テレビっこ



 3.ヘビロテ 前編




 正式にイルカとのお付き合いが始まったが、日々は変わらず過ぎていた。


 テレビ命のイルカは毎日仕事をこなすと帰宅してテレビを見るという日常。カカシがいてもいなくても特に変わりはない。時間があればカカシと会ってでかけたり食事したり。
 唯一変わったことと言えば、合い鍵を渡されたことだ。好きに出入りしていいと言われた。一気にイルカとの距離が近付いたようでときめいてしまったカカシだが、なんということはない。テレビに夢中になっているとカカシが来た時に玄関に出迎える余裕はないとのことで、勝手に入ってくれてかまわないというそれだけのことだった。
 だがまあ、無視する気はないということだし、自宅にいつでも出入りしていいなどと、それはイルカがカカシを受け入れているということだ。進歩と言っていいだろう。やはり付き合っているのだと実感が沸いてカカシはそれなりの嬉しさを噛みしめた。
 初めて勝手に部屋に入る時には少し緊張した。
 夜、少し遅い時間ではあったが、眠る前のまったりと過ごせるような時間帯。もしかしたら空気の密度が濃くなるような時間を過ごせるかもしれない。なんてことを思いつつ、イルカ先生と何度か呼んだが気配はあっても返事はない。意を決してそっとドアを開けて部屋に入れば、イルカが体育座りをしてテレビと向かい合っていた。
 恐ろしいほどの集中でカカシのことなと眼中に入っていないようだ。テレビを伺えば、シリアスなシーン。どうやら映画のクライマックスのところ。主人公らしき男女が泣きながら会話をしている。イルカに目を転じれば、同じようにシリアスな顔をして、目が、潤んでいた。
 その表情を見た瞬間、カカシは抜き足差し足で部屋を出た。きっとイルカは浸っていたいはずだ。邪魔をしてはいけないとそう思った。
 帰り道、イルカの家のキッチンを思い出す。空のカップラーメンがおかれていた。以前から思っていたがテレビに生活の重きを置くイルカは食事は適当に済ませている。
 せっかくお付き合いを始めたのだからごはんくらい作ってあげようと、カカシは決意した。



 最初に食材を買いこんだ日は午後から夕方にさしかかろうという時間、イルカはまだ帰宅していなかった。
 脱ぎ散らかしている服を拾って洗濯機に放り込み、ついでだとばかりに洗濯をする。その間に簡単に掃除をして、煮物やら揚げ物、サラダを用意して家を出た。一緒に食べたいところだが、夜に単独の任務がある。
 カカシはご機嫌でイルカの家を後にした。きっと明日にでも受付で顔を合わせれば恐縮したイルカは礼を言ってくるだろう。その時に少し大きな声で言ってみようか。俺たち付き合っているんだから気にしないでくださいよ、と。ごく一部の人間しか二人が付き合っていることは知らない。このあたりでより多くの人間に知れ渡れば、もしかしたら気を遣ったイルカの同僚がカカシがいる時は時間のやりくりなんてしてくれるかもしれない。
 なんてことを考えながらカカシは任務へと出かけた。
 しかしイルカとの付き合いはカカシの思惑通りには進まないのが最初からなのだが、今回もまたそうなった。
 翌日、朝の受付所でイルカは笑顔をふりまいていた。カカシもいそいそと昨夜の報告書を提出したわけだがイルカからはいつも通りのねぎらいの言葉のみ。それ以外は何も言ってこなかった。自分から口にするのも気が引けてカカシはその場を後にしたわけだが、腑に落ちない。もしやイルカはあの夕飯を用意したのがカカシだと結びつかなかったのだろうか?
 そんな馬鹿なと思いながらも、イルカは少し普通と違う感覚の持ち主だからそれもあり得る気がする。
 だとしたら今度そのことを話してくるだろう。うちに夕飯が用意されてたんです! もしかして小人ですかね? テレビの妖精ですかねえ!?
 そんな想像をするとカカシの口元は緩むのだった。



