■ Aniversary 後編






 イルカはがーがーといびきをかいて寝ている。カカシは思わず後ずさる。
「あの、俺、帰るから」
 はっきり言って心の準備ができていないのだ。カカシは力無く愛想笑いを振りまく。
「何言ってるんですか。イルカの奴、ずっと待ってたんですよ」
 逃げようとしたカカシのことをイルカの友人らしい中忍は強く引き留める。
「あいつこの半月くらいは家に帰らないでずっとここで寝泊まりしてたんですよ」
 え、とカカシは思わず足を止める。そこに中忍はたたみかけてきた。
「仕事終わってここに直行して、睡眠時間削ってはたけ上忍のこと待ってたんです」
 気のいい中忍は必死に言いつのるが、しかし背後のイルカは暢気に眠って気持ちよさげにごろりと横になってむにゃむにゃと呟いている。こんなに近くにカカシがいるというのにその気配に気づきもしない。
 そんなカカシの疑いのまなざしを察したのか中忍は慌てて顔の前で手を振る。
「や、その、昨日まで、本当に昨日まではもう朝方寝るような生活だったんです。でも今日と言いますか昨日はアカデミーの運動会がありましてさすがにイルカの奴も疲れてるんですよ」
「ふ〜ん……」
 カカシが目を細めてじっと見つめれば、いたたまれなくなったのか、中忍は振り返ってイルカの体を揺する。
「イルカ、起きろ。はたけ上忍が帰還したぞ。おい」
 その瞬間、かっとイルカの目が開く。
 関所の窓口越しに、イルカの血走った目と、目が合ってしまった。



 蛇に睨まれた蛙とはこのことか。
 ゆらりと立ち上がったイルカは一歩一歩を踏みしめるようにして、ぎぎぎと戸を押して出てきた。
「カーカーシー」
 さっきまでいたはずの中忍は姿を消している。
 固まったままのカカシの前に立ったイルカは、月明かりで見るとかなり憔悴していることが伺えた。目の下にはくま。肌はがさがさだ。顔色も悪い。髪をほどいて垂らし、ぎらりとカカシのことを睨み付けるさまは鬼気迫る。
 ごくりと喉を鳴らしたカカシは背を流れる汗をじっとりと感じていた。
「カカシ……」
 カカシの中の幻の猫耳はぴるぴると震える。
 しかしいきなりイルカが視界から消えた。イルカは地面に膝をついていた。
「イ、イルカ……?」
「悪かった! すまん!」
 イルカは、土下座して地面に額を押し当てていた。
 唖然とするカカシの前で、ざりざりと地面をする音がする。
「イルカ!? ちょっと、顔あげてよ」
 カカシもしゃがんでイルカの両肩に手を置く。地面に頭をざりざりと押しつけていた動きをぴたりと止めたイルカは、おそるおそるといった風情で顔を上げた。
 どこかすねたような顔でカカシのことを上目遣いに見るイルカは額をすりむいて寝起きの髪は乱れてさんざんな様子だ。カカシはそっとイルカの髪をとかしつけた。
「やめてよイルカ。俺の方こそ」
「待てカカシ」
 謝ろうとしたカカシを制したイルカはきちんと正座して膝の上に両手を置くと、再び頭を下げた。
「本当に悪かった。誕生日を知らないなんて、ひどすぎた! さすがに反省した!」
「あれ? 理由、わかったんだ」
 なんとなくカカシは力が抜ける。イルカはカカシがかんしゃくを起こした理由なんてすっかり忘れていると思っていたのだ。カカシ自身、そのことはもういいかと思っていた。
「もういいよそれは。だって仕方ないし」
 苦笑するカカシを見てもイルカは首をふった。
「俺はつくづくデリカシーがない男だとさすがに反省した。カカシの言うとおり、想像力の欠片もない。もし俺が、その……親に自分の誕生日を知らないと言われたら、すげえ、ショックだと思う」
 親、という単語をイルカは少しためらいながら口にした。
 イルカが、親、なんて。それを認めることを口にしたのは初めてだ。
 こそばゆい感覚にカカシは肩をすくめる。
「やめてよ。もういいって。俺も、ガキじゃないのに、悪かったし……」
「まあ、そうだな。うんこヤローはないよな」
 もう二ヶ月も前のことなのに、イルカはよく覚えている。カカシは気まずい気持ちで頭をかいた。
 ふう、と息をついたイルカは、屈託のない顔でにこりを笑った。
 そして。
 笑顔を顔にはりつかせたまま、鉄拳をカカシの頭に打ち付けた。



