テレビっこ



 3.ヘビロテ 後編




 キスをしたのは一瞬のかすめるようなものだった。
 なのにイルカときたら一瞬で真っ赤に顔を染めて、視線をうろうろと彷徨わせて口元を片手でおさえたりしたのだ。物慣れない様子に思わずカカシはその場に押し倒したくなるような衝動さえ覚えたが、さすがにそれはストップをかけた。
 トイレで押し倒すなんて、ところかまわずの破廉恥な真似などできるわけがなかった。
 あれからますますめきめきとイルカのことが好きだなあと思いは募るいっぽうだが、イルカは逆に警戒心を持ってしまったようだ。
 付き合っているのに、と恨めしく思う気持ちもあるが、付き合いをやめようとは言い出さないから、きっとそのちに先に進ませてくれるだろう……はずだ! そうに違いない! とカカシは期待値マックスで思っていた。
「おじゃましまーす」
「らっしゃーい」
 言い方がおざなりなのはいつものことで、返事をしてくれるだけ進歩といえる。
 買い込んできた惣菜を台所のテーブルに置いて居間をのぞけば、いつものごとくイルカはテレビに夢中だ。確か今日のこの時間帯は、人気お笑い芸人が毎週交代で火の国の比較的田舎な場所を抜き打ちで訪問する番組だ。人情ありグルメあり旅の景色ありでカカシも好きな番組のひとつだ。
 大皿に惣菜を盛ってついでに焼酎の水割りも適当に作って、いそいそと運ぶ。イルカの居間のテーブルは一人用の小さなものだから、そこに皿を置けば必然的にイルカに近寄ることになる。
 カカシは意図的にイルカの体に寄り添える位置まで近づいて一緒にテレビを見る。
 バラエティ番組だから話しかけてもイルカは文句を言わないし、カカシのコメントに楽しそうに返してくれる。だから、来週の続きが楽しみですねえ、と笑いかけられて、その顔があまりに至近にあったから、ついつい唇を突き出してしまった。
 ちょんと触れた唇。にぱっと笑いかければ、イルカはつられたようににこっと笑ったが、次の瞬間にはものすごい勢いで後方に身を引いていた。
「カ、カカカカ、カー……!」
「なんですかその呪文みたいなのは」
「な、なーにするんですか!」
「なにってキッスですよお」
「キッス! アホか!」
 吐き捨てられて、カカシはむうと頬を膨らませる。唐突だが、なんだかもやもやしていたものに着火したようだ。ずいっとイルカに身を寄せて、壁際に追い詰める。ちらりとテレビの時計を確認すれば、次の番組までに15分の間がある。それだけあれば充分だ。こんな時でもイルカへの配慮を忘れない俺って健気だなあと思うカカシであった。
「ねえイルカ先生。俺たちおつきあいしている成人男子同士です。しかも付き合いを始めてから、えーと、三か月? 四か月かな? 付き合う前の知り合ってからをカウントしたら余裕で半年以上経ちますよね。まあそれくらいたてば、多くの人たちは最後までいっちゃっていると思います」
「だから、俺はそういうのが嫌だって言ったじゃないですか。俺はいくつになってもそういうとこはおこちゃまなんですよ! 頭の中が昔の少女漫画なんですよ昔のもどかしいドラマなんですよ!」
 イルカは開き直って一歩も引かない構えだ。こんにゃろう、と灰色のような黒いような気持ちが湧くが、ここで怒って喧嘩するのは得策ではない。カカシは笑顔を深くして言った。
「わかってますよ。手順でしょ? 抱きしめたでしょ。手もつないだし、キスもクリアしました。じゃあ次は? 普通のかわいいキスしかしてないから、すごいキスに進んでいいですか?」
「す、すごいキス?」
 怯えるように問い返すイルカにカカシは凶悪なほどのうるわしい笑顔で返した。
「そう、すごいキス。ぐちゃぐちゃのねちょねちょな、舌をからめて息も絶え絶えになってよだれとか垂らしちゃうようなキス。キスだけで勃っちゃうようなキス」
