□ 愛のたまご 7





 家主はイルカのはずだ。なのにどうしてかイルカの布団の上には体重5kg近くはあろうかという巨大な猫が我が物顔でぬくぬくと居座っている。
 日がな一日、食べるか、寝るか、カカシと遊ぶかだ。マーブル模様の銀の毛並みはつやつやとして、むっちり肉のつまった体はふてぶてしい。カカシが過剰に食料を与えるせいで、居着いてからさらに太ったのだ。
 一方イルカはと言えば。
 猫に居座られてから明らかに痩せた。はっきり、憔悴した。





 あの日、猫の体から飛び出した蚤はイルカの家を縦横無尽に駆けめぐり家主にとりついた。元々蚤に弱い体質だったのか、イルカは狂ったように体中を掻いた。皮膚の奥からわき上がるような痒みは掻いても掻いても収まらず、いっそ殺してくれというほどの痒みに襲われたのだ。
 体中を掻きつつ家から飛び出したイルカはまるで怪しいダンスを踊っているかのように体中くねくねとさせて火影の家を目指した。昼間であれば道行く人に不審者としてとらえられたかもしれない哀れな姿だった。
 火影に泣きつき、はっきり猫の駆除(抹殺)を願ったが、カカシががんとして受け付けず、蚤の駆除になる。
 それならばカカシと猫を閉じこめたまま駆除剤でも焚いてくれと頼んだイルカの声は再び抹殺され、イルカの家は密封されて、三日三晩かけての駆除。猫の体には駆除剤を垂らし蚤防止の首輪をつけて一段落ついたのだった。


「も、もう、いい加減にしてくださいよー」
 さすがのイルカにも泣きが入った。
 蚤からの痒みというのが、蚊に刺されたものとは比べものにならないのだ。皮膚の表面にある一過性の痒みではなく、皮膚の中の中まで浸透しているような痒みは掻いても掻いても終わりがない。ずぞぞぞぞっと体中をむしばむのだ。
 イルカは火影の前だというのに膝までまくったスネをばりばりと掻き、背中に手をいれ掻き、腹に手を回して掻き、せわしなく、行儀悪く繰り返していた。
「俺は、カカシと、譲歩しようと、したのに、あのガキャ〜、絶対わざとですっ。あーもー! 痒いっつーのっ」
 ぎゃーと叫んでイルカは火影の前だというのにだだっ子のようにごろごろ転がった。
 部屋の駆除は完了した。イルカは火影宅に勝手に寄宿していたが、それも一週間を過ぎ、とうとう火影に自宅に戻るように命令されたのだ。その途端、収まっていたはずの痒みがイルカの全身を襲ったのだ。


 あっちへごろごろ。こっちへごろごろ。痒い痒いと喚くイルカに火影はさすがに呆れかえった。
「おぬしはそれでも中忍か。痒みがなんじゃ。もう駆除は終わった。さっさと戻ってカカシの世話をせんかいっ」
「中忍だろうが上忍だろうが火影だろうが痒いものは痒いんですっ。火影さまにはこの苦しみがわからないんです。それにカカシに世話なんて必要ないですっ」
 イルカは涙目で訴える。もちろん、火影の家に蚤がいるわけではなく、イルカの恐怖心、ようは精神的なものから痒みはきているのだが、しかしそれは理屈。実際痒いのだから仕方がない。
「どうしても戻れっていうなら、俺に、痒み止めの術でもかけてくださいよっ。火影さまだったらできるでしょ」
 混乱したイルカはめちゃくちゃなことを言う。
「うるせーよ中忍」
 イルカはぴたりと動きを止める。ことの発端、元凶の猫を抱えたカカシが部屋に入ってきた。
 その姿を見た途端、イルカの全身は強烈な痒みに襲われる。これはもう条件反射のようなものだった。
「うわー!!!」
 哀れなくらいにイルカはのたうつ。カカシはでろんと緊張感のない猫を抱えたまま火影の前に座った。くあ〜と猫は暢気なあくびをしている。
「火影さま。こいつ、俺と、同じ」
 猫の頭にちょこんと顔を載せたカカシは猫の腹をさすりながらぽつりと呟いた。
「その猫も、しのび卵から孵った存在だというのか」
「ほほほ、火影様、絶対嘘ですよ! そんなでぶ猫がしのびのわけ、ないじゃないですかっ!」
 イルカの必死の叫びに、猫がしゃーと牙をむく。
 火影はカカシから猫を受け取って、ためつすがめつしばし検分していたが、重々しく頷いた。