 だが、その後もイルカはカカシの期待を裏切り続けた。
 昼の食堂でイルカを見つけていそいそと近付いた。目の前、食堂ではあるが二人きりだというのに、イルカは何も言ってくれない。日常のことや大好きなテレビのことばかり。
 なぜだどうしてだとぐるぐるし続けたカカシはそうだストレートに本人に聞けばいいと単純なことに気づいた。そう思ったら我慢していた分気が急いて、仕事中であるとわかっていたがイルカを尋ねた。
 が、イルカはいなかった。
「イルカ先生は、今日は受付勤務だよねえ」
 とイルカの友人である受付の男に聞けば、二人が付き合っていることを知っている男は笑ってきさくに教えてくれた。
「イルカのやつ、腹下してるんですよ〜。理由が理由だけにおかしくって」
「腹下すってなにか悪いもの食べたの?」
「悪いですよ。三日前の飯喰っちまったんです。今の季節微妙じゃないですか。普通食べないですよ。なのにあいつときたらうまそうだから大丈夫に違いないってわけわからない理由で完食。で、今日はでてきたのはいいけどほとんど使いものにならずにトイレ往復です。なんとか午前の授業は乗り切ったんですけど、午後はアウトで受付と交代したんで鼻すけど、今もトイレの住人になってます」
 気の毒に、と言いながらも理由が理由だけに同僚の男はおかしそうだ。
 三日前、という言葉が引っかかる。カカシがイルカ宅で食事を用意したのが三日前。
「……」
 もしや、まさか、とぐるぐるしながらカカシはイルカがこもっているという職員用トイレに向かった。
 昼下がり授業中の校内はそこかしこに時間がわだかまっているようで、存在がそこに吸収されるていくようだ。カカシはとりあえずトイレのドアを開ける前に気配を確認してみる。もしのっぴきならない最中であれば同じ男同士とはいえ失礼かなあと思い遠慮したほうがいいと思うのだ。
 気配はある、が、中は静かだ。もしかしてイルカはかなり憔悴しているのだろうかと気をもみつつドアを開ければ、三つある個室のうち、奥のひとつはドアが閉まっていた。
 そっと近付いて、ノックしてみた。
「イルカせーんせ。カカシですけど。おなか大丈夫?」
「カ、カカシ先生!?」
 個室の中でがたがたと音がする。慌てて立ちあがってなにかにぶつかっているようだ。
「イルカ先生、そのままでいいですよ。ええと、余裕あるなら、俺の話聞いて貰えます?」
「は、はあ、ええ、一段落ついたといいますか、薬が効いたのか今はずいぶん落ち着いてますので、はい」
「そっか。それはよかったね。ひどいことになったら俺も責任感じちゃいますよ」
 イルカは個室の中で沈黙する。やっぱりそうかとカカシはほっと息をつく。
「三日前のものなんてどうして食べたんですか?」
「……カカシ先生は悪くないんです。さすがに俺、自己嫌悪に陥りまして、これは全部食べなきゃ駄目だろと思ったわけです。あ、でも大丈夫だと思ったんですよ。どう見てもやばすぎるものだったら食べませんから。だからこれは俺の胃腸の敗北といいますか、気合いが足らなかったせいなんです」
 イルカは早口でまくしたてた。
 言っていることはわかるのだが、自己嫌悪、とはどういうことだろう。
「あの〜、それで、どうして三日前のものをわざわざ食べたんです?」
「そこなんですよ俺の自己嫌悪の理由は!」
 イルカの悲壮な叫びが上がる。
「俺、この一週間ほど、ずーっと楽しみにしてたドラマの連続放送にかかりきりだったんです。今度映画になるからってことで、いい時間に放送するから急いで帰って、二時間かじりついて、寝食忘れるくらいのめりこんでたんです。そのせいで、カカシ先生がせっかく俺のために作ってくれた料理に気づいたのが、昨日の夜だったんですよお! ほら、俺の家って玄関開けてすぐが四畳の台所で、そこからドア開けて部屋に入るじゃないですか。部屋のドアを開けると台所のテーブルが微妙に死角になるんです。ドア開けっ放しでテーブルになんて一切目がいかなかったんです。で、昨日やっと余裕を持って久しぶりにちゃんと料理するかと台所に立ったら、テーブルには素敵なおかずのラインナップがあったってわけなんです。洗濯もしてもらってましたよね。ほんと、ほんとにすみませんでした!」