「な、なんですかそれ。気持ち悪そうですけど」
 イルカの冷め切った感想にカカシはこめかみに筋が浮く。
「だからー」
 こういうの、と言って実践しようかとイルカに顔を寄せたが、びくりと身を強張らせられてしまう。カカシのことを見返す目が本気で怯えているのがわかったから、それ以上動けなくなる。
 惚れた弱みとはこのことか。
 怯えるイルカが可愛いなあと思ってしまうのも末期だ。
 ため息をついたカカシはイルカの頬にキスをしてから身を離した。
「カカシ先生? あの、怒りました?」
 イルカはおそるおそるといった様子で聞いてくる。あまりに子供じみたその様子に少しだけ苛立ったのは否定できない。
「いーえ。あなた相手に怒っても仕方ないし。まあ、次の手順を考えてくださいよ。今日は帰りますね」
 そっけないカカシをイルカは引き止めはしなかった。
 まあこれで少しは考えてくれるかもしれない。そうあってほしいとカカシは夜空の星に願うような気持ちで自宅への道をたどった。



 お話があります、と改まった顔で言われた時、カカシの脳裏に吉と凶の思考が同時に去来した。

 この間イルカに対して少しばかりイラついたことなどきれいに忘れて、たまには外で飲みましょうと笑顔でいうイルカの誘いにご機嫌でうなずいた。
 連れ立って繁華街に向かい店を物色しながら、今夜はテレビはいいのかといちおう聞けば、今日は大丈夫だと言われた。少しかたい言い方が気にならないではなかったが、おいしい酒と料理に気分は浮き立った。
 だから、2時間ほど過ぎてお代わりを断ったイルカが衣をただした時、しまったと思ったのだ。
「カカシ先生、お話があります」
「あ、別れるってのは却下でお願いします」
 とっさにけん制していた。
 凶の思考は削除してから次に進まなければならない。
「この間は悪かったです。待ちます。待ちますから、どんな細かい手順でもこなしますから、付き合いは続けてください」
 カカシが真剣な顔で告げれば、イルカはぱちぱちと目を瞬かせた。
「いやいや、そんな話じゃないですよ。俺だってカカシ先生との付き合いをやめる気はありません。俺みたいなのはカカシ先生にふられたらこの先誰も現れないと思うので、カカシ先生にふられるまでは俺からふるなんてないです。あ、でもカカシ先生が俺に愛想つかしたら言ってください。悲しいけどその時は身を引きます」
 すらすらと滑らかに言われて、カカシのほうが今度は目を瞬かせる。
「あのお、イルカ先生。今の言葉は要するに、イルカ先生は俺のこと好きだってことでいいんですよね」
「はい。特別な意味で好きですよ」
 素直にうなずかれて、しかも大好きな笑顔を向けられて、カカシは酩酊感を覚える。次にはイルカの頬に手をあてていた。
「熱は、なさそうですねえ。どうしちゃったんですかイルカ先生。酔ってます?」
 イルカが、頬にあるカカシの手に手を重ねて、そこに自らの頬を摺り寄せるようにして、目を細めて微笑んだ。
「ええ、酔ってますよ。カカシ先生、あなたにね」
 イルカのセリフに思わず吹き出していた。そのまま咳込んでしまう。
「なーんてね」
 涙目で咳込むカカシをよそにイルカは生ふたつ、と元気よく注文した。
 ビールが届くころにようやく発作を収めたカカシは一気に半分くらいジョッキを開けたイルカを呆然と見ていた。
「この間見たケーブルのくっさいドラマでこんなこと言ってたんですよ。これを言われて主人公のこは吹き出さないんですよ。目がうるうるしちゃうんですよ。きゅーんとかしちゃうんですよ。いやーありえない。でもこのくささがはまるというか、ついつい次が気になっちゃって見ちゃうんです。水の国の学園ドラマなんですけどね、高校生がこんなくさいセリフ言ったら引きますよね普通。おまえは酒飲んでるのかってついでにつっこみました。カカシ先生が咳込んでくれてよかったですよ。感動されたら俺どうしようかと思いました」