「確かに、この猫はしのび卵から孵ったものじゃ」
「だから、火影様、嘘ですって! てか火影様にわかるわけないでしょ!」
「蚤の被害を受けていなかったこともおかしいと思っておったのじゃ」
「そんなの偶然ですって!」
 喚くイルカに向かってカカシがずいと立ち上がった。びしっとのたうつイルカを指さす。
「イルカが、俺のこと放っておいたから、俺やばかったんだからなっ。猫のおかげで俺は死なずにすんだんだからなっ。猫にお礼言えよっばかイルカ!」
 なんで俺が! と言い返そうとしたイルカだが、カカシの表情に一気に気持ちが萎えた。
 小さな体で腹をそらせて必死の虚勢を張っている。イルカを指さす丸く小さな指先が震えて、ぐうと結ばれた口元がわななき、色違いの瞳に盛り上がる涙。
 急激にイルカの中に罪悪感がわき上がる。だだをこねて泣き叫ばれたならさらなる反発心がわいたのかもしれないが、小さななりをして必死に耐えている子供の姿にはやられる。全面的に自分が悪かったかと思えてくる。
 居住まいを正したイルカは、カカシに手を伸ばした。笑いかけることはできないが、とまどうカカシを無理矢理抱き取った。
「ごめんな。カカシのこと、ないがしろにしたわけじゃあねえけど、悪かった。もっとカカシのことかわいがってやるから、勘弁してくれ」
「……ホントか?」
 顔を上げたカカシはおそるおそるイルカの顔に触れてくる。小さな手が探るようにイルカの頬を撫でる。不安そうにイルカを見つめる目が揺れている。
「俺、イルカにかわいがってもらわないと、成長しないし、死んじゃうかもしれないんだからな。わかってんのかよ……」
「そうだな。ごめん」
「猫は俺と同じだから、俺、猫にくっついてたんだ。だから大丈夫だった。でも俺、イルカにかわいがってもらいたい。ナルトみたいに俺のこともかわいがれよ」
 すねた顔でとつとつと語るカカシにイルカもやっと笑顔になる。
 溢れる暖かな気持ちに身を任せて、カカシのことをぎゅうと抱きしめた。
「わかったわかった。カカシのことかわいがるから。だから機嫌直してくれよ」
 子供は暖かい。柔らかい。優しい。そんなことを今更ながら思い出す。懐かしいような気持ちに浸るイルカの耳元でカカシがささやいた。
「猫、飼っていい? もう蚤いないから。猫の飼い主が帰ってくるまででいいから」
「う〜ん。ちょっとの間なら、いいぞ。でも本当に蚤は勘弁してくれよ〜」


「うん。大丈夫。イルカ大好き」


 そうして火影の前でめでたく仲直りした二人だったのに。


 しかし奴はとんでもない駄猫だった……。


 被害報告。
 駆除されたはずの蚤だが根強く居座っていたやつらによりイルカは強烈な痒みに襲われ寝不足に陥る。
 しつけがなっていない駄猫は部屋のいたるところで粗相をする。
 部屋の柱でばりばりと爪を研ぐ。
 夜鳴きして隣から苦情が持ち込まれる。
 大食漢で食費がかさむ。
 プレミアがついているイルカの夜のお供に小水をかけて破った。
 ついでに気にくわないのは、眠るときに人間のように仰向けで寝ることだ。


 最初のうちはいちいち過剰に反応してカカシ共々叱りとばしていたイルカだが、だんだんと疲れてきた。
 いつの間にかイルカの布団は猫のすみかとなり、部屋も猫臭が充満している。猫の飼い主はいっこうに戻ってこない。同居してひとつき近く。季節はそろそろ春だった。
 イルカは猫の屋敷と化した家に耐えられずに無駄な残業をしたり、休日にはカカシをほおって出かけたりと、なるべくカカシと関わらない生活を送っていた。
 カカシとすれ違っている自覚はあるが、猫がいるからいいのだろうとイルカはすっかり自分の生活を優先していた。
「にゃんにゃん。好きー」
 せっかく久しぶりに早く帰ってきたのに、カカシと猫は今も仲良く目の前で戯れている。猫はイルカには牙をむいて威嚇することがあるくせに、カカシのことはそれこそ猫かわいがりで懐に入れて眠る。かわいがれとイルカに命じたくせに、カカシはイルカなどそっちのけで猫と仲良くしてるのだ。
 くさくさしたイルカは無言で立ち上がった。
「ちょっと出かけてくるから、留守番頼むな」
 玄関から声をかけると、すかさず服の裾を引っ張られる。
「どこ行くんだよ」
「ちょっとな」
 カカシの顔を見ようともしないで出て行こうとしたイルカの背に、どしんと飛び乗ったもの。でぶ猫がのっしりとイルカに張り付いていた。
「……おい」
 猫は青筋をたてて振り向いたイルカの頬をでろりと舐める。カカシはイルカの前に回って手を広げてとうせんぼをした。
「一人で行くなよ。俺も行く」
「お前は駄猫といればいいだろ。俺はラーメン食ってくるんだよ」
「ナルトとか」
「違う。一人でだ」
「嘘だ。ナルトも一緒だ」
「カカシー」
 イルカはその場にしゃがみこんでしまったが、ふと首をかしげる。
「あれ。カカシ、お前、成長したか……?」
 最近正面からカカシと向き合ったことがなかった。カカシは、アカデミーに入れるくらいの5〜6才児ほどの大きさまで育っているではないか。
「今頃、気づいたのかよ」
 カカシはむっとして顔をしかめる。
 それは明らかに猫のおかげなのだろう。イルカは瞬間落ち込む。そして同時に面目ないやらいたたまれないやら。まったくもってイルカの居場所がない。