 個室の中で便座に腰掛けたままのイルカが深々と頭を下げている姿が見えるようだ。
 カカシとしては、イルカのテレビへの執着に改めて感動を覚えた。台所にそろえたあの料理に気づかないままで過ごしていたなんて、普通ありえないだろう。だが最終的には食べきったというところがまたイルカらしい。逆にカカシとしてはちゃんと前もって伝えておかなかったことを申し訳なく思うくらいだ。
「イルカ先生、気にしないでくださいよ。また作りますから。今度はちゃんとイルカ先生と一緒に食べれるようにね」
 カカシとしてはイルカの気持ちを少しでも浮上させたくて明るく声をかけたのだが、なぜかイルカの気配は沈む。
「カカシ先生はどうしてそんなに度量が広いというか、寛容なんですか?」
 イルカの声はため息とともに落とされた。
「いや〜特にそんなことはないですよ。イルカ先生がテレビ大好きだってことは折り込み済みで付き合ってもらったのにそれをうっかり忘れていた俺のほうが悪かったんですよ」
「カカシ先生……」
 どうやらイルカには今の回答はお気にめさなかったようだ。それならばとカカシは頭に浮かんだことを重ねて告げた。
「イルカ先生のこと好きだからですよ〜。他の人間にはそんなに寛容なんかじゃないですから」
 沈黙が落ちる。
 どうしたものかと腕を組んで天井なんかを見つめて考えてみる。
「……朝からずっと腹の調子悪くて、下痢だったんですよ俺。名付けて“下痢お”です。子供たちに言われました」
「はあ……」
 げりお? 笑うところなのだろうかここは。
 しかしイルカから話し始めてくれたからカカシは拝聴することとした。
「俺、めったに腹下すことなんてないんですよ。だからひさびさに衝撃でしたね。小としか思えないものが大のほうからじゃんじゃん出るわけですよ。どんだけたまってたんだおいってセルフ突っ込みです。あと不思議なのはほとんど水みたいなものを出しているのにどうして肛門がひりひりして痛くなってくるんですかね〜。どんなにでっかい大をしてもそこまで痛いことなんてないのに。ほんと、不思議です」
「そうですねえ。ほら、同じようなこととして、拳骨で殴られるより、つねられるほうが痛いですよね? それと同じなんじゃないですか?」
「つねられるって、女性にしかそんなことやられないんじゃないですか?」
「そうそう。以前つきあってたこにやられてことがあって」
「カカシ先生もてますもんねぇ」
「そんなことないんですけど……今はイルカ先生ひとすじです」
 そのひとことが余計だったのかまたイルカは無言になってしまう。ここは照れてくれてもいいと思うのだが、とカカシは内心少しばかりの不満を覚えつつも個室のイルカに笑顔で話しかけた。
「肛門は粘膜だから弱い器官なんですよ。弱いけど再生が早い強い器官でもあります。でも丈夫にしないとね。俺たちが合体する場所なんですから」
「そうですね」
 と言った途端なかからがたがたと激しく音がして、いきなり、ドアが開いた。
 カカシはドアの横の壁に背を預けていたから激突せずにはすんだが、勢いに驚いた。イルカが、立っている。下半身、ズボンを下ろしたままの姿で。微妙な加減で大事な部分が見えてはいないが。
 下痢で用を足すためにトイレにいたわけだから、その格好は当然のものだ。が、恋人である人間の前にいきなり立つにはふさわしくない格好だと思うのだが……。いや、この上なくふさわしいともいえるだろうか。
