あだ名はザ・中忍。チョー怖い」
「自業自得だ」
 どこまでも冷めきっている子供達に比べ昨日の衝撃さめやらぬカカシはそれどころではなかった。
「だってさ、クソとか、クソとか言っていいわけ? とりあえず上忍だよ? まあそいつは制裁受けても仕方なしな奴だったけど、俺なんてなにもしてないのに、ただ通りかかっただけなのにうんこヤローなんだけど?」
 納得できずに慌てるカカシに三人は肩をすくめて笑った。
「仕方ないわよ。イルカ先生には誰も勝てないもん」
「イルカ先生ってば、こらーが『ごるああああ』になるってばよ。超巻き舌」
「まあ、そういうことだ」
 それから三人は口々にイルカのエピソードを語り出す。
 受付所で無理難題を言ってきた上忍をその場で殴りつけて失神させた。任務先で中忍に無体を仕掛けた上忍を呼び出して半殺しにした。無礼講の飲み会とはいっても悪ノリしすぎてセクハラ、パワハラまがいのことにおよんだ上忍を飲み屋の外のゴミ集積所に袋につめてだした。他にも枚挙にいとまがなく、カカシはその話に聞き入ってしまい、昼頃にはすっかりイルカ恐怖症となっていた。
 子供たちはイルカへの親しみをこめて暢気に笑っていたが、カカシは青ざめるいっぽうだった。
 恐ろしい。なんて恐ろしい中忍先生。これは本当に関わらないほうが身のためだと決意を新たにしたのだ。
 したのだが……。



「つぶしてみるのも面白い……」
 馬鹿! 俺の馬鹿!
 口にしてしまった瞬間カカシは心の中で己につっこみをいれていた。
 こんな、公衆の面前で、イルカに背いてしまうなど。まわりが皆固唾を飲んで、事の成り行きをうかがっているのがわかる。
 馬鹿な写輪眼。血を見るぜ。囁きかわされる声がカカシの中でこだまする。
 きっとこのあと裏庭にでも呼び出されてぼこにされるに違いない。できるなら隠している部分を殴るにとどめて欲しい。目の回りに赤あざなどあったら、子供らにちょっと示しがつかない。
 しんとした場に耐えられず、カカシはちょぴりイルカをうかがう。
 その瞬間、カカシはくらりとその場で倒れたくなった。言ったばかりの台詞を撤回したい衝動にかられる。
 イルカは、ぎりぎりと歯がみして、三白眼を憤怒の炎で燃やし、こめかみには青筋たてて、眉間には凶悪な縦皺を刻み、カカシのことを目で射殺すようにして睨み付けていた。
 なんて悪人面! ビンゴブック掲載の凶悪忍者も泣いて逃げるに違いない。あ、俺、ビンゴブック忍者だったそういえば。うん、泣いて逃げようすぐにでも。
 うっかり逃避しかけた。
 謝りたい。俺が悪うございました。勘弁してください。
 内心洪水のような汗を流してと思っているのに、続いて出た言葉はサイアクだった。
「口出し無用。アイツらはもうあなたの生徒じゃない。今は、わたしの部下です」
 ああ、終わった……。
 どうしてとどめを刺すん俺のばか! ばかばかばか!
