□ 愛のたまご 3




「いい加減に起きぬか!」


 声とともに脳天に金属製の何かがごいんと打ち下ろされた。
 ぱちりとイルカの目は開く。目に映った天井は見知った自宅の汚れた板ではなくて、上等なもの。しかも天井は高い。イルカの視界にぬっと現れたのは、火影のしわしわの顔。影になっているが、火影のこめかみのあたりがひくりひくりとひきつっているのがわかる。知っている、火影のくせだ。怒っている時の、火影のくせ。


「……ほかげさまー。おはようございますー」
「挨拶など悠長にしている場合か。なんというざまじゃ」
「は?」
 そこでイルカはやっと気づく。仰向けで寝ている自分に。寝ていたが、なんというかその格好が。
 女性が貞操の危機に陥り、それを必死で最後の砦だけは守り通そうと自らの大事なところを両手でガードしている、と言った格好だ。
 そして。
 股の間には悪夢のかたちがへばりついていた。


 イルカの手がガードしていなければ大事なところは妖精の顔にぴったんことなっていたことだろう。
 ごくりとイルカが喉を鳴らせば、白銀の髪がむくりと起きあがる。
 1才児ほどの姿に変わりはないが、頬がげっそりとこけ、目の下は青くなり、顔に血の気がない。白銀の髪がただの白髪のような疲れ切った様子が痛々しい。
 ばっちりイルカと目が合うと、色違いの剣呑な目を座らせたまま、
「セーエキ……」
 と老人のようなしゃがれた声で呟いた。そしてぱたりと顔を伏せる。なにやらうんうんうなっている。


 その一言だけで、一連の出来事がよみがえる。調子よくも夢の中のことであってくれたらという願いは砕け散った。イルカはげっそりとなる。起きあがりたくても気力がわかず、というより股間を死守したままではどうしようもなく暢気に煙管をふかせる火影に問いかけた。


「火影さまあ。この変態小僧はいったなんなんですか」
「だから言ったであろうが。しのび卵から孵ったしのびじゃ」
「どうして子供がいきなり破廉恥にもセーエキ飲ませろとか言うんですかー!」
 イルカは泣きが入る。
 火影はぷかりと煙を浮かせてなにやら考えていたが、ふむと頷いて語り出した。


「本来しのび卵は母乳が出せる者の元で孵るものなのじゃな。よって卵から孵ったしのびは母乳を求めるのじゃが、イルカにはどう逆立ちしようが母乳は出せぬであろう。じゃからその代わりにまあセーエキを求めるというわけじゃ」
 火影はまあそういうわけじゃと一人しきりに頷いているが、イルカはひくりと口元がひきつってきた。
「セーエキで育った子供なんてきいたことありません!」
「わしもきいたことないが、まあしのび卵にはいろいろなものがいるからな。そんなこともあるじゃろう。母乳と同じように栄養があるはずじゃ。なんと言っても子種が入っているものじゃからな」
「俺、種なしなんですけど……」
 イルカの言葉に火影はにんまりとする。
「わしは木の葉の忍たちの健康診断の結果はすべて目を通しておる。イルカよ、おぬしは内勤のわりに鍛錬も怠らず、絶好調、ぱーふぇくとじゃったな。健康診断を行ったのはついみつきほど前であったしな」
「……セクハラ」
 イルカのとっさの嘘などかわされてしまう。けれど反発心がおさえれらずに、イルカは股間をガードしたまま、腹筋を使ってがばりと起きあがった。


「ほかっ……」
 その途端だった。
 眠っていたとばかり思っていた妖精がイルカの股間から飛び上がって、イルカに飛びついてきた。
 がばあっと、飛びつく音が聞こえるようだった。あやまたずイルカのの口に吸い付いてきた。
 小さな口にかぶりつかれる。イルカの唇は吸い込まれる。妖精は食らいつかんばかりの勢いでじゅーっと唾液を吸っている。口から吸い込まれて飲み込まれそうな錯覚もおきる。
「〜〜〜〜〜!!!」
 声にならない叫びをあげてイルカは暴れるが、妖精はびくともしない。
 小さな舌はどん欲に口腔内をむさぼる。酸欠を起こしそうなイルカは必死に妖精を突っぱねる。頬を容赦なくはさんでぎゅーっと引きはがそうとするが妖精の口は離れない。
 明滅する視界。頭の中はなにやらハレーションをおこしてくわんくわんと回る。
 死ぬ。このままでは死ぬ、と思った矢先にきゅぽんと唇は離れた。
 反発する作用で、イルカは後ろに倒れ込む。


 あわあわと目をまわすイルカの首根っこに抱きついてきた妖精は至極満足げな顔で、さきほどまでの力無い姿はどこへやら、頬は薔薇色、肌もつやめき、輝きが内から溢れんばかりだった。
「は〜生き返った。セーエキじゃねえけどとりあえずよしとしてやるか。おまえ結構栄養価高いな。これからも頼むぜ」
 明るい声は弾けんばかり。イルカにすり寄り、そのまま目を閉じてすやすやと眠ってしまった。