 なんてことを考えながらカカシはぼうっとイルカのことを見ていた。意外と毛が薄いんだなあと足を見てついでに思いつつ。
「カカカカ、カカシ先生、今なんて言いました?」
「え? 今? ええと、肛門は粘膜だから弱くて、でも俺たちが合体する場所って」
「ちょっと! なんてこと言うんですか! しかもさらりと! なんでもないふうに!」
「え? え? なに? なんですか? 俺へんなこと言いました?」
「しかも自覚がない! 充分言っているでしょうが思いきり変なことを!」
「え? それって合体のこと? だってそれはただの事実ですよ。俺たち男同士だからそこで繋がるしか……」
「わーわー! 変なこと言うなー!」
 イルカは耳を塞いでしまう。とりあえず知識はあるのだとカカシは安心した。まあお互い忍だし、そのへんの知識だけはいっぱしに仕込まれているはずだ。そう、知識は。まあカカシは実戦でもいろいろと身につけているが(女性相手に限るが)、イルカはいろいろと身につけていなさそうだ(男女問わず)。それはそれでいろいろと教え甲斐があっていいかもとカカシの頬は緩む。
「あ、今なんか変なこと考えませんでした?」
「うん。考えた。わかります?」
「もう! ヘンタイヘンタイ!」
「ヘンタイってひどいですよ。そのヘンタイと付き合ってるくせに」
 唇を尖らせればイルカはかあっと頬を染める。そしてよろめいた拍子にカカシのほうにつんのめってきた。
「ぅわあ!」
「イルカ先生」
 受け止めて、はっとイルカが顔を上げれば、至近距離で見つめ合うという、ドラマのような漫画のような構図ができあがる。
「カ、カカシ先生」
 緊張感まるだしのイルカの顔。とって喰いやしないのに、イルカ的には悪代官につかまった生娘のような心情なのだろうか。
 だが、そんな頼りなげな顔を見せられると、正直、ときめいてしまう。ぎゅっと抱きしめてキスのひとつもしてしまいたくなる。だが、カカシは実はロマンチックな、乙女な男なのだ。イルカとはまだキスしたことがない。初めてのイルカとのキスが、こんなトイレでなんて、断じてロマンチックではない! 決意表明の気持ちでカカシは鼻息荒く告げた。
「俺、今すごーく男っぽい気持ちになってるんですけど、我慢します!」
「男っぽい気持ち? なんですかそれ。俺だって男ですけど。それに、我慢って、なにを」
「今すごーくイルカ先生にキスしたいんですけど、我慢します」
「キ、キキキキ……」
 最後まで言い切れずにイルカの眼は見開かれる。酸欠のように口はぱくぱくと開閉する。
 てんぱってかわいいなあとますますキスしたい気持ちは募るがカカシはイルカの身を自分から引きはがす。
「とりあえず、ズボンあげてくださいよ。恋人の前でそんなセクシーな格好したら誘ってると思われますよ。そういうのは二人きりの時にお願いします」
 カカシ的には限りなく紳士な気持ちと態度をとったつもりだが、イルカは不信感丸出しで慌ててズボンを引き上げてじっと見つめてきた。
 なんだろう、次は何を言い出すのだろうと、顔は笑顔でも心はちょっとばかり不安をもって見ていたら、イルカはいきなり吹きだした。
「もう! カカシ先生はおかしな人ですねえ!」
 イルカが、屈託なく笑う。明るく、見てるほうが幸せになりそうな、笑顔。
 そうだった、とカカシは思いだす。イルカのどこに惚れたのか。この笑顔だった。ずっとずっと見ていたいと思った笑顔だ。
 カカシはイルカを引き寄せていた。
 え、ととまどい顔のイルカに、キスしてしまっていた。

 結局イルカとのファーストキスは、アカデミーの職員トイレとなった。








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