 カカシノ言葉にイルカからがあっと立ち上った凶悪なチャクラ。蛇に睨まれた蛙のようにカカシはイルカの眼光から逃れられない。
「まあ待てイルカ」
 ガイが助け船をだしてくれなければカカシは立ったまま気絶していたことだろう。
 どうやらイルカはガイのことは尊敬しているようで、大人しく引き下がってくれた。だが、解散となり、皆に道をあけさせてどすどどすと足音荒く部屋を出て行こうとしたイルカは、入口の戸のところでくるりと振り向き、カカシに鋭い一瞥を与えた。
 覚えてろよ、うんこが……。
 幻聴が聞こえてカカシは飛び上がった。
「カカシったら度胸あるのね。見直したわ」
「めんどくせえことしやがってよ」
 右から紅が、左からアスマが肩に手を置いて声をかけてきた。カカシは涙目になって二人を振り向いた。
「俺、俺どうしよう! このままじゃイルカ先生に殺される!」
 カカシの必死の訴えに、紅とアスマは同時に頷いた。微妙に口元が笑っているのは気のせいだろうか。
「安心して。骨は拾ってあげる」
「めんどうだがガキどものことは引き受けてやる」
 があんとカカシは頭を思い切り鈍器で叩かれたような衝撃を受けた。他に誰か助けてくれる人間はいないかときょろきょろ周りを見渡せば、皆カカシと視線が合う前に目を逸らす。唯一目が合ったのはガイ。この際ガイでいいと思ってふらふらと寄っていった。
「ガイ。お前イルカ先生と仲いいみたいだな」
「ああ。イルカは俺の体術の弟子だ」
 ぱあっと差す光。ガイのわざとらしいくらいに白い歯が今だけはきらきらと映る。
「ガイ。頼む。イルカ先生から俺を守ってくれ」
 右手の親指をたてたガイはきらりと歯をみせて笑い、体の柔軟性に挑むような決めポーズを作った。いつもならキモイと思うだけだが今はなんて頼もしい。まかり間違って惚れそうだ。
「カカシよ」
「ガイ。俺はお前のこと誤解してたかもしれない」
 うるうると見つめれば、ガイはカカシの両肩にぽんと手を置いた。
「はっきり言って、無理だ! 点火したイルカを消火するなど誰にもできぬ。あの怒りを静めるには、怒りの元をたつしかなーい!」
「それって俺じゃん!」
「そういうことだ! 俺は忙しい! カカシよ、健闘を祈る。ちなみにイルカの好きなものは一楽のラーメンだ!」
 言い捨ててガイはどろんと消えた。はっと気づけば、部屋にはカカシと、火影だけが残されていた。
 そうだ火影だ。里の長でイルカも火影には懐いている。ここは火影に頼ればいいではないか。カカシは再び足下おぼつかないながらも火影に近づいた。
「ほ、火影さま〜。俺、俺〜……」
 火影が座る椅子のそばで膝をつく。最後の頼みの綱だ。カカシは祈りをこめて両手を合わせた。
「カカシよ」
 煙管をふうと吹かした火影はカカシを見て皺の多い顔をほころばせた。
「わしはイルカの味方じゃ。イルカに逆らったお前が悪いのじゃ」
 火影のとどめの一発で、カカシはその場に倒れ込んだ。



 一楽のクーポン券一年分で許して貰えるだろうか?
 早速ナルトに相談したら、結構いけるかもしれないと言われた。そんなわけで一楽のオヤジさんに泣きついて、クーポン券を作成した。オヤジさんはさすがに同情してくれて、一年分のとんこつ一杯分の料金を三割引にしてくれた。
