□ 愛のたまご 22 最終回





 あっけないほどにイルカに変わらぬ日常が戻ってきた。
 アカデミーと自宅の往復。たまにちょっとした任務が入る。そんな日常。
 あの日傷む体を休めてなんとか火影の元に戻れば、すでにカカシは旅立ったと言われたのだ。



「カカシが、旅だった……」
 イルカが呆然と繰り返せば、火影は深く頷いた。
「暗部に入隊した。いくさ場に旅立ったのじゃ」
 感情のこもらない声で事実を告げられて、イルカは思わず頭に手をやって目をつむった。
「そんな、急すぎます」
「カカシの意志じゃ」
 イルカは愕きに息を吸い込んだ。火影は苦渋ゆえかかすかに目を細めて、煙管から盛大に煙をはき出した。
「しのび卵の習性じゃ。完全体になると、たかぶる力が、血を求める」
「ナガレが……」
 イルカは思いがけず別れた友の名を口にしていた。
「ナガレが言ってました。しのび卵は亡くなった人たちが合わされて作られたものだって。それは、本当ですか」
「そういう話は聞いたことがある。それに類することとして完全体になると殺戮を求める。その時期が過ぎれば初めて里の忍として認められるようになるのじゃ」
「なんですかそれ。カカシは、そんな調子のいいもんじゃないですよ」
 イルカは乾いた声を出していた。執務室のソファにどかりと座り込む。



 なんとあっけないことか。別れの言葉も言えずにカカシは去った。
 どっと疲れが体中にのしかかってくる感覚に、イルカは背を丸めると床に向かって盛大なため息を吐いていた。内心でわだかまるものをせめてため息にでもして出さないとやりきれなかった。
「わかりました」
 次に出た声は存外に明るくて、イルカは我ながらほっとする。
「じゃあ俺、帰ります。本当にこれでお役ご免ですね」
「そういうことじゃが、それでよいのか、イルカ」
「いいもなにも。ここにカカシはいないわけですし。もしカカシが戻ってきても居場所は俺のアパートじゃないですよ。あのヤロー人をもてあそんで行っちまいましたからね。そういう礼儀のない奴は俺は嫌いなんで」
「おぬしから礼儀うんぬんを言われるとはな」
「なにか言いましたか火影さま」
 イルカがにこやかに、しかしきつい声音で問いかえせば、火影はあらぬほうを向く。
「いや。ご苦労じゃった。ゆっくり休むがいい」
「ええ。そうさせていただきます」
 気合いをいれて立ち上がったイルカが傷む腰をさりげなくかばいつつノブをまわせば、火影に呼び止められた。何を改めてと振り向けば、火影が簑傘の端を掴んでイルカにむかってかるく頭を下げたではないか。
「礼を言うぞイルカ。カカシを、立派に育ててくれたな」
 火影にしんみりとと言われてイルカは大げさに顔の前で手を振った。
「やめてくださいよ火影さま。俺、別にカカシのこと育ててませんから。なんか勝手にあいつが育っただけですから。頭なんて下げないでくださいよ。縁起悪いなあ」
 イルカが自らの体を抱きしめてぶるぶる震えてみせれば、火影は皺の多い顔を好々爺の顔をして笑った。
「そうじゃな。おぬしはただ、カカシと共にあっただけじゃな」



 ぼんやりと帰宅した。いつもの道を通って帰ってきたのだろうが、どこをどう歩いたのか記憶が抜けている。
 ぼすんと音をたててベッドに倒れ込めば、埃が舞ってくしゃみが出た。一度でおさまらず何回か続けて盛大なくしゃみを続ければそのうちに鼻水が飛び出た。
 ずずっとすすった。そこになぜか聞こえた声は脳裏で響く。
(きたないなーイルカ)
 どんな姿のカカシが言ったのだろう。うるせーと言い返してそっぽを向いたイルカに近づいてきたカカシはティッシュを差しだしてきて、小さな手が、まるで子供にするようにイルカの鼻をかんでくれた。
 ずず、ずず、と何回かすする。
 鼻水はなぜかいつまでも止まらなかった。