 どっどっどっとイルカの心臓は高速で鼓動を刻む。見開かれた目は瞬きを忘れてかちんと固まってしまっている。
「イルカよ、生きておるか」
 火影がイルカの目の前で手のひらを振る。
 反応しないイルカにじれて頬をぺちぺちと叩く。
「ほ、か、げ、さ、ま」
 からからの喉からやっとしぼりだした声は平坦だった。いろいろと思うことはあっても感情が追いつかない。ただこの妖精だけは危険だ。ひきはがすべく両手を使って妖精の頭をつかむ。
 ぐうっと力をこめても妖精はびくともしない。まるでイルカの体の一部のようにぴくりともしない。
「っこの! いい加減離れろ!」
 真っ赤な顔でイルカは渾身の力を込めるが妖精はますますイルカに抱きついてくる始末だ。
 根負けしたのはイルカ。大の字になって息を切らすことになった。


「さて。あきらめはついたかの」
「あ、あきらめてはいません。今は、俺、体調万全じゃないから。でも、リベンジしますから!」
「あきらめが悪いのお」
「中忍の個性はなんといってもあきらめが悪いことですからね」
 火影はため息をついてまた煙管をぷかりとふかす。
「とにかくじゃ。そのしのびは、イルカ、おぬしが責任持って育てるのじゃ」
「はあ!? 冗談じゃないですよ! だから俺は母乳がでませんって。最近枯れ気味でマスかくことさえまれなのにセーエキなんて出せませんって!」
「あけすけじゃのう」
「火影様相手にとりつくろっても仕方ないでしょう」
「普通に考えれば一番取り繕わなければならない相手ではないのか、火影は……」
「とにかくっ。この変態妖精なんて知りませんよ」
「それはならん」
 わめくイルカを火影はぴしゃりと遮った。幼い頃から火影のそばにいたイルカは、その声音だけで火影が本気であることがわかる。だからこわばった顔のまま火影を見上げた。
「俺に、どうしろと」
「しのび卵から孵ったということは、暖めて孵ることを望んだ者がいるということじゃ。愛情を注がなければ卵は孵らん。孵したからには孵した者でないと育てられないのがしのび卵じゃ。
 さきほどまでのこやつの様子を見たであろう? あーんなに死にそうであったのがおぬしの唾液を吸って力を取り戻したではないか。セーエキが無理でもそれに代わるもので育てればよかろう」
 火影はなんでもないことのように言う。
 確かに、たまごがたまごでしかなかった時には、愛情を注いで、暖めた。それがこんな結果になるとは思ってもいなかったから……。
 いや思うはずがないだろう。たまごから人間が孵るなど。


 あきらめの悪いイルカはそれでも反抗した。
「俺は、育てませんよ。こんなやつに俺の唾液であろうと一滴たりともあげる気ないですからね。火影様が育てりゃあいいじゃないですか」
「そーんな枯れたジジイのものなんて、気持ち悪くて飲めるかってーの」
 わって入った声があった。ぷにぷにの極悪妖精が小さなもみじのようなと形容するにふさわしい手でイルカの顔に触れてくる。
 見かけはかわいいのに、かなりレベルの高い子供なのに、と改めてイルカはじっと見つめてしまう。
「あのさあ、はっきり言っておくけど、俺、ひとじゃないから」
 イルカの胸に顎をのせた妖精はかわいらしく小首をかしげる。
「しのび卵から孵ったんだから人間のわけないじゃん。ただの忍なわけ。だから育ち方も特殊なの。普通の人間の子供が母乳やらそれに代わるもので育つのが、俺の場合はあんたが与えてくれるもので育つの」
 諭すように語る妖精は妙に大人びていて、1才児ほどの姿で大人に説教たれる姿がすでに普通ではないのだが、じわじわとイルカはこの妖精が妖精なのだと実感しだす。
 だがそれでも言っておかねばならないことはある。
「言っておくけどな、俺、セーエキは飲ませないからな。人としてそれはやばいだろ」
 妖精はむっと唇をとがらせる。そんな顔をすると年相応にかわいらしく、イルカの心もゆるむ。なんとなく、手を伸ばしてみようかとちらりと思うが、それはやめておく。きっと調子にのったらやけどする。
「まあそれは、今はいいや。でも俺に優しくしろよ。俺寂しいと死んじゃうから」
「それはうさぎだろーが」
 きょとんと妖精は目を瞬かせる。ああ、赤い目は確かにうさぎのようだ。
 くすっとイルカが小さく笑うと、妖精もにぱっと笑った。
「俺、カカシ。よろしくな、イルカ」





つづく。。。