 これでなんとなるかもしれないと、カカシは気持ちも軽く夕方の道を歩いていた。しかしそんな浮き立つ気持ちも、道の前方、道路脇の壁に背を預けてたたずむイルカを目にするまでだった。
 腕を組んだイルカはこちらの方を鋭い視線で睨み付けていた。カカシは後方を慌てて確認したが誰もいない。しつこく何回か確認したがひとっこ一人いない。
 だらーりと嫌な汗がこめかみと背を伝う。昼間の恐怖も冷めやらないところだが、いきなり回れ右をするわけにもいかず、カカシは右手と右足、左手と左足を一緒に動かしてうつむいたままその場を通り過ぎようとした。
「カカシ先生」
「はいーっ!」
 カカシは誇張でなく飛び上がった。いきなり名を呼ばれてしまった。これでは逃げようがない。人違いじゃないですか、と言えるわけがない。
 くわっと目を見開いて、イルカの前で直立不動となる。
「な、なんでありますでしょうか?」
 百戦錬磨の写輪眼がなんてこったと内心セルフつっこみをいれるが、どうしても恐怖に体が緊張してしまう。
 イルカはカカシの様子にいぶかしげな顔になったが、ちょっといいですかと言って顎をしゃくった。
 うわ〜上忍に顎しゃくっちゃうんだーと思いつつもカカシは見えない糸に引かれるようにイルカの後に続く。
 気持ちは絞首台に向かう罪人だ。俺の馬鹿。あんなこと勢いで言っちゃうから、こんな目にあうんだ。きっとこのまま人のいない薄暗い倉庫にでも連れて行かれてリンチされるのだろう。あの時倒れ伏した上忍のように……。
 ぞぞぞーと恐怖が腹の底からはい上がる。
「……死にたくない」
「は? なんか言いました?」
 思わず呟けばイルカは耳ざとく振り返る。目を細めてカカシの顔色を読むような嫌な視線だ。
「ななな、なーんでもありませんとも! はい、はたけカカシ元気いっぱいです」
 作り笑いで誤魔化す。ここでイルカが油断してまた歩き出したらカカシはどろんと消えるのだ。たとえその場しのぎでもいい。この際、今逃げられるならなんでもいい。
 イルカは首をひねりながらもまた前を向いて歩き出す。よし今だ、と印を組もうとしたカカシだが、なんということだろう。指先が強ばって、印を結べないではないか! カカシは頭を両手で抱えて身もだえる。なんということだ! これでは忍としてやっていけないではないか!
 うちひしがれたカカシは絞首台どころか屠殺場に引かれる牛のようにあっちへふらふらこっちへふらふらしながらイルカに従った。
 従うしかなかった。

 連れて行かれたのは暗がりの倉庫でも学校の裏庭でもなく、イルカの自宅だった。
 古ぼけた築三十年以上は経っていそうなアパートの一階角部屋の備えつけのポストには大きな字で『海野』と書かれていた。
 もしかして、家で、リンチ?
 ぼこ殴りにされてひそかに里の裏山に捨てられる?
「カカシ先生」
「はひっ」
 びっくりして声が裏返る。
「どうそ。みすぼらしいところですが、上がってください」
「え、あの、お話なら、ここで!」
 嫌だ嫌だ。リンチは嫌だ。家に入ったら殺られる。あいつと二人きりになったお前が悪いと皆に言われるに決まっている。
 だがイルカは、ぎん、と三白眼に気迫を込めて、首を振った。
「いいえ。お話は、中でします」
 もうダメだ、とカカシは天を仰ぐ。父さん! 先生! オビト! リン! 俺、こんなところで命を落としてみんなに会いに行くことになるかも!