 残っていた串をほおばってイルカは軽妙に語るが、カカシはついていけない。結局お話というのは? いや待てよ。それだけではなくて、もう一つ気になるフレーズがあった。
「カカシ先生、それで、話なんですけど」
「そうだケーブル!」
 カカシは身を乗り出していた。
「ケーブルって、どういうことですか? ケーブルテレビの契約したんですか!?」
「ああ、そうなんです。そのことなんですよ話っていうのは」
 あっさりと肯定されて、ノー! とカカシは頭を抱える。
「イルカ先生、これ以上テレビ漬けになったらどうするつもりなんですか? いや、確実になりますよ。ケーブルって24時間100近い番組がダダ漏れで放送されているんですよ? 昔の作品から最新の作品まで節操なく放送されているんですよ? もうイルカ先生廃人になりますよ。お先真っ暗、行き着くところはニートか引きこもりかって話ですよ!」
「ニートと引きこもりって同じことじゃないですか?」
「そんなことはどうでもいいんです!」
 くわっと怒鳴ればイルカは苦笑した。
「まあまあ落ち着いてくださいよカカシ先生。凄腕の上忍がそんなんじゃ下に示しがつきませんよ」
 確かに、ここが個室じゃなければ周囲の注目を浴びるような興奮の仕方をしてしまった。
 恥じ入る気持ちからわざとらしい咳払いをしてイルカの言葉を待った。
「チャンネルはそんなに契約してないから大丈夫です。お得なパックってのがあって自動的に50チャンネルくらいついてますけど興味ない番組も多いですから」
 50は充分多いと思うのだが、イルカ的にはそうではないらしい。イルカはにこにこと続けた。
「契約の決め手となったのは、レコーダー付のHDDだったってことなんです。録画できるっていいですねえ。いいシーンは何回も見れるしこの間試してみて感動しました。なにをかたくなになっていたのか自分で反省しました。これからは無理をしない程度にオンタイムで見て、時間的にむつかしければ録画してあとで見ようと思います。これからはカカシ先生ともう少し自由に会えますから」
 言いたいことは言ったとばかりにイルカはすっきりとした顔をしているが、カカシはジョッキを一気に飲み干してから、頬杖ついてイルカの言葉を思い返す。
 イルカの話をまとめると。
 ケーブルテレビの契約をしてそれがHDDつきだからこれからは録画機能を活用してカカシと会う時間を作る。
 それだけのことだが、どう解釈すればいいのだろう。
 冗談に紛らわされてしまったが、ふることはないとか特別な意味で好きというのは、これは本気の言葉でいいのだろうか。実は愛されていると思っていいのだろうか。
「本気ですよもちろん。本気でなければ男と付き合いませんって。ちゃんとカカシ先生のこと好きです」
「うわあ! 聞こえてる!?」
「カカシ先生口にだしてましたけど」
 イルカに冷静につっこまれてカカシはかすかに頬を染めた。ついでに手を伸ばして、イルカの手をとった。さりげなく口元に持ってきて、指先に口づけてみた。ちらりとイルカを見れば、恥ずかしそうに眼を伏せる。かわいいなあと鼻の下が伸びる。
「かわいいねえイルカ先生」
 思ったままを告げればイルカは素っ気なく手を引っ込めてしまう。そして、鞄から紙を取り出してカカシに差し出した。
「これ、見てください。俺なりに考えました」
 もしや早速手順か? と身構える。
 キスだけで十段階くらいあったらどうしよう。だとしたらゴールにたどり着くのって、一年後くらい先かもしれない。