「悪かったな」
 よくわからないがとりあえず謝ってみた。だがなんとなく理不尽なものも感じて、イルカの頬もむくれる。
「ナルトは一緒じゃない。一人でいってくる。この家は猫くさくて俺も食欲がでねえんだよ。まともな食事させてくれよ」
「じゃあ俺も行く」
「お前は留守番」
「泣くぞ」
 言った途端、カカシの色違いの目がうるりとなる。泣くぞ作戦が有効であることをカカシは知っている。この間初めてこの作戦をくらった時は無視した。無視したら、夜中だというのにカカシはあたりの迷惑顧みず、建物を震わせんばかりの大音声で泣き叫んだ。カカシが普通の子供ではなく、火影からそれとなく申し送りされてなければイルカはこのアパートをとっくに追い出されていたことだろう。
 ここであっさりといいなりになるのはなんとなくイルカのプライドが許さない。泣こうが喚こうが物事は思い通りにならないことがあると、このあたりでがつんと教えてやる必要があると、教育者としての気持ちも目覚める。
「泣くなら、泣けばいいだろ。なんでも言うとおりになると思ったら大きな間違いだからな」
「何言ってんだ。イルカは全然俺の言うとおりにならないだろ」
「当たり前だ。ガキが、大人をあやつれると思うなよ」
 ふんと子供相手によっぽど大人げなくふんぞり返ったイルカをカカシは恨みのこもった暗い目つきでにらみつけてくる。これがやはりしのび卵から孵ったからなのか、とても子供に睨まれてるとは思えないプレッシャーでイルカは内ドキドキしながら心腹の下あたりに力をこめて対峙した。
 ふっと視線を先にそらしたのはカカシだった。勝ったか、とイルカが体の力を緩めた途端だった。
 胸元を掴まれた。有無を言わさぬ力で引き寄せられ、カカシに吸い付かれた。


 驚くイルカをよそにカカシは最初から舌をぬるりとつっこんできてイルカを絡めとる。小さな口が容赦なく責め立ててくる。ほどなくして唾液が口から溢れ、水っぽい音が二人の口の間であがる。引きはがしたくても、カカシはびくともしない。口のまわりがべたべたになる。力の抜けたイルカの半開きになった唇を上に下にと吸い付く。小さな器用な舌が歯列を割ってくる。上の歯の裏側をぬるりと舐められてぞっとイルカは総毛立つ。
 間近で光るカカシの色違いの目は濡れて、欲を含ませて光っていた。
「も。もう、やめろ、ふざ、ける、な」
 なんとか顔をそむけたイルカの耳の下あたりにカカシはすかさず吸い付いてきた。そこからすーっと首筋をたどられ、ぞくぞくとはい上がってきたものにイルカは慌てる。
「やっ……、あ……。ん……!」
 自分の声でイルカはかっとなる。
 なんだ今のは! まるで喘ぎ声のようではないか!
 動揺したのはイルカだけではなかったようだ。吸い付いていたカカシも動きを止める。
 イルカから体を離すと、食い入るように見つめてくる。探るようでいて、驚きを隠せないようなあからさまな好奇の色が目にあった。イルカはいたたまれなくてすぐにでも逃げ出したいのだが、負けてはならんとへたなプライドが邪魔をする。
「イルカ……」
「なんだよ! この変態妖精! も、文句あるのかよ!」
 負け犬の遠吠えのようにほえ立てたイルカに、カカシはふるふると首を振る。ぽうっと頬をつややかに染めて、ぼそりと呟いた。
「イルカ、かわいい……」
「か、かわいい!?」
 声が裏返った。
 驚きにイルカは思わず尻餅をついていた。
 変態妖精とはいえ、子供に、むさくるしい自覚のある大の大人が、かわいいだなどと言われてしまうとは!
 カカシはほてった頬を両手でおさえて、とことこと部屋に戻ってしまった。
 イルカはその場でがくりと膝をつく。ごしごしと口のあたりを拭っても、恥ずかしさは拭えない。この重い気持ちのまま、今更ラーメンなど楽しく食いに行けないが、このまま部屋にとどまるのも気まずい。
 重い。重すぎる。
「いい加減どけ! この駄猫!」
 重いはずだ。背中に乗ったままで一部始終を見ていた猫がにゃーと鳴いた。





つづく。。。