 猫背を更に丸めて、カカシは大人しくイルカの家のドアを閉めた。
 俯いたまま上がって通された部屋。べたりと座り込む。さめざめと泣きたい気持ちだった。
「カカシ先生。どうされたんですか。気分でも悪いんですか」
 近づいたイルカの気配にカカシはぴんと背筋を伸ばす。
「とんでもないです! 元気いっぱいでありますです!」
 なぜか敬礼して顔を上げれば、目の前には、イルカ。だがイルカよりも、イルカの向こうにある景色にカカシは目を奪われた。
 壁いっぱいに、真っ赤なタペストリー。そこに金の文字で『喧嘩上等 夜露死苦!』と縫い込まれている。文字の右下のあたりに『木の葉赤い稲妻第十代総長海野イルカ』とこれまた同じように小さく金の文字が描かれている。
 タペストリーの上に視線を流せば、額縁。『愛じゃ』となかなかに達筆な筆跡。間違いなければ火影の筆跡だ。左に視線を向ける。そこでぶほっと吹きだした。
 思わず前にいるイルカを押しのけて、壁の前に立った。
 縦が五十センチ、横が一メートルくらいのパネルには、写真。三十人くらいの人間の集合写真。みな真っ白な長い学生服のようなものを着て、額には真っ赤な長いはちまき。トイレで大きなほうの用を足す時のような格好で前に座る半分。端にいる二人は背を向け顔を振り向けている。背には『愛 羅舞 you』の紫の刺繍と、もう一人は『兄貴』と緑の刺繍。後方に立つメンバーはみな腕を組んで生真面目な、けれど人相の悪い顔をして、がんと前方を睨みつけている。
 眉毛がないのや、額に剃り込みが入っているのや、頬に大きな傷があるのやら、鼻の頭を横一文字に横切る傷があるのやら……。
 一体いつの時代のひとたちなんだか。
「ってイルカ先生!」
 いつの時代もなにも、ここにいた。
 後ろの真ん中あたりにいる、リーゼントで眉毛が三角に剃り込まれて、点のような三白眼で睨みつてけているのは、間違いなければ、イルカだ。鼻には見間違いがない傷が走っている。
「それ、昔の俺っすよ」
 横に立ったイルカにカカシはごくりと喉を鳴らす。
「俺、昔は相当なワルだったんす」
 昔? 今も、の間違いではないのか? 内心でそう思いつつ写真に見入る。
 こんな、化石のような人種がまだ木の葉にもいたことの愕きと、イルカが関わっていたことの恐怖。やはり、今日で俺の命も終わりか、と思えば情けなさにふふふと笑いが漏れる。もうどうとでもなれと再び畳に腰を下ろした。
 イルカは台所で火をかけてなにやらお茶の用意でもしてくれているようだが、そんなことせずにやるならひと思いにやってくれとカカシはやけくそ気味に思った。
「お待たせしました。粗茶ですが、どうぞ」
 ぴしり、と正座してカカシに茶をすすめる。姿勢のよさやら手の差し出し方から極道か己は、とカカシは内心で悪態をつく。ひきつりつつも愛想笑いで礼を言って湯飲みをとったが、情けないことにかたかたと恐怖で手が震えた。
「カカシ先生、どうかしましたか」
 イルカが少しばかり身をのりだしてきたところが限界だった。湯飲みを勢いよく置いて、懐から焦りつつも一楽一年分チケットを取り出す。
「こ、これで、勘弁してください! これでなかったことに!」
 ぶるぶると手は震える。イルカはカカシと手の中のチケットに視線を往復させていぶかしげに首をかしげる。
「でも、ですね! この間のことだったら謝りませんよ!」
 また言っちゃったよオイ! と後悔したが今更遅い。いいから気にせず謝り倒せ、と命じる内なる己が頭を下げさせようとするが、小心者のくせに上忍としての誇りがそれをさせなかった。カカシはこのまま突っ走るしかないとぐいっと顔をあげてイルカに視線を据えた。
 イルカも、見返す。かちこちと時計の針が刻まれる音がやけに耳に届く。神経が研ぎ澄まされて緊張していることを意識した。
 イルカがなにか言おうとして、口を開けたところでカカシは機先を制するように先に話しだした。
「オオオ、俺は、ちゃんと信念をもって、あいつらを指導しています。あいつらは十分に中忍試験を受ける実力を持っています!」
 と、口では大きなことを言いつつ、実際カカシは震えそうになる手を押さえるためにぐっと拳を握っていた。