 それから数日後、帰宅したイルカの前に、でんと居座る巨大な物体がいた。
 そいつはんな〜と地を這うような声で鳴いてぐるぐると喉をからませるように鳴いた。
「帰ってきたな駄猫め」
 イルカはついつい条件反射で背中をかいてしまう。
 天敵しのび卵駄猫は別れた時よりさらに3倍増しくらいの大きさになってイルカのベッドに座っていた。猫独特のちょこんとした座り方だが、顔が肉にめりこんで首がみえない。
「お前ぇ、いつ帰ってきたんだよ」
 久しぶりに抱っこでもしやるかとイルカは猫の前足の脇に手を入れて、ぐぐっと引っ張ってみた。
 猫の体は面白いくらいに伸びた。
「おお! 化け猫」
 イルカが茶化せば、しゃーと牙をむかれた。
「飯喰うか? さんま買ってきたんだ」
 イルカが台所に立てば、空いた猫缶がシンクに置かれていた。もちろん中身はぺろりと平らげている。
 イルカは思わず猫を省みれば、前足をぞろーりぞろりと満足げに舐めていた。さすがしのび卵猫というべきか、ちゃっかり猫缶を探して食べたわけだ。怒る気にもならなくて、イルカは機嫌よくさんまをコンロの網焼きにのせた。



 ぺろりと魚もきれいに食べた猫は丸い体をさらに丸めてくつろいでいた。イルカは風呂に入ったり持ち帰った仕事を片付けて立ち働いているうちに深夜を超える時間になった。イルカが寝ころんだ布団の上に猫は当たり前のようにのしりとやってきてイルカの傍らで体を丸くした。
「なんだよ。俺と寝る気かよ」
 イルカが眉間を撫でてやるとふんふんと鼻を鳴らす。
「お前いきなりどうしたんだよ。ご主人と戻ってきたのか?」
 猫はふるふると首を振る。そしてベッドから降りると部屋の隅に置いてある段ボール箱をごそごそとあさる。ほどなくしてくわえてきたのはカカシの猫耳だった。
 イルカは耳をつまんで猫のほうを見た。
「これ…。なんだよ。カカシに、会ったのか」
 とっておいたままのカカシの耳。
 うにーと猫が頷くように鳴いた。そしてイルカにすり寄って頬を舐める。そのまったりしたさまからはこの猫にも血を求めるような頃があったとはとても信じられない。
「カカシの奴元気だったか」
 なんとなくイルカの脳裏には久しぶりに猫耳を生やした頃のでたらめなカカシが浮かぶ。
「元気でいてくれればさ、それでいいかなって思うんだよな」
 イルカの手が優しく優しく背を撫でると気持ちよさそうに目を細めた猫はごろごろと喉を鳴らす。
 温かく柔らかな命にイルカの心がふっと弛緩する。猫のことを腕の中に抱きしめて目を閉じれば懐かしい泣きたくなるような匂いに脳の奥がぼんやりとした。



「お前ぇ……、確実に太ったな」
 抱えた猫は米袋ひとつくらいの重量感はあった。
 別に歩かせてもいいのだが、なんとか抱えたイルカはアパートを出る。
 冬晴れの一日。しかし空気は寒々としてぶるりと身が震える。空はうすく光って地上を照らしていた。
 猫を抱えたままナルトのアパートの戸を叩けば、眠気まなこのナルトがナイトキャップをかぶったまま戸を開けた。
「イルカ先生!? ひっさしぶりじゃん。いつ帰って来たんだってばよ」
「おお。久しぶりだから散歩に行こうぜ。俺と遊んでくれ」
「なんだよそれ」
 イルカが真面目に頼むとナルトは吹きだした。支度してくる、と部屋の中にとって返す。ほどなくして現れた時には満面の笑顔で嬉しさが隠しきれずに溢れていた。猫を片腕に抱え直し、ナルトにおむすびを入れたビニール袋を持たせて空いた手を差しだした。
「手、つなごうぜ」
「ええ!?」
 ナルトはわざとらしく飛び上がる。
「気持ち悪いってばよ。イルカ先生おかしい」
「おかしくてもいいだろー。手つながせろよー」
 イルカがだだをこねるように言えば、ナルトはおずおずと手を差しだしてくる。
「し、仕方ないってばよ。手、つないでやる」
「ありがとな」
 イルカが笑えばナルトも照れたようににししと笑った。