 くわあんと脳内が揺れる。
 じんじんとしびれるような痛みをかみしめつつカカシは叫んだ。
「いきなり! 何するんだよ!」
 一瞬前までの友好な空気は一気に星の彼方まで吹っ飛んだ。
 涙目になりつつもイルカを睨み付けたが、イルカのほうがなぜかもっと目を尖らせて怖い顔をしていた。
「約束やぶっただろ」
「約束?」
 イルカは勢いよくカカシの胸倉を掴んだ。
「言っただろ。いきなりどっかに行くなって。必ず俺に言ってからにしてくれって」
 そう言われて、今更ながらカカシは思い出した。そんなことを確かに約束した。もうどこにも行かないと。だがそれはあくまでもどこかに行くことで、今回は任務だったのだ。
 しかしそのいいわけはイルカに通じなかった。
「予定通りのひとつきで帰るならまだしも、二ヶ月だぞ。心配するに決まってるだろ。またずっと帰ってこないんじゃないかって」
 ぐっと胸ぐらを掴んだイルカの両手は、かすかに震えていた。
 血走った目が、気弱げに揺れている。
 そこに宿るイルカの不安が、カカシの心をわしづかみにする。しゃにむに、イルカを抱き寄せた。
「ごめん。ごめんなさい。嘘ついてごめんなさい」
「もしもう一回約束破ったら、絶対に許さないからな」
「うん。ごめんなさい」
 イルカの腕がカカシの背にまわる。
 小さな頃はわからなかったが、イルカは実は結構泣き虫で、見た目よりは実際は華奢な体をしている。
 もう少し子供のままでイルカに甘えたいのも本音だ。だがこうして対等の立場でイルカを抱きしめることができるのは、成長したおかげだ。



 急いで大人になった。まだ体と心が釣り合わないことがある。けれどそれはこの先もずっと続いていくのだろう。





 月明かりに照らされて、手をつないで歩く。
 懐かしい。猫耳を生やしていた頃にもこんなことがあった。
 あの頃と違うのは、カカシが少し前を歩いてイルカの手を引いていることだ。イルカはしぶしぶといった体でカカシに手を引かれていた。
「カカシ」
 きゅっとイルカの手に力がこもる。振り返ればイルカはふて腐れたような顔で横を向いていた。
「お前ぇの誕生日、今日でいいか?」
 思いがけない申し出にカカシは足を止めてしまう。
「お前ぇが帰ってきた日にしようって勝手に決めてたんだ。今日は、もう15日か。いやじゃなければだけどな。どうだ?」
 イルカはぶっきらぼうに聞いてくる。もしかしたら照れているのかもしれない。カカシに否やがあるわけはなく、大きく頷いた。
「うん。いいよ。今日でいい。9月15日が俺の誕生日でいいよ」
「そっか。じゃあ明日火影さまに届け出てくるからな」
 安堵のため息をつくイルカがかわいく見えて、カカシはくすぐったい気持ちになる。
 浮き立つ気持ちのまま、印を結ぶ。煙がぼふんと立ち上がり、現れたのは猫耳を生やしていた頃の、少年のカカシだった。
「な、なにやってんだよ」
「へへー。抱っこしてよイルカ」
 両手を伸ばしてねだる。今日が誕生日というなら、少しくらいのわがままは許されるだろう。
 そんなカカシの気持ちを察したのかもしれない。ぶつぶつ言いながらもイルカはカカシのことを抱き上げてくれた。
「今日は誕生日だからな」
 きゅっと抱きしめられ、体の力が抜ける。首筋に顔を埋めてイルカの匂いをふんふんとかぐ。
 温かくて、満たされて、歩くリズムの心地よさに疲れともあいまってカカシはうとうととしだした。
「あのな、カカシ」
 ぼんやりとした意識の中にイルカの声がする。
「ナルトのことばっかり家に呼んでって怒ってたけどな」
「……うん」
「それは、ナルトは俺にとっては招待してやる存在であって、カカシは、いつだって、来ていいんだ。いちいち俺が招待するまでもなくな」
「え?」
 ぴくりと耳が反応する。顔を上げれば、イルカが神妙な顔で見つめていた。
「それって、どういうこと?」
「だから、カカシは、俺にとって……」
 そっとイルカの口が近づいて、カカシの唇に触れる。柔らかな、優しい、キス。ちゅっと音たててついばまれ、カカシはぼうっとなる。
 とろんとイルカのことを見つめていれば、イルカはわざとらしい咳払いをして何事もなかったように前を向いて早足で歩き出す。
「イルカ、何? 俺は、イルカにとって、何?」
 言葉の続きが聞きたくてせっつくと、イルカは楽しそうに笑った。
「想像しろよ。それくらい」
「意地悪にゃー」
 イルカはカカシの大好きな朗らかな顔で、高らかに笑った。






 




オシマイ。