 こわいよーこわいよーと逃げ出したくなる自分を無理矢理この場につなぎ止める。いや、魂は半分くらい抜け出しそうになっている。
 イルカの三白眼が、すっと細められた。それだけで周囲の温度が数度下がったような気がする。こんなところで写輪眼を使うことになるのだろうか、といささか情けない気分で思った。
 無言で、イルカの手が伸びてくる。思わずぎゅっと目をつむってしまったカカシだが、なぜか、一楽のクーポン券ごと、手を握られていた。
 おそるおそる目を開ければ、目の前に、イルカがいた。顔面十センチくらいのところに。一瞬距離感が狂ったかと思って瞬きを繰り返したが、イルカはそこに居続ける。しかも、互いの間にはイルカに握りしめられた右手がある。イルカは目をきらきらとさせてカカシに視線を定めていた。
「感動しました!」
「へ?」
「自分感動したッす!」

 イルカの手に力がこもる。わけがわからずにカカシはとりあえずイルカから視線を逸らさずに、いつどんな攻撃がきてもかわせるように緊張したままでいた。
「いやあ、ご立派です」
 イルカはしきりに頷いている。
「さすがにカカシ先生のように写輪眼を持ってビンゴブックに載るくらいのお方は違いますねえ。あの場でまさか俺に意見する上忍がいるとは思っていませんでしたよ。実際むかっぱらが立ってコロスぞって思っちまったんですが、しかしね、考えてみたら言ってることに間違いはない。確かにあいつらはもう俺の手を離れたんだ。口出しするようなことじゃあないってことですよ。俺も焼きがまわっちまったんすねえ。なに甘いこと言っちまったんだか」
 ふう、と息をついてイルカは感慨に耽るがカカシは青ざめる。やっぱり殺される危険性があったのか!
「そんな俺の勘違いに活を入れて頂いて、俺あ、目が覚めましたよ。猛烈に感動がこみあげてきて、いてもたってもいられなくなったんす。やっぱ上忍さんにはすげえお方もいるんだなって」
 頬を紅潮させて、まるで子供のようにイルカは喋っている。
 緊張と恐怖で言っていることの半分くらいは右から左に通り抜けていったが、一番大事なこと、助かった、ということはわかった。そうとなればすぐにこの家から出て行きたい。一楽クーポンも親父さんに返品しようとイルカに握りこまれたままの右手を取り返そうとしたのだが、イルカは離してくれなかった。
「あの、イルカ先生、手を」
 へらりと笑って告げれば、なぜかイルカは浅黒い顔を染めて、はにかむように笑った。
「アニキって呼んでいいッすか?」
 その瞬間カカシの顔は強ばった。
「ア、アニキ?」
「そうッス。アニキっす。もうマジ憧れます。俺アニキに一生ついていきます!」
 だからどうしてそういう論理になるんだと尋ねたかったが、ヤンキーだったと思われるイルカの思考などわかるわけがない。まあこの際イルカの思考などどうでもいいのだが。とにかくこんな危険人物には関わりたくないのだ。
「いえ、あの、俺は、そういうのはちょっと」
 拒んだがイルカはカカシとの距離を縮めた。思わずカカシは身を引く。するとイルカは近づく。
 引く、近づくを交互に繰り返した後、カカシは壁際に追いつめられていた。
 イルカはかっと見開いた目を肉食獣のようにらんらんとさせて、口の端を歪めてふっと笑った。
「俺はもう決めたんですよ。カカシアニキについていくって」
「かか、かかか、勝手にんなこと決められても困ります」
「俺あね、カカシ先生」
 そこでカカシの手を離したイルカはどかりとあぐらをかく。視線を壁にかかったパネルに向けて、語り出した。
「九尾で二親を亡くしてから、必死で生きてきました。けちな盗みや他人を騙すことなんて当たり前。あの時代そうでもしないとガキ一人が生きてはいけなかった」
 九尾のごたごたの頃はカカシは外回りで忙しくしていた。里は遺児の救済まで手が回らなかったのかと今更仕方ないことを考えていたが、イルカは話を続ける。
「ろくでもねえ俺でしたがね、木の葉赤い稲妻の九代目に拾われてかわいがっていただきました。ちんぴらとごろ巻いて喧嘩に明け暮れていた俺に、男との生き様を示してくれた、偉い方でしたぜ」
 照れくさそうにイルカは鼻の傷をかくが、カカシは追いつめられて生きた心地がしなかった。言葉使いといい内容といい、あきらかに極道ではないかこれは!