 そんな恐ろしい想像をしながら広げた紙には、一週間のスケジュールが載っていた。平日昼間は仕事のため割愛されているが、夜の時間と土日の予定のところが細かく書かれていた。
 どのチャンネルの番組を何時から何時まで見るのか、オンタイムなのか録画なのか、そして夕飯はどうするのか風呂はどうするのか等々。まるで子供の夏休みの予定帳ではないか。また変なことを考えたなあと口元をひきつらせつつ土日に目がいったところでカカシの背筋は伸びた。
 午後からざっくりと『カカシ先生タイム』と書かれていた。
「イルカ先生、これって……!」
 こんな露骨に書かれては期待するなというほうが無理だ。カカシの表情は自然と緩む。イルカは少し照れたような顔になる。
「この間はすいませんでした。さすがに反省したんです。今までのことも考えてみたら、俺が自分で付き合いを承諾したくせに、カカシ先生にひどい態度とってたなって。確かにテレビのことカカシ先生は了承済みで告白してくれたわけですけど、受けたからには俺だって努力しなきゃあダメなんですよね」
 イルカは鼻の傷に指先で触れながら優しい笑顔を見せる。
「土日の午前は一週間に録りためたの見ないといけないんですけど、午後からは『カカシ先生タイム』にします。平日は、特に『カカシ先生タイム』はもうけてないので、カカシ先生があいていて気が向けば、今まで通りに来てください。まあ変わらずテレビ見てるからたいしたお相手できませんけど。ほら、平日の最後のほうに『カ』って書いてあるでしょう。それ『カカシ先生タイム』のことです。要するにほぼ毎日。すっごいヘビロテだと思いません? ちょっと意味違うかな?」
 ケーブルで音楽番組も見るんですけど、その歌を唄っているアイドルのプロモがすっごいよかったんですよねえ、とイルカはまとめるがカカシは感動のあまりイルカの話は半分くらいしか耳に届かず、紙をくしゃりと握りつぶしていた。
 祈るように合わせた両手の間に紙をはさんでうるうるとイルカを見つめる。
 まさかこの間のちょっとしたすれ違いがこんな、棚から牡丹餅的な結果を生むとは。きっとイルカなりに精いっぱい考えたくれたのだろう。カカシのことを引き留めようと思ってくれたのだろう。
 ああ、人生なにがあるかわからない。人生って素晴らしい……!
「イルカ先生! ありがとう! 俺、テレビに勝てた気分ですよ!」
 個室なのをいいことに、カカシはたまらずイルカに抱きついた。が、カカシの言葉をイルカは真正面から否定した。
「何言ってるんですか。テレビに勝てるわけないでしょうが。どうしても見たいのがあったらもちろんそれを優先しますしドタキャンもあり得ます。俺のテレビ道は奥が深いんです」
「ええ〜、そうなんですか〜」
 なぜか威張って言うイルカにカカシはつい情けない声を上げてしまったが、小さく笑ったイルカが不意打ちのように、キス、してくれた。ちゅっと音がするかわいらしいキスを。
「イイイイ、イーイー……!」
「なんですかそれ」
 かっこ悪いとは思うが、初めてのイルカからのキスに動揺しないわけがない。
「手順ですよ」
「手順? え? これならもうクリアしてますよねえ」
「違いますよ。俺からしたってのが違います」
 イルカは得意げだが、カカシは脱力した。
 これは本当に、最後までいくには長期計画かもしれないなあと、イルカからのキスはうれしいが心の中に風が吹き抜けるような気持ちで思う。
 とはいってもうれしいことに間違いはない。
 この先手順を踏めば間違いなくゴールに行けるだろう。そう思うと手順もいいかもしれないと思う。
 テレビ見てるときは動かないから入れっぱなしでいいですか? とお願いしたら、手順によっては許してくれるかもしれないと期待値を上げておこうと思うのだった。








おわり