 土手に着くと猫を地上に放り投げた。
 猫は大げさに鳴いたが重さを感じさせない体のさばきでくるりと一回転するとすたっと地上に着地した。
「すっげーってばよ」
 ナルトは単純に興奮して大げさに騒ぐが、猫はイルカにとって返してきた。
 報復、とばかりに鋭くひとこえ鳴くと、爪をたててイルカに飛びついてくる。
「こらっ。いてっ。冗談だろ。お前ぇしのび猫なんだから絶対着地できると思ったんだよ。かっこよく降りてたろ」
 イルカが必死でいいわけしつつ褒めると猫はぴたりと動きを止める。
 ちょこんとイルカの前で座り込むと得意げになあ〜と鳴く。ナルトと遊ぶというのかとっとと行ってしまった。
 重みがなくなった腕は宙に浮きそうな開放感があった。こきこきと肩をまわしている間にナルトは猫とともにそこら中と駆け回る。
 土手には他にも散歩がてらの大人やさわぐ子供たちがいてのどかだ。久しぶりの日常にイルカはほっと息をついて土手の草の上に寝ころんだ。
 遠く高く、空のぼやけた光に目を細めて、深く呼吸する。
 すっと体の奥から抜け出ていくものに安堵して目を閉じる。草の感触と土の匂い。たとえ冬でも自然はかわらずそこにあり懐が広い。
 ナルトの騒ぐ声で猫を相手に楽しそうにはしゃぐ姿が目を閉じてもわかる。平和だ。カカシがいた頃が嘘のように静かだ。もともとこれがイルカの日常だった。彼女のことは心に刺さる棘だったが、それももうなくなった。イルカに憂いはない。
 憂いは、ないのだ。
「せいせいしたな」
 声にだしてみた。すると気分が本当に高揚する。
「合コンでもいくか。見合いもいいかもな。火影さまに頼んでみるか」
 にまにまとイルカは相好を崩す。
「かわいいほうがそりゃあいいけど、それよりも気だてだよな。優しい子がいいよな、うん」
 そうだ。優しい人間がいい。情の厚い人がいい。そして同じことに笑って泣ける人がいい。
 そんなことを考えながらうとうとと眠りに誘われる。
 気分良く漂っていた心。
 なのに。
 どうして浮かぶのはカカシの顔なのだろう。



 ぱちりと目を開けたイルカはぼやけて水っぽい視界に瞳を瞬かせる。
 せりあがってくるものが叫ぼうとする。叫ばせようとする。咄嗟に口を押さえて目をきつくつむる。それでもうなり声がでそうで、ぐっと歯もかみしめる。
「イルカ先生ー。どうしたってばよ」
 ナルトが、不思議そうな顔をしてイルカのことをおおうようにのぞき込んできた。イルカの顔を見た途端ぎょっとして身を引いた。
「なんで、泣いてんだってばよ。イルカ先生!」
 泣いてなんかいない、と言いたいのに、何も言えずに首を振る。横を向いた途端にまなじりから伝ったものが涙だとは思いたくない。
「な、泣くなよ……。泣いたら、イルカ先生泣いたら、俺も、悲しくなる……。泣くなってばよ」
 ナルトは何がおきているのかわからないままに、口をへの字にしてイルカに抱きついてきた。そして声を出せないイルカに代わって、大声をあげる。
「イルカせんせー。泣くなよー」
 ぎゅっとしがみついてくる小さなナルトの体をイルカは抱きしめる。
 カカシに、会いたい。会って、そしてただ力いっぱい抱きしめてやりたい。
 言葉にしなかった思いを今こそ伝えてやりたかった。





□□□





 火の国への遣いを久しぶりに頼まれたのはカカシが去ってから1年後の冬だった。
 折しも雪祭りの日。晴れた街の通りは喧噪でにぎわい軒行燈に火が灯り、人々の吐く白い息も柔らかく暖かだった。
 イルカは懐かしい光景に周囲をきょろきょろと見回しながらゆっくりと歩いていた。何かを期待したわけではなかったが、自然と足があの時の一画に向かう。屋台が連なる通りの最後。こじんまりとした場所には、やはり少年がいた。