 木の葉赤い稲妻ってなんだ?
「俺を拾ってくれた総長にずっとついて行こうって決めてたのに」
 ぐすっとイルカが鼻をすする。
「し、死んだんですか……?」
 なんとなく合いの手を入れたが、イルカはあっさり首を振った。
「いえ。族を抜けてカタギになっちまったんスよ。俺に十代目を譲って」
 カカシはがくりと肩を落とす。イルカもその時一緒にカタギになってしまえばよかったのにと思ったがそれは言わない。
 しかし今イルカは族、といった。族って……。
「今じゃあすっかり毒気が抜けちまって、火の国で飯やを開いてますよ。ガキが五人もいて、奥さんの尻に敷かれて。まあ、幸せそうですがね」
 ふっと吐息をついたイルカはいきなり表情を引き締めると、再びカカシにずずいと詰め寄った。
「総長に裏切られた気がして、俺は荒れました。そんな俺を次に救ってくれたのが火影さまでした。酒飲んでかつあげしようとしたジジイが火影さまで、俺は一喝されましたよ。死んだ両親に顔向けできるのか、と。それから俺は遅まきながら中忍になってアカデミーで教師になりました。これからは里の子供らの育成に尽力するって決めたんですよ」
「そ、それは、いい選択です、ね」
 話は完結した。めでたしめでたしだ。
 カカシは安堵しつつイルカから距離をとろうとする。
「あの、俺、本当にもう、帰っても……」
 尻でずっていこうとしたのにイルカにくわっと睨まれて、カカシは石化する。
 なんだろう。術を発動させているわけでもないのに、なんたる威力。イルカは実は上忍なみの実力を持っているのか?
「それで俺、教師になりましたよ。希望に燃えてましたよ。けどねえ、なんですかねえ、あそこは俺が教師になった当初上忍の横暴がまかりにまかり通ってましたよ。中忍教師に対するストレス発散やセクハラやパワハラは当たり前。俺が赤い稲妻総長だったってこともすぐに知れ渡って、早速呼び出しくらいましたよ。もちろん、ぼこ殴りにして、とんでもねえ外道でしたから教師もやめさせましたけどね」
 イルカの暗い声にぞっとする。
「それからの俺の仕事はガキ共の育成と、上忍の横暴から中忍、下忍を守るって二本柱になったんす」
「そ、それは、ご立派で」
 めでたくおさまった話のはずがまたよくわからなくなってきた。カカシはひきつった笑いを顔に貼り付けるしか思いつかなかった。
「一部例外の方はいましたがほとんどろくな上忍を見てこなかった。だから俺ははっきり上忍不審になってたんすよ。そこに登場したのが、カカシアニキ、あなたです」
「お、俺?」
 思わず声が裏返る。
「さっき言ったじゃないすか。すかっとしましたよ。上忍も捨てたもんじゃねえって。俺のこれからの生き方の指針となるお方はカカシ先生しかいねえって思いました」
 ふん、と鼻息をはき出すイルカの目はマジもマジ、大マジだ。このまま頷いてしまうのはやばいとカカシは必死で考えた。
「お、俺じゃなくても、ほら、アスマとかガイとか、なんなら紅とか。なんかあいつらとは顔見知りみたいですし、俺がいうのもなんですがいい上忍ですよあいつらは、うん」
「俺あカカシ先生って決めたんです」
「で、でも! あいつらも結構イケテル上忍だと思うんですが」
「もちろんです。俺が認める数少ない上忍の方々です。ですがねえ、ガイ先生は体術の師匠、アスマ先生と紅先生は飲みトモダチってことでお付き合いさせていただいてますんで、今更アニキってわけにはいかねえんすよ」
 その論理がわかりません! と口に出して言えたなら。
 正座したイルカは、カカシと距離をとると、おもむろに土下座した。
「お願いします。俺のアニキになってください。アニキと呼ばせてください」
 いさぎよく頭を下げられて、カカシはごくりと喉を鳴らす。本当は了承したくないが、多分、いや絶対、カカシが頷くまでイルカは納得しない気がする。カカシが認めるまでこの家に閉じこめて延々と説得を試みるだろう。
 きっとだんだんと洗脳されて最後には頷いてしまうに違いない。もしかしたらその隙に高額な商品の売買契約も結ばされて借金地獄に突き落とされるかも知れない。もしもそうなったら一生イルカの手下としてこき使われるに違いない。イルカの命令で髪をリーゼントにしてそりこみをいれて赤い稲妻とやらの組に入れられて、そんでもって薬に手をだして密売をして上納金の名目でイルカに差しだして……。
「カカシアニキ……?」
 一言も発しないカカシをうかがうようにイルカは顔を上げた。目が合った瞬間、カカシは頷いていた。
「わかりました。イルカ先生のアニキになりますならせていただきます。なるともなるときならねばなれ!」
 ぐるぐると回る思考のままがくがくと何度も頷いた。それでもイルカはじっと、カカシを見つめる。見定めようとでもいうのか、少し細めた怖い目でカカシのことを見る。
 体を起こしたイルカはいからせていた肩から力を抜くと、真っ白な歯をのぞかせた。目尻の笑いじわも絶妙で、目にする者を柔らかい気持ちにさせるような暖かみのある笑顔だった。
 三白眼で人相悪いイルカから一八〇度の違いにカカシは呪縛がとけたように緊張していた体の力を抜いた。こんなふうに笑っていれば決してイルカは怖くないのだなあと思ったというのに、再びイルカは表情を引き締めた。
「よろしくお願いします、アニキ」
 仁義を切るように深々と頭を下げられた。

 なし崩しにイルカとなぜか盃まで交わし、家を出る時には九十度に頭を下げられてお見送りされた。
 ふらふらと力なく歩きながらそういえばとカカシは思い返す。

 アニキになって、それで何をするのだ?



 アニキになったはいいが結局具体的なことが全くわからずに、とにかく命拾いしたことに安堵して、なるようになるかとカカシは軽く考えていた。
 そんな暢気なカカシだったが、翌日、任務の報告で受付所に子供らを連れて出向いた午後。おおあくびをして受付所にはいった途端。
「アニキ! 任務ごくろうさまです!」
 と迎えられた。
 受付所に響く大音声。談笑して和んでいた受付所の空気がぴんと張りつめる。カカシの半眼だった目がかっと見開く。ぎこちなく首を巡らせれば、イルカが受け付けの椅子から立ちあがり、直角におじぎをしていた。
「どうぞ。俺のところ、あいてます」
 と大きな声で宣言したイルカが手を向ける。はっきり言って回れ右をして逃げ出したいが、そんなことできるわけがない。はは、と乾いた笑いを貼り付けたまま、さりげなく子供らにもっていかせようとしたが、三人はさっさと受付所のソファに座っている。じっとカカシのことを見上げる目には、同情めいた色と、事態を楽しんでいるような色とがないまぜになっていた。
「アニキ、どうしたんすか?」
 喜々としたイルカの声が続くと、ナルトが小さく吹き出した。
「アニキだって」
 けけけと笑ったナルトは調子にのってサスケをこづいたりしている。あとでナルトにはきつーいお灸を据える必要があると考えつつ、両手両足を一緒に動かしてイルカの前に立った。
「お、お願いします」
「まかせてください」
 どんと胸を打ち付けてイルカは報告書を受け取った。
 イルカは鼻歌なぞ歌っているではないか。しかし上機嫌なのはイルカだけで、他はカカシとイルカのことをじっと伺っている。
 小さな声だが、アニキだって。アニキー? アニキって? とさざ波のように聞こえてくる。カカシの顔はぴくぴくと顔面神経痛のように引きつる。
 おそろしいことにこれでもうイルカのアニキ確定になってしまった。
「間違いないです。ご苦労さまっした! さすがです。完璧っす」
 サクラに書かせた、とは言わないでおこう。元教え子の字に気づかないのも問題だと思うのだ。
 いちいち大きな声で、立ち上がったイルカは、大袈裟にまるで表彰状授与のように報告書をかざした。
「間違いなく、しっかり処理させていただきましたので」
「は、はい、どうも〜」
 ほっとしたカカシはさっさと逃げだそうとしたが、
「ところでアニキ」
 と呼び止められた。
 ぎらりとイルカの目は鋭く光っている。
 ごくりとカカシの喉はなる。
 なにかしたか? どうも、なんて軽い言葉がまずかったのか? ありがとうございましたと言うべきだったのか?
 だらだらと汗をかきながらカカシはイルカの言葉を待つ。しかしイルカはふっと笑って、右手でおちょこを傾けるような仕草をした。
「今晩お暇でしたらどうスか? 改めてお近づきのしるしにご馳走させていただきますんで」
 冗談じゃないとカカシはぶんぶん首を振った。
「いえ、今日は、俺、用事があるんで」
「そうなんすか? 残念す」
 そう言ったイルカは本当にしゅんとうなだれる。そうすると怖い姿との落差ゆえに少しばかり申し訳ない気になるのだが、ここで妥協してはならんとカカシはさっさと受付所を後にしたのだ。
 いったい『アニキ』とはイルカにとってどんな役目を担うものなのだ?
「カカシよ。お前、イルカのアニキになったというのは本当か」
 猫背の姿勢でずんずん歩いていたらガイが暑苦しく目の前に降り立った。わけがわからないポーズで確認するように言われてむかっ腹がたつ。しかしそれを押さえてとりあえずガイでもいいかと尋ねてみた。
「あのさあ、アニキってなんなのよ。なにをするわけ」
「なにをすると言われてもな」
 ガイは腕を組んで首をかしげる。
「まあ『兄』というくらいだからな。正しく導いてやればいいのではないか?」
「導くってなにを? あの人中忍だから上忍になるための修行にでも付き合えってこと?」
「いやいや。イルカは生涯中忍を心に刻んでいるからそれはないな」
「なにが心に刻むだ。なれないだけじゃないの」
「何を言う。実力は充分上忍になれるのだが中忍の権利のために闘うと決めているのだ」
 そして影で上忍をボコにし続けるということか。
 イルカに懐かれてアニキなんてものになってしまったが、もしへまをやらかしてアニキでなくなった時、イルカに殺されるのではないか? 俺の期待を裏切りやがって、とでもいちゃもんをつけられて。
 裏庭で倒れ伏す己の姿が垣間見えた気がしてカカシはぶるりと震えた。
「やっぱ俺、アニキは勘弁してくださいって言ってくる。昨日の今日だからまだクーリングオフがきくだろ?」
 来た道を戻ろうとしたカカシにガイから声がかかった。
「カカシよ。イルカは一度約したことを違えるものに容赦がないぞ。しかもお前はアニキとなったのだ。それをやめると言ってはいそうですかとイルカが納得すると思うか」
 つんのめるようにしてカカシは止まった。そうだ。盃まで交わしてしまったのだ。契約不履行など許されるわけがない。
 カカシはその場でへなへなとくずおれた。気弱な自分がこれほど憎いことはなかった。
「お、俺はどうしたら」
 肩にぽんと置かれる手。見上げれば、ガイが白すぎる歯をさらにきらりと光らせてウインクを決めた。
「立派にアニキをやり遂げろ。永遠のライバルよ!」
 もはやガイを殴りつける気力もなかった。



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