 粗末な茣蓙の上で膝を抱える姿も、大きなたまごに囲まれた姿も同じだ。同じだが、顔をあげた少年はイルカが出会った時の少年ではなかった。
 しのび卵売りは何人もいるのかと考えているうちに少年のほうがにこりと笑いかけてきた。
「おじさん久しぶりじゃん。元気だった?」
 人なつっこい笑みはなんとなくだがナルトに似ている。丸い頬をした短い黒髪の少年は立ち上がってイルカに近づいてきた。
「カカシのこと、大切に育ててくれてサンキューな。やっぱ俺の目に狂いはなかったな」
「俺は、お前ぇとは初対面だけど、どっかで、会ったか?」
「ひでえな。俺が、おじさんにたまごあげたんじゃんか」
 少年は口を尖らせてイルカを睨み付ける。だがイルカはどう記憶をたどってもこの少年からはたまごを貰ってはいない。
「いや、本当に、俺……」
 だがふとイルカは考える。今この少年はなつかしいたまごたちに囲まれている。それならば少年がイルカにたまごを渡した者だと思ってもいいような気がした。
「ところでおじさん、また、たまごいらない?」
「は?」
「だから、おじさんなら信用できるからまたたまごを育てて欲しいんだ」
 白い歯を見せて笑った少年は無邪気にたまごを差しだしてきた。
 艶光りする、大きな楕円がまたイルカの目の前に。
 2年前に目にした時、あの少年は訊いてきた。
 寂しいのか、と。
 はたしてあの時自分が寂しかったのかそうでなかったのか、今となっては判然としない。人はきっといつだって寂しいものなのかもしれないが、それでも今、イルカは満たされている。ここまでの自分を形作ったもの、支えてくれた人たち、愛し、愛された記憶。今をともに生きている仲間。
 それらを大切に思えるから、イルカは首を振った。
「いらねえよ。俺はもう寂しくねぇんだ」
 たまごを受け取らずに、少年の頭を撫でた。
「2年前、たまごを、カカシを俺にくれたんだよな。ありがとう。俺、いろいろあったけどさ、カカシのこと育てて楽しかった。……幸せだった。お前ぇのおかげだ。ほんと、サンキューな」
 照れを隠すようにイルカも子供のように歯を出して笑った。
 少年は、しばしイルカのことを見つめていた。イルカの中から何かを探ろうとしているような目で見つめ返してきた。
 じっとイルカも目をさらさずにいれば、少年はさまざまに姿を変える。
 2年前に出会った時に見たやせっぽちの姿。アカデミーの幼年部の子供たちのような頼りない姿。彼女にどこか似たはにかんだ顔。ナルト?
 猫の耳をむくむくと生やした、カカシ。
 イルカはたまごごと、少年のことを抱きしめた。
「お前ぇも、幸せになれ。もういいからさ。な?」
 腕の中で、びくりと震えた体。背中を安心させるように撫でてやれば、弛緩していく体。
 何も言わずに、少年は消えた。そこには何もなかった。
 ふわりとイルカの周囲に風が舞う。
 肌を優しく撫でて包む羽根のような、優しい風だった。





□□□





 卒業試験に付随してちょっとした騒動があったがナルトは目出度く卒業となった。
 問題児ではあったが誰より気にかけていたナルトが卒業となりイルカは嬉しいやら寂しいやらで、そんな気持ちを紛らわすために忙しく立ち働いていた。
 すっかり春だ。書類を抱えたイルカはアカデミーの廊下を小走りに移動していた。
 窓から見える校舎の中庭の木々も色とりどりの花を咲かせ目を楽しませてくれる。ふと目を留めたイルカは自然と顔がほころんでいた。
 イルカ、と不意に呼び止められた。振り返れば、火影がいた。
「火影さま、どうしたんですか。ナルトのことですか」
「そうじゃ。ナルトのことじゃ」
 重々しく頷く火影にイルカは一瞬にして嫌な予感におそわれる。
 火影に詰め寄るようにして悲壮な顔をむけた。
「あいつ、確か今日上忍師の方の試験の日ですよね。駄目だったんですか?」
「まだ試験中じゃろう。それよりな、ナルトの上忍師のことじゃ」
「上忍師の方?」
 確か、元暗部だときいていた。だが必要以上に情報は仕入れていない。色眼鏡で見ない方がいいというイルカなりの思いがあった。
「その方が、どうしたんですか?」
「知らぬようじゃな」
「はあ。申し訳ないんですが」
 イルカはぺこりと頭を下げるが、火影は楽しそうに笑った。
 そして、ひとつの名を告げた。



 その名を呆然と呟いたイルカは、火影に挨拶もせずに、身を翻した。



 思い出が背中を押す。今が、始まる